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其の二

 暗くて狭くて湿っぽい場所で、僕はあいつが行ってしまうのをひたすら待っていた。


 あいつは一度暴れ出すと手が着けられない。大声で喚き散らし、そこいら中のものを掴んでは投げ、破壊し尽くす。

 だからうちのリビングの窓ガラスにはひびが入っているし、壁はあちこち凹んでいるし、お父さんが使っていたという湯飲みは割れてしまった。

 あいつの様子がおかしくなると、お母さんはいつも僕をここに隠した。絶対に出てきちゃ駄目よ、と怖い顔をして。


 僕が悪かったのだろうか。僕がオモチャを散らかしたままにしていたから。あいつが廊下に落ちていたレゴブロックを踏みつけてしまったから。


 外であいつの怒鳴り声が聞こえる。お母さんが何かなだめるようなことを言っているが、あいつの声はそれを掻き消して凶暴だった。前にテレビで観た、ジャングルの猿みたいだ。

 生意気だ、俺を舐めやがって、おまえの躾がなってない――そのうちにお母さんの悲鳴が混じって、何かがドスンと倒れる音がした。


 僕はもう恐ろしくて、両手で耳を塞いで目を閉じて、じっと縮こまってた。


 急にドスドスいう音が途絶えた。いきなり訪れた静けさは、かえって僕を不安にさせた。お母さんが何かひどいことになっているのではないかと怖くなった。

 固く閉じた扉を、そうっと押し開ける。

 わずかに差し込んだ光は、お酒の臭いがした。


「見ぃつけたぞぅ」


 真っ赤な顔をした鬼が、目玉をぎょろぎょろさせながら覗き込んでいた。

 喉が凍りついて声が出せない。体も動かせない。太い腕が伸びて、僕の胸倉を掴もうとした。


 僕は――。





 母の持ち物は多くなかったので、遺品整理は順調に進んだ。

 世の中には物を廃てられない人間が一定数いて、死後に遺された子供たちが大変な迷惑を被ると聞く。母がそうでなくてよかったと安堵しつつ、僕は取っておく物と廃棄する物を仕分けていった。

 とはいえ、僕も狭いアパート暮らしだ。そうたくさんの遺品を持ち帰れるわけもなく、日用品のほとんどは処分せざるを得なかった。


 母の衣服を紐で縛りながら、やはり自分は薄情な息子だと痛感する。

 母が死んで悲しく、寂しい気持ちはもちろんあった。けれど感情が溢れ出して平静でいられないとか、逆に虚無感に苛まれて気力が湧かないとか、そういったことはなかった。

 母の思い出をしみじみと辿りながらも、作業は淡々と進んでいく。同僚に任せてきた仕事がどうなったか、時折気に掛ける余裕すらあった。 


 表面上は仲の良い親子だったはずだ。献身的に子育てをするシングルマザーと、聞き分けの良い従順な息子。

 だが、僕たちの関係性は何かが決定的に欠けていた。そしてお互いにそれに気づいていながら、口に出さずに過ごしてきた。


 伯父が指摘したように、赦していないのではない。恨んでいるのでもない。

 ただ、僕と母の間には、普通の親子が経験するであろう剥き出しの感情のぶつけ合いがなかった気がする。そしてそこから生まれるはずの共感も理解も――。


「だからって謝られる筋合いもないんだよな……」


 纏めた衣服をポリ袋に詰めて、僕は額の汗を拭った。窓を開けてもほとんど風は入ってこない。意識的に水分を摂らないと熱中症になってしまいそうだった。





 ごめんなさい――臨終の床で、朦朧とした意識の中、母はそう詫びたのだ。

 手を握っているのが息子だと理解していたのかどうか分からない。だが、薄く開いた目には確かに僕が映っていた。


「ごめんなさい……知っていたのに……母さんはあなたを……」


 げっそりとやつれた顔が、干からびた声で囁いた。僕の手を握る指の力は思いがけず強い。

 気にしてないよ、と答えようとした。

 その前に、母の目がカッと見開かれた。


「そそそとにでちゃだめようぅ……ここここに、いいいいなさいいぃぃ……でてきては……だだだめ……!」


 金属が擦れ合うような声音だった。生理的な嫌悪感が、僕の両腕と背中に鳥肌を立てた。

 母はもう僕を見ていない。零れんばかりに開いた両目は虚空を睨んでいた。なみなみと黒い恐怖を湛えて。

 神様はどうして、死を目前にした人間に最も辛い過去の夢を見せるのか。母の錯乱は、僕に焼きついたおぞましい記憶を呼び覚ました。


 当時母が交際していた相手は、普段は非常に温和で僕にも優しかったが、いったん酒が入ると人が変わるタイプの男だった。母のごく些細な失敗をあげつらい、乱暴な言葉で罵る。罵倒が直接的な暴力に変わり、その矛先が僕に向かうのに時間はかからなかった。

 男の機嫌が悪くなると、母は僕を隠した――台所のシンク下の収納庫に。そしてひたすら男の狼藉に耐え、男が寝入ってしまうのを待ったのだ。


 あいつの存在が害悪でしかないことは、当然母も頭では分かっていただろう。にも拘らずあいつと別れなかった母の心理を、僕は今でも理解できない。

 素面しらふの時の優しさに縋ったのか、自分の選択は間違っていないと信じたかったのか、それとも単なる惰性だったのか。

 まだ小学校に上がる前の僕は、あいつが家に来るのが嫌で嫌で仕方がなかった。


 大丈夫だよ、僕が守ってあげる――まだ存在していたタロウくんは、そう言って僕を励ましてくれていた。

 あの日も、そうだ、タロウくんが傍にいた。一緒に隠れていたのだ。


 毎度のごとく、すでに酔っ払った状態で家にやって来た男はくだらないことで激高した。母は素早く僕をシンク下に隠してやり過ごそうとしたが、あいつに見つかってしまった。

 あの真っ赤な、鬼のような形相を、僕は一生忘れないだろう。怒りは非力な獲物を捕らえた愉悦と混ざり合い、アルコールに溶かされ、目を吊り上げ歯を剥き出しにした表情はもはや人間のものではなかった。

 

 タロウくんと抱き合って震えていた僕は、胸倉を掴まれて引きずり出された。突き飛ばされ、床に転がる時に、ダイニングテールの角に頭をぶつけたのを覚えている。

 自分の頭が砕ける鈍い音と、遠くで母の悲鳴が聞こえた。


 次に目が覚めた時、僕は病院のベッドの上で、母は傷害致死の容疑で留置場に入っていた。


 母は、このままでは僕が殺されると思い、包丁であいつの背中を刺したのだという。彼女には結局、情状酌量で執行猶予がついた。息子を守るためだったのだから当然だ。

 そんな母に感謝こそすれ、恨みなんてないはずなのに。

 爪が刺さるほど強く握り締められた母の手を、あの時、僕は握り返すことができなかった。





 出てくるな、出てくるな、と繰り返す母の声は、徐々に小さくなっていた。その呪詛めいたフェイドアウトがまだ耳の奥に残っていて、頭部の古傷を疼かせる。


 たちの悪いDV男と知り、子供に危害が及んでいるのを承知しつつ、あいつと別れなかったこと。あんなひどいことになるまで状況を放置したこと。子供の僕に一生消えない恐怖と傷を残したこと。

 母へのわだかまりは、やはりその辺りが原因なのだろうと思う。思うのだが――。

 どれもこれも社会通念に照らし合わせて導き出した解答に過ぎない気がして、今ひとつ腹に落ちないのだった。だから母に詫びられても、伯父になだめられても、違和感が拭えない。


 あとは自分自身の問題なのかも知れない。僕は軽く頭を振った。


 箪笥の中身はだいたい片付いた。何本目かのミネラルウォーターを飲み干した後、鏡台に取りかかった。

 抽斗ひきだしを開けようとして、三面鏡に蝶番ちょうつがいがついていることに気づく。ほんの少しためらった後、僕は正面の鏡を引っ張った。奥が物入れになっている。

 そこにしまい込まれたものを見ても、すぐに意味が分からなかった。


 ガラスケースに入った、小さな金色の仏像だった。台座を含めても高さは十五センチほど。合掌のポーズの立像で、頭部が丸く大きかった。お地蔵様……なのだろうか。

 そしてその像の脇には、色褪せた桃色のノートのようなもの。『母子手帳』と印刷された題字を見て、僕は唾を飲み込んだ。

 ひどい背徳感を覚えた。生前の母が決して明かさなかった、深い秘密を暴いてしまうようで――。


「みつかっちゃったあ」


 すぐ傍で幼い声がして、僕は飛び上がりそうになった。

 振り向くが、誰もいない。だが視界の中で何かが動く。


「おそいよぅ、ひろきくん。ぼくもう、かくれるのあきちゃった」


 鏡の中だった。三面鏡に映る和室の隅で、小さな男の子が口を尖らせている。タロウくんだ。

 僕の友達だったタロウくん。あの時消えてしまったタロウくん。

 そう、あの、時。


 目眩がした。頭蓋の中で力任せにシンバルを打ち鳴らされたみたいだ。癒着したはずの骨がめりめりと音を立てて割れ、傷が口を開けるような気がした。


 鬼の腕に引きずられていく子供の後ろ姿が見えた。引きつけを起こしたように半ズボンの両脚をばたつかせて、ヒイヒイと喘鳴を上げている。


 タロウくんは僕を庇って。

 あいつは僕じゃなくてタロウくんを掴んで。


 いや、いや違う。

 ()()()()()()()()――。


「やっとこうたいできるね!」


 タロウくんはこっちに向かって駆け出してきた。

 鏡面いっぱいにタロウくんの姿が映り、イタズラ坊主の顔がにんまりと笑った。


「出てくるなっ……!」


 とっさにそう言って鏡を押さえた時、玄関のドアがガチャガチャと音を立てた。


「お邪魔します。うわ、中もあっついなー」


 入って来たのは、合鍵を渡しておいた伯父だった。午後から遺品整理を手伝ってくれる約束になっていた。


「おおい、弘毅ひろきくん、あんまり根詰めるなよ。熱中症に……」


 和室に踏み込んだ伯父は、鏡台に張りついている僕を見て驚いた顔をした。

 そして、床に転がり落ちた地蔵像に気づき、大きな溜息をついた。





 隠しておいても仕方のないことだからな、と、伯父は地蔵像の謂われを語ってくれた。


八重やえも、弘毅くんが大人になったら話すつもりだったんだと思う。その機会がないまま、あの世に行っちまったわけだが」


 ほんの少し非難めいた眼差しがチクリと刺さった。大人になってから、母との接触を避けていたのは他でもない、僕である。

 僕は無言で古い母子手帳のページを捲った。これから伯父の話す内容は、概ねそこに記録されている。


「弘毅くん、君にはね、生まれてこなかったお兄さんがいたんだよ」


 外で、気の早いヒグラシが鳴いた。

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