1.『塔のラプンツェル』
……普段、生活をしている中で、身体が浮き上がった時というものは一体どういった時でしょうか。
あたしがやったことのないものならありますよ。例えば、ジェットコースターとかいう奴。子供の時にお父さんに持ち上げられた。そして、不謹慎ですが、車に跳ね飛ばされた時ぐらいのものでしょう。
そうです。常識的に考えましょう。自分より身体の小さな女の子に鳩尾を殴られて、身体が浮き上がった。……なんてのは、経験できない役得です。……いや、嘘です。我々の業界でもこれは痛すぎるので、ご褒美ではありません。
「ローレン、いい加減にする」
「いや、聞こえてないだろ」
ローレンと、あたしを呼んだ少女。漆黒の黒髪。ボブヘアでオシャレなどに頓着を持っていないのが伝わってくるほど簡素で清楚な服装。翡翠石のような澄んだ緑の瞳を持つ十四歳程の小柄な戦乙女、アイリス。
いつもよくやると言わんばかりだ。壮絶なる日常を傍らで見た男は肩を竦める。ヨレた軍服の男だ。
「乗り物酔いの激しいアイリスに、スキンシップを兼ねて、ボディーランゲージを行うのは当たり前だと思うんっすよ」
「うるさい。吐しゃ物顔面に掛かっても知らない」とアイリスは嘔吐く。
「タンマ、タンマ。ちゃんとエチケット袋を貰ってきたっすから、そっちにしてください」
乱気流の中を抜けて普段より揺れた飛空艇。先ほど港に降りたばかりで体調の悪そうなアイリスに抱き着こうとした。代わりに腹に手痛い反撃を貰ったのだ。
顔立ちが良く、可愛らしい女の子が好きだ。とはいえ、暴力と吐しゃ物フェチはない。あたしには、ニッチ過ぎて理解出来ないので、少し抑えて貰いたい。
「お前ら二人をわざわざ連れて来たんだ。はしゃぐのは構わんが自分が何をしに、どこに来ているかを忘れんようにな」
と男がいった。まるで緊張感を抱いていない表情。やること、為すことに楽しみを抱くことのない目。そして普段着と言わんばかりに着慣れてシワの付いた軍服の男。名前は、ジン・カンザキ。彼はあたしたち二人の教官の立ち位置にいる筈である。だが保護者役とか、兄貴分とか、まして引率役でもないと言わばかりだ。あたしたちの日常には興味ない、と目的地に目をやっていた。
勿論、あたしも遊びや観光で、このスヴァルト国の研究群島に来たわけでは無い。それは重々承知している。あくまで個々人の目的があって来たのだ。足を引っ張るつもりも、釘を刺されるつもりも毛頭ない。
「人選ミス。イヴを連れてきたら良かったのに」
と、アイリスにバッサリ切られる。いつもからクールではある。今日は体調の悪さからか、いつにも増して塩対応だ。あたしの代わりに本拠地である妖精の傘に残った人物の名前をあげるほどである。
「まあ、連れてきたもんは仕方ないさ。此奴は此奴で、やる事やるだろ」
酷い言われようである。無論、いつもの行いのせいだ。
「そうっすよ。来ちゃったものは仕方ないですよ。ね、今日から七日間一緒の部屋なので、仲良くいきましょう」
「ジンとの部屋の方がマシ」
明るく接したら、即答が返って来た。
「なんでもいいが、部屋割りは変わらんからな」とジンは歩き出す。
あたしたち三人が訪れたのは、スヴァルト国の最上層に存在する浮島の研究都市。文字通り最も高い空に浮いている島の上に、研究する為に人や機材を集めた都市である。
この世界では、浮島にある都市というのは珍しいものではない。むしろ、地上にある都市は六百年近く前に滅びて以来、存在していない。浮島に都市があるのが当たり前だ。
無論、ひとつの島で最低限の自給自足は出来る。これは科学技術だけでなく、魔術技術の功績も大きい。研究都市ほどの人口や産業がある島では、水の確保は科学技術だけでは足りないために、魔術技術による特殊な補強が必要なのだ。
今、あたしたちがいる島の端にある港からは、痛ましい地上の光景が目に入る。ぽつぽつと空に浮かぶ島。草葉も見えぬ荒れた茶や灰に染まる大地。むき出しの山脈。かつて海があったとされる白い窪地がありありと眼下に広がっている。雲一つない初夏の快晴は無邪気に、人の敗北をありありと映し出していた。
「天気がいいのも考えものっすね」
なんて言葉があたしの口から唐突に出た。
「晴れてる方がいい。髪の毛がぼさぼさにならない」
とアイリスが返してくる。
「晴れてても、ぼさぼさの人もいますけどね」
「それもそう」
噂をされたからだろう。前を歩くジンはくしゃみをした。無論、彼は気に留めることなく歩き続ける。
「あ、そう言えば、アイリスは何で志願したんっすか? 普段、アクティブな感じはしないんですけど」 と、沈黙は性に合わない。あたしは思いついた質問を投げかける。
アイリスは少し首を横に捻る。
「帰る? 為?」と疑問形で返してくる。
「いや、そこ。なんで疑問形なんっすか? あたしたちの家は妖精の傘でしょ」
「妖精の傘は、大切な場所だけど家じゃない」
「?」
「ローレンには分からない」
アイリスは首を捻るあたしを横目で流す。先を行くジンに歩幅を合わせた。
妖精の傘の構成員は、アスガル機構に所属する兵士だ。皆、戦乙女と呼ばれる人間とそっくりな姿を持つ。人間とは違う生まれ方をする女性のみの種族だ。いや、正確には親という存在を持たないあたしたちは、人間の女性の姿をしている存在だ。
余談になるがジンは、本人曰くホモサピエンスと呼ばれる獣人で、妖精の傘の兵士ではなく、管理役でヴァニル国からの客将である。まあ、個人的にジンの話はどうでもいい。
アイリスの意味深な発言に関わっている戦乙女の特徴の一つだ。前世の記憶を持っているというものである。人間にも、そういう個体もいたと言われている。しかし、彼らとの一番の違いがある。それを基準に行動する。それで知識の学習が終えるほど色濃く覚えている。または思い出すという事だろう。
個別の行動基準は簡単だ。あたしの記憶であれば、男は信用するな。アイリスの記憶であれば、家に対しての執着だ。
故に、あたしは女の子が好きだ。特に可愛らしい子。明言しておく。
何故か、前を歩くアイリスが身震いする。夏だというのに、ジンの隣に身を寄せた。
そんなことには、ジンは構いもしない。最短距離を歩いていく。だが、まっすぐ進んでいくことが正しい筈なのに、前を行くジンの進行方向が左にズレる。まだ港から出ていないのだ。道を間違えたなんてことはないだろう。
先ほどまでの方向に何があるのかと目をやる。すぐに理由が分かった。同様にあたしも目を逸らす。
「ジン、あれ。変な人いる」
と、アイリスだけは反応する。
お願いだから、あれに指をささないで欲しい。
「ああいうのと目を合わせると面倒になるから、見なくていい」
「そう」
ジンがアイリスの視界を遮る。その奇妙な動きを見せていた男は、歌舞伎の大見得を切るように近づいてくる。もやしのように細長い背、白い肌に尖った耳の亜人だ。
「そこのお人、妖精の傘の関係者とお見受けするのネ」
ジンは対応したくない言わんばかりの顔をする。胡散臭いものでも見るような目。だが、アイリスの奇妙なものを見る目に諦めるようだ。致し方なさそうに、声を掛けてきた白衣を着た変人に向けた。
あえて、どう変なのかと言葉にするべきだろう。髪型、行動、声の出し方、男。人なりを判断する全てだ。
「人違いじゃないか? 例え合っていたとしても、一秒も無駄に出来ないんで、ササッと目の前からいなくなってもらわないと、ラグムの性能実験の被検者にされても文句を言わないでくれないか」
とジンは嫌々な態度を隠すことなく答える。
「いやあ、新任のヴァニルの技術師は面白い事を言うのでアルね。仲良く出来そうですネ」
間違いなく、不謹慎かつ何処にも面白い要素などない。
エイドに差し出された手をジンはパッと払う。しかし、その手を両手で掴まれ、ブンブンと強引に握手されてしまう。
「おっと、自己紹介を忘れていましたのネ。某は天才ドクターエイド、この研究都市の最高責任者の一人として勤めているネ」
「ジン・カンザキだ。知っているとは思うが、ヴァニルで魔術技官をしている」
ジンは離された手を躊躇なく、ズボンの裾で拭う。
「で、こちらが被検体二体ですネ。どちらの状態も実に素晴らしイ」
「お前の為に連れて来たんじゃない。指一本触れるな」
「いいじゃないのネ。小指の一本や二本切り落としても生えてくるでアル。それに某と仲良くしておいた方が、研究室を自由に回れ……」
「許可は取った。何なら、お前の首を性能実験として飛ばしてやってもいいぞ」
ジンは鞄から許可証を取り出した。エイドの顔の前に突き付ける。文字通り問答無用、早々に立ち去りたいのだろう。
エイドは困ったように顎を触る。
その隙に、ジンはさっさと歩みを進めた。
「いいのアルか? 某に融通してもらえる方が、そちらも都合がいいはずでダネ」
エイドは隣を通り過ぎるあたしたちの背中越しに言った。独り言というには余りにも大き過ぎる言葉。誰に向かって言っている訳でない。しかし背合わせのジンに対しての言葉なのは間違いない。
「……分かった。こいつを確認してくれ」
ジンは舌打ち混じりに立ち止まる。振り返ると、ファイルを二つ取り出した。それをエイドに投げ渡す。
受け取ったエイドはペラペラとページをめくる。ドホホと奇妙な笑い声をあげる。
「オー、素晴らしイ。代わりに此方を進呈するネ」
奴はいうと、カードの入ったネックストラップを三つ渡してきた。
「お前は受付か」
「ノー。某は汝の友。そして、これは受付で貰えるものより、クリアランスセキュリティが高いのでアルよ。特にそちらにおわすミョルニルの適正者には必要なのネ」
と、エイドはあたしに不気味な笑顔を向けてくる。
嫌悪感を覚える顔だ。下心や裏がある顔というのは、嫌いな大人、嫌いな男がみせるいつもの顔だ。
「ではでは。某、これから実験があるのでさらばなのネ」
おもちゃで遊んだ後のように楽しげなエイド。
あたしは船着き場に向かう、その背を睨みつける。怒りにも似た生理的に受け付けない感覚が腹の中で渦巻いている。
あたしの頬にピタッと手の甲に冷たい物が触れた。
負の面を見ていた意識が、目の前いたアイリスに戻ってくる。あたしは数秒、沈黙する。急いで笑顔を作り直した。
「どうしたんっすか?」
アイリスはあたしの顔を下から覗き込むように少し首を傾げる。
「なんすか、なんですか?」
確認するようにあたしをみて、アイリスは一人頷いた。
「これ。ローレンの分」と、ネックストラップを一つ渡してくる。
「ありがとっす」
アイリスは何か付いていると言わんばかりだ。じぃー、と顔を見つめてきた。そして頬をムニムニと人差し指で押す。そのまま一人納得して頷き、ジンの下に駆けていく。
あたしには何がなんやらという状態だ。
そのやり取りを見ていたようで、ジンはあたしの方を見て、何か言いたげに口を開く。けれど何も言わずに向き直った。
あたしには、彼が何を言おうとしていたのかは大体分かる。故に、あたしからの返答も予測して口を閉じたのだろう。いつも我が道を行くような性格なのに、妙な所に気を回す。
港を抜け、目的地である研究棟を目指す。
距離がある為、移動には車を使うと聞いたアイリスが不機嫌な面を見せる。あたしとジンはアイリスをなだめつつ、車に乗せた。
研究都市と言われるほどだ。都市部に近辺なら列車がある。島の端から端まで徒歩での移動が困難なほど広大だからだ。
そして、件の研究棟はわざわざ宿舎が用意されている。港、都市部から離れた島の端に隔離されるように建造されている。乗り物、つまり車、あるいは、それに代わる移動法は必須だ。
アイリスとしては車以外の移動法を使いたいところなのだろう。けれど、目立つ行動は慎めというジンの言葉に黙って従ってはいる。
車で移動している間。あたしたちに言葉はなく、エンジン音が響くばかりだ。
いたたまれない空気の中、窓の外の青空を眺めた。
この空は涙を湛えている…、とは誰の言葉だったか。詩的な言葉とは縁のないあたしでも思うところはある。まるで水面のように雲一つない頭の上の空が、涙のようだと言われれば、そうかも知れないと思う程度であるが。
そんな言葉を思い出すのは、空虚な沈黙と、今から会う人物の事を考えているからだろう。あたし個人としては、もっと楽しい空気で会いたい相手ではある。
商業区、住宅区、研究開発区を抜けた。しばらく林道を走った先に、城と見間違わん程の巨塔の全容を見る。研究都市の中であるのに、車や人の入構口がある。それが警備の高さを物語っていた。
車を降りると、ジンは最初に宿舎の確認を始めた。
表情は港に着いた時と何ら変わらないアイリス。しかし、足取りに若干の覚束なさをみせている。
ジンの行動は、アイリスを心配してなのか、はたまた彼の怠惰な性格からなのかは見当がつかない。だが、早く休憩を取れるに越したことはない。長距離の移動と言うものは思いの外、座っているだけだというのに疲れが溜まる。落ち着ける場所を優先してくれるのは、非常にありがたくはある。
案内された二階にある一室は日当たりが良い。ホテルの一室とまではいかないが清潔で、柔らかいベッドに冷蔵庫まで完備されている。まさに至れり尽くせりの部屋と言っても過言ではないだろう。いや、比べている対象が劣悪なのは間違いない。
なんにせよ。どこぞの国とは違う。あの二段ベッドを二つ小さな部屋にいれた、すし詰めの硬い寝床でないのだ。感動ものである。
アイリスは荷物をさっさと部屋の隅に置く。そのまま、日の当たらない入り口に近い方のベッドの端に腰かけた。
「ほら、アイリス。窓から都市が綺麗に見えるっすよ」
あたしは修学旅行並みのテンションで、窓から見える景色を指さしてみる。普段来ない場所、目新しい宿舎に来て、あたしのテンションは上がっていたのだ。
けれど、アイリスには、いつもの部屋から見える景色と変わらんと言わんばかりの細めた視線を向けられた。
それもそうだと、テンションは現実の静寂に引き戻される。あたしたちは修学旅行に行ったこともない。また普段から都会の喧騒とは無縁の生活だ。
「ローレン。鍵は私が持っておくから、先に出て。終わったら図書館で集合」
ゆっくりと呼吸を整えているアイリスが口を開く。次に、まるで瞑想でもしているかのように目を閉じた。
「大丈夫っすよ、アイリスが回復するまで待ちますよ。あたしの方が年上ですからね。信用してください」と、胸を張って明るく返す。
「落としそう」と、歯に衣着せぬ口調で返って来た。
「信用ないっすね……」
あたしは肩をすくめてみせる。無論、この信用の無さは普段の行いからである。
とはいえ、あたしよりアイリスが信用できる。これは自他共に認める逃れられない事実である。歳も身体の大きさもあたしの方が上ではあるのだが。いかんせん、中身が子供なのは明言、至言だ。一つしかない鍵をアイリスが持つのは自明の理という奴だろう。
「じゃあ、お先に行ってきますね」
あたしの背に向ける彼女の視線は、うるさいから早く行けと言わんばかりだ。
じめじめした視線を気にも留めずに、部屋を後にした。
宿舎を出た。やっと、この日が来たのだと実感できた。その感情が塔のエントランスから足幅を広くさせた。
此処には数回来たことがある。だが自分の意志で自由に行動出来るのは初めてだ。検査であったり、あるいは、あたしの目的を果たすために文字通り飛んで侵入したりだ。何かしらの拘束から逃れることは出来なかった。だけど、今回は肩身を狭くする必要も、あたしに課せられた時間を気にする必要もない。故に自然と昂揚感の方が勝っていたのだ。
まあ、中に入れば、昂揚感に水を差すような視線を受けるのだが。
所員からみれば、ガキ大将か、研究対象が歩いて来たのだ。嫌悪や好奇の視線が入り混じるのは当たり前である。そういう冷ややかな対応が来るのだ。分かっていれば、気に留める必要もないというものだ。
あたしは記憶にある限りの最短ルートで向かう。目的である少女の下に。
気分は初恋の相手に会う前の、そわそわしている感じだろう。好きな相手に会う前の舞い上がってしまいそうな高揚感。相手の前で失敗しないかという緊張感。それら二つの感情が、嫌な思い出が多いこの場所を、エレベーターを待つ少しの時間さえ、愛おしくしてしまう程だ。
……そして、同時に覚悟しなければならない。
「ジャ、ジャジャーン。サプライズっすよ」
……理不尽な現実に笑顔を潰されないように。
飾り気のない真っ白な病室。
何もない。
そこには、人としての尊厳。あり方。生活感。そういったものが、……何もないのだ。
風になびく白いカーテン。綺麗に磨かれた窓の縁。傷一つないチェスト付きの机。病室のように嫌味なほど白いベッドの上、開いた窓の向こうにある空を見ていた赤い髪の少女。
彼女は声に反応し、こちらに顔を向ける。そして、あたしの顔まで認識すると、にっこり微笑んだ。
「あれ、驚かないんっすね。もうちょっと何かびっくりするようなことをするべきでしたか。そうですね、……例えば、側転しながら入ってくるとか」
「危ないよ」
掠れた声でクスクスと少女、ラーチェは笑った。
「なら、ラッパを咥えて、太鼓を叩きながら入ってくるべきでしたね」
「そんな事したら、また追い出されるよ」
ラーチェがいった、また、というのは以前にもあたしは追い出されたことがあるからだ。二、三年も昔のことを覚えていてくれたのは、少し嬉しくもある。
「大丈夫っすよ。今回はちゃんと正々堂々許可貰えますから」
「そうなんだ。お姉ちゃん、凄いね」
とラーチェが屈託のない笑みをみせる。普段なら、本当に? みたいな疑惑の目を向けられただろう。それ故、純粋な好意の眼差しは、あたしには少しこそばゆい。
「そうなんすよ。お姉ちゃんは成長していきますから」
立てかけられていたパイプ椅子を開く。ラーチェに視線を合わせるために腰かけた。
「ラーチェの髪は、いつも変わらず綺麗ですね」
話したいことは沢山あった。もっと、いいお世辞もあっただろう。
でも、考えていた話はとうに吹き飛んでいた。今のあたしには、そんな、どうしようもない褒め言葉しか出なかった。
「うん、お手入れは大変だけど、お姉ちゃんに褒めてもらえて貰えて嬉しい」
腰ほどまである長い髪。その髪の色は火の色。いや陽の色と言った方がいい暖かな燈色をしている。とても義手で手入れしているとは思えない程、綺麗に梳かれている。
気取られないように、ゆっくりと立ち上がる。
「久しぶりに触って見るっすよ」とか、なんとか捲し立てた。今の顔を見せられない。ラーチェの後ろに回り込んで髪を梳かしてやる。
しばらく、こうして時間を稼ぐのもありかも知れない。
……いや、だが、そうだ。覚悟はしていた筈じゃないか。
目線を合わせるために正面に腰かけなければ良かった。人の肉体の形から外れた両腕。その現実に目を合わせることもなかった筈だ。
もっと、しっかりとイメージしていれば良かったのだ。その欠損のある身体に、違和感や危機感を覚えて、意識の大半を持っていかれることもなかっただろう。
だけど、あたしは意識してしまった。意識してしまったが、あたしは決して失ってはいけない。その四肢を失った身体を見て、笑顔を…、話を…、言葉を。
「そうそう、面白い話がありまして…」
吹き飛んだ話の代わりを頭から引き出す。記憶を当たり障りのないように捻り出した。
「イヴに好きな人が出来たそうですよ。あ、本人来てないから、ここだけの話っすよ」
「え、そうなんだ。イヴ姉ちゃんの好きな人か……、カッコいいけど、どこか抜けてそうな人だったりするんじゃないかな」
「そう、そうなんスよ。いや、抜けてるとかのレベルじゃなくて、生活感とか、怠惰な所とか、もうダメ男ってレベルなんですけどね。ほんと、軍人じゃなかったら、間違いなくヒモ野郎ですよ、多分」
「でも、軍人なら、他人の為に命を賭ける覚悟でなっているんだから、あんまり悪く言ったら駄目だよ」
ラーチェの真っ直ぐな優しさ。純粋な正論で、グーの音も出ない。
「軍人として、いや兵士としては凄い事は認めるんですけどね。なんて言うか、人としての欠落も凄いんすよね」
「お姉ちゃんが戦うことで男の人を認めるなんて珍しいね」
「そりゃあ…、ね」
この世界で戦乙女より戦闘に適した種族などいない。これは、どの種族も共通の認識だ。
それ故に、ラーチェのように実験体にされることもある。あたしたちのような若さで戦場、いや討伐と言った方が適切か、ともかく戦いの場に引きずり出されたりするのだ。
だが、あの男は例外だ。
あの男…、まあ、ジンのことだ。あれは獣人としては規格外の強さだ。正確には、この世界で一番強い兵器群の扱いに長けている。
その強さは、兵器の使い手として運用されている、あたしたちをも凌ぐ。一対一なら勝つことは不可能だ。
「タイマンが得意なだけに、怠慢スか」
「?」
ラーチェは笑顔のままだが、不思議そうに首を傾げる。この親父ギャグは間違いなく滑っていた。
「いや戦いに関しては凄い人なんだって話っすよ。今回、ここに来れたのも、まあ一応、ジンのおかげですしね」とあたしは取り繕う。
「ジン…? その人、ジンって言うの?」
「そうっすよ? ジン・カンザキって、よく名乗ってますよ」
少し食いつきのいいラーチェに驚きつつも、あたしは質問に答える。
「あ…」と我に返り、
「その…、職員の人達がよく口にしてたから」と、ラーチェははにかむ。
「あ、そうなんっすか。まあ、寄生種が一隻も飛空艇を落とさずに撃退されたなんて、ここ最近なかったですからね。話題にはなりますよね」
多大な国家予算を使い建造される戦艦クラスの飛空艇。それを出現のたびに、人員ごとポンポン落とされるのも問題がある。しかし、それ以上に、寄生種と呼ばれる巨人が如何に強力であるかを物語るには十分な材料であろう。また、それを抑え込んだジンの強さも、だ。
勿論、彼一人で為した偉業ではない。けれど、話なんてものは面白い方に転がされる訳で、誇張や尾ひれなんてものは常に付きまとう。
「そうスよ。あたしも寄生種討伐戦で活躍したんですよ」
「お姉ちゃんは凄いな。どんな活躍したの?」
「あの日は、そうですね……」
と、口にしたものを思い出そうとする。
巨人や人の肉片。血泥で汚れた戦場。今、そこにあったものが非日常へと変わる瞬間。
記憶が恐怖心を呼び起こす。追ってくるのは、吐き気にも似た悪寒。
あたしは首を振る。弱気な表情、声をラーチェに見せることは出来ない。
わざとラーチェの前に立ち、
「バッサバッサと巨人共を切り倒し、崩れ落ちる大地から、寄生種の眼前で満身創痍のジンをかっさらってやりましたよ」
と、大げさな身振り手振りを付ける。話題を変えるために、簡単にまとめたのだ。
「やっぱり、お姉ちゃんは凄いな…」
「えへへ、照れますね。惚れてもいいんですよ」
いつもの茶化しを入れて、明るく振る舞う。
「うん、お姉ちゃん大好き」
「あたしも大好きっすよ」
ほんと、ラーチェの笑みは天使の微笑みだ。嫌なことを忘れさせてくれる。
ラーチェは小さく頷き、
「やっぱり、お姉ちゃんとお話し出来るの楽しいな」と呟く。
「大丈夫ですよ、しばらく、あたしはここにいるんで、明日だって会いに来れますよ」
「ほんと?」
驚きを隠しきれないように、ラーチェは目を輝かせる。
「本当っすよ。あと五日は絶対会いに来れるんで」
「約束…、だよ」
「はい、約束っすよ」
普段、小さい子にやるように小指を出しかける。そこに彼女の義手が視界を掠める。小指をゆっくりと引っ込めた。
「じゃあ、あたしは明日からラーチェに楽しんでもらえるように準備してくるっすよ。今日は少し早いですが、退散させて貰います。ではでは」
行き場のない手を後頭部に押し当てた。あたしは逃げているのがばれないように、ゆっくりと部屋から出ようとする。
「待って、お姉ちゃん。指きりだよね」
そういったラーチェは、試作品、故に無骨な義手の小指を出す
魔力で動く義手。この世界の最先端の技術が集められた代物だ。
神経を魔力の流れる回路で代用。そのまま魔力をエネルギーに変換する繊維に流し込むことで筋肉と同じように動かすことができる。聞いた話では正常な腕より魔力代謝、反応がいい為、扱い慣れれば正常な腕と大差ない機能があるらしい。
また、ゆくゆくは戦場で身体の一部を欠損した兵士をもう一度、戦場に出すために開発されている狂気の産物でもある。
「そ、そうですね。指きりです」
頭に持って行った右手…、小指をあたしは差し出す。
「ゆびきりげんまん、嘘吐いたら……」
血の通ってない冷たい無機物の手。
指きりの語源である彼女の小指の代わり。こんなものが代わりをしていることに、怒りを、……いや、自分の無力感を感じることすらおこがましい。
だって、あたしは彼女がこんな姿になるまで何も出来なかった。
そして、これからも……。
「お姉ちゃん…? どうして、泣いてるの?」
指きりを途中で止まっている。ラーチェはあたしの顔をジッと覗き込んでいた。
「泣いてなんかいないっすよ。目にゴミか虫でも入ったんですよ、多分」
あたしは猫のように顔を洗う。涙を拭い去ると、にっこりと笑顔を作る。
「だって、ラーチェと一緒にいられることが楽しくない訳ないですから」
…
……
結局、あの後は数分も待たずに、研究員が来た。研究対象の健康管理を理由に追い出されることになる。ごねれば粘る事も出来たのかもしれない。しかし渡りに船でもあった訳だが…、いや、そんな風に捉える事が出来る自分が嫌になる。
そんなこんなだ。
自己嫌悪しながら通路を抜けていく。
明るい光があたしの顔に射した。そこは数えるだけで四階まで吹き抜けになっている明るい図書館だった。いつの間に着いたのだろう。
ジンとアイリスを探す。談話室にでも引きこもっているのかと思っていたが、場違いにも、六人掛けの閲覧テーブルにいた。堂々と大漁のファイルの中で机に突っ伏して寝ているジン。その隣でうつらうつら、頭を前後させながらファイルに目を通しているアイリスがいた。
少しいいことを思いついたので、足音を忍ばせて、ゆっくりと後ろに迫る。
図書館で寝る不埒な輩に日頃の願望を今、晴らしておくべきなのだ。そうに違いない。
……が、あと、数歩というところでアイリスがパッと頭を上げると首を横に振る。しっかりとした首を据えてファイルに目を通し始める。
気付かれまいと、咄嗟に本棚の間に隠れてしまったではないか。
本棚の影からアイリスの後ろ姿を眺める。視線を感じると言わんばかりに首の後ろに手をやり、彼女は首を傾げた。その後、ジンを少しばかり見つめる。そこから何かを理解したのか、またファイルに向き直った。
どうやら気付かれてはいないようで、安心だ。
暫しの間、観察してみる。アイリスはまたこくり、こくりと船をこぎ始めた。横で堂々と寝ている奴がいるのだ。釣られるのもの無理はない。
足音を立てないように慎重に距離を詰めていく。だるまさんが転んだの要領だ。
……よし、今だ。
というところで、アイリスは椅子を吹き飛ばすように立ち上がる。
背もたれが、あたしの鳩尾の辺りに勢いよく突き刺さる。蛙を潰したときのような声が出てしまった。
「なに、いたの。ローレン」
いつもの虫に向けるような目をあたしに向けてくる。
「いましたよ。あなたのローレンシアは真後ろにいたっすよ。椅子から立ち上がる時は静かに立てって教わらなかったですか?」
「人が真面目にやっている時に、急に真後ろに立つのが悪い」
アイリスの理論は、一理ある。だけど、いたわりの一つぐらい欲しいものだ。
「いたずらに失敗したけど、ちょっとぐらい優しくして欲しいな、とか考えてる顔」
「心の中読まないで下さいよ」
容姿は完ぺきなのに、普段、あたしに対して表情が柔らかくないのは何故だ。これが一時期流行ったというクーデレって奴か。早く、デレを下さい。
「お前ら、ここは図書館だろ、静かにしろよ」
ジンが先ほどからのかしましい声で起きた。欠伸混じりに、「静かにしろよ」と、あたしたちを注意してくる。
「図書館で寝ている人に言われたくはないっす」
「あん? 寝てねえよ」
「嘘っすよ。休日のお父さんの意地っ張りに並みの嘘だ」
「知るか。お前の家の親父のことなんか、ほとんどの奴が興味ないだろ。いや、突っ込むところそこじゃねえが…、まあ、なんでもいいな」
面倒くさくなったのを隠さず、ジンが会話が切った。
「で、アイリス。どれぐらい読み終わった?」
「半分」とアイリスは持っていたファイルを振る。
「そうか、頑張れよ」
ジンはそれだけ確認して満足したのだろう。腰かけ直し、山になっているファイルから一つ手に取って読み始めた。
「いやいや、つれなくないっすか?」
何が? とでも言いたげな顔をジンはみせる。彼は溜息交じりに、
「一つ、教訓を垂れてやろう」と、悩まし気に眉の辺りに手を置いた。
「いや、長い話は勘弁してください。女の子なら大歓迎なんですが」
「学問に王道なしって話だ。俺も説明が面倒だから、あとは自分で考えたらいいんじゃないか?」
あたしの遠慮も無視して、ジンはいった。短く、コンパクトに分かりにくい、いや分からない言い回しだ。長くて分からないよりマシではあるが。
「つまり蛇の道は蛇ってことですね」
「全然違う」と、眠たげにジンは首を鳴らす。
「王道なし。つまり外道には外道を、って話っすよね」
と、あたしの所感を述べる。
「その論でいくと王道しかないが正しいんだが、王道の意味わかってないよな」
「王道ファンタジー、王道政治、常に正攻法あるいは定石を現している言葉ですね。あたし、これでも雑学には博学な自信あるんですよ」
胸を張るあたしに、ジンは興味なさげに後頭部を掻く。
「その根拠のない自信は置いておいてだな。王道ってのは、王様が歩く道だろ。そこには障害ってのが、あってはいけないんだ。俺が王様なら障害があったら無能な家臣の首を飛ばすな。まあ、俺の意見はさておき、王道に使われるのは赤い絨毯のイメージがある奴も多いと思うが、赤というのは、可視光線の中で波長が長く、警戒色として人の視覚を刺激するのに優秀……」
「ふあ、眠くなりますね」
「つまり、王道のように学問には楽な道はありませんよって話だ」
長くなりそうだったので、眠くなって欠伸が出た。すると、いつの間にか話がまとまっていた。……みたいに白々しく驚いておく。
興味のないことでも熱が入ると話が長くなる相手にはこれぐらいでいい。いつも喜々として付き合っているイヴには悪いとは思う。でも、ジンの小難しい話を喜ぶのは彼女ぐらいである。
「まとめれるなら、わざわざ難しい言葉使わないで下さいよ」
「お前は魔術の勉強の前に常識を勉強しろ」
「これは手痛い反撃っすね」
怪訝そうな表情のジンに、わざとらしく頭を抱えてみせる。
ジンは何かを言いかける。口を開きかけて、何か言葉を探している。
だが一分も粘ること無く、諦め、
「まあ、なんでもいいが、アイリスの邪魔はするなよ。あと俺の邪魔もだ」と釘を刺してきた。
「しないっすよ。集中してるアイリスを前から後ろから横から、ジッと見つめるぐらいしか……」
「ローレン。うるさいって言葉はハエが飛んでいるところから生まれた。つまり、そこにいるだけで、うるさいになるから」
とファイルから顔も上げずにアイリスはいった。まさか、こちらに顔を向けずにハエと同等の扱いをされるとは……。否定はできませんけど。
「それより、こんなに分厚い本とかファイルとか出しても一冊も読み切れないでしょ」
あたしがいうと、ジンには、俺の邪魔をするな、とでも再度言いたげな顔をされた。
彼は少し考えて、
「お前、数字を好きな場所まで数えてみろよ?」と仕方なさそうに確認してくる。
「そんなの、一、二、たく『さん』に決まってますよ」
「少なくとも、お前が諦めた場所までは読めてるよ」
ジンに鼻で笑われ、あたしは少しばかりショックを受けた。ジョークの先輩を見習って、せめて七までは粘るべきだったとは。それで広げられている本の過半数は超えている。
「しかし、この短時間で、それだけ読めるとは驚きですね」
「お前、もうすぐ飯だぞ」
「おや、もう、そんな時間っすか。時が経つのは早いですね」
ラーチェに会いに行ったのは昼過ぎだ。そんなに話をしていたのか、あるいは彼女の髪を弄っていたのか。だが、それらを差し引いてもジンの読書スピードは間違いなく早い。
「魚がいい」
アイリスがファイルから顔を上げる。
「アイリス。魚の定期的な市場供給が難しいことぐらい、いい加減に覚えておいた方がいいぞ」
「そう」
彼女はジンの言葉にしょんぼりとファイルを閉じた。
アイリスが知っている世界では、大地に広大な海があったという話だ。食卓に並ぶ他に肥料などにも使われていたらしい。彼女には、この海のない世界での魚介供給需要は納得いかないものなのだろう。
「まあ、なんにしろ。お前の目的が果たせたら、魚は飽きるぐらい食べられるんだろ? 努力する理由が二倍だな」
と、アイリスに笑みを向けるジン。その手が頭に伸びる出頭を弾く。
「ドントタッチ、ロリータ」
と、あたしの決め台詞を、
「ローレン、うるさい」
と、アイリスに文字通り一蹴された。
要は一連の流れである。ジンの手を弾いたあたし。その脛をアイリスが蹴ったという簡単な話だ。暴力反対。
「どうして、二人はそんな仲がいいんですか?」
流石のあたしも声を上げざるを得ない。
「ローレンが嫌いなだけ?」
あたしの疑問にアイリスは首を傾げて返してくる。
「お前がちょっかい出さなきゃ、もう少し好かれるんじゃないか?」
とジンが肩をすくめる。
「紳士として、無理っす」
「お前、女だけどな」
「行動も、性別も、どうあがいても紳士じゃない」
ジンからの常識的なツッコミ。アイリスからの真面目な回答。もはや鈍器で殴られるような暴力性を感じる。
「なんでもいいが、丁度いい時間だから飯に行くぞ」
なんでもはよくはない。だが、あたしには徹底的に個人的理不尽を押し付けられる状況を打開するには丁度いい案だ。乗っかることにする。
「そうそう、アイリスも気分替えがいいすよ。ご飯いきましょう」
「まだ、一冊も読み切れていない」
肩を落とされる。彼女の中では一冊読んだら、晩飯にしたかったのだろう。
「ご飯を食べると眠くなる」と、次いで語った理由が何とも可愛らしいものだった。
「食堂は深夜営業してないからな。車に乗りたくないなら慣れるんだな」
実質、六日しかないのに慣れろはないのでは、と思う。素直にアイリスが頷く辺りに信頼の格差を感じる。
しかしだ。信頼関係がある二人だ。アイリスが調べているものは、行けば帰って来られないものかも知らない。いや、魔術がない世界で魔術を使う気でなければ帰って来られないが正解。違う、向こうから来ている人がいないのだから、こちらに来る手段はない今、現在存在しないか。……難しいことは置いておいて、とにかくだ、自分たちが離れ離れになって、二度と会えないかも知れない方法を探しているなんて、この二人は本当に信頼しあっているのか、疑問だ。
それとも、アイリスもジンも本心では、利用できるという点で信用しているだけなのか。
あたしなら、信頼している相手から離れたくはない。少なくとも二度と会えないなんてのは、ごめんだ。
「ローレン?」
出来の悪い頭で思考しているうちに、反応が希薄になってしまっていた。気付けば、前を歩いていた筈のアイリスがあたしの顔を覗き込んでいる。
「いえ、ちょっとボーッとしていただけっすよ」
後ろに付いて歩いていただけ。そのせいで、あたしは図書館から出ていたことすら気付いていなかった。
アイリスはまた、あたしの顔を…。頬の辺りを掴むように触ってくる。
「暗い…」
いつもの無表情のままだった。一言だけ告げると、彼女は手を離す。
「全然、暗くないっすよ」
へらへらと笑みを返す。一瞥もなく、そっぽを向かれてしまった。
アイリスには好意行為したものを嫌がる癖がある。だが表情の機微に目ざといのには、いつも驚かされる。顔を触ってくるのは表情筋に直接、手を当てて内心を読まれているのではないかと、はらはらさせられる。……とはいえ、流石のアイリスも表情筋から読心術は出来ない。けれど、未だに感情の浮き沈みを外した記憶にない。
そして、嫌いだと明言するだけある。アイリスは暗いあたしという面倒ごとには積極的に関わろうとはしない。ドライな関係と言えば聞こえが悪いが、彼女らしい取捨選択だ。
そんな乾いてボロボロなやり取り。それを見ていた人物が思いかけない言葉を口にする。
「ま、腹が減ったら顔も暗くなるわな」
「そうなんっすよ、思っていたより、お腹ぺこぺこで。本の表紙見ているだけで、いつも使わない頭を使ったからですかね」
あたしはジンの合いの手を拾う。
アイリスの耳が若干あたしの方を向く。
「考えごとをするなら、飯食ってからすればいい。腹が飢えた状態じゃ、心が飢えた答えしか出ないだろ。それにあれだ。俺の小難しい詰まらん話を聞く忍耐力も出ないもんだ」
「最後のは余計」といったアイリスは心なしか肩で笑う。
「それにまだ、ここで考える時間はあるだろうし、選択の時は訪れていないからな」
彼にとっては意味を持って口にした言葉ではないであろう。
誰が聞いても意味のない泡のような言葉だ。すぐに記憶から消えてしまう。
そのジンの何気ない言葉。その日の記憶に鮮明に残ったのは、自分でも驚きだった。