2.『清浄の悪魔』
「あと五分」とは素晴らしい言葉だ。
一度目なら、まず間違いなく五分待ってくれるのだから。
無論、そんな法則が通じない相手がいることは知っている。
「面倒」
そんな一言で、アイリスは眠たい頭のあたしを起こす。無抵抗な半開きの口の中に拳を押し込んできた。やめて欲しい。
ふがふが。文句を言えない状態のあたしに馬乗りのまま首を傾げる。そこで思い出したようにアイリスは口から拳を引き抜き、
「おはよう」
と何事もなかったように挨拶してくる。
「……死ぬかと思いましたよ」
「大げさ」
小さく折りたたまれた指が傷や痛みを気にも留めない。口をこじ開け、呼吸を困難にし、喉の嗚咽を誘う。隙あれば顎の関節が外れようとしている状況が大げさの筈がない。
人間には馴染みのない方法だ。しかし戦乙女の再生力とアイリスの傷もいとわない鉄の精神だ。効率よく、わがままなお寝坊さんを更生させることが出来る。
それ故、目覚める方の気分は最悪を極めるのは言うも及ばず、だ。
「もう、妖精の傘じゃないんっすから。二人のときぐらい、二度寝を許容してくれてもいいじゃないですか」
あたしは普段から誰かに起こされている。しかし、あたしたちより小さい子がいないのだから、いつもの模範的行動など必要ないはずだ。
「鍵は私が持ってる」
あたしの軽い愚痴に、彼女はいつもの正論をぶつける。そして、あたしの上から飛び降りた。
「じゃあ、あたしが鍵を預かりますよ」
「却下。それにローレンは昨日、私より先に寝てる。寝すぎ」
当たり前の拒否と正論。これで声が可愛くなかったら、おかんである。
……いかん、寝起きのテンションの低さで笑顔が吹き飛んでいる。
自分の両頬を叩く。気合を入れて笑顔を作った。
何か言いたげにアイリスの眉がピクリと動く。次にジンそっくりに肩をすくめた。言葉を飲んだのだろう。代わりに髪を整えろと言わんばかりに、ブラシを投げ渡してくる。
「アイリス。最近、ジン臭くないですか?」
と、あたしは口にした。至福のベッドから渋々這い出て、化粧台の前に座って髪を整え始めたときだ。
「それは嫌」と、アイリスは身体の匂いを確かめ始める。
「いや、匂いじゃなくて、動きがっすけど」
「それも嫌。以後、気を付ける」と彼女はこたえた。
自覚がないものに、気を付けてどうにかなるものなのかは疑問だ。だがそれ以上に、ジンに対する信頼を疑問に感じた。
「あれ、思ったよりアイリスはジンのこと、好きじゃないんっすか?」
「それは、姉弟そっくりですねって、言われて喜ばないのと同じ」
個人的な話だが、よく分かる。異性の身内に似ていると言われるのは、あたしも嫌だ。まあ、異性の身内なんて、あたしの記憶の中にしかいない。もう言われることはないのだけれど。
「そんなことよりローレン、手が止まってる」
「髪が長いと手が疲れるので、少し休憩をば」
「その長い髪を切れば解決する」
あたしの背まである髪に対してだ。ハサミを向ける仕草が鏡越しでも分かった。
「意味ないっすよ。どうせ、あたしたちは切っても明日には生えそろいますよ。アイリスだって髪を切った記憶ないでしょ」
「ない」
とアイリスは少し考えてから答えた。
戦乙女の特徴だ。髪は個々人一定の長さで成長が止まる。そして、ご自慢の再生力だ。切っても数日で元通りになってしまう。やろうと思えば、切った部分に切れた髪をくっつけることすら可能だ。
正確には、猫や犬のように夏毛や冬毛に変わるのを基準に欠損部位を回復する。その為、一定になっているんじゃないかと、ジンが口にしていた。
そんなこんな、やり取りをしているうちに梳かした髪の編み込みまで終えた。
「よし、今日は一段と決まってるので、ラーチェの髪もおめかしするっすよ」
「ラーチェ?」
意気込むあたしに、アイリスは首を傾げてみせる。
「そうでした。アイリスはキュートで可愛らしく、素直で優しいラーチェのこと知らないんでしたね」
べた褒めをアイリスに白い目でみられる。まあ、いつものことなので気に留めないことにする。
「あたしたち戦乙女の研究機関なので、ここで生活している戦乙女もいるってことですよ」
あたしは説明の為に言葉にする。言葉にはしたが、生活などと表すのは、疑問を通り越して不愉快な言葉だ。けれど、何も知らないアイリスに不愉快さを押し付けても仕方ない。あえて、生活という言葉は濁さない。
「……ローレン」
と、アイリスはあたしの名前を呼ぶ。まるで子供の嘘を見破っている親の声だ。
あたしは何か言われるのかと身構える。
しかし、
「早く、朝ご飯行こう」
いつもの調子で彼女は先に部屋の外に出て行ってしまう。
朝飯を完食した。その後、ラーチェの下に向かう。だが部屋の中は空だ。実験に駆り出されているらしく、部屋の前で待ちぼうけをくらってしまった。
陰気な無駄に白い壁を見る。そのまま清掃員の白い目をやり過ごす。
やり過ごさなくても、慣れているから問題ないと言えば、問題ないのだが。
二時間ほど経った頃だ。カツン、カツンという二つの靴の音。それに加え、微かに鉄の擦れる音が耳に入った。
ゆっくりと近づいてくる音に顔を向けた。待ちわびた顔に笑みが漏れた。
……だが、笑みが引っ込むことになる。
ラーチェの後ろを歩く男だ。眼鏡を掛けた白衣の紳士の亜人が異質さ放っている。ジンやエイドの異質さとは、また別のものだ。言うなれば、格の違いだ。この人物には勝てないという感覚、または刷り込み。前者二人は力を持つ故の怠慢さ、力を求める変態さが異質さと出ているなら、この人物は力だ。……知識、教養から来る厳格さ、そのものだろう。
白衣の紳士はあたしを一瞥しただけで、職員に指示を出す。眉一つ動かさないのを見るに、あたしに興味などないのが察せた。
通り過ぎるまで一分にも満たない。その間、あたしは恐怖感が顔に出さないように努めた。だが、空調の効いた通路だというのに額に汗が滲むのを感じたほどだ。
職員も指示をこなし立ち去る。ラーチェを部屋に運び込み、ベッドに寝かせる。あたしに入ってもいいと言うと、白衣の紳士を追うように車椅子持ち去った。
汗を拭って、窓ガラスに笑顔を向ける。薄っすら写った満面とはいかないが自分で納得できる笑顔を作ってから部屋に入る。
「ごめんね、お姉ちゃん。待たせたよね?」
ラーチェは申し訳なさそうな顔をみせる。彼女が悪いわけじゃないのだから、謝る必要などないのにと思う。
「全然、待ってないっすよ。寝坊して、今、来たところですから。遅くなって、ラーチェに怒られないか心配で、心配で」
と、嘘は簡単に口から出た。
「お姉ちゃんは変わってないな。いつも、あと五分、あと五分って」
ふふ、とラーチェは笑う。愛おしい者を見ている目を、あたしに向けた。
「そうですよ。今日も、あと五分って言ったのに…」
と、まで言った。言ってしまったので、言葉を選び直す。
「五分後に起こしてくれないんで朝寝坊っすよ」
と、付け直した。わざわざ肩を落とすポーズまで決める。まあ、自分で吐いた嘘を、すぐさま自分でばらしてしまいそうになるのは、あたしらしさではあった。
「誰かと一緒に来てるの」
「来てますよ。ジンにアイリス」
そう、彼女の質問に答えた。
この辺りで、あたしは会話の地雷を思い出す。今日の嘘ぐらいなら、明日には笑い飛ばしてもらえるだろう。しかし、アイリスのことは駄目だ。それを深く言及されることだけは避けなければならない。
「お姉ちゃん…」
「いや、言いたいことは分かるっす。分かりますよ」
と、あたしはラーチェの言葉を遮り捲し立てる。
「あたしのことが大好きってことですね」
ラーチェは驚いて目を丸くした。だが、すぐに微笑む。
「うん、お姉ちゃん大好き」
と彼女は言った。
「あたしも一番大好きっすよ」
ラーチェの髪、頭を撫でる。母が子をいつくしむように。姉が妹を褒めるように。
あたしは嘘つきで、どうしようもない存在だ。大好きとだと言った裏で、彼女を救えないと、半ば諦めている。
こんな人としての営みが感じられない場所からは連れ出してやるべきだとは、誰しもが考えるだろう。かく言う、あたしも昔は連れ出そうとしたりもした。無論、未だに彼女がここにいるということは、あたしは失敗したのだ。だから、今じゃ、彼女を傷つけたくない以上に、あたし自身が彼女から嫌われるのが怖い。それ故に、彼女の気に障るであろうアイリスの件も口にしたくないのだ。
目を細める彼女を、あたしは抱きしめる。
小さく、柔らかな彼女を抱きしめながら、あたしは考えてしまう。
悲しいのだ。とても悲しい。これほど近くにラーチェを感じるのに、心が乾いていく。
傍にいる。頭を撫でる。抱きしめる。これ以上にない愛情表現だ。なのに、もっと彼女のことを求めてします。
性欲? 支配欲? 違う、そんなものじゃない。
キスをすれば、満たされるか? 四肢のない彼女の世話をすれば、満たされるか?
違う。そんなことでいいなら、とっくに満たされている。
彼女は不自由だ。どこにも行けず。大好きな人が傍にいてくれない。まるで過去のあたし、そのものだ。
そうだ。過去のあたしと、そっくりな彼女に同情しているのだ。そして、不自由な身体の彼女を憐れんでいるのだ。その二つが、あたしを狂わせる。
もう、自分の心が分からない。一緒に居たい。でも、傍にいると苦しいのだ。
何も出来なかった自分が憎いのだ。何もしてやれない自分が疎ましいのだ。
彼女は温かく、そして冷たい。
体温は確かに生きているのだ。その腕は、あたしの心に棘を刺すほど、冷たいのだ
「お姉ちゃん、また泣いてる」
あたしの顔も見ずにラーチェは呟いた。
「もう、泣き虫さんなんだから」
彼女の義手が、あたしの頭に触れた。小さく軋む音。人の肌とは無縁の無機質さ。
「泣いてなんか、いませんよ」
と、あたしは口にする。その硬く冷たい手が、あたしには、あまりにも温かだった。
だから、気付いてしまった。
あたしは無力だ。あたしには世界を、法則を、秩序を、ルールを変える力などないのだと。あるのは精々、物を壊す力ぐらいのものだ。
「もう泣かなくて、大丈夫だよ。お姉ちゃん」
と、彼女は言った。その声は優しく、とても重い。
「見つけたの。お姉ちゃんと、ずっと一緒にいる方法」
と、彼女は囁く。その響きは温かで、鋼のように硬い。
「だから、泣くのは、おしまいにしよう」
背中に回された彼女の手。それが、あたしたちを縛りつける鎖のようだと感じた。
それが、あまりにも印象的で、その後ラーチェと何を話したのか、記憶に残らなかった。
その日の昼過ぎだ。何を話していたのか、あるいは何も話していなかった時だったか。ともかくだ。ラーチェの部屋にエイドがやって来た。
珍しい生物の生態でも見たというように、
「観察させてもらってもいいアルか?」
と、最初に確認してきたのは驚きだった。
無論、答えはノーである。
「手間が省けて、丁度いい良いデスネ。魔術技官殿が探してましたヨ、ええ」
というエイドの口調は相も変わらず気持ち悪いニュアンスだ。
「ごめん、ラーチェ。あたし行かないと、ダメみたいっす」
「うん、お姉ちゃん。お仕事、頑張って来て」
と、彼女はいった。屈託のない笑みが、いつものように可愛らしかった。
「明日も頑張ってきますから」
あたしは別れを惜しみながら、図書館に向かった。
図書館に着くと、
「仕事だ」
と、ジンは言ってきた。机には既に空図を広げてあり、駒まで置いてある。
隣では、アイリスが本を必死に読み込んでいる。机の上には、関心の一つもないようだ。
「知ってますよ、ラーチェから聞きました」
と、あたしは返す。
そんなあたしに、ジンは不可解と言わんばかりの顔をジンは向けてきた。
あたしは意図が察せずに少し首を捻って考える。
……あれ、ラーチェは、どうして仕事だと知っていたんだろうか。
「まあ、分かっているなら話が早い」
ジンは話を進めたので、あたしは思考をやめた。偶然、選んだ言葉が仕事だったのだろう、と結論付けておいた。
「今回の作戦は、清浄の悪魔迎撃だ」
と、言ったジンは、ありきたりな作戦だと言わんばかりの口調だ。
「……嘘っすよね」
啞然とした声があたしの口から洩れる。
少なくともジンの表情は、清浄の悪魔と口にする人のものではない。もっと恐れとか、悲観とか、そういった負の感情を見せるべきだ。なのに、彼は今回の作戦も勝てるものだと言わんばかりの顔をしている。
「仕事で冗談は言わん。間に受けられると困るからな」
「いや、だって。清浄の悪魔って、前回、ヴァニルが負けた寄生種ですよ。それをあたしたち二人で倒そうなんて、無理な話ですよ。イヴだって負けてるんですよ」
そうだ、あんなものを倒そうなんて考える必要なんてない。清浄の悪魔に関しては、対処法だって決まっているのだ。わざわざ、前回のヴァニルがやったように刺激する必要なんてない。
「そうだな。お前は清浄の悪魔に関して、どれくらい知識がある?」
ジンは少し思案すると、あたしに確認してきた。
「そりゃ、無駄に攻撃しなければ攻撃してこないとか。それとヴァニルが無駄にちょっかいをかけて、時々負けてるとかですけど」
あたしの言葉を聞いて、ジンは自身のこめかみに数回、指を当てる。
言葉を探し終わったのだろう、
「よし。じゃあ、重要なことを三つにまとめよう。一つ目、清浄の悪魔の撃退、及び誘導だ。二つ目、清浄の悪魔の攻撃対象に関してだ。まず一つ目は、今回の作戦は迎撃。討伐依頼なら、こちらはカードを切ってでも降りていた。簡単に言えば、倒さなくていいから引き受けた。次に、二つ目の攻撃対象。これは今までの行動が資料通りなら、間違いなく攻撃対象はここ。強いていうなら、ラーチェだろうな」
ジンの口調はまるでゲームの最適解でも示す、それだ。
「ふざけないで下さいよ。だったら、ラーチェを連れて逃げればいいだけじゃないですか。それをまた、なんで戦闘なんてしなきゃならないんですか」
勝手に化け物がいる戦場に出ることを決められてたまるか。そんな怒りと焦りが、あたしの声を上ずらせる。
「そうだな、言い方が悪かった。奴の狙いはラーチェ及び、ラーチェから得た研究資料だ。そもそも、何百年も同じ研究が出来るわけがない。研究者は馬鹿ではないし、国は結果が出なければ、金を出さなくなる。だが、この研究は数百年と繰り返されている。少なくとも、ここ百年は同じ研究が何度も中断されている。そう、半分以上は巨人族の襲来でな」
あたしの動揺に釣られることなく、ジンは淡々と語る。
巨人族。清浄の悪魔が属する種族の名称。人とは名ばかりで、化け物と形容した方がいい姿をしている種族。種族とはいえ、それぞれ統一性や、類似性が少ない生態だ。
その中でも、寄生種と呼ばれるものは全部で六体。全て、オンリーワンの姿、能力、生態をしており、清浄の悪魔と呼ばれている個体もそこに属している。
そして、彼らが生まれたとされる六百年の間、人が一体たりとも打倒できていない存在でもある。接触回数が少ない為、半ば、おとぎ話と化している個体も存在もするほどだ。
だが、寄生種の中でも清浄の悪魔との接触回数は別格である。一般商業で使われる飛空艇程の飛行能力を持つため、地上ではなく、空の世界に居座っている時間の方が長いのではないかと言われている程だ。
少なくとも、一般的な対処法が出回っている点からみれば、通常の巨人族よりも身近な存在である。無論、悪い意味だ。
あたしは頭を振って、クールダウンする。落ち着いてなどいられないが、感情的になってもジンを言いくるめられる訳でも、アイリスが味方に付いてくれる訳でないのは理解している。
「自分たちで守れないものを、どうして研究なんてするんですか?」
あたしは質問した。納得できる回答が返ってこないのを承知の上だ。
「話が本筋から逸れるが、……そうだな、答えてやる。手をこまねく、前進できない状態で現状維持しても、俺たちの状況は悪くなっていっている。現状を打破する手段が必要だ。今のペースなら、百年先には人の生存が困難になるほど、島の数は減るだろう。まあ、俺たちの生きていない百年後の未来なんて知るか、と言われたら何とも言い返せんが」
とジンはいった。他人の思想に突っ込むのは野暮だと言わんばかりに、右手で宙を仰ぐ。
「だったら、ラーチェを被検体にせずに別の手段だってあった筈ですよ」
と、あたしは言いかけて、口をつぐんだ。
ジンの思考は、計算するときに感情を全く挟まない簡潔なものだ。プラスになる価値のもの以外は切り捨ててしまう。感情論をぶつけても、彼の作戦は変わることはないのだ。そう、あたしは彼をみている。
それに、あたしが戦いたくないことと、ラーチェの境遇は、また別の話だ。今、あたしの手が震えているのは、臆病さや、恐怖から来ているものだ。そんなことは分かっている。
「ローレン。選択の時間は、お前を待ってくれはしない。常にその時が訪れた際、最良の選択が出来るように準備するのが、俺たちが唯一、出来ることだ」
あたしの逃げの姿勢を見透かしたジンの言葉。
「昨日は時間があるといい。今日は時間が迫っているって言う。ずるくないですか」
自身に似つかわしくない、あたしは大きな溜め息を吐き、
「あたしには、イヴの代わりなんて出来ません。あたしじゃ、清浄の悪魔を倒すどころか、追い払うこともできませんよ」
と自虐に逃げた。今、ここに必要とされているのは、あたしじゃない。ここにいるべきなのは、臆病で逃げてばかりの、あたしではないのだ。
本を閉じる音が聞こえた。
アイリスは顔を上げ、
「私には私、あなたにはあなたのやるべきことを成すためにここに来た。あなたは確かにイヴではないわ。なら、あなたは、あなたがやりたいことをやるべき。あなたはラーチェを守りたくないの?」といった。
彼女の正論は、あまりにも眩しかった。明日には命を落とすかも知れない状況で、自分の意志を曲げないなんて、あたしにはできない。
「あたしは、ただ楽しく生きていたいだけなのに、どうして世界はこんなにも嫌なことばかりなんですかね。力があれば、翼があれば、もっと自由なものだと思ってました。どうして辛いことばかりを選ばなければならないんですか」
あたしの口から愚痴が漏れ出た。選ぶべき事柄も、やるべきことも承知している。それでも、あたしにはあまりに理不尽だ。
……それでも選ばなければならない。
「まあ、俺から言えることは一つだ。お前が選んだ道を最後まで貫き通せば、反省することになっても、後悔することはないってことだ」
いつものジンの、ご高説に、
「うるさい、わかってますよ」
と、あたしは強がりを返す。
手の震えは続いている。握りこぶしを作ろうにも、力が入らない。
だが、初めから決まっているのだ、選択は。
「あたしはやりますよ。やらないで逃げたら、妖精の傘に帰れませんからね」
正直、怖い。まだ戦場に出てさえいないのに、逃げ出したくなる。やる、なんて口に出来たのが奇跡みたいなものだ。
それでも、一日でも早くラーチェをここから解放するには戦うしかないのだ。
アイリスがキッと視線をあたしに向け、
「ローレン。鼻を垂らしながらだと締まらない」といった。
「怖いものは怖いんだから仕方ないでしょ」
と、鼻をかんだあたしをみて、アイリスが笑みをこぼしたようにもみえた。
「じゃあ、悔いもないってことで三つ目」
「まだあるんっすか」
話を続けようとするジンに、思わず口が出た。
「三つ目は朗報だ。ミョルニルの使い手は、清浄の悪魔を迎撃しているということだ」
と、ジンは自分の読みが当たったようにニッと悪い笑みを浮かべる。
今のミョルニルの使い手は、あたしである。
「それはつまり、あたしだから戦うんですか?」
嫌味な声になる。
勝てない戦いは避けるだろうジンだ。朗報かどころか、凶報である。
「いや、違う。イヴの性格を考えてみろ」
と、ジンは自身のこめかみをポンポンと叩いて言った。
言われてみれば、正義感の強いイヴのことだ。ラーチェが危ないと分かれば間違いなく、勝てない戦いでも、平然と、その身を投げ出すだろう。彼女の親友である、あたしには、その思考と結果が手に取るようだ。
なら、現在の妖精の傘で戦える三人。その内、どの組み合わせが来ても戦いは避けられなかったということだ。
「一度、負けているイヴが来るより勝率は高いってことっすね」
「それにデータを見る限り、あれは…」と、言いかけたところでジンは言葉を濁し、
「なんであれ、グングニルは相性が悪いのは、データからも出ているからな」 と、まとめた。
グングニル、ミョルニル、ラグム。魔術兵器の個別名称である。神々の遺産、遺物なんて言い方なら語呂がいいかもしれないが、数千年から数百年前の骨董品だ。
しかし魔術兵器は、現在においても最強に相応しい性能である。一振りで国を亡ぼしかねない力だ。それが神々の技術が高かったことを示すものなのか、はたまた人の技術の発展の遅れを強調しているのかは、今は置いておく。少なくとも、魔術兵器が最強では現状、力不足なのだ。
人類が持ちうる現状最高の兵器で倒せない敵がいるのだ。打破すべき状況である。
そして、魔術兵器には大きな欠点がある。
――一つは使い手を選ぶことだ。
魔術の扱いが上手い、というだけ使い手にはなれない。個々の兵器との相性が使い手とあって、初めて力を発揮する。神々が作った抑止の一つだ。
――二つ、数が少ない上に製造方法が不明である。
これも抑制の一つ。記録に残っているものは全部で二十一本。その内、八本を残して紛失している。もっとも、一本一本が国を滅ぼしかねない力を発揮するものの大半が失われたのは、人間と神との先の戦争のせいである。
これら二つに関しては、使い手の選定を外した模造品の製作技術で穴埋めされている現状である。だから、引き続き研究が必要なのであるが。
――そして三つ目。個々がそれぞれ別の性能かつ、使い手によっても性能が変化するのである。これが兵器としての最大の欠陥である。
兵器である以上、誰が使っても同じ結果を一定の水準を出せることが重要である。軍では、兵科を分隊単位で分けることで最大限の力を発揮するのが常識だ。つまり、足並みを揃えるという集団戦闘における基本が出来ないのは致命的なのだ。
それでも人が生き残るには、不安定な力に頼らざる負えない実情なのだ。
…
……
日付が変わって、三日目だ。
空調の良く効いた部屋が慣れてしまったせいか。あるいは高度が下がって暑さが増したのか。やはり夏の昼間は暑いのだと、飛空艇の細長い甲板の上で納得する。
船は中型の高速艇。速度を重視して武装などは、ほとんど積んでいない。船首は最寄りの島に向けているが、島は遥か遠くぽつりとゴマ粒ほどにしか視認できない。そこに誘導すると思うと気が滅入る。それでも作戦可能区域で、最短距離に位置する場所だそうだ。
天気は快晴。風は穏やか。嵐の前の静けさ。
緊急だったとはいえ、通達の次の日に戦場に出るのは初めてのことだ。戦闘服が届いていないので、私服での戦闘も初めてになる。いっても、あたしも、アイリスも性格から分かるよう夏服は動きやすく、ショートパンツなので下着が見られるみたいな心配もない。
そして、今日は研究の為に持ち込んでいた魔術兵器が手元に戻って来た日でもある。アイリスは人の手が入ったものは気になるのか、甲板に座り込んで、自身の魔術兵器であるラグムを念入りに調べている。
「今日は調子良さそうっすね」
と、あたしは声を掛ける。
すぐに何に対して言われているのか、察したようで、耳をぴくぴくと動かし、
「揺れないのは助かる」
と返してきた。彼女には、嵐の前の緊張感より船の揺れの方が厄介みたいだ。
「ローレンこそ、お手洗いにいた方がいい」
とアイリスは顔を上げた。
「ちびりませんよ。子供じゃあるまいし」
とあたしは返す。戦乙女がいつから大人なのかは法律でも決まっていないが、少なくとも臆すれども、巨人族相手に漏らしたことはない。
いやでも、寄生種のプレッシャーを考えたら、行っておいた方がいいかもしれない。自分より年下のアイリスの前で粗相は生き残っても恥ずかしさで死んでしまう。
などと思案する途中、不意にアイリスが立ち上がり、あたしの後ろの人物に敬礼する。
シワの入った軍服を着たジンがこちらに近づいてきたのに気づいたのだ。
「流石に着替えて下さいっすよ」
いつものようにヨレたジンの軍服に、あたしの口から不平が漏れた。彼の持ってきている服は、イヴが過保護な母のように全てアイロンをかけて持たせている。それをないがしろにするのも、不潔なのも人として良くない。
「着替えてるさ」
とジンは答える。着替えているようには到底見えない。
「着替えてる。シワの付き方が違う」
そう、アイリスは指摘する。だが、どのシワに違いがあるのかなど、普通の人には区別がつかない差だ。
「それより、一応、上官なんだがな」
とジンは額を掻いた。
「あ、敬礼ですね」
あたしは思い出したように答える。ジンには普段から上官の威厳の一つも感じられない。それでも戦場での敬礼もなあなあになってしまっているのは、ゆるんでいたと自覚した。
隣で敬礼していたアイリスも呆れて、座り込むと作業に戻った。
「いや、もういい。それだけ緊張感がないなら、ちゃんとやれるだろう」
とジンは肩をすくめる。
「いやいや、軍のことはしっかりしろ、とイヴに言われてるっすから」
と、あたしは敬礼してみせる。
「だから、いいって言ってんだろ。俺はお前らを軍人にしたいわけじゃないんだからな」
ジンはいう。彼の目指しているものはよく分からないし、知りたくもない。だが、あたしたちが戦場に出なくていい世界に続いているのは、なんとなく理解できた。少なくとも国の為に戦場で死ねとか、データの為に戦場に出すとかではない。
あたしの顔をジッと見て、
「戦場で歯をみせるのは次に死ぬ奴か、頭の狂った奴だけだぞ。そこだけは閉めとけ」
と、ジンはあたしの額に拳を当てる。昨日とは一転、少しほころんでいたらしい。
「了解っす」
あたしは両頬を叩いて気合を入れ直す。面倒くさがりのジンから二度も指摘されたのだ。覚悟を口にしたことで、つっかえどころか緊張も取れて、一つのミスで死んでしまったら元も子もなくなる。
そんなあたしを見て少しは安心したのか、
「よし、頑張れ」
とジンは雑に流す。お調子者のあたしの気が抜けている姿より、アイリスの行動に疑問を持ったのだろう。彼女の方に行ってしまった。
「どうした?」
「へん」
ジンの質問にアイリスは一言返す。
「一回起動したら、すぐに馴染むだろう」
ジンは今の流れで全容を理解したようだ。
アイリスは頷く。すぐに刀の形をした魔術兵器ラグムに薄緑色の魔力が流し始める。
ラグムは刀の魔術兵器である。形は野太刀、刀身九十センチの刃である。魔力を込めることで初めて斬るという現象を引き起こすことができる。刃との摩擦で斬るわけではないので、振動剣やウォーターカッターの性質の方が近い。
ラグムの長所は、斬れないものがないことだ。
神々が創造したというだけあって、時間を掛けさえすればありとあらゆるものを切断することが可能だ。現在の人が破壊出来ないとされる魔術兵器すら破壊したなどという伝説すら残っている。また、魔力や雷のようなエネルギーすら斬り伏せる姿は圧巻である。
欠点は殲滅力が使い手に依存してしまうことだろう。他の魔術兵器と違い、遠距離攻撃ができないのである。この問題や使い手の少なさで、軍や研究施設では重要視されていないのだ。
起動が完了した直後にラグムへの魔力供給を停止する。
「問題ない」
「よし。なら戦闘配置についとけ。味方の不安感を取り除くのも、お前らの役目だ」
気を引き締めるようにジンはパシッと両手を合わせた。
「あ、あたし、……お花を摘みに」
と、あたしは思い出して口にする。
「……行ってこい」
ジンに溜め息交じりに言われて、その場を後にした。
この世界には、人が統治するヴァニルとスヴァルトの二国に、アスガルという神の生き残りの統治機関が存在する。今回はスヴァルトの話だ。
スヴァルトは人口が少なく、少数精鋭。色白で耳の尖った亜人族が多く、魔術の研究が盛んだ。普段、彼らだけで巨人族を倒せるほど魔術技術が発展している。
その為に救援に向かう回数が多いヴァニルと船の構造が違うので、あたしは船の中で迷子になることが多々あるのだ。
で、まあ、道に迷ったわけだ。
道に迷っている間、色々な声が耳に入ってくる。
「俺、帰ったら結婚するんだ」のような船乗りの前向きな声。「あの戦乙女は何をしているんだ」というような軍人の訝しんだ声。そして、「これで必要なデータが揃うぞ」といった期待に満ちた研究者の声。
そんなあたしの襟首が気配もなく捕まえられた。
「なんすか」
と、あたしは思わず声を上げる。
後ろには足音一つ立てず、アイリスが立っていた。
「早く来い」
とアイリスはズルズルとあたしを引きずり始める。
「たんま、首が締まってるっすよ」
あたしは後ろの襟にかかった手を数回叩いて、タップアウトする。けれどアイリスは気にも留めない。
彼女は小さな体格に似合わず力強いである。足音を消して歩く姿はまるで、前世で暗殺者をやっていたのかと連想させる。覚悟していなければ、腹パンされた時は意識が飛ばされるほどだ。
「怒っているのは分かりますが、あたしは荷物じゃないっすよ」
「構造も単調な中型の船内で迷子になるのは注意散漫」
と、またアイリスは正論を語る。抜けているのは自分でも分かっている。それでもダイレクトに言われるとあたしでも辛い。
「追いつめられたり、緊張が抜けた瞬間は、普段の行動しか出ないから、常に気の張った生き方をした方がいい」
「ジンに含蓄を言われてもピンと来ないのに、アイリスに言われると納得するあたしがいるっす」
と、あたしは肩を落とす。
アイリスは、やはり気に掛けず甲板まであたしを運び終えてしまった。
「お前ら、羞恥はないのか」
とジンが声を掛けてくる。口には出さないが、羞恥心があってもアイリスの腕を引き剥がせる力にはなりません。
「まあ、なんでもいい。ゆっくりしていると緊張感を取り戻す前に敵が来ちまうぞ」
といって、彼は異様に巨大な黒いガンケースを背負う。ついでに、あたしたちに魔術兵器を渡してくる。
「緊張感がないのはローレンだけ」
と、ラグムと小型の通信機を受け取ったアイリスは翼を広げる。
魔力で背中に翼を生成したのだ。その姿はまごうことなき天の使い…、天使と言っても過言ではない。戦乙女と呼ばれるのに相応しいだろう。
戦乙女が魔術兵器を扱う上で最大の利点。それは魔力で翼を作り出し、空を飛べることだ。そして他種族との絶対的な差異。
翼の性能、形には個人差はあるが、基本は昆虫の羽であることがほとんどだ。かく言うあたしの羽はトンボの翅、羽を広げた姿は天使というより妖精のようだ。
アイリスが空に舞いあがると、微かに喚声が耳に入る。
スヴァルトの研究者、軍人でも翼を出せる戦乙女は珍しいらしい。戦乙女の相対的な少なさもあるが、数十年に一度の確率でしか出現しておらず、翼を持つ戦乙女のほとんどが戦歴を華々しく飾っている。その為、期待の高さも容易に想像がつく。
「分かっているとは思うが、こっちにひきつけたら、さっさと戻ってこい」
とジンが呼びかける。アイリスは軽く頷くと、まだ目視も十分でない清浄の悪魔へ向かって飛んでいく。
あたしは甲板で待機である。今のうちに緊張感とか気合とかを取り戻しておかなければならない。
二人同時に出撃しないことには理由がある。
空を飛ぶというのは体力がいる。それは魔力の翼で飛ぶ戦乙女も例外ではない。
また寄生種には思考能力が見受けられる。戦力差も加味すれば、こちらが狩られる側になることは十分想定できる。その為、清浄の悪魔との駆け引きは必要になってくる。
特にスズメ狩猟のスズメ側にならないようにしなければならない。スズメ狩猟の基本は、彼らの飛行時間限界を迎えさせるというものだ。足場である飛空艇に近づけさせないなど、犬でも思いつくことである。
そう、足場の確保のローテーションを二人でやるのだ。どちらか一人が失敗すれば、二人とも空の下に落ちることになる。失敗は許されない。
「ところで、清浄の悪魔はどうやって飛んでるんですかね?」
と、あたしは疑問を口にする。
「知らん。本人に聞いてみるか、解体するしかないだろ」
聞いてみるとは冗談のつもりだろうか、などとは言葉にせず、あたしは眉をひそめてみせる。
ジンはあたしのほうなど見向きもせずにアイリスが飛んで行った方角を凝視していた。
ほんの十分程だ。風向きが変わった。風はまだ穏やかだ。飛行に支障はない筈だ。
ジンが若干、渋い顔をみせ、
「来るぞ、ローレン」
と声を上げる。場慣れしているのか、感覚が鋭いのか、またはその両方だろう。彼はこの船に乗っている誰よりも先に反応できたのだ。
その刺すような殺気。人を圧倒するプレッシャー。その膝をつきそうになる絶望。彼の言葉から一歩も、二歩も遅れて飛空艇全体が戦闘態勢に入る。
ジンはあたしの左肩を痛いほど押さえつける。タイミングを計っているのだ。その痛みで遅れながら魔術兵器ミョルニルを構えることができた。
アイリスの小さな影を追いかけて、それは眼前に姿を現す。
水晶玉のような透明な球体。中心にはあからさまな黄色い核。中型の飛空艇程の姿は卵子と言うべき姿だ。その球体身体の一部から鞭のように透明な触手が伸びる。
アイリスは絡めとろうとする触手をラグムで斬り払う。
払われた身体は刃に粘度の高い液体となり、へばりつき、ラグムから魔力を奪う。
あたしは救援に向かおうと、ジンの手を払おうとしたが、
「まだだ」
と、ジンは首を横に振る。
その間にも戦闘を続けるアイリスはラグムに魔力を再装填して、液体を払い飛ばす。ラグムに輝きが戻る。とはいえ、ここまで同じ工程を繰り返してきたのだろう。魔力の使い過ぎだ。疲労が飛行にも影響を出始め、速度が下がっている。
清浄の悪魔は船に逃げ込もうとするアイリスの進路を数本の触手で妨害しながら、船の間に身体を入れる。隙あれば距離を詰めて、船も攻撃する気だろう。
船が清浄の悪魔と並走を開始する。アイリスと船の距離は一向に縮まらない。
「よし、今だ。船と並走しろ。間違っても後ろは取られるなよ」
「了解っす」
あたしの背中を押したジンに返答すると、同時に羽を広げて飛び上がる。
飛ぶとは不思議な感覚だ。身体が軽くなるのではない。空中に自分の力で浮かせるのだ。制限があり、重力もある。速度を上げようとすれば、身体中の筋肉を使って姿勢を固定しなければならない。
だが、それを差し置いても、自由だ。今ならどこにでも、どこまでも飛んでいけそうな気がする。
清浄の悪魔と相対する。
前も後ろもなさそうな敵だ。だが船から出てきたあたしを認識して身体をこちらに向けたのだろう。触手の根元が微かに角度を変えた。
アイリスの限界が近いとはいえ、敵の死角が判明したことで戦況を変えられる。この状況を狙っていたのだとしたら、ジンは大した指揮官である。
無論、清浄の悪魔も無抵抗でアイリスを船に返す気はないらしい。死角に入ろうとするあたしと、船に戻ろうとするアイリスを触手の数を増やして応戦する。
触手の数が増えたのは脅威だが、アイリスを襲っていた時よりも精密さは落ちている。絡めとろうとしていた動きから、単調に叩き落とそうとした動きに変わったのが目にみえる。巨体が振り回す腕は確かに脅威だが、ミョルニルでも破壊することは出来る。
単調な動きの触手にミョルニルを打ちおろす。
打ち砕かれた触手は水飛沫に変わる。二度、三度と襲いくる触手を打ち据える。
半身の触手を失った清浄の悪魔。
「どんなもんですか」
と、あたしはすこし得気な顔になる。
「ローレン!」
アイリスの叫び声が聞こえたのも束の間だ。清浄の悪魔の身体があたしを取り込むように、水飛沫から枝を張り、再生する。
確かに油断はあった。特にあたしを誘い込んでいるとは思っていなかった。
完全に取り込まれてしまっては、ミョルニルの性能を発揮できない。一目散に枝が一番薄い核から離れた箇所を攻撃する。砕くまでは簡単だ。だが、通り抜ける前に新しい枝が繋がっていく。
ミョルニルの特性は多々あるが、その中でもあたしは間合いの強化を得意としている。
ろくに訓練を受けていない少女が武器を振り回すのだ。間合いを調整できずに攻撃が当たらない、避けられる、振り遅れるなどは日常茶飯事だ。
そこでミョルニルの特性だ。これは攻撃対象に対して、一定の間合いに入ったときに最速かつ最大の力で迎撃を行うことが出来る。あるいは間合いに入れることで攻撃を行うことが出来る。
だが、これはあくまで身体が自由に動かすことが出来る時のみである。清浄の悪魔に取り込まれてしまっては本来の性能が発揮できない。
手をこまねいている間に、徐々に清浄の悪魔の核と距離が近づいていく。
アイリスも救援に来ようとはしているが、触手とラグムとの相性が悪い。苦しい様子が目の端に写る。
飲まれないようにミョルニルを振り回すが息が上がっていく。呼吸をするのも辛い。
「ローレン。そのまま維持しろ。スリーカウント後、穴を開ける。そこから抜けろ」
と、通信機を通してジンの声が聞こえる。
「早くしてください」
「三、二、一……」
あたしの悲鳴を無視して、ジンはゆっくりとカウントを開始した。
カウント終了と同時だ。清浄の悪魔にほとんど取り込まれている状況だが、背後に強烈な熱風を感じる。勢いに任せて、背中を焼く熱の中に飛び込んだ。
清浄の悪魔の枝の一部が蒸発し、人の身体が通れるほどの大きな穴が二つ開いていた。
こんな高火力な兵器があるなら初めから、人数分揃えれば圧勝できるだろうとは思いつつも、文句は言わず、清浄の悪魔から距離を取った。
「お前ら、早く船に戻れ。目的を忘れたわけじゃないだろ」
ジンの声だ。言われなくても忘れていたわけではない。
打ち抜かれた身体の回復に時間がかかるのだろう。動きの止まった清浄の悪魔から離れるように船に戻った。
先に戻っていたアイリスが、肩で息をしながらも清浄の悪魔を鬼気迫る表情でにらみつけている。普段から落ち着いた表情しかみせない彼女から想像もつかない形相である。
その隣でジンが魔術兵器の量産品である魔力武装を再装填している。身長ほどある巨大な対物ライフルの形をした魔力武装はバレルから煙を上げている。
あたしが帰還すると目だけを上げた。
「前に出過ぎだ。修正しとけ」
「言われなくても分かってますよ。それに、そんな強力な魔力武装があれば、もっと人を集めれば良かったじゃないですか」
と、あたしが不平を口にしたところで、魔力武装からヒビの入った人の頭程の大きさのあるマナストーンが落ちる。
マナストーンは飛空艇にも使われている魔力を発生、貯蓄する特殊な鉱物である。使いまわしができるとはいえ入手、加工が困難である。特に人の頭ほどあるマナストーンは一つで飛空艇を飛ばせるほど強力かつ高価、そして稀少である。それを一回の使用で使い切ってしまう魔力武装は配備が困難であろう。
「一回の狙撃がグングニルの砲撃より弱い。一発一発が金の掛かる実験兵器がいくつも投入できる訳がないだろう。少なくとも、お前らがしっかりしていれば、この武器も出す必要がなかったんだからな」
ジンの嫌味な説法にうんざりする。
「はいはい、悪かったっすね。油断してました。助けていただいて、ありがとうございます」
と、あたしは捲し立てた。
「二人とも、うるさい」
とアイリスが顔も向けずいう。怒気をはらんだ声に、あたしの愚痴はおっかなびっくりと喉の奥に戻っていく。アイリスが口にしていたように、緊張感が抜けた瞬間に普段の行動をとってしまったので言い訳のしようもない。とはいえ、憤怒しているアイリスに謝罪の声を掛けられるほど、あたしのメンタルは鋼ではない。終わってから謝ろう。
ジンと言い合っている間に回復を終えた清浄の悪魔だが、動く様子はみせない。身体を完全な球体に戻して停滞する姿は、一定の距離を保つ船を観察しているような気さえさせてくる。
数十分の沈黙の後に、清浄の悪魔は進路を変え、ゆっくりと空の底に沈んでいく。
姿が視認できなくなってからも数時間は警戒状態が解除されなかった。
研究都市島に帰れたのは夜が深まってからだった。
ジンは報告に都市に残り、アイリスは疲れたと言って部屋に先に戻ってしまった。
あたしとしては、疲れているとはいえ、今日は不満である。出発は早朝で、帰宅は深夜ではラーチェに会う暇がない。それを目的で来たのだ。寄生種と戦わされる為に来たのではない。
被検体であるラーチェに面会は、この時間では健康管理面で出来ない。エイドが渡してきたクリアランスカードでもだ。
どうやって会おうか、せめて顔をみようか、と城のような研究塔を見上げる。
明かりも灯っていないのに窓が開いている。
開いているのはラーチェの部屋の窓だ。不用心といえばそうなのだが、塔の高層にあるため、常識的な思考では侵入経路にはならないだろう。
無論、空を自由に飛べる戦乙女なら話は別である。
やはり不用心である。一度、過去にあたしに侵入されているのだから、対策を講じていてもいいものだろう。まあ、こちらとしては好都合である。
闇夜に紛れるように、羽を開いて登り切ってしまう。
中にラーチェ以外の人物がいないか、耳をそばだてる。
ラーチェが何かを話している。もう一人の声が聞こえないが、会話内容は独り言ではないようだ。中の様子は確認する為に、鏡、あるいは代用できる道具は持ってきていないのは失敗だった。通信機でも使っているのだろうか。
見通し塔の壁に長時間張り付いていては、見つかる恐れがあるので下に降りようと考えた矢先だ。
「お姉ちゃん、そこにいるの?」
ラーチェの呼ぶ声が聞こえる。
「はい、いるっすよ」
と、あたしは恐る恐る顔を出す。
ラーチェ以外には誰もいない室内。退室したのだろうかと思いつつ、中に転がり込む。
そんなあたしを見て、ラーチェはクスクスと笑う。
「今は私とお姉ちゃん以外、誰もいませんよ」
やはり、先ほどまで喋っていたのは、やはり通信機越しということか。しかし、そんなものをしまう先が見当たらない。
「今日もお姉ちゃんに会えて嬉しいな」
とラーチェは、あたしの不思議そうな顔を気にも留めていないようだ。
「あたしもラーチェと会えて嬉しいっすよ」
彼女の言葉に応えるために、いつまでも仏頂面ではいけないと、あたしは笑みを向ける。
「じゃあ、明日からも会ってくれる」
「勿論、約束ですから」とあたしは頷いた。
「明日から、ずっとだよ」と彼女は笑いかけてくる。
「……?」
理解が及ばず、あたしは首を捻る。あたしが帰るまでのことを言っているのだろうか。
「明日から死ぬまで、ずっと、ここで一緒に過ごそうね」
と彼女は屈託ない笑みのまま言う。
あたしの背筋に悪寒が走った。
「それは……」
できない、とは返せない。だが、ここにいるのは嫌だ。ここで過ごすのは死んでいるのと同じだ。だが、彼女がここにいる原因の一端をあたしは担ったのだ。ここにはいたくないと口にすることはできない。
「お姉ちゃん、大丈夫だよ。明後日にはイヴお姉ちゃんも、……私たちの仲を裂いたあのミドラの奴も。みんな、みんな、ここで過ごすことになるから。何も心配しなくていいからね」
いつもと変わらぬ笑顔。いつもと変わらぬ声だ。
だというのに、ラーチェがおかしい。いつもの彼女なら、嫌悪している相手のことでもみくびったりはしない。
「どうして、ここで過ごすことになるんっすか?」
ラーチェにまとわりつく狂気に気圧されないよう、あたしは笑顔を崩さずに聞き返す。
「だって、お姉ちゃんたちが魔術兵器を持つ必要がなくなるから。それが私の身体を研究して使って作られた魔力武装の役目だもの」
彼女の言葉に、あたしの鼓動が早くなるのを感じた。
「確かにそんなものが出来たら、あたしたちが戦う理由がないっすね」
と、答えたあたしにラーチェは首を振る。
「その魔力武装のコアはね。私たち、戦乙女」
ラーチェの口元にニタッと冷たい笑みがみえた。
あたしは言葉が詰まる。人を人だと考えていない兵器としての恐ろしさよりも、ラーチェがその兵器に対して肯定的だという事実に対してだ。
「みんな、私と同じ姿になって苦しめばいいのよ」
そこまで言ったところで、ラーチェは頭を押さえて苦しみだした。
「ちがうの。ちがうの、お姉ちゃん。頭がね、頭が痛いの」
彼女の情緒不安定さに意表を突かれたが、あたしは直ぐに彼女に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですよ。ラーチェが本当にそう思っていないのは分かっているっすから」
あたしは手の震えを抑え込んで、そっとラーチェの頭を撫でる。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。ラーチェ悪い子だよね。私はみんなが幸せなら、それでいいのに」
彼女の言葉をあたしは肯定も否定もしない。ただ顔下げて泣きじゃくるラーチェの頬を拭ってやる。
「今、私がここにいるのは私が望んだことを神様が叶えてくれたからだから」
その言葉であたしの手がぴたりと止まる。
この世界の多くの神様はとうの昔に人間に討伐されているのだ。あたしたちに構い、望みを叶え、対価を請求する神様なんて奴がいるものか。
「ごめんなさい。今日は、もう一人にしてほしいな」
そこまで言って、ラーチェは顔を上げる。暗くてよく分からないが、きっと泣きそうな顔で笑みを作っているのだろう。
「わかったっす。今日は帰りますから。また明日、会いに来ます」
と、あたしはいった。声はいつも通りのものを出せている。そして彼女から離れると、振り返ることなく窓から飛び降りた。