天地創造
クリスチャンが主張するものを「創造論」ーー神が万物を創造した。人は猿から進化したのではなく、神によって造られたーーと言い、私たち日本人が学校で教わったものを「進化論」(人は猿から進化した)と言う。クリスチャンの私が「進化論」を認めていると知ったら、「そんな話は聞きたくない・聞くに耐えない」と夫は私の言葉になど耳を傾けてはくれないだろう。クリスチャンとはそういうものですよ。だから私は、無理に彼らに聞いてもらおうとは思いませんよ。聞いてくれる人にだけ話しますが、私は何も「創造論」を否定しているわけではありませんよ。
「創世記」は聖書の中の最初の書で、神がこの天地を創造する場面から始まります。聖書に興味ない方も、一度読んでみるといいですよ。はみだし者のクリスチャンである私が、楽しくご案内します。
初めに、神は天と地を創造した。(創世記1:1)
地は形がなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にありにあり、神の霊は水の面を動いていた。(1:2)
初めに、神は「天と地」という構想を抱かれた。そのとき(神が構想を持ったとき)、地は形造られておらず、天も地も何も存在していなかった。そんな無の状態から、神の創造は始まった。闇・漆黒が深淵のようにどこまでも広がっていた。そんな何もないところ・真っ黒なキャンパスに、誰がこのような世界を思い描いたであろう。この世界は神のイマジネーション・想像力・独創性の産物である。何もない世界に、神の霊・イマジネ ーション が働いていた。
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:3)
神はその光をよしと見られた。そして神はこの光と闇とを区別された。(1:4)
神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第1日。(1:5)
何も存在しない時にも、神の霊・見えない活動する力・エネルギーは働いていたーーこのエネルギーが光を出現させた。闇が覆う世界においても、神の霊・御霊・愛は働いていた。愛はエネルギーであり、すべての源である・すべてのものがそこから生まれた。愛は神に属していた・神の属性・神ご自身であられた。最初にあったのは闇であり、光はそれを破って現れた出た。光は神の創造物の初子であった、神の言葉に従って生まれたものであった。神に肯定された(よしとされた)存在であった。光は神の愛の表れだったのである、神はこの光と、闇を区別しておられた。
また、「第1日」言うように、時間が定められた・出現したのである。
ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。(創世記1:6)
こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水を区別された。するとそのようになった。(1:7)
神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。(1:8)
「大空」は、私たちが「空は青い。白い雲が流れている」と見る空である。私たちはこの大空を天窓として、天・宇宙を仰ぎ見る。天(宇宙)と地[球]の仕切り、両領域の緩衝地帯、大気圏は地球の保護膜であった、そこを突き抜ければ宇宙・天(神)の領域である。われわれ人類は神の領域を凌駕するのである。時が来て、神はご自身のすべて・全財産・大宇宙を人に明け渡すつもりであられる。
大気圏は地球を包んでいる大気の層で、地球側から対流圏、成層圏、中間圏、熱圏。対流圏には地に雨を降らせる雲がある。成層圏には生物に有害な紫外線を吸収する働きがあるオゾン層がある。大気圏はまさに地球の保護膜であった。神が真っ先に考えたことは、地球を保護する・守るということだったのです、地球は何重にも保護されているのです、神の地球に対する特別な思い・配慮・愛が察せられます。われわれ地球生命体は神に愛される存在だったのです。
神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。(1:9)
神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まったところを海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。(1:10)
神は、平たい皿を傾けて皿の水を一所に集めるように、地軸を傾け地球の水を一所に集めた。神は、知恵のあるお方である。
神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。(1:11)
それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。(1:12)
こうして夕があり、朝があった。第三日。(1:13)
三日目に神は、シダや苔の「植物」(「地は植物、」の「地は」を海に対する陸地ではなく、天に対する「地上・地球」と読めば、「藻」なども含まれたでしょう)、「種を生じる草」・裸子植物、「その中に種のある実を結ぶ果樹」・被子植物を造られた。岩の大地はたった1日で、緑の園に変わったのか? 神(の言葉)・聖書は胡散臭いな、と思われるだろうか。
ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために役立て。(1:14)
天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。(1:15)
それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。(1:16)
神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、(!:17)
また昼と夜とをつかさどり、光と闇とを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。(1:18)
こうして夕があり、朝があった。第四日。(1:19)
神は三日目に地の植物を造られ、四日目に太陽・月・星を造られた。光合成をする植物が先で、太陽が後、なんか矛盾があるような。だけど一見矛盾に見えるこの箇所にこそ、神の創造の謎を解くヒントがあったのです。神は謎かけ名人、聖書は暗号文なんです。そんな観点から聖書を読み解いて行く、そうすれば取っつき難く思える聖書も、楽しめるかもしれません。
ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。(創世記1:20)
それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。(1:21)
神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」(1:22)
こうして、夕があり、朝があった。第五日。(1:23)
天と地という背景が出来ると、次に神は、地球を生命で満たしていった。水には魚が群れ、地の上には、大空を背景に鳥が飛ぶ(第5日)。「海の巨獣」とは海の恐竜であろうか。クジラやイルカは水中生物でありながら・姿形は魚のようでありながら、卵を産まない・哺乳類である。神は、水中生物の中に哺乳類の種を仕込んでおられた。進化論であるが、進化論は創造論(人は猿から進化したのではない、神が造られたのだ)と対峙・敵対するものとされてきた。こんなのが夫婦喧嘩(我が家です)の種になったり、訴訟や戦争にまで発展する、宗教が疎まれるわけです。多くの証拠が出そろった今に至っても、クリスチャンの多くは未だ進化論を否定している、近年英国国教会は進化論を認めたらしいが。果たして、進化論は創造論と対峙するものか。神は、水中生物の中に哺乳類の種を持つものを造っておられた。生物は環境に応じて進化するわけであるが、同じ環境下にあれば、全てのものが同じく進化するわけではない、その種を持っているものだけがそのように進化するのである。それが「その種類にしたがって」(の意味)である、神は種が保存されることを定められた。つまり神は、あるものに最初からその種を仕込んでおられた、進化は神によってプログラミングされていた。こう考えれば、神の創造の中に進化は予め定められていたもの・進化は神の創造の中に含まれるもので、両者の間に敵対関係・矛盾はなくなる。ある種類のナメクジにそれが最終的に人になる遺伝子情報を組み込んでおく、その種のナメクジは人になるのである、最初からそのように造られていたからである。オタマジャクシがカエルに、いも虫が蝶に、ヤゴがとんぼに、姿形が違うものになり(変体)住む場所が変わる、自然界にそのような例が在るのは、雛形である。姿形、住む場所が変わっても、カエルの子はカエル[と同一の存在]、カエルの種からはカエル[になるもの]が生まれる。神は、初めから複雑な構造を持つ「人」を造らないで、初めに単純な構造のものを造って、それが最終的に人となるようにした、その方が手間がないからである。何億何万億種類もの微妙に姿形や構造の違ったものを、一つ一つ粘土をこねで形造るとしたら、神と言えども大変な労苦である。粘土を丸めて朝顔の種を造れば、朝顔の花が出来る、ひまわりの種を造れば、ひまわりの花が出来る、粘土を丸めて種を造るのと、根の1本1本、茎の中の管構造、花弁の1枚1枚を形造る(花だけでも何万種類もあるのだ)のとではどちらがよいだろう。人の内臓器官から血管、神経の全てを粘土(人は「土地のちり」で造られた)で造るとしたら、気の遠くなるような作業である。種はただ粘土を丸めただけのものではなかった、種の中には「これはひまわりになる」という遺伝子情報の書かれたマイクロチップが埋め込まれていた、だからひまわりの花が咲いたのである。ナメクジのような単純な造りの生物から、人間のような複雑な生物が出来上がる、そんなプログラムがされていたのである。そのような複雑なものを設計した設計者・創造者は神である。人を造った創造主が神であることに間違いはない、創造論は進化論によって否定されない。
ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。(創世記1:24)
神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。(1:25)
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(1:26)
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(1:27)
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(1:28)
ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。(創世記1:29)
また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、命の息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」するとそのようになった。(1:30)
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。(2:1)
天と地とそのすべての万象が六日で完成された、神はたった六日ですべを造られた。これをどう思うか、「アンビリーバボ(信じられない)」と思うか。この「日」をどう解釈するか、「1日=24時間」の普通の日と考えるか、が天地創造が六日でなされたと考えるのは難点が多いため、六日を六つの地質年代に当てはめるとか、瞬きする間に千年を飛び越える神と人との時間の感覚は違う・神にとっては千年も一瞬であるとか、様々な解釈がされている。が私は、やはり「日」は1日24時間の普通の日だと考える、それでなくてはロマンがない、何でもできる神は天地も六日で創造された。
「創造」とは何もないところから創めて何かを造り出す、と言うことであるが、それには「創」想像・構想という面と、「造」造形・形造りという面がある。創造の第一段階は神がイマジネーション(想像力)を働かせ、真っ黒(何もない無の状態)なキャンパスに絵を描くところから始まる、構想を抱く・青写真を描く・設計図を描く作業である。第二段階が造形、材料を使っての形造りである。神が六日でなされたのは前者・第1段階である「創」の部分・設計図を書くという作業である。
設計図に書かれたものが姿形を持って現れるには時間がかかる。天地という巨大な建造物である、それが姿を現す・完成するまでには、何万年・何千億年かかっても不思議でない。スペインのサグラダ・ファミリア(聖家族教会)であるが、その建造は1世紀もの間続いている、未だ完成に至っていない、世紀・世代をまたいでの大事業である。設計者のアントニオ・ガウディは、その完成された姿を見ることなくこの世を去った、のであろうか。いや、設計者である彼の目には、その完成の姿はありありと見えていた、彼は見て、それをよしとされた。彼の中では既にそれは形を持っていた・形造られていたのである。そのようにして彼は自身が造ったすべてものを見た。見よ。それは非常によかった。そう考えれば、設計者である神の天地創造は6日で終わっているのである。
神は単にキャンバスに、空や海、緑の大地を描き、花々や果実で彩り、水に魚の群れを、大空に鳥の姿を、陸地に動物を絵画的・視覚的に、描いたわけではない。植物を造るにも、植物に根を生やし、茎に管を通し、そこから地中の水分や養分を吸い上げるようにした。種を生じる草・裸子植物とその中に種のある実を結ぶ果樹・被子植物を造った。それぞれの生殖方法を考えた。風に飛ばされて種を撒くものは、実のない軽いボディに、鳥が種運ぶものは、鳥がついばみたくなるような色やにおいにしょう、おいしい実の中に種を隠そう、糞と一緒に撒かれれば肥やしにもなる、緻密な計算がされた設計図である。太陽や月を配するにも、その距離や方角を正確に測っておられた。美しい楽園に裸の男女が立っている絵本の挿絵を描いたのではなかった。勿論、彼のイマジネーションはそのようなものを思い描いたであろう、彼は、その自身のイマジネーションが描いたものを実現させる・架空の世界を現実のものとするための「設計図」を書いたのである。彼の設計図は正確・緻密だったので、それは必ずそのように実現・出現すると確証の持てるものだった。それで、彼が仰せられると、そのようになった、と(完了形・完成形で)記述されるのである。
それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(創世記2:2)
第七日目に、「なさっていたわざ・天地創造の設計図を描くという仕事」の「完成」が告げられた。「ああ、これで私の仕事は終わった」と、神は休まれた。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものはこの方によって造られた。造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない。この方に、いのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネの福音書1:1〜5)
私の大好きなヨハネの福音書(通称「愛の福音書」)の冒頭であるが、神の天地創造のもう一つの特徴は、神は言葉によって天地創造をされた、ということである。「光よ。あれ。」と神が言葉を発せられると、光はその言葉に従って現れた・参上した。「大空よ。水の間にあれ」」と仰せられると、そのようになった。天体も、水・海も、動植物も、皆、神の申し送りに従った。設計者である神ご自身が現場で鋸を引き、槌を打つわけではない。彼の仕事は、設計図を書き、それを各々のものに渡した・申し送った時点で完了である。後は下々の者たち・請負人たちの仕事である。神の言葉・申し送りに従って、天地万物、森羅万象は仕事に取りかかった。ガウディが死んでも、神が休まれても、その仕事は彼ら設計者の意思通り・設計図通りに、完成に向けて進められるのである。建物の設計者・設計図を描いた者と、建築現場で鋸を引き槌を振るった者、その建物の創作者はどちらであるか。設計図を描いた者が創作者・創造主である。仕事に一段落つけた彼は、祝賀気分で休まれた、「なさっていたすべてのわざ」を休まれた。
神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(2:3)
「なさっていたすべてのわざ」「なさっていたすべての創造のわざ」を休まれた。「すべて」と強調されているように、その日は現場の職人・請負人にも休みを与えたのである。頭である自分が休むことによって、その家の者たちやそこでの働き手は気兼ねなく休める、そんな父神の配慮でもありました。これが後の「申命記」の律法・安息日の規定につながるわけですが、「安息日」の定めの真意は、奴隷にも休みを与えよ、というもの、神の愛ある定めですよ。それを後の律法学者たちは曲解してしまったんですよ、安息日は神のための日であるから、安息日に仕事・何か物事をすることは律法違反である、それで人命救助もできないとか、とか。安息日・日曜日は神様のための日・教会に行く日である、クリスチャンの最優先事項は日曜礼拝に出席すること、とか。私は日曜日でなくとも、いつも、どこでも、神様に心馳せていますから、取り立てて日曜日に無理くり教会に行こうとは思わないんです。
地球の自然環境が生物を淘汰し、また種を進化させてきたと言うのなら、そこにわれわれ被造物にはコントロール出来ない力・神の手が働いているということである。生命体は自然環境という神の手によって粘土細工のように捏ねられ、形造られたのである。神は陶芸師・造形師でもあった。神の天地創造を「想像・構想・設計」の第1段階と「造形」の第2段階と見ると、第1段階と第2段階には時間差がある。神が設計図を書いた順番とそれが形造られた順番が違ってくることだってある。大きなプロジェクトである、大勢が一緒に・共に仕事をすれば、持ち場持ち場、現場現場で進捗状況も違う、時間や手間のかかる仕事もあるし、一気加勢に終わらせるような仕事もある。細部にこだわりを持たせるような繊細なものを作るには手間も暇もかけるだろう、大きな粘土を丸めるだけの単純な造りのものはさほど時間を要しなかったかもしれない、鉄やガラスのような素材を扱っていれば手早く形を造らなくてはならないだろう。謎は解けただろう。
神は第3日に地の植物を造り、第4日に太陽・月・星々を造った、植物の光合成を考えれば順序が逆のように思えるが。設計図上では地の植物は先に造られた・描かれたが、それが実際の形状を持って出現したのは太陽・月・星々の後である、と考えてもおかしくない。そう考えるのが妥当である。種が発芽するにも時間がかかたし、設計図に描かれた全ての種が出揃うには相当の時間がかかったはずである。一方の天の万象などは、「鉄は熱いうちに打て」のことわざやガラスや飴の細工のように、手早く形を整えなければならなかったろう。聖書では、「 初めに、神は天と地を創造した。」の「創造した」にはヘブル語で「バーラー」という語を、「二つの大きな光る物を造られた。また星を造られた。」の「造られた」にはヘブル語で「アーサー」という語を、当てているのである。あえて区別している、ことからも「造られた」が造形・形造りであると示唆していると思われる。この「造られた」(ヘブル語でアーサー)であるが、こんな箇所とも関連づけられる。アダム(最初の人)の名前の由来であるが、人は土地(ヘブル語でアダ―マー)からとられたのでアーダームと呼ばれる。アダム(「土地のちりで人を形造り」)同様、太陽や月や星々は、粘土をこねて・実際の材料を用いて造形されたのである。「光よ。あれ。」のビッグバン・宇宙の大爆発から4日目に太陽や月、星々は形を持ったのである。「昼と夜が区別された」ということは、この時点で、宇宙の秩序・法則――太陽の周りに惑星(地球)が位置することや公転、自転など――が定まったのである。聖書・神の言葉は、非科学的で、信用に値しないものだろうか?
初めに、神が天と地を創造した。神は宇宙の海(天空)に浮かぶ地球という構想を抱いた。そのときまだ地球は形造られておらず、広大な闇の空間が広がっていた。何も存在しない真っ黒なキャンバスを前に、神のイマジネーション(想像力)は働き続けた。この世界(天地)の出現以前に何も存在しなかったわけではない、神の想像力が在った、創造欲(神の生み出したいという欲求)が在った、そのために神は頭にはちまきをして働いていた・活動していた、活動する力・エネルギーが存在した。この宇宙秩序を考えてご覧、それがどんな精密な数学的計算のもとに成っているか、神が微少な生物に進化の過程として組み込んだプログラムの複雑さを思ってご覧、それら全てを6日で設計・プログラミングした神の活動力・エネルギーは凄まじいものであった。ビッグバン・宇宙の大爆発を引き起こすほど膨大なエネルギー・仕事量だった。このような膨大なエネルギー・大爆発が何もないところから自然発生するわけがない、頭フル回転・スーパーコンピューターフル稼働、爆発してもおかしくない勢いで、神は働いておられたのである。エネルギー自体は目に見えないが、それがした仕事、真っ暗な部屋に明かりが点いた、部屋が暖かくなった等により、その存在が証しされる・確認される。私たちが体を動かして働くとエネルギー・熱が発生する、その熱・エネルギーは仕事をする。つまり働き手がいたのである。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた――水と神の霊の働き。材料の水があり、「神の霊」=神の活動する力・エネルギーが存在したのである。活力・エネルギーの源・原動力は愛である、愛の心が萎んてしまうとやる気も出ないのよね。この世界は神の愛の産物だ、と神は仰るんですけどね。私は、万物を産み出すほどの、そんな大きな神の愛を知ることはできるのでしょうか。私が欲しいのは、神の愛に対する知識ではなくて、自分が神に愛されているって実感なんですけどね。私は御託を並べる神、そんな虚しい言葉はいらない、って言ってるんですけどね。私と神との溝は深いんですよ。