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3.『なにもつかめなかった』

 むかしむかし、あたしが私だった時代。まだ、空が海のような深い色に染まっていなかった世界。私は豪商の娘として生まれた。兄が一人、婚約者がおり、侍女を従え、何一つ不自由のない生活を送っていた。

 もちろん、教養というものを身につけるために、家庭教師の言うとおりに色々覚えなくてはいけないことはあれ、言われたことを言われたようにやるのは楽なことであった。

 実際、私自身がやりたいこと、やりたくないことなどというものを考えさせられたことはなく、本当に力があるものが敷いたレールの上を歩くだけの人生も悪いことものではなかった。

 楽であったし、悪くはなかった。けれど、楽しいかと訊かれれば、また別である。

 故に私は十歳にも満たない私はそのときも、その先も楽しみなる一つを見つけていた。

……それが私の人生を悲劇に変えることだとも知らずに。

「シア。そんな悠長なことだと商隊の方に見つかってしまいますわ」

 と私はあたふたと後ろを付いてくる赤い髪の侍女を呼んだ。正確にはシアと呼んだ少女は侍女見習いである。お父様が大人に囲まれて過ごすより、同年の同性と育った方がいいと彼女を私に侍らせたのだ。

「リリー様。また旦那様に怒られてしまいますよ」

 とシアは泣きそうな声を上げる。人目に付かないように庭の木々の間を抜けてきたのだが、おっとりとした彼女には少し難しかったらしく、服に枝葉を付けていた。

「そんなので私の侍女が務まりますの? もう少し機敏に動く練習をした方がよくて」

 言いながらシアに付いた枝葉を取ってやる。彼女のせいで積み荷を見に行ったのがバレて、お父様やお兄様に怒られるのはごめんだ。

「今日は本当に駄目ですよ。傭兵さんたちもすごくいたじゃないですか」

 とシアが駄々をこね始める。

「あれだけの大きな商隊。大きな扉付きで厳重な荷馬車。これは見たこともない宝物が運ばれているからに決まっていますわ。今回を逃したら次にいつみられるか分かったものじゃないから、今、頑張るのよ」

 と言って私はシアを立たせた。

 私の数少ない楽しみ。それは見たこともない美しい宝物、業物の刀剣、革新的な魔力武装をみることだ。お父様のコレクションに入っているものでは、すぐに真新しさなどというものは忘れ去られてしまう。だが、常に誰かの手から誰かの手に移動するものを盗み見れば毎回違う、新しい美しさがあるのだ。

 それゆえに商隊が近くに来たとき、それもお父様の検閲を通さなければならないものは見逃せないのだ。

 木に登って、枝の先から柵を越え、道に出る。偶然、屋敷の近くを通りかかった顔見知りの農家の荷馬車に乗せてもらう。近隣住民に反感を買わないように交流を持つというのは我が家の家訓の一つだ。

 いつものようにべそをかいているシアを慰める。それから、バレないように持ってきたお菓子を分けてやる。彼女は少しぐずるが、泣き止んでリスのようにお菓子をほおばり始めた。

 空は快晴。風は丁度良く気持ちいい。それなのに、シアが何に対して、そんなに心配してめそめそしているのか、その時の私には理解できなかった。

 大通りまできたところで、礼を言い、荷馬車から飛び降りる。次いで反応が遅れて飛び降り、態勢を崩したシアを受け止める。

「もう。次はしっかりしてくれませんと、捕まりますわよ」

「ごめんなさい。リリー様」

 平謝りのシアの手を引いて走り出す。彼女のトロさなど織り込み済みだ。

 商隊を視覚に捉えられる位置まできた。顔を覚えられてしまった警備兵などに会わないように注意深く、裏路地に回りながら、荷馬車にあたりを付ける。

 とはいえ、当時の私は陽のような赤い髪で、質のいい洋服を着て、侍女を連れているのだ。長時間、出歩いているだけで目立ってしまう。実際、興味本位の悪ガキに幾度となく絡まれて仲良くなってしまった。また、治安がいい街なのだが、連れ去ろうとする無法者に出くわしたこともある。

 なので、あたりを付けたら、すぐに行動する。増築したために登れそうな形をしているところを悪ガキの目を付けられた通りに面した商店の壁を登って二階の屋根に立つ。

 上から軒先に天幕を張り出しているのを確認する。

 大丈夫そうだ。

 私は悪ガキから譲って貰った爆竹を取り出す。

「な、なにをなさる気ですか。リリー様」

 と慌てたシアが私の爆竹をひったくろうとする。

「馬鹿ね。別に音を鳴らすだけよ。いきなり空から爆竹をぶつけたりなんかしないわよ」

 と私は呆れた声で返事をして、シアの手を引きはがす。

「駄目ですよ。そんなことしたら警備の方々に迷惑が掛かりますから」

 シアは涙目で説得してくる。いつものことだ。

「どのみち覗き見るんだから迷惑かけるのは変わらないわ。それが大なり小なり変わったところで、どの本質に違いがあるというの」

「悪いことをしている自覚があるなら、やめてください」

「嫌よ。これは私の唯一の楽しみ。ただ一つの娯楽。そして一生の愉悦。それともあなたがあの美しいものを私の眼前に持ってきてくれるというの?」

「……それは出来ません」

 あたしが捲し立てると、シアはうつむいた。すこし意地悪だったかもしれない。けれど、それとこれとは話は別である。

 シアの手から爆竹を取り返すと、彼女の頭を撫でる。

「それでいいの。私の侍女になるのなら、オーダーの優先順位はしっかりしておきなさい」

 私の言葉にシアは頷くが、その目はどこか不貞腐れた目だ。

 けれど、今は気にしても仕方のないことだ。私は私の楽しみを完遂してしまうことに決めていたのだから。

 気を取り直して、マッチで導火線に火をつけ、路地裏の入り口に投げ込む。爆発を開始するまで時間がないので、はしたないがマッチの火は靴で踏んで消した。

 警備の視線が逸れた確認し、屋根から飛び降りる。

「シアは後からついてきなさい」

 天幕の上に着地して、一気に転がり落ち、軒先に止まっていた荷馬車の前に降り立つ。

 鍵の付いたドアまである大きな荷馬車である。うちの紋章も掲げられている。

 さて、ここで問題になってくるのは普通、鍵である。勿論、荷馬車の鍵など私が触れられるものでも、保管されているものを拝借できるわけでもない。だから鍵開けしなければならない。鍵開けというものを難しく捉えるかも知れないが、製鉄技術や時代背景がもろに出るのが鍵である。精密かつ丈夫なものは、この時代では作れない。故に鍵穴の構造やパターンを把握し、そしてシンプルなかぎ爪のついた鉄の棒さえあれば、簡単に開けることができるのだ。

 私が鍵を開けたところで、シアもようやく飛び降りてきた。着地に失敗したようで足を擦りむいたようだ。彼女を助けている暇はないので放っておく。デコイとして時間稼ぎぐらいにはなるだろう。まあ、それでもついてくる気があるなら、と扉の鍵は開けておいてやる。

 荷馬車の中は薄暗く、木箱がいくつも積んであり、手狭であった。木箱の一つ一つに鍵だけではなく、蠟の印で封がされており、開けると一発でばれる状態のものばかりだ。今回はかなり厳重である。

 盗人として入ったわけではない。商人の娘としての矜持もあり、封印された箱を開けるのは抵抗もあり、印がされていない箱を探す。

 どたどたと足音と声が近づいてきた。

 そんななか、異彩を放つ黒い蛇の紋様がある縦に長い大きな箱を見つける。鍵は腐食して簡単に壊れ、蠟の印は古くなって剥がれ落ちている。

 随分、売れなかったものなのだろうか。だが、家でも荷馬車でも、一度もこんな箱をみたことはない。などと考えたが、見ても見なくても怒られるのは一緒であると、連れ出されまでに時間がない状況を鑑み、サッと箱を開けてしまった。

 そこにあったのは暗闇の中でも黒い光を放つ黒い石で形作られた双頭刃の大剣。柄の両端に巨大な刃があり、とても人間が扱えるものには思えない。だが、その不可解さで思い至る兵器があった。

魔術兵器だ。

 この時代、戦場で猛威を振るっているという兵器。神々を神々たらしめる存在。魔力武装(ウィザードアーム)のもととなるひな形である。

 これの封がなぜ取れているのか、これがどれほど危険なものなのか、商人は必要以上に商品に触れてはいけないなどという思考はどこかに置き去って、私はまるで私を呼ぶように妖艶に輝くそれに手を触れた。


 それが私の人生の汚点。私の最大の後悔だ。


 その黒い魔術兵器は私の魔力を吸い取り、起動した。

吸い取られていると分かっていながら手を離すことが出来ない。人間が抗うことが許されない大きな力。嵐で起きた濁流に飲まれ、水底に押してつけられている、そんな感覚だ。

 魔術兵器を触媒としてあふれ出す魔力。コントロールをされることのない力の濁流は、ただあるがままに暴れだす。魔術兵器の特性で魔力が形を成したのは、猛威、氾濫する川のその概念だ。

 荷馬車など簡単に破壊し、力は収まることを知らず、軒先、店、商店街を破壊し始める。

 あふれ出したどす黒い魔力に飲まれた人は引きつぶされるように死んだ。飲まれんと抗う兵士はゆっくりと身を引き裂かれて死んだ。屋根の上に逃れたものは、いずれ家屋が崩壊して飲み込まれるだろう。

 術者である私には、ただ見ていることしかできなかった。子供が持つには、あまりにも大き過ぎる力だ。意志のコントロールが介在する隙間などありはしない。

 だから、せめてシアだけでも、私の数少ない話し相手を巻き込まないように力の流れる方向を示してやる。

水を得た魚のように力は示された方向を、街の半分を飲み込んでいく。飲み込んだ人々の痛みを、嘆きを取り込んでより大きな力の濁流と化していく。

 そして、彼らの怨念が私の耳元で囁きに変わる。最初は聞き取れていなかった囁きは徐々に大きくなり、最後は轟音となり、私の意識を奪った。



 次に、目を覚ました時に私はベッドの上に横たわっていた。

 起き上がることすらままならないほど、身体に違和感があった。それはあの魔術兵器の持つ、もう一つの特性である。毒、あるいは穢れだ。その力は身体の一部を蛇の鱗のように変形させたのだ。まだ鱗に変わっていない皮膚には黒く長細い痣ができていた。

 あの日の災害、いや人災の渦中にいながら、傷一つなく生き残ったシア。彼女がいうには私は二日も眠っていたそうだ。あの事件の後なのに彼女はかいがいしく眠った私の世話をしていたのだ。

 確認したいことはたくさんあったが、喉がつぶれたらしく声が出せない。これもあの魔術兵器のせいだ。礼の一つも言えないのは、どうにも落ち着かない。

 話しかけてくれるのはいいが、察しの悪いシアは的外れな話ばかりする。やっと聞きたい話をしたのは日付が変わった次の日だった。

「あの黒い塊を止めたのは、お兄様だったんですよ。おどきましたか?」

 とシアはいう。彼女のいうお兄様とは私の少しばかり年の離れた兄である。使用人として幼馴染みのように接するのはいかがなものかと思うところはあるが、それが彼女の愛嬌でもある。

「あの黒いうねりの中を颯爽とリリー様を助け出したんですよ。やっぱり、すごいお方ですね」と彼女は続けた。

 屋敷から離れたあの場所にどうしてお兄様がいたのか、その後の街の様子など一切触れずに、お兄様がいかに凄いかを話し始める。私の自慢の兄なのだ、百も承知の話である。

 また次の日、医者が来た。医者の顔には少し疲労がみえる。

 あいも変わらず私はベッドから起き上がれずにいた。似た症状の患者が最近、街に急増したらしい。程度に差はあれ、どうにもあの魔術兵器の毒気にやられたらしい。現在、治療法を模索しているそうだ。

 普段はシアが隣にいるとはいえ、いつも隣にいるわけではない。見習いである彼女は一人前になるために勉強しなければならない。私が家庭教師に教えられている間に手の空いた侍女たちに教育されていたそうだ。実際、誰も私の世話を焼く人間がいない時間があると真っ白な天井を眺めていることしかなくて退屈である。

 天井を眺める時間が増えて、日が進む。

 シアは日付に疎い子であるから、段々と日にちの感覚がなくなってきた。

 日にちの感覚はないのにシアの話す内容は毎日違うことに気付いた。おっちょこちょいだから抜ける場所が違うのか。はたまた話を作っているのか。それとも同じことを話しているが私が覚えていないのか。どれも正解であり、どれも正解ではなさそうだ。ハーフハーフなのだろう。

 また、日が進んだ。なにもしていなくても時間は進むものだと初めて実感した。

 遂に私と同じ症状で人が死んだらしい。医者がいっていた。

 お父様もお母様もお兄様の姿をみなくなってから何日たっただろうか。最後にお父様が私に会いに来たのは、婚約が解消されたことを伝えにきた時だ。気が付かなかったがあれが、この家で私が用済みになった瞬間だったのだろう。それに気付いていれば、もう少しお父様を引き留めておきたかった。

 もっとも、今では身体が弱り切っていて、例え症状を治せたとしても一人で食事もままならない。それを乗り越えられたとしても子供を産める身体であるかも分からない。要は家を支える人間としての価値が非常に低くなってしまったのだ。レールから外れてしまった者の末路だ。仕方がない。

 天井に染みをみつけた日。

「リリー様。いいお知らせがあります。私、一人前に認められたんですよ」

 とシアが歓声を上げ、部屋に入ってきた。私はおめでとうの代わりに彼女を肯定する。喉はつぶれたままで声は出せない。けれど、はい、いいえ、くらいのニュアンスは伝えられるようになっていた。

「これから、もっとリリー様のお隣にいれますよ」

 と彼女は柔らかな笑みを返してくる。

 その日からというもの。シアは朝から晩まで私の傍にいた。姿をみせていない時より、傍にいる時間の方が長いことが当たり前になった。それなのに彼女の話は尽きることはなかった。やはり作り話なのだろう。

 それを理解しながら、私はシアを否定することはなかった。ただ彼女の話に時折、相槌を打った。

 彼女の話は優しいものばかりだ。きっと彼女の臆病さは世界に怖いものがあることを知っているところからきていたのだろう。なんとなく、直感が理解した。

 だからこそ私はシアを羨ましく思った。あれほどみせていた臆病さで不自由にみえていた彼女が自分より自由な存在だったのだ。想像の中でも、肉体的にも。誰かの設計した人生のレールに乗ることで幸せを望んだ私より、彼女は自由な世界でずっと幸せをみていたのだ。

 月日が流れる。私が床に伏してから二度目の収穫祭が近づいた日。祝いの笛を練習する音が微かに聞こえてくる。掃除の手は行き届いているはずなのに、ずっと眺めていた天井の染みの数が増えている気がした。

 収穫祭は季節の変わり目にあたる。寒暖差で体調を崩したのか、シアの顔色がよくない。いつからかは分からないが薄手の白い手袋をするようになっていた。

 その日は月に一度ほど診察の日だった。医者はいつもと変わらぬ様子で渋い顔のままだ。口には出さないが、手の施しようはないらしいことが伝わってきた。

 それとは打って変わり、シアがここ数か月、お兄様の話を全くしなくなった。彼女は嫌なことには目を背けるのは変わっていない。兄に何かあったのだ。追及することができないことに苛立ちを覚えた。

 だが、その日は少し違っていた。

「お兄様が帰ってくるそうですよ」とシアは明るい声で口にした。

 どこにいっていたのかも、いつ出かけていたのかも、私は聞いていない。だが、彼女の口ぶりから何か良い知らせを持って帰ってくるようだ。

「それまでにリリー様も体調をよくしておきましょう。車椅子に乗ってお出迎えにいけますから」

 と、そこまでいったところでシアはせき込んだ。私の体調を気にする前に、風邪をうつさないためにも、まずは自分の体調を整えるべきであろう。やはり、この子は少し抜けている。

 私の病状は緩やかに進行していた。最近では鱗に変わった皮膚がひび割れ、膿が出るようになっていた。その為、包帯を巻いて対処していた。

 シアは私の包帯を新しいものに換え始めた。

いつもの代り映えのしない対処療法。私の預かり知らぬ意志でただ生かされているだけの日々。なにもかもが変わってしまって日から、明日からも続くと疑わないもの。そして、それは簡単に崩れさるものだ。

 シアの手が止まり、私は不思議に思う。次に目の前で彼女が倒れた。彼女の手首に、首元に私の痣と同じ黒い蛇柄の痣をみつける。あの魔術兵器の呪いとも呼べる特性は私の中に残り続けていたのだ。

 呪いは室内を汚染し続けていたのだ。私が長らく生き延びていたのは清潔で大きな部屋にいた、そしてあの魔術兵器に少なからず耐性があったからに過ぎない。耐性が劣っていたシアは呪いが私より早く致死量に達したのだ。

 だが、どうしてだ。どうして、シアは逃げ出してしまわなかったのだ。早い段階で気付いて私から離れれば、ここまでひどくならなかったかもしれない。おっとりとしているとはいえ臆病な彼女のことだ。私と同じ症状が出ているのだ。私の傍に長くいればいるだけ、死に近づいていることに気づいている筈だ。怖くない訳がない。

そう私が思案した時だ。

「もしかしてリリー様と同じ症状なの、ばれちゃいましたか?」

 シアの力ない言葉を、私は肯定する。

「お兄様がすごいお医者様を連れてくるまで、もう少しだったのですが。ごめんなさい、リリー様。シアはリリー様のお世話をもうできそうにありません。お医者様からもリリー様の次に酷い状態だと言われていました。本当にごめんなさい」

 シアの言葉を私は否定する。彼女の言葉が真であっていいわけがない。

 だが、彼女の身体がまるで沸騰したかのように溶け出す。彼女の身体に数十ものイボのような水泡が現れ、破裂し、原形をなくしていく。

 そして数分後には、彼女の衣服と彼女であった溶け出した何かがそこに残っていた。

 私は彼女だった、液体にも似た何かをほとんど動かない腕で必死にかき集める。かき集めようとする最中、私の腕が、肩が、溶け出し始めた。すでに限界に達していた私の身体は彼女から噴出した呪いで耐えきれず崩壊を始めたのだ。

 すでに痛みは感じない。苦しみも感じない。ただ、なにも成し遂げられず、なにものにもなれず、最後まで隣にいてくれた人をないがしろにしたまま人生が終わった。そして、形のない後悔だけが残ったのだ。

 それが、あたしが私だった時の記憶だ。



 そして、今のあたしは……。

 過去を映し出した悪夢から目覚める。首や肩がむち打ちになったように痛い。目覚まし代わりだと言わんばかりのアイリスにバックドロップで投げ飛ばされていたからだと、すぐに気づいた。受け身を取る準備していない状況だと、下手をすると首が折れる。冗談抜きで危険だ。

「毎日毎日、もっと優しく起こしてくれてもいいじゃないっすか」

 と、あたしは寝起き早々に大声で抗議する。

それから、なぜか顔にジンジンとした痛みを感じる。

「寝言がうるさくて起こされたのはこっち」

 とアイリスが冷ややかな視線を向けてくる。

「じゃあ、目覚めのキスとか色々やり方があるでしょうに」

「顔が赤くなる程度の平手打ちしても起きなかった」

「なるほどだから顔が痛いんっすね。いや、おかしい。暴力に暴力重ねて起こさないでくださいよ」

 そう述べるあたしの視界の端に、陽も登っていない朝焼けを窓の外に捉えた。

 私はアイリスの顔をみる。いつもの読みにくい表情ではない。彼女は明らかに不機嫌な表情を顔に出していた。

「というのは、ひとまず置いておくとして。そんなにうるさかったっすか?」

 私の言葉にアイリスは、こくりと頷く。

「謝ったら許してもらえたりします?」

 私は確認する。彼女はしばし表情を変えずに悩んでから、また頷く。

「すいませんでした」

 と私は姿勢をベッドの上で姿勢を整える。頭を布団に擦り付けて謝った。不可抗力とはいえ、寝起きのいいアイリスを不機嫌な顔をさせたのだ。筆舌しがたいほどうるさかったであろう。

「許す。それに今日は実地演習がある。身体を動かす時間ができたと思えばいい」

 アイリスは肩をおろすと、鏡台の前に座って手早く準備を始める。

「じゃあ、あたしは二度寝する幸せを味わうっすよ……。冗談なので、その怖い顔やめて欲しいです。お願いします」

 あたしが渋々ベッドから降りると、アイリスは鏡台をあける。髪が短いのもあってか、はたまた気が付いたら手入れしているからか、彼女は朝の準備が丁寧かつ異様に早い。

 あたしが長い髪を梳かしている間に、アイリス持ち物の準備と整理を終わらせてしまう。そして、あたしを眺めるように彼女はベッドの上に腰かけた。

「なんっすか? あたしに惚れました」

 アイリスはあたしの言葉を鼻で笑った。

「ローレン。本当はそんなこと望んでいない」

「いや、バリバリ望んでるっすよ。世界が女の子で満たされればいいぐらいですよ」

 と私の茶化しを、彼女はまた鼻先であしらう。これは、もしかして夢の内容の一部を口にしていたのか。それでも寝言なんて断片的なもののはずである。いくらアイリスでも、あたしの感情や記憶まで覗くことはできないだろう。

「シアが誰だか知らないけど。謝罪をしたいのなら、為すべきことを成している人であるべき」とアイリスは言って、立ち上がる。

「え、ちょっと待ってください」

「身体動かしてくるから」

 とアイリスはあたしの静止を聞かずに部屋の外に出ていった。

 どこまで知られたかは分からない。けれど、あたしの秘密がばれたのだ。いつもは顔にでることのない羞恥心が、私の顔を真っ赤に染め上げていた。


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