1-2、はなまるの一日
学校までの経路は餅男から受け継いだ記憶に完全に残っていたため、問題なさそうだった。
餅男は自転車で通っていたようだった。
自分の体があまりに重いので、痩せるべく走って登校することにした。
おそらく30分くらい走ればつくだろうと思った。
農民だった前世では1時間くらい平気で走っていたのだ。30分くらいなんてことはなかった。
ただ、走り出して5分で息が上がってきたのは、想定外だった。
足元を見ようにも腹の脂肪がバウンドし、下も見えにくく一歩一歩が重い。
母が寒いからと無理やり巻きつけてきたマフラーを外し、コートを脱いだ。
学校に着く頃には、ブレザーを脱ぎネクタイも外していた。
「はぁ・・・はぁ・・・」
息が上がって仕方がない。
学校の構内へ入った辺りで、母が玄関先でポケットに突っ込んできたハンドタオルで汗をぬぐう。
過保護というべき母に、地味に感謝した。
「真冬なのにあんなに汗かく?」
「あんなデカい奴いたっけ」
周りの生徒のあざけ笑う声が真白の耳にも届いてはいたが、正直どうでも良かった。
前世では汗を流しながら働く奴は、働き者の証拠として評価されていたし誇らしかったからだ。
クラスが1年3組だったのは覚えているのだが、靴箱の位置がぼんやりとしか思い出せない。
ほとんど学校に行っていないのだから、餅男の記憶から失われているようだった。
とりあえず探してみるか、と思った時だった。
「・・波木くん?」
突然、高い声が背中から降ってきた。振り返ると、真白の身長を15センチほど縮ませて横を一回りだけ小さくしたような、もっちり女子が立っていた。長い黒髪を1つに結び、前髪が黒縁の眼鏡に多くかかるほど長かった。
「えっと加瀬さん?」
加瀬絵奈。同じクラスの女子だ。
「学校に来てくれたんだ・・・ほんとにありがとう」
ただ学校に来たと言うだけでお礼を言われるのは少し不思議な気もした。
「あ、靴箱はここだよ!!」
絵奈は、真白の靴箱を指差す。
「ありがと」
真白は絵奈が指差した場所に靴を入れ、餅男が不登校になってからずっと放置されていたであろうスリッパに履き替えた。
「あのね・・・波木君・・ほんとごめんなさい。ずっと謝らないとって思って・・・」
涙ぐんでいるようにも見えたのだが、他の生徒が靴を入れようと近づいてきたため絵奈は顔を背けてしまった。
「波木君、教室はこっちだよ」
「うん」
真白は、あまり深くは考えないことにした。
絵奈の案内の下、教室に入ると一斉にクラスメイトがざわつき始めた。
入学してすぐに来なくなった不登校の生徒が突然現れたのだ。驚くのも無理はないだろう。
「席はここだよ。ロッカーはここ」
真白が学校に来ない間も気にかけていてくれたのだろうか。
席替えもあっただろうに、完璧に場所を把握しているようだった。
「何か困ったことがあったらいつでも言ってね。私何でもするから」
悲しげに俯きながら発せられた絵奈の言葉は、贖罪のようにも聞こえた。
1限目は数学だった。
真白が学校へ行くと言ったあの日、母は真白が困らないようにと担任に連絡し、必要なものは全て用意してくれた。
ほわほわしていて、何もできませーんみたいな顔をしている両親なのだが、実は結構やる時はやる人間だと餅男の記憶を通して感じる。
とりあえず、ペラペラと教科書をめくってみる。
しかし、餅男が有していた知識では到底理解できそうになかった。中学に習ったことまで忘れているようでもあった。あまり勉強は得意ではなかったらしい。
(・・・・・とりあえず疲れたし寝るか)
真白は机の上でうつ伏せになり、睡眠を決め込むことにした。
授業を聞いてもどうせ分からないだろうと踏んだからだ。
腹の肉が食い込んで寝にくい。
「こら!!!起きろ」と教師の怒りの声が何度か聞こえた気がしたが、その後すぐに静かになった。
寝ぼけた頭で覚えているのは、「波木君、1年ぶりにやっと登校してくれたんです」という絵奈の声に、教師が黙認してくれたということだった。
「・・・波木君起きて!放課後だよ」
顔上げると、いつの間にかクラスの生徒は誰も居なくなっていた。
「起きるの待ってたんだけど全然起きないから」
昼食時間と体育の授業以外は、机にうつ伏せの状態で睡眠に徹していた。
口元の涎を手で拭い、腕を上げ伸びをする。若干体が痛い。そして腹の肉の隙間に汗までかいているようだ。
起こしてくれたのは絵奈だった。
「ちょうど良かった。加瀬さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「・・・えっと、何?」
真白は絵奈の顔を見つめるも、絵奈は見られることが苦手なのか目をそらしてしまう。
「実は・・・」
困ったことがあったら何でも言って、と言われたのだからお言葉に甘えようと思う。
「俺、土いじってないと落ち着かないんだ。もうそれが辛くて」
真白の神妙な面持ちに、絵奈は少し動揺してしまう。
「え・・・?土?」
「学校に来る間ずっと畑を探してたんだけど全然無くて・・・」
前世では、物心つく頃から日の出と共に畑に出て、土を耕してきた。
それなのに、ここはアスファルトの地面ばかりだ。
土や植物の独特な匂いがたまらなく恋しい。
「このままでは俺死ぬかもしれない・・・」
「ストレスによる死亡もあり得る」と本気で思っている真白に反して、「大げさだな」と絵奈は思っていた。
「波木君って家庭菜園が趣味だったの?!てっきりゲームや漫画が好きなんだと思ってたよ」
「いやそれも間違っていないけど」
餅男の趣味はその通りで間違いなかった。引きこもり中もアニメやゲームに夢中だったからだ。
しかし、今の真白にそういう趣味はなかった。
染み付いた習慣は、失って初めてどれだけ自分の一部だったのか気付かされる。
絵奈は少し考えた後、
「実は私良いところ知ってるんだ」
と、少し自慢げに浮ついた声を出した。
「ここ?」
本館の隣にある西館のさらに西側に、その場所はあった。
高く伸び切った雑草が地面を覆いつくし、土の状態はあまり見えなかった。
「昔は園芸部の畑だった場所なの。でも今は、誰も作らなくなってこんな状態に」
現在の園芸部は、校舎内にある花壇に季節ごとの花を植え育てることを主な活動としているのだと、絵奈は説明した。
「ここなんてどおかな・・・?」
絵奈は自身が想像していた以上に荒れ地だったのだろう、少し心配そうに真白の顔をのぞき見ている。
過去に畑だった土地だ。畑に適した土が入れられているだろう。
それに、前世ではごつごつした砂地を改良し農地とした経験もある。
「何の問題もない。完璧だよ」
すると、絵奈の表情はパッと明るくなった。
「よかったぁ!それなら園芸部に加入してもらっても大丈夫かなぁ?」
この土地を使う条件として、園芸部への入部が必要なのだろう。
「もちろん」
「やったー!!部長に報告してくる!!!!ちょっと待ってて」
絵奈は小走りで西館にある部室に向かっていった。
園芸部部長2年 遠見鏡花にとって、園芸部とは高校生活の全てであった。
部員数3名。
部として維持する最低部員数が5名ではあったが、学校内の景観維持に貢献するという観点から特別に部の継続を許可されていた。
しかし、他の部活動からの「特別扱い」に対する不満の声も耳に入って来ていたため、
部員を増やすということは重要課題でもあった。
「植物とふれあい、言葉を交わす。生徒に心を豊かにし、時には傷さえも癒す。こんな素敵な部活ってないと思わない?」
鏡花は自分の言葉に酔いしれているようだった。
「まぁそうですね」
若干いい加減な返事しか返さないのは、2年副部長の田島である。
「部長はいつも優しくて、園芸初心者にも手鳥足取り、親切丁寧に教えてくれるのよ」
鏡花はふふーんと誇らしげだ。
「ぱっと見怖いですけどね」
田島のその言葉に、鏡花は眉間に皴を寄せた。
「おい田島ぁ・・・」
「ぶちょーー!大変です!大事件です!」
二人の会話を遮り、息を上げながら部室へと飛び込んできたのは、後の部長候補であった。
「何ごと」
絵奈は両手を膝に置きながら、呼吸を粗くしている。
走ったせいで息が上がっているのだろう。ゆっくりと深呼吸するとこう告げた。
「部長、実は・・・新入部員入りました」
一瞬、鏡花はぽかーんと口が開いてしまう。
そもそも新入部員なんて期待が薄いのに、さらにこの時期だ。想定外の出来事だった。
「まーーーーじーーーーか!!!!絵奈、天才か」
「天才です!」
テンションは爆上げなようで、二人で謎な踊りまで踊りだす始末であった。
「おい、田島!シャンメリー買って来いーー!祝杯だーー!」
シャンメリーは子供の頃のクリスマス定番アイテム、見た目シャンパンの
ノンアルコールジュースである。
「いや・・・子供ですか」
冷めた目でため息をつく田島の言葉など無視という風に、鏡花は手招きした。
「田島も踊れー!!」
「絶対嫌です」
と、田島は全拒否した。
その日、真白は園芸部から大歓迎を受けた後、部活動としての説明を受けた。
学校への登校1日目は、90点と言っていい出来だったと真白は思っていた。
汚れた空気で満ちたこの世界で、畑というオアシスを手に入れたからに他ならない。
ただ、残りの1割が気がかりではあった。というのが、教科書の中身がさっぱり分からなかったからだ。
餅男の記憶から欠落している部分は、どうやっても思い出せない。
「母さん」
鼻歌を歌いながら夕食後の洗い物をしている母親に声を掛けた。
息子が久しぶりに学校へ行ったが嬉しいのか、夕飯も餅男の好物が並んでいた。
総じて前世では見たことのないものばかりだったが、びっくりするほどおいしかった。
調味料が発達しているのだろうと思った。
「真白ちゃんなぁに?も、もしや、学校で嫌なことでも・・・」
一瞬で母の顔が曇っていく。
ただ声を掛けただけだというのに、心配性も甚だしいと真白は思う。
「いや、違うよ。中学の教科書ってある?」
中学の知識から叩き込まなければいけない。
母は、不気味な笑みを含ませながらこう言った。
「あるよ!!!」
残念ながら、真白にはその冗談は通じなかった。
母は、物置部屋内の段ボールから教科書や参考書を出してくれた。
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