表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
タイムカプセル  作者: 御霊ちゃん
8/16

われわれ

 神の目は無数の星々の中で、唯一地球に注がれていた、創造の初めから。

地球を造るに、まずは大空(大気圏・地球の保護膜)を造られた(第2日)、この星に対する神の配慮・愛が感じられるでしょう。海と陸とを造り、陸地には緑の装いをさせた、花や果実のような彩を添え香りをふりかけた(第3日)、まるで花嫁を整えるように。これほど美しい星が外にあろうか(月はあばたである)。こうして花嫁の身支度を整えると、彼女のためのもの(役に立つもの・照らすもの)として、太陽と月、星々を「天の大空」(地球の天窓)に「置いた」(第4日)。太陽も月も星々も、いわば地の付属品である・地に従うものである、そのように運命づけられていた。最終的には、地が天(大宇宙)を従えるのである。星々に照らされている・神の熱い眼差しが注がれている・スポットライトを浴びているのは最初から地球であった。大宇宙を舞台にしたこの物語の主役・大宇宙のしゅ・あるじは「われわれ」である。


そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(1:26)


 「われわれに似るように、われわれのかたちに」とは、神の存在形態は「われわれ」なのである。キリスト教ではこれを「父(なる神)・御子キリスト・御霊(聖霊)の三位一体」と呼んでいる。これが何かと言えばいろいろに説明されていますが、教会が解釈するような固いものじゃないんです。教会の教えは方程式や法律書みたいなんです。方程式の解が間違っていたらお話になりませんから、正しい解はこれだ、とそれぞれの宗派が重箱の隅をつつくような論争をするわけです。聖書を何か法律書のように読むから、色々な法律解釈が出てくるわけです。神の言葉を自分たちで定義したいんですね。「三位一体とは」なんて定義や解釈がされるわけですが、定義とか解釈とか、固くて、よく分からない。彼らは、その姿はこれである、と明確にするために定義するんですが、それが返ってものを見えなくする、その曖昧な定義・言葉の抽象性に「三位一体って一体なに?」と、余計に小難しく、曖昧模糊になってしまう。私なりに解説してみます(つまり教会で教えられるのとは少し違うかもしれないってことです。その少しの違いが物議を醸しだすわけですが、教会ってところは)。

 天地の「創造主」は「父なる神」です、人格を持ったお方です、人と同じように性格や個性がある存在です。その姿は目には見えませんが、その声を聞くことができます。多才・才能豊かで、豪快磊落、破天荒、実行力に満ちています、ユーモアとウィットに富んでいます。「御霊」は神の本質である「愛」であり、「神ご自身」(つまりは神のご性質や特性、神が持っている多くの才能も含まれます)、人間の中身みたいなものです、それすなわちその人自身でしょう。その神の中身を余すことなく注がれた人がキリスト、だから「キリスト」を「肉を持った神」と言うのです、キリストは目に見えない神の具現の姿です。神が肉を持って現れたのがキリストです。キリストの性質は、慈愛、従順、犠牲心、父神が自由奔放、豪快な性質、男性神の実行力を前面に出すのとは違います。私は父神に見る男性神の性質と、キリストに見る観音菩薩のような慈愛や父神に対する従順を、一つに重ね合わせることが難しい、が、父神とキリストは神の両側面なんです。力だけで物事がなし得られるのではない、本当に物事をなし得るのはキリストにあるご性質である、と言うわけで、父神のご意志・ご意思の真の実現者・実行力・推進力はキリストにある。人の本当に強さは財力や武力にあるのではない、忍耐、従順、絶えない愛、温和で柔らかな心、自分を差し出す愛・キリスト・犠牲心にある。キリストがなくては神はそのことを伝えることができなかったのである、豪快な所作ではなく、自分のコア(中心部・核心)がそこにあることを。そういう意味で、キリストとは神ご自身なのである、ご自身の一番大事な部分なのである、そこが失われては最早自分ではない。キリストは父神の一番の理解者であるから、父の真の姿を知っておられるから、決して父を裏切らない、全世界が敵となっても父の側に立つ、キリストにはそのような諦め(にも似た境地)・諦観、従順・帰依心があったのである。その根底にあるのが、父に対する愛であった。父を深く知り、父を深く愛したのである。なぜなら、彼らは同じ「御霊」を持っていたからである。「御霊」は神のご性質、品性を表すものであり、キリストは神のように思い考え、神のように知り、神のように振る舞い、言動するのである、神そのものなのである。「御霊」によって、神とキリストは絶えず交信している、テレパシーである、彼には父の言葉が聞こえるのである、だから彼らは決して「わたしは」とは言わずに「われわれは」と言うのである。彼らの間にはそのような絶えなる交わりがあるのである。

 キリストは神のご意思(を行う存在)である。キリストという肉体に神が宿っている、二者は一つの肉体を共有する。父神とキリストは一つ思い、一つ肉体を共有する、共有物は彼ら自身である、自らの存在を共有している、これほど強固な関係があろうか。そんな彼らの交わり・結びつきに、われわれ人をまぜよう・加えよう、「わたし(たち)のものは君 (たち)のもの、君 (たち)のものはわたし(たち)のもの」、「われわれ」は複数でありながら一人の人のようなのである。「三位一体」とはこの「われわれ」の存在形態を言うのである。

 父神はキリストに与えたのと同じもの・「御霊」・彼自身の存在を人に分け与えたいと思われている、ご自身を人という器の中に注ぎ入れたいと思っておられるのである。神はご自身を私たち人に分け与えて「われわれ」としたいのである、神と人とで「われわれ」と呼ぶような関係を築きたい・そのような親密な交わりをしたいのである。

 「われわれ」は個々別の体を持ち、性格もそれぞれに違う、個々特徴・個性のある存在であるが、本質部分においては一つ、同じ思い・同じ考え・同じ目的を持った、あたかも一人の人のようである。同じ一つのもの・御霊を共有する。御霊は神そのものであり、神の本質である愛である(御霊=神=愛)、「われわれ」とは唯一絶対神がご自身を分け与えられた存在である。「われわれ」は「御霊(愛)」という神ご自身を分け与えられた存在である、神のご性格や特性を分け与えられた存在である、神に似たものであり、見えない神を具現する存在である。神はそんな自分たち(のリレーションシップ)を「われわれ」と呼ぶ、「われわれ」とはリレーションシップ・互いの堅く結ばれた関係性なのである。神の存在形態は「われわれ」なのである。だから「われわれ」に分裂があるということは、神ご自身が引き裂かれている、神の体が引き裂かれている・分裂しているということなのである。頭である神が右へ行こうとするが、片足は右へ、もう片足は左へと、両足は別の道へ行こうとする、手足は別の行動をしようとする、自分の手が自分の鼻を打ったりする、これでは「われわれ」ではない。「われわれ」は一つの体なのである、同じ行動原理で動く、神の一つの体・キリストなのである。

 

 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ12:4・5)


 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(コリント1 12:14〜27)


われわれ人は、神の一つの御霊、神の一つのからだ・キリストのからだなのである。「われわれ神々」それが人の完成の姿であり、「父神・キリスト・御霊」の「三位一体」の完成の姿である。


 多重人格者は一人の人でありながら、ある時はまるで別人のような振る舞いをする、ジギルとハイド・善人と悪人・裏と表の顔を持つ。「われわれ」は複数でありながら、一つに統合された人格(神格)を持ち、一人の人のような振る舞いをする、まさに神である。「われわれ神々」による支配・統治、それが神のご計画であられた。私たちは日ごろよく「われわれ・私たち」という言葉を耳にしたり、自身が使ったりする。どんな場合に? 私たち夫婦とか、私たち家族とか、われわれ○○サッカー部とか、我ら○○国民とか、われわれ○○政党とか、本来それは志を一つにした集団であるはずである。泣くも笑うも一緒、勝つも負けるも一緒の運命共同体。「われわれ」は同じヴィジョン・実現すべき未来像を持っている。この地を一人も泣いている人がいない天国のような場所にすることである。われわれ(神の子供たち)はこの地における天の御国の建設事業に携わる者である、こうして御国(神の国・キリストの王国)は地上に降りて来るのである。パラダイス(地上の楽園)の完成。

 あなたが傷めば・痛めば私が痛い、私が泣けばあなたが泣く、あなたが笑えば私も笑う、もうあなたと私を区別する・切り離して考えることは出来ない、一体化・同一化した存在、愛の結合体である。私はあなたのために命を捨てる、なぜなら私とあなたは一つ存在・運命共同体だからである。私は自分のものを何も持たない、私のものはあなたのものだからである、つまりは「われわれ」(のもの)以外に存在しないのである。唯一の存在 (するもの)が「われわれ」である。それ以外には何も存在しない、つまり「われわれ」は単一体、それが「われわれ地球生命体」の本来の姿であり、完全体・完成形である。神は人を「われわれ」というかたちに創造された、人は決して一人では存在しえない、人が一人のとき人は人として完結しない・完成しない、未完成・不完全である。完全なのは「われわれ」である。

 「父(創造主の神)・御子キリスト・御霊」の「御霊」の正体であるが、御霊は神の霊・スピリット・精神であり、それを分け与えられて創造(つく)られた「人」である。御霊(神ご自身)を内に宿した人・聖霊(神の聖なる霊)を注がれた人である。その人を神は「われわれ」と呼び、神ご自身と一つ存在としてくれるのである、神が人と共に永遠におられるのである。人が一つになることで、「われわれ」という神々が完成するのである。「われわれ」は三位一体神の完結体・完成体である。


 「見よ。神の幕屋が人と共にある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:3・4)


神の天地創造は、聖書の最終話・予言(預言)の書とも言われる「黙示録」でこうして完成する・完結するんです。

 ってことは、創世記の神の天地創造はヴィジョン・神のご計画であって、未だ完成・完結していない、ってことになるんです。その未完成部はやはり「息子」だったんですよ。

 「われわれ」という麗しい交わり・関係に、人を混ぜよう・加えよう、とお考えになった神でしたが、そうしてアダムを形造るわけですが、土地のちりから造られたアダムは、言わば天地の混合物・神人の混血だったんです。体は脆い粘土で造られていた、その器に神ご自身の存在「御霊」が注がれたわけですが、アダムはつまづいて器を割ってしまう、尊い中身を失ってしまう。中身は永遠の神ご自身、つまり「永遠のいのち」が入っていたのでした、それを失ってしまう。エデンの園でそんな事件が起きてしまうのでした。物語はクライマックスに突入します。


 やっぱ、聖書ばっかりじゃつまらないかな、そろそろ息子たちに登場してもらおうかな。エデンの園に飛ぼうか、サッカーグランドの少年たちがいいか、迷います。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ