其の一
僕たちは、暗くて湿っぽくて狭い場所にいた。
ここなら安心、じっとしていれば大丈夫――そう思っていたのに。
外には鬼がいる。僕たちを探している。
見つかったら最期、僕たちはここから引きずり出され、鬼に食べられてしまうのだ。誰に教えられたわけでもないのに、それははっきりと分かった。
僕たちは身を寄せ合い、息を潜めて縮こまっていた。
急き立てられるようなリズムと振動が全身に響いている。これは僕の心臓だろうか、彼の心臓だろうか。外まで聞こえてしまいそうな、力強くて大きな鼓動だ。
怖い。怖い。死にたくない。
身動きのできない僕は、ぎゅっと体を強張らせた。
その時、ぐらりと世界が揺れた。眩しい、刺すような光が外から入ってくる。鬼がやって来たのだ。
弟が僕にしがみついてきた。その体はぶるぶると震えている。僕だって震えていた――でも。
僕はお兄ちゃんだから、おまえを守ってやる。
僕は弟を背後に押しやって、自分から鬼の前に出た。連れて行くなら僕にしろ!
みぃつけた。
鬼が手にした巨大な杭が、僕の体の真ん中を貫いた。
僕はぱちんと弾ける。
僕の肉も骨も蕩けて流れ出して、あとは抜け殻になった。
子供の声を聞いた気がした。
まぁだだよー。
小さな男の声だ。どこか遠い所から響いてくる。
まぁだだよー。
楽しげな節のついたその声は、とても懐かしく、なのに僕の胸の底を不穏にざわめかせる。
ふいに、耳元に冷たい息が掛かった。
「もういいよ」
目が覚めると汗だくになっていた。
エアコンのない和室では、古い扇風機がむっとした空気を攪拌していた。オレンジ色の豆電球の明かりが思いがけず眩しい。
一瞬自分がどこにいるのか分からなくなって、すぐに思い出した。
母の住んでいたアパートだ。四日前に他界し、昨日葬儀を済ませたばかりの。
僕は身を起こして、湿った首回りをTシャツの裾で拭った。畳の上に直接敷いた布団が、背中をひどく痛ませている。タオルケットは足元でくしゃくしゃになっていた。
枕元の腕時計を見ると三時だった。寝床に入ったのが二十四時過ぎだったので、まだ三時間も眠っていない計算になる。
母の葬儀はごくささやかで、親類を除くと参列者はパート先の同僚くらいだったが、片付けや香典の整理にはそれなりに時間がかかり、休むのが遅くなってしまった。
疲労困憊で布団に倒れ込んだはずなのに、こんな時刻に目が覚めてしまうとは、疲れているのは体だけで神経は緊張しているのかもしれない。そのせいか恐ろしい夢を見ていた気がする。
頬を擦って息をついた僕は、ふと顔を上げた。
視界の端を――常夜灯に曖昧に照らされた部屋の隅を、何かが過ぎったように思えたのだ。
洋服箪笥と和箪笥、鏡台――古びた家具は狭い六畳間を圧迫している。そのどれかに映った自分の影が動いたのだと、僕は納得した。
母が戻ってきた、などと一瞬考えてしまった自分が何だか可笑しい。母は今や、和箪笥の上の骨壺にちんまりと収まっている。
右の側頭部がぎしぎしと痛んだ。猛烈な喉の渇きを覚え、僕は布団から這い出した。
和室の引き戸は開け放されており、隣はダイニングキッチン。この1DKが、母が五年間住んだ部屋だった。
昔はもっと広いアパートに住んでいたのだが、僕が他県の専門学校に入学するため家を出る時に母も引っ越したのだ。
新幹線で一時間の距離なんだからすぐに帰って来られるよ――寂しげな母をそう慰めて家を出たのに、僕は結局盆と正月くらいしか帰省しなかった。
母が膵臓癌で余命宣告を受けてからも、週末ごとに様子を見に帰るくらいで、仕事を言い訳に、つきっきりで看病まではしなかった。
入院先から容態の急変を告げる電話を受け、慌てて駆けつけてから臨終までほんの数時間。あっという間の別れになってしまった。
我ながら薄情な息子だと思う。僕の父親は僕が生まれる前に亡くなっている。女手ひとつでここまで育ててくれた母親に対し、僕はどこか距離を取ろうとしていた。
「弘毅くん、もう八重を赦してやってくれ」
通夜の席で、伯父に言われた言葉を思い出す。父方の親類とはとうに縁が切れ、母方の祖父母も亡くなった今、身内と呼べる唯一の人だ。
「八重はずっと後悔していた。自分は過ちを犯した、息子に疎んじられるのも仕方がないと……でも俺はあの子が不憫でね。身勝手な言い草かもしれないが、悪いことはもう忘れて、良い思い出だけを持ってあの子を送ってくれないか」
「分かってます。母に恨みなんてありません。そんな子供の頃の話、あまり覚えてもいないんです。むしろ、もっと母の傍にいてあげればよかったと後悔してるんですよ……」
口先だけの返事に聞こえたのだろうか。伯父の沈んだ表情は晴れなかった。
ほとんど空っぽの冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出す。冷たい水を喉に流し込むと、偏頭痛がいくぶん治まった。
改めて、住人を喪った部屋を見渡す。会社の忌引きはあと三日間。その間に母の遺品を整理して、次の週末にはこのアパートを引き払わなければならない。
カタ、と物音がした。
僕の心臓が跳ねる。空耳ではない、現実の音だ。扇風機のモーター音に混じることもなく、その乾いた音は深夜の1DKにやけに大きく響いた。
足元の方から聞こえた気がした。僕は身を屈め、耳を澄ます。
台所のシンクの下――鍋やボウルをしまってある収納庫から、それは聞こえてきた。
ここにいる。ここに隠れている。
カタ、とまた音が鳴る。そこは窮屈だから、どんなにじっとしていても周囲のものにぶつかってしまうのだ。よく知っている。
逡巡はなかった。僕は収納庫の把手に手をかけ、一気に開いた。
――そこには何もいなかった。
わずかに排水の臭いがし、アルミ鍋の蓋がカタンと倒れる。
「そこじゃないよぅ」
幼い声は、僕の背後で聞こえた。
弾かれるように振り返った先に、その子はいた。
ダイニングテーブルに腰掛けて、両脚をぶらぶらと揺らしている。暗いのに、満面の笑みを浮かべているのがよく分かった。
「ひろきくん、はやくはやく」
得意げに囃し立てる男の子の顔には見覚えがあった。くりくりした目と、団子っ鼻、赤いほっぺた。すばしっこくて、かくれんぼが得意で……。
「タロウ……くん……?」
僕は呆然と呟いた。
僕には昔、タロウくんという友達がいた。
家計を支える母の帰りはいつも遅かったので、幼稚園から帰った僕の面倒は祖母が見てくれていた。祖母は孫が自分の目の届かない場所に遊びに行くのを好まず、だから僕は部屋の中やアパートの周囲でタロウくんと遊んだ。
タロウくんは活発ないたずらっ子だった。
祖母の目を盗んで僕を外に連れ出してくれ、思いも寄らぬ面白い遊びを教えてくれた。公園のジャングルジムの天辺から勇ましく飛び降りたし、セミの抜け殻がたくさん連なる木を知っていたし、近所の犬をからかって吠えさせるのも平気だった。タロウくんがいたから、母との時間が少なくても寂しくはなかった。
不思議な子だった。僕と同い年だと言っていたのに、幼稚園には通っておらず、どこに住んでいるのかも分からなかった。ただ、毎日僕が家に帰ると待っていて、いつの間にかいなくなる。
しかも、彼の話をすると母も祖母も変な顔をした。
幼稚園のお友達にそんな名前の子いたかしら。今日はずっと一人で遊んでいたじゃないの。そんなことよりさっさとごはん食べちゃいなさい――などと相手にされなかった。当時の僕はそれが理解できなかったのだけど。
イマジナリー・フレンド――そんな単語を知ったのは、中学生になってからだったろうか。タロウくんが来なくなって、もう何年も経っていた。
他の人には見えない、自分だけの幻の友達。幼年期を過ぎて、僕はようやく当時の自分の孤独と逃避を知ったのだ。
そういえば、タロウくんはいつ消えたのだろう――翌朝、十時近くになって目覚めた僕はぼんやりと記憶を辿った。窓の外ではセミが姦しく、真夏日を謳歌している。今日も暑くなりそうだった。
はっきりとはしないが、ひとつ、思い当たるタイミングはあった。
母が人を殺した日だ。
僕は右の側頭部に手を当てる。指先に、古い傷痕が触れた。