5.『六英雄グニーヴル』
かつて六英雄と呼ばれる勇者たちがいた。入れ替わりがあったと主張や、もっと活躍した人物がいるという人もいる。だが、荒廃する前の世界でいくつもの戦果をあげ、おとぎ話や伝承になっているのは事実。あたしのように歴史や騎士物語に興味のない者でも知っているほどだ。
とはいえ、六百年も昔の話だ。今更、そういった過去の人物の話を出したところで意味などない。
けれど、その六英雄の使った魔術兵器が核の内にみえたのなら話は別である。
「ファーさん。もういいの。私は大丈夫だから来ないでよ。来ないでお願い」
とラーチェが呟く。いや、姿を現した巨人族に対して発したのだ。
ジンが船に対して、あたしたちの回収命令を出す。だが、エイドが邪魔をして上手く話がまとまっていない。
「ローレン、早く船に戻って」
アイリスの声で、あたしは我に返って状況を把握した。
あまりにも早い飛行物体。ただの人ですら、巨大な全身に流れている魔力を視認できるほどの膨大な魔力の量。一度は新型の寄生種を疑った。
けれど、通信機の向こうでジンが、「清浄の悪魔」と呟く。
「あれのどこが清浄の悪魔なんっすか」
「あれはファーさん。清浄の悪魔で間違いないよ」
ラーチェがジンの代わりに答えた。
液体でできた流線形の身体。空を飛ぶ姿は海で泳ぐイカに似ている。胸に核と思わしき魔力で輝く巨大な球体。胸から下腹部にかけて触手をなびかせ、高速でこちらに向かってくる。ミサイルや弾丸のような直線的な動き。ぶつかれば、簡単に船を沈めるだろう。
「ラーチェ。一旦、船へ戻るっすよ」
あたしは彼女の背に手を回し、回避行動を開始した飛空艇を目指す。
しかし、時すでに遅い。直線上に偶然、船があっただけだ。船には目もくれず、横を通り過ぎた。清浄の悪魔の狙いはあたしたち、いや、ラーチェである。
あたしたちは船に逃げ込もうとする。そこに向かって、寄生種は触手を振り下ろす。
ミョルニルと距離があるあたしでは防ぐことはできない。
「お姉ちゃん」
ラーチェが翼竜を広げ、身を挺する。
魔力武装で受けてなお、衝撃を防ぎきることができずに弾き飛ばされる。
飛びかけた意識が甲板に叩きつけられた痛みで戻ってくる。なんとか、船に逃げこめた。
これで終わりではないのが辛いところだ。
「死んでないだろうな」
ジンがあたしたちに駆け寄ってくる。
「死んでたら返事はできないっすよ」
あたしはできうる限りの軽口をたたく。
「どうにか大丈夫です」
あはは、と困ったようにラーチェが笑う。
「そうか。なら、この重いもの退けるから、さっさと準備しろ」
とジンは翼竜に手を掛ける。
「ラーチェは重くないです」
「武装の話だよ」
とラーチェが声を上げる。
確かに、魔力武装を装備したラーチェの下敷きになっていては動けない。
たった一撃で無残に破壊された翼竜をジンは手際よく取り外していく。外せないところは壊していく。外された機械の翼をみれば、穴だらけであることがわかった。
「ローレン。分かっているだろうが」
「アイリスが危ないですよね。言われなくても分かります」
と、あたしはジンに答える。
誰がみても、アイリス一人で相手をするには力不足だ。あの演習の後だ。彼女の飛行の限界にも近いだろう。
「コールウェポン」
と、立ち上がったあたしは唱える。
呼び出したミョルニルには、しっかりとあたしの右腕がしがみついていた。
「ちゃんとくっつくの?」
心配そうな表情をみせるラーチェ。
「やりきりますよ」
と、あたしは笑顔で応える。
人間ならば、切断された部位を引っ付けるには手術がいる。そのうえ、動かせるようになるまでに時間と途方もない労力が必要だ。
けれど、あたしたち戦乙女は違う。自身の身体の一部であると認識できれば、元に戻すことができる。むろん、完全に繋がるまでには時間が掛かる。
あたしは接合した手を開いたり、閉じたりする。なんとか、自分のものであると実感できる。ミョルニルを全力で振るえば、身体からちぎれそうだ。それでも、一度、たた一度なら全力で振るえる。ミョルニルがそう語りかけてくる気がした。
「色々やらなきゃいけないことがある。時間を稼げ」
「エイドを逃がす、なんて言わないっすよね?」
あたしはジンに怪訝な目を向ける。
「察しがいいな、それもある。どうやら、胸と尻ばかりに栄養が取られていた訳じゃないようだな」
「ハラスメントとか、空気を読んでください。ラーチェもいるんっすから」
ニヤッと笑ったジンに苦言を呈する。これだから男って奴は。
「いいから行ってこい。俺はこいつをどうにかしないといかんのだからな」
とジンは言いながら、あたしの尻に蹴りを入れる。
「ハラスメント反対。あとでイヴに言いつけてやるっすから」
あたしは抗議の声と共にアイリスのもとに向かう。
彼らしくない行動だ。倫理観や手段を選ばないのは、いつものことだ。それでも、もっとスマートなやり方があっただろう。それだけ切羽詰まった状況なのは理解できた。
残されたジンは笑みを消し、ラーチェに向き合う。
「で、君はどうする?」
「わ、私ですか?」
ラーチェの言葉にジンはただ頷く。
「私なんかが役に立てるわけがないですよ。翼も壊れてしまいました。私には戦うことができません」
ラーチェは自虐にもよく似た、諦めの表情をみせる。
「本当にそう思うか?」
「ないものは、ないですから」
「そうか」と彼は残念そうに首を垂れる。
「君の論なら、彼女らは負ける。この船に乗っている者は誰一人助からないだろうな」
「待ってください。あなたは強いんでしょ。ファーさんを止められるんじゃないんですか」
とラーチェは驚きを含んだ泣きそうな声を上げる。
「俺に翼はない。飛びたくても飛べない。船を、足場を攻撃されたら、そのまま負ける」
諦めとも、弱音とも取れるジンの声。だが、まだ力は失っていない。
「魔術兵器なら、ゲルズならどうにかできるんじゃないですか。ミョルニルだってある。寄生種を退けたあなたなら勝てるんじゃないんですか」
「戦うことを諦めた君が、他人に戦えと強要するのか?」
ジンの言葉にラーチェは息をのむ。
「だって。だって私は戦いたくても戦えない。武器を持つための腕もない。移動するための足もない。貰った翼は壊れてしまった。だから、私にはどうすることもできないよ」
「いや、できる」とジンは顔を上げ、縁を指さす。
「なら、一番簡単な方法を教えてやろう。船から飛び降りろ。奴はお前を狙っている」
彼は淡々と言った。優しさなど一欠けらもない。
「で、できないよ。お姉ちゃんに助けてもらったんだよ。お願いします。私ができることなら、なんでもします。だから私を、お姉ちゃんを助けてください」
とラーチェは救いを求める。それは追い詰められた弱者が出す声、そのものだ。
「人は逃げ続けることはできない。逃げることにも力がいる。お前の逃げるという選択が今のお前の姿だ。助けてくださいとお願いするのは簡単だな。科学者に、ローレンに、ローレンがいなくなったら俺に。そして対価がなくなる。腕も、足もなく、それでもお前が逃げる、逃げ続けるなら最後には死ぬしかないんだよ」
ジンは彼女の懇願を一蹴する。
「だったら、どうしたらいいんですか? 私はまた、お姉ちゃんの傍に戻りたいんです。まだ、お姉ちゃんとおしゃべりがしたい。こんな姿でも生きたいと思えたから」
「なら戦え。お前には、お前たちには翼があるんだろ」
ジンは魔力武装の尾を壊し、ゲルズを拾い上げる。
「私の翼…」
とラーチェが呟く。首を横に振った。
「私の翼は上手く飛べない。みんなと違う姿の翼だよ」
「今、お前が持ち得るものが翼と口しかないなら、人の目なんぞ気にしている場合じゃないだろ? その身を泥で汚してでも、その口で泥水をすすることになっても、お前はそれを使うしかないんだからな」
「でも」とラーチェが食い下がる。
「でも、だって、は必要ない。翼を広げてみせろ。選択の時間は唐突に訪れて、決して待ってはくれないんだ」
表情一つ変えないジン。
ラーチェは目を閉じる。それは諦めにもよく似た決断だ。
彼女は翼を広げてみせた。魔力が形作ったのはコウモリの翼。かぎ爪がある異形の翼。人々から悪魔の眷属と忌み嫌われる象徴。裏切り者、どっち付かず、を示唆する負の個性。
「醜いよね」
ラーチェは顔を伏せる。ジンは初めて彼女に微笑みを向けた。
「その翼は世界で唯一、物を掴める。這ってでも前に進んでいける。まだお前の意志は生きることを、戦うことを諦めていない象徴だろ? 何を恥じることがあるんだ?」
彼の言葉にラーチェは顔を上げた。
ジンはその手を、翼を取りはしない。やるべきことは分かっているだろうと、その背中で語っていた。
彼はゲルズを構える。弓を引くための体勢だ。
「その翼を、その手を伸ばせ。お前の、お前たちの意志で立ちふさがる障害を乗り越えてみせろ」
ジンの言葉。ラーチェの意志。それらに呼応するようゲルズは魔力の輝きを増す。
「第二解放!」
ジンの呪文と共に、ゲルズは長弓へと姿を変えた。
ラーチェの翼が弓に触れる。
ゲルズの魔力が矢へと姿を変える。引き絞れば、引き絞るほど緋色の魔力が流れ込む。大気がまるで歌うように魔力に反応する。その一撃に祈りを捧げているようだ。
「ローレン、アイリス。五カウント後、風穴を開ける。総攻撃だ」
と、ジンがあたしたちに指示を出した。
一方、あたしたちは限界を迎えていた。
時間を稼ぐというのも難しい。力の差があり過ぎるのだ。
初めから相性の悪いラグム。そして、清浄の悪魔はミョルニルに対しても対抗してきたのだ。刀に水は切れないが、鎚なら吹き飛ばすことできる。それに対抗してきたのだ。
触手が固体と液体で絶えず変化し続けている。
ミョルニルで砕けば、氷のように飛び散り、あたしを狙って飛んでくる。それを絶域で弾こうとすれば、絶域の魔力を吸い取ることで固体が液体へと変化する。そのまま液体が吸い取った魔力で高速の弾丸と化して、あたしの身を削るのだ。
そして触手を壊したとしても瞬く間に再生する。
本体に攻撃しようにも、触手を何度も破壊しなければならない。そのためには文字通り、決死の覚悟でなければ到達さえできないだろう。
ジンの指示に、
「了解」と返しながらも、傷だらけのアイリスが眉をしかめた。
たった五カウントでも遠く感じる。
「五…」とジンのカウントが聞こえた。
甲板での魔力の高まりを感じたのだろう。清浄の悪魔は触手で、射線上からアイリスを逃がそうとしない。
「ジン。あたしを狙って撃ってください。どうにかするっすから」
射線上にいないあたしを狙う触手の数があからさまに減っている。なら、あたしのやるべきことは一つだ。
「ローレン!」
ゼロのカウントの代わりにジンが叫ぶ。
できる。できない。そんな自問自答。時間も取ることができず、あたしも叫んだ。
「第一解放!」
答えは出ている。過程も論理も踏み抜いた。あとは自身の直感にしたがうだけだ。
ゲルズから放たれた魔力に、解放によって強化された絶域でぶつかる。
絶域の能力は範囲内の力を操ること。その力が敵意をもっていないのなら、器であるあたしが耐えられれば、方向を変えるなど容易い。
あたしの鼻から、傷口から液体が流れ出したのを感じる。そのまま流血を気にも留めず、魔力を弾き返した。
飛空艇に触手の多い腹を向けていた清浄の悪魔の頭から足に向けて、光線が貫く。
しかし、まだ清浄の悪魔は倒れていない。抉られた身体の表層に核が覗いている。奴は咄嗟にゲルズの魔力が侵食した身体を切り離し、戦闘態勢を整えようしているのだ。
あたしは距離を一息に詰める。
清浄の悪魔は身体の一部を盾に変え、あたしを向かいうつ。
血が視界を赤く染める。距離を詰めた今、視界は関係ない。
全身全霊を掛け、あたしはミョルニルを振り下ろす。
盾と鎚がぶつかる。その衝撃は熱量と変わり、清浄の悪魔の身体を昇華する。
鎚が人の肉体のような柔らかさの核を抉った。そこで右腕の接合面が悲鳴を上げる。
あたしは有無を言わせず、右腕を振り抜いた。
役目を果たした右腕は、そのまま生々しい感触と共に、また空の底に落ちていく。
「――――」
清浄の悪魔が声なき悲鳴を上げる。身体を震わせ、波立たせた。
一矢報いた。
その感情だけを残して、あたしの意識は、身体は限界を迎える。魔力を使い過ぎたのだ。
清浄の悪魔の核が顔のない人の姿をとる。そして体内にあった槍のような魔術兵器を吐き出すと、あたしの身体に突き立てようとする。
誰かの叫び声が耳に入る。
血が足りない。流し過ぎた。言葉が頭では認識できない。
翼を持つ少女があたしを連れ去る。
強く抱きしめられた安心感からか、あたしは目を閉じてしまった。
また夢をみている。
夢をみていると実感はあるのに、目が覚める気がしない。
走馬灯というのは、こういったものだろう認識できる。
それもその筈だ。あたしは今、夢をみているのではなく、夢をみせられているのだ。
おかしなことか? いや、戦乙女であるなら、決しておかしなことではない。
戦乙女の魂は少女たちの夢から生まれたのだから。
あくまでリリーと呼ばれた私は主人格の一つでしかない。夢が叶ったのなら、消えてなくなるのが道理である。ミドラがいなくなり、アイリスに変わったように。
目を凝らしても、先が認識できない真っ暗な世界だ。自分の身体が自分であるとさえ、認識できない。
しばらくすると星をみつけた。一つ、また一つと流れていく。それは人の記憶。一欠けら、一欠けらが夜空とも思える宙に浮かんでいるのだ。
どれも、とても綺麗に輝いている。
なのに、どれも悲しい。
大切な人を失った瞬間。大切にしていた人に裏切られた瞬間。そして、守りたかったものを踏みにじられた瞬間。
ありとあらゆる不幸の一瞬。そういったものが、あたしの中で輝いている星なのだ。
ふっと、目の前の光が輝きを増す。その光の中から、ほのかに温かい光をまとった少女が姿を現した。
あたしは、この少女のことを知っている。
「初めまして、ローレンシア。それとも、やっと話せたわね、私。と言ったほうがよかったかしら」
ラーチェの姿によく似た、私であるリリーが話かけてくる。
可愛らしい顔。恐れを知らない不遜な笑み。彼女がいた時代の女性が口をそろえて理想だというだろう体形。あたしには、鏡をみて自分を可愛いという趣味はないが、ラーチェが憧れるのも理解できた。
「私? 御冗談を。あなたの記憶は確かにあたしを作ったっすよ。でも、あたしはあなたのように諦めて生きてませんから」
「自分で、自分が嫌いなところは変わらないわね」
「いえ、あたしは、あたしのことが大好きですよ。ラーチェを救えましたから」
リリーは口元を歪ませる。
「そう。あなたは望みを叶えたのね」
「ええ、あんたとは違いますから」
リリーは、その言葉を鼻で笑う。
「いいえ、私とあなたに違いなんてないわ。だって、一つの願いを叶えられずに死んでしまった私。一つ願いを叶えるが手にすることなく、死んでしまったあなた。多少の違いはあれど、なにも手にすることなく死んでしまったという事実に違いはないわよ」
あたしは言葉が詰まる。
あたしが死んだ? いつのまに? 出血死か? 腕を斬られたことに対する痛みでのショック死か?
「あるいは、その両方」とリリーは口にした。
普通は自分で自分自身と向き合う機会など一生ないだろう。それ故にやりにくい。思考を読まれる。自分自身が自分に押しつぶされて小さくなったようだ。
特に自分という存在が嫌いな人物像としてあるなら、なおさらである。
「まあ」と悩みながらあたしは口を開く。
「死んでしまったものは仕方がないっすね。それで、あんたは何をしに出てきたんですか?」
リリーは眉をひそめる。
「あなたは悔しくないの? 悲しくないの? やり直したくはないの?」
「それを望めば、あたしはこの走馬灯の世界から前に進めるんっすか?」
あたしの問いに、リリーは驚きをみせる。
「あなた、死んだのよ? 生前に悔いとか、やり残したこととかあるでしょ」
「やり残したことはあります。正直、あんなところで死んだとか言われたら悔しいっす。でも、あたしは前に進むと決めました。今、できることをやる。それが進むことに繋がるっすよ。分かるでしょ、私」
あたしの言葉に、リリーは歯をむき出す
「あの六英雄でさえ、人の姿を捨てて生にしがみついている。だというのに、なんでお前は捨ててしまえるの」
「捨ててないっす。拾います。だから前に進むんですよ」
「なによ、お前。あのシグルズと同じように狂っている。もっと世界を憎めよ。人を羨め。力を持っていたのに、あなたを救おうともしなかった父様や兄様を恨みなさいよ。この世界はお前が思っているよりも、もっと残酷だと知りなさいよ!」
人が変わったようなリリー。
そこで、あたしは理解した。
理解すれば、より冷静になった。彼女を自分とは別のものだと納得できたからだ。
「なるほど。あんたは確かにあたしっすね。だけど、リリーではありませんね。六英雄の一人、聖女グニーヴル」
ラーチェがファーと愛称で呼んだ存在。最後に魔術兵器スクルドを操った人物。あたしの知る限り一人だけ思い当たる相手。それが六英雄グニーヴル。
「な、なにを言っているの? 私はあなたよ」
予想外な答えだったのだろう。目の前の相手は驚きを隠せていない。
「初めてみた魔術兵器をどの魔術兵器だと認識できたのが不思議だったんっす。だって担い手によって変わる兵器なんですよ。魔術兵器だと分かっても、どの魔術兵器なのかは分からないはずです。そこであたしなりに知恵を絞ったんですよ」
「それは偶然、グニーヴルをみた少女の記憶を持っていただけに過ぎないわ」
「まだ、あるんっす。清浄の悪魔は常に攻撃対象を選んでいました。だから普通は対策を立てるのは容易だったんっすよ。でも、その中で唯一、例外がありました」
「そんな話。今は関係ないでしょ」
「いえ、関係あるんすよ。だって、あたしたちの望みは根本的には一緒だったんですから」
あたしはゆっくりと相手を見据え続ける。
「救いは破滅だったんっすよ。それ以外、あたしたちは救われ方を知りませんでしたから」
あたしは本心を口にする。
つけ入る隙を見つけたと言わんばかりに彼女は薄汚い笑みをみせる。
「そう、だから今、あなたはここにいる」
「そう、だから今まで、あんたはここにいた」
反射的に言葉が口から出た。あたしを装うなら、あたしの答えの先の先を見据えればいい。それができないほど、あたしは自分のことを知らないわけではない。
言葉を選び、口を開きかけた彼女を制して、あたしはいう。
「あんたがどれほどの時間、ここにいたかは知りません。しかし、あんたは他人の記憶を、感情を覗き込んでいた。だから、ゲルズの位置を特定することが出来ていたんっすよ」
「なら、他の魔術兵器からも情報を集められたはずでしょ。だけど、襲われたのは常にゲルズの担い手の研究だった。そんなことで、あなたは私という破滅の願望を否定できはしないわよ」
「いえ、グニーヴルは現存するものの中で、ゲルズしか適性を持ち合わせていなかったんですよ。そしてゲルズの特性は精神毒ではなく、周りの人の感情、精神や意識に作用する兵器。あくまで精神毒なんて曖昧な概念は副産物なんっすよ。ですから、魔術兵器の特性というものを理解している六英雄と呼ばれる者なら、どう使えば他人の記憶を読み取るか、くらい分かっている。もしく、特性の解釈を捻じ曲げてしまえばいい」
もちろん、ここまで出まかせだ。あたしの想像が及ぶ範囲で、相手が完全に否定できないことを選んだだけだ。
「例え、私がグニーヴルだったとして、それではあなたの意識の一つである理由にはならない。だって、あなたの論ならグニーヴルの意識がいるべき相手はラーチェでしょ」
「その答えは簡単です。あたしたちは二人でローレンシアですから」
あたしの答えに目の前の少女は激昂する。
「そんなもの。答えになってない。ローレンシアはたった一人しかいないわ。私が守れなかった彼女だけよ」
「確かに、あなたが望む可哀相なシアは一人だけです」
「シアは…」と言い返そうとして、鏡のようにそこにいるグニーヴルは言葉に詰まる。
否定する言葉を、肯定する言葉をあたしは持ち合わせていないのだ。
けれど、今のあたしは違う。
「清浄の悪魔は感情の揺らぎに対して敵対者と認めます。絶望や怒り、そういった負の感情を狙って攻撃を行う。そこにどんな意味があるかは知りません。知りたくもないっす。ですが、あたしの前に進む意志を、歩みを邪魔するなら一つ言いたい」
あたしは息を吸い込む。
「そこをどけえぇぇえ!」
あたしは叫びながら、闇に飲まれた身体を引きずり出す。一番に感覚が戻ったのは左腕。
「ここから出ることはできないわ。あなたは死んだのだから」
リリーが両手を広げ、前に立ちふさがる。
「わざわざ死んだ人に、あなたは死んでいるという奴はいない!」
あたしはリリーをにらみつけ、左肩を捻り、腰を回し、左足を引き抜く。
「あなたが進む先は破滅。それしか、あなたは答えの出し方を知らないのよ」
「知らないなら、学べばいいっす。あんたみたいに初めから諦めていませんから」
左足で闇を踏みつける。右足を掴む闇を振りほどく。
「ここに居れば、あなたが望む終わりを永遠に繰り返せるのよ。どうして、出ていこうとするの」
「となりにいるシアは、ラーチェは笑っていないでしょうが!」
闇を突き破り、右腕の拳を突き出す。リリーに化けたグニーヴルの頬を殴る。虚を突かれた彼女の身体は羽毛のように宙を舞った。
千切れているはずの右腕には、確かに殴りつけた感触がある。けれど、それがダメージを与えるほどの衝撃になってはいない。
「正直、ここがどこか、あなたが誰か、そして、あなたとの問答なんて興味ないっす」
それに、あたしの推察力と情報量ではグニーヴルと特定することはできなかった。特定できたとして、それを肯定してくれ相手がいない。
「それを差し置いても、あたしは前に進むと決めたんです。ここで立ち止まるわけにはいかないんっすよ」
「どうして、何故、諦めないの?」
飛び下がりながら、グニーヴルは顔のない人型へと姿を変える。
「あたしを呼ぶ声がずっと聞こえるんですよ」
目を閉じれば、ラーチェの声が聞こえてくる。幻聴だとしても理由には十分すぎる。
「そんな声、すぐに消えるわ。いえ、私が消してあげる」
グニーヴルは身体から、スクルドを取り出す。
「いえ、それはできません」
あたしは自信を持って、そう口にした。
宙に浮かぶ光が一つ、また一つとグニーヴルの動きを縛り付ける。
「おのれ、小娘どもの記憶風情が! 私の邪魔をできると思っているのか!」
「できるっすよ。その光は鮮明に焼き付く絶望の光。過去に生きるあんたにはぴったりじゃないですか」
「さえずるな、小娘!」
グニーヴルは怒号を上げる。形を変え、姿を変え、呪縛から逃れるようにあたしに迫ってくる。
「あたしを生んだのは過去にあった少女たちの絶望の光です。リリーというのは、あたしの中で際立って輝いてみえただけっす。あんたの男に裏切られ続けた絶望の光も、確かにあたしでした。きっとラーチェの中にもあるんでしょう」
突き出されたスクルドを右手で受け止める。
「ですが、それは過去にあった失敗。糧にはしても、引きずり続けるものじゃない」
あたしが触れた先からグニーヴルが砕けていく。
「前に進む。あなたという人物が行うその選択が間違いだと分かる日がいずれ来る。必ず。あの男に裏切られ、あなたが破滅する日を私は楽しみしているわ」
狂気に満ちた笑いを含みながら、グニーヴルは完全に砕け散る。
「大丈夫っすよ。あんたは一人でしたが、あたしは二人で、いえ、沢山の大切な人が周りにいますから。それに、あたしはジンに頼って生きていく気はないっス」
砕け散った光にあたしはそう返す。光は風にさらわれるように消えていった。
さて、また暗闇だ。最初と違うところとしては自分が自分であると認識はできることだ。
認識できれば、あとは手探りで進むだけである。
あたしはラーチェの声が呼ぶ方へと歩みを進めた。
白い天井。あまりにも綺麗な純白だ。嫌いな色。
「お姉ちゃん…」
と、すぐ隣で夢にまでみた声が聞こえる。ラーチェの声だ。
陽は高い。どうやら戦場で気を失ってから、病室代わりに研究棟の一室に担ぎ込まれたことは飲み込めた。
「ラーチェ、こんなところで寝たら風邪を引きますよ」
違和感のある右手で、あたしに寄り掛かるように眠っていたラーチェを揺する。右腕は、あたしが無意識の間に繋がれたせいで、うまく接合されていないようだ。
義手の駆動音を鳴らしながら、彼女は目を擦る。そして事態を理解する。
「よかった…」
彼女はせっかく擦った目に、涙を溜める。
「ただいまっす。心配かけました?」
「え、うん。おかえりなさい。……えっと、その。お姉ちゃんが丸一日眠っていたから、心配はしてなかったと言えば嘘になるけど。その、それより今は嬉しいの方がいっぱいで、私どうしたらいいか分からなくて、でも、謝らなくちゃいけないから」
ラーチェは落ち着きのない様子で状況を説明する。
「なるほど、なるほど」
と、あたしは頷く。
「なら、一つずつやっていきましょう。まず謝罪からにしましょう。あとで楽ができますから」
いいながら、彼女の涙を拭ってやる。
「そうだよね、それじゃあ…」とラーチェは深呼吸する。
「ごめんなさい。ラーチェはいっぱい、いっぱい悪いことしちゃいました。お姉ちゃんの腕を斬ったこととか、ファーさんを呼んでしまったこととか、アイリスが嫌なこと一杯言いました。私、悪い子でした」
「よし。よく謝れたっすね。すぐにいい子に戻れるっすよ」
と、あたしはラーチェの頭を撫でてやる。
「許してくれるの?」
不安を隠しきれないラーチェ。あたしは強く頷く。
「あたしは許す。お姉ちゃんはラーチェが誤りを認めて治すなら、いつでも許します」
「うん。ありがとう、お姉ちゃん」
とラーチェは笑みをこぼす。あたしも釣られて、微笑んでしまう
「それはそうと、アイリスには謝りましたか?」
と、あたしは謝られたついでに確認する。
「うん、謝った。そしたら、気にしてないから、さん付けはやめてって言われたよ。気にならないことじゃないと思うけど、アイリスって変わってるのかな?」
ラーチェは少し悩んだ様子で口にする。
アイリスが気にしてないというのなら、文字通り、気に留めていないのだろう。
彼女らしいと言えば、頓着のなさはらしさだが、気にされていない側が気になるような言い方はやめてもらいたい。
今はアイリスのことを考えても仕方がないので、「大丈夫だ」と目一杯ラーチェの頭を撫でておく。
あっ、と手を止める。あたしは思い出したように口を開く。
「一つだけ確認させてください。ファーさんはやっぱり清浄の悪魔なんですよね」
「そうだよ。ファーさんはグニーヴルって名乗ってた」
とラーチェは神妙な顔で頷く。
「それでラーチェとどうやって連絡を取っていたんですか?」
「なんかね。変だと思うけど、身体の底から、心の底から声が聞こえてくるときがあるの。言葉を返すと答えてくれる。優しい声」
と彼女は胸の辺りに手を当てる。まるで大切なものを思い返しているようだ。
「普段は聞こえないんっすよね」
「うん。聞こえないよ。辛いときに慰めてくれるように、声が聞こえてくるだけだから」
「教えてくれて、ありがとうっす」
そこであたしはラーチェに質問をやめる。あたしの中では答えが出たからだ。
「ですが、その声とも、もうお別れです。ラーチェはもう辛い思いをしなくて、よくなりますから」
ジンを信用するなら、そうだ。仮に期待通りに動いてもらえないなら、あたしがやるべきことは一つである。
ラーチェは小さく首を傾げる。
「同じことを言われたの。あの人に」
「あの人?」
「ジンお兄ちゃん」
とラーチェは彼の名を上げる。
「でも、ちょっと違うかな。選べって言われたの」
「選ぶ? 何を?」
「生きる道。どの道も最後まで想像もつかなかったけど、それでも私は選んだよ」
ラーチェが指折り数えだす。
「一つは、今すぐ妖精の傘に帰る。これだと義肢の技術を持ち出せないんだって。二つ目は、義肢の技術を確立してから妖精の傘に帰る道。時間はまだまだ掛かるし、今までよりは待遇がいいけど、まだスヴァルトにいないといけない。三つ目以降は私が考えた案を参考に話し合いの場を持つ。条件によっては一番時間が掛かるかも知れないし、そうじゃないかも知れない。私には思いつかなかったけど」
彼女はあたしをみて微笑む。
「また、すこしの間、お別れだよ。お姉ちゃん。でも今度は笑ってお別れが言えるから」
彼女は涙を流す。けれど寂しさを感じさせない。そんな温かな笑顔。
あたしは驚いた。きっと顔に出した驚きは隠せてはいないだろう。
それでも言葉を選び直す。
「それがラーチェの選んだものなら、あたしは応援するっす。あたしもラーチェに負けないように前に進んでいきますから」
と、あたしはにぃっと笑みを作ってみせる。
「お姉ちゃんは変わったね」
「変わってないですよ」
彼女は首を横に振る。
「変わった。だってお姉ちゃんは私がなりたかった人だもの。分かるよ」
「今のあたしは駄目っすか?」
あたしの言葉に彼女はまた首を横に振る。
「今のお姉ちゃんの方が素敵だよ。私がなりたかった夢は間違っていなかったんだって。いま、そう実感できるから」
純粋な眼差し。彼女はあたしを見つめている。
なぜだろう。痛くもない、悲しくないのに涙が止まらない。
「もう隠さなくてもいいんだよ、お姉ちゃん」
「でも、だって。あたしは、あたしの軽率な行動がラーチェから手、足を奪ってしまったんですよ。あたしがあの日、ラーチェを連れ出さなければ、もう妖精の傘に帰れるのに。謝っても、謝っても、償いきれないことをあたしはしてしまったのに。あたしが泣くなんて駄目なんです」
あの日。あの夜。なにも考えず。ただラーチェを研究所から、スヴァルトから連れ出そうとした日のことが、積年の後悔となり、あたしの思考を奪う。
必死に涙を隠そうと、あたしは目を擦る。涙で滲んだ視界では、ラーチェをみることもできない。
微かに義肢が軋む音が聞こえる。
「私たちは二人でローレンシア」
そう言って、ラーチェがあたしを優しく包み込む。
「私とお姉ちゃんは一心同体だからわかるよ。だってお姉ちゃんの笑顔をみていると、ずっと心の底が痛かったから」
「ごめん。ごめんなさい」
「でも、それ以上に笑顔を作っているお姉ちゃんの心の方が、ずっと痛かったんだって。だからね、今はもう泣いてもいいんだよ」
ラーチェに抱きしめられたまま、ただ泣きながら謝ることしかできない。
彼女も泣いていたのだろう。温かな滴が頬を何度も打ったのは覚えている。
そして、いつのまにか泣きつかれて、あたしたちは眠っていた。