救急科
2月初頭、肌寒い早朝朝5時45分、欠伸を噛み殺しながら、国立日立大学附属病院から派遣された初期研修医である岩田克己は、茨城県にある大津野総合病院のER(救急救命室)のPCで、搬送が決まった患者の初期診療のためのオーダリング・システムに情報を入力していた。
関東平野に存在し、降雪量は少ない土地柄とはいえ、北関東ということもあってか冬になると東京に比べてかなり冷え込む。 そのため、風呂に使った後の寒暖差によって、急性心不全などで呼吸困難を主訴として来院する高齢の患者が夜になっても後をたたず、初期対応を任せられる初期研修医は当直において立て続けにやってくる患者を捌き続けなくてはならず、その疲労を抱えながら朝を迎えるのが常であった。
救急隊からの速報がかかれたメモ書きから、岩田は主訴などをPCに入力していく。
84歳女性 主訴:意識障害
最終健在は前日夜22時。
朝5時20分に、介護職員が朝の体温をはかるため患者のところに向かったところ、いつもと様子が違い、よだれをたらし、発語もおかしく、体の動きが悪かったことから、救急車を要請した___
典型的な脳梗塞の症例であった。 脳梗塞は、最終健在時間から4.5時間以内でなければ、t-PAという薬剤を使った治療ができないから、とうに7時間以上たっており、さらには高齢であるこの患者には、なかなか治療適応がないと思われた。
岩田は、慣れた手つきで血液検査、心電図、頭部CT検査のオーダーをPCに入力していく。
オーダリング・システムに医師がオーダーをいれないと、病院としては保険点数がとれないわけであるから、上級医が到着するまでに初期研修医がすばやく入力し、備えなければならなかった。
「先生、もうすぐ救急車が到着するみたいですよ」
PCの入力の手を止め、振り向くと、本日当直で一緒の加藤看護師長が、自分のぶんの防護服と、岩田の分と思われるLサイズの防護服をもって立っていた。
「ああ、お疲れ様です、加藤さん、今日は一段と救急車の搬送が多かったですね、次の患者はおそらく脳梗塞で、発熱もないから、感染対策は大丈夫だと思いますが、もし時間があれば、MRI室の放射線技師の酒井さんに連絡しておいてください、CTを撮影したらすぐに運びますから・・・」
「大丈夫です、もう酒井さんには連絡してあります、しかし先生も大変ですねぇ、先生は今脳神経外科をローテートしているのでしょう、当直が終わったら通常、午前の業務をまたずに帰れるのに、脳外科を回ってる研修医の先生は、脳梗塞などの症例を当直中に担当したら、救急科からそのまま引き継いで担当しなければいけないんでしょう? こんなに忙しい夜だったのに、これからもまだ勤務が続きそうだなんて、気が滅入るでしょう」
加藤看護師長は、小太りの体に防護服の袖を通しながら、息子ほど離れた年齢の岩田をみつつ、慮るように言った。
加藤の言うとおりであった。
大津野総合病院の救急科と脳神経外科は、救急科は東京の国立大である文京医科薬科大学、脳神経外科は、岩田を派遣した国立日立大学に所属しており、科長同士の折り合いが悪く、仮にリハビリを待つだけの患者であっても、脳卒中などの脳神経系の患者であれば、まずは脳神経外科が担当し、その後救急科に突き返す、などをして争っており、現在脳神経外科に派遣されている岩田は、当直帯の間は救急科に属して働かなければならなかったから、2つの大学の医局に板挟みになっているのであった。
岩田はそうしたことは噯にも出さず、
「そういっていただけると助かります、まぁ若いので平気ですよ、よければ患者を運ぶのを手伝ってください」
と返し、防護マスクをつけ、救急車のサイレンが近づくERの自動ドアに歩いていった。
救急車が到着し、患者をERのベッドに運び、看護師に採血や心電図をまかせつつ、岩田は救急隊から情報を集めつつ、NIHSS(脳卒中重症度評価スケール)で重症度を測り、その間にCT室の用意ができた、と言われて慌ただしく患者を移動用寝台で運ぼうとしていると、ようやく当直室から、救急科の上級医で医師13年目の山崎が降りてきた。
「岩田先生、お疲れ様、また時間がたった脳卒中なんだねぇ、正直あまりできることはないから研修医の君としてはつまらない症例だとは思うけど、仕事だと思って続けてほしい、しかしうちの脳神経外科の、一旦引き受けて対症療法だけして、リハビリ調整の時は救急科に任せるっていうのはすこし乱暴だよね、BMPUの救急科ではこういうことはあんまりなかったから、先生もそういうのがない病院にいけるといいよね」
東京の最高の立地にあり、救急症例も豊富な文教医科薬科大学で学生生活を送り、そのまま文教医科薬科大学附属病院で初期研修を終えた山崎にとっては、いくら医局人事で、BMPUの関連病院であるとはいえ、なぜ最北端の茨城県南などに飛ばされなければならないのか、と不満を持っており、更には日立大との覇権争いにも巻き込まれたことから、特に若い日立大から派遣された研修医に対して、さりげなく鬱憤を晴らす、というのが日立大の初期研修医の中では共有されていた。
岩田はどう答えればいいかわからず、返答に躊躇していると、
「まぁ山崎先生、上の先生方のことは、岩田先生にはあまり関係がないでしょう、それよりほら、患者さんをCT室に送り届けないといけないから、お話はまた後にしてください、あと、ウォーク・イン外来の方も多くて、研修医の佐橋先生がなかなか捌ききれてないって外来看護師の子がいってたから、見に行ってあげてくださいな、こちらの患者さんは岩田先生と私が運びます」
と、加藤看護師長がひきとるように言い、いくら山崎とはいえ、大津野総合病院で長く救急科の看護師長である加藤には強くは出られなかったから、山崎は口を苦々しく歪め、
「まぁ、確かにそうだね、岩田先生、引き止めて悪かったね。 佐橋先生の外来は3番外来かな、見に行ってくるよ」
と、足早に外来棟へと向かっていった。
加藤と共にストレッチャーを押しながら、岩田は礼を述べた。
「加藤さん、ありがとうございます・・・」
「いいのよ岩田先生、上先生方の大学の派閥争いなんて、看護師からみたら本当に馬鹿馬鹿しく見えるのよ、ましてやそれを研修医の先生に当たるなんて、本当に嫌な話よね、ほら、そろそろCT室につくよ、脳梗塞だから多分なにもないと思うから、チャチャっとすませて、すぐにMRI室にいくんでしょう、先生には読影、頼むわね」
加藤看護師長は笑い飛ばし、手際よく放射線技師と患者をCT用のベッドに移動させたのち、岩田をCT室の隣の読影室に押し出した。
その後、CTでは所見は認めなかったものの、その後に撮影したMRIの拡散強調像《DWI》ではぱらぱらと前頭葉に高信号域がみられ、脳梗塞の診断となり、その後の入院手続きなどで岩田が当直帯の診察業務を終えたのは、通常業務開始時刻の8時30分の5分前であった。