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タイムカプセル  作者: 御霊ちゃん
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メッセンジャー

 負けると知っている戦いに、西郷は、まだ年若い、自分の長男を連れて行くのだ。おれが行くから、おれの息子は見逃してくれ、とは言わないのである。それにより民は、西郷が自分たちの味方である、最後まで自分たちと共に戦った、と認識するのである。西郷が最愛の息子を差し出すことで、傷を負った民たちは、その心を癒される・なだめられるのである。西郷さん、話が違うじゃないか、おれたちはあんたを信じてついて来たのに、小舟捨て大船に乗ろうとした民の呟きであるーー新体制の下、彼らは締め出されたのである。中央(政府)のやつらにおれたちを討たせるとは、西郷に従った彼らの結果は不本意なものだったのである。西郷自身、自分は負ける戦いにお前たちを連れて行くリーダーだ、お前たちを犠牲にすることを許してくれ、これ(息子を差し出すこと)でおれのしたことを全て許してくれ、と言っているのである。言わば、息子は「なだめの犠牲」である。西郷はこうすること(そこに身を置く武士と共に戦い果てること)で、封建制度・武家制度という旧いシステムを打ち壊したが、その精神・忠義・「武士道」を守ったのである、それが何より・どんな説明よりも民を納得させることだったのである。藩が廃止され、自分たちが仕える君主・殿様を失った彼らは、その自身の忠義・忠誠を失った、忠義・忠誠を失って、彼らは自身の存在意義を失った、生きていても仕方ない、最早生きて行くことができないのである。民が本当に守り伝えたかったのは、制度ではなくて、その気高い精神だったのである、西郷はそういった民の心の奥底を読んだのである。西郷の仕掛けた見事な心理劇である。すべては彼の策略だったのである、彼はクールな男である。彼は、民を討つなら自分も共に討ってくれ、自分は彼らを見殺しには出来ない、と言い、君たちが討たれる時はおれも一緒だ、君たちと運命を共にしたいのだ、と言ったのである。彼は熱い心とクールな頭、情と理性を併せ持った人であった、消して物事を見失うことがなかったのである。システムが倒れるとき、そのシステムと共に倒れる人たちがいる、西郷はその彼らと共に倒れることを潔しとしたのである。西郷は、忠誠を尽くした(自身を捧げた・命がけの戦いをした)民に、忠誠を報いた(同じように自身を捧げた・身を差し出した)」のである。ヒーローは一瞬の光を放ち消えて行く、夜空の彗星のごとくに、その栄光は桜の花の散るがごとくに(はかな)く過ぎ去る、それが定めであれば、ヒーローは去り際・引き際が大事なのである。自害したヒトラー、孤島に潜んだナポレオン、西郷の去り際は、桜の花びらが舞い散るがごとくに鮮やか・天晴れ(あっぱれ)であった。いとあわれなり。彼は負けたが、勝ったのである。新しい国造りの功労者は西郷さんだったと思うんですけれど、これは歴史(の教科書)も認める事実ですが、西郷さんは新しい国のために戦い命を捨てたと思うのですが、彼は国賊(国に対して反逆した者)・賊軍の大将ですからね、靖国神社にはお祀りされていないそうですーー偶像は彼を嫌ったんですね。代わりに上野公園に銅像がありますね。西郷さんの頭上に桜の花びらが永遠に降り止まない、そんなイメージが現れ、それが日本国民の喝采のようにも思えますーー国民は彼を英雄としたんですね。日本人は「負けるが勝ち」そんなことわざを持ってますものね。日本人は忠誠心の強い民族である、西郷隆盛は私たち日本人の心にしっくりくるのである、桜の花びらの舞う舞台にぴったりな英雄なのである。

 なんだ西郷さん、あんた馬鹿なことするな、もっとドライに割り切れよ、クールじゃない(かっこよくない)な、私はあなたを理解できない。若いとき私はそう思った、理解し難かったのだが、今は彼が分かるのである。あっちを立てればこっちが立たず、そんな世の中で、彼は誠心誠意を行ったのである。お見事、お見事、今は彼に対してそう思うのである。西郷はこの戦いで汚名を着せられたのである、彼は反逆軍のリーダー・反逆罪であるが、彼と共に戦った者たちにとって、彼は永遠のヒーローなのである。私はこの負けた英雄、忠誠の民のヒーローが、罪着せられ、十字架の上で討たれたイエス・キリストに重なり、キリスト(神のひとり子)を世人に差し出された父なる神に重なるのである。

ーー神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(聖書・ヨハネの福音書3:16)

西郷は民をそのように愛した、神は私たち世の人々をそのように愛されていた。連戦連勝、自国に勝ちをもたらす、それがヒーロではない、と思うのである。彼の肉が射抜かれるとき、彼の柔らかな肉が弾丸を受けるとき、その赤い血がし吹くのを見て、人々は彼を英雄と呼ぶ。彼には、自分の命を投げ出しても・命と引き換えにしても、守りたいものがあったのである・伝えたいメッセージがあったのである。伝えたいメッセージ・伝達情報、つまり「遺伝子」である。父なる神は、ご自分のひとり息子を自身の意思を伝える「メッセンジャー」としてこの世に遣わされた。聖書には、神のお考え・ご意志・ご計画が記されている。旧約聖書で、神はモーセ(イスラエルの民の指導者)に「十戒」(10カ条の戒律)を与えた、これは言葉による指導・導きである。新約聖書はキリストのメッセンジャーとしての生涯・その布教活動を記したものであるが、キリストと弟子たちは神の言葉(神のお考え・ご意志・ご計画)を世に伝える活動をしたのであるが、これはただ単なる言葉による指導ではなく、行動・行為を伴う実践的指導だったのである。キリストは自らが手本を示したのである。私たちがこのキリストを手本に学び、愛の実践をするとき、この世が天国のような場所になる、この地に「神の国」が樹立される・到来する。あなた方が邪悪なこの世と勇敢に戦うとき、あなた方は神の子とされる。たとえあなたの敵が武力・暴力を持ってあなたに立ち向かうときでも、あなたは黙って彼らにあなたを引き渡しなさい、決して武器を手にすることのないように、暴力により立ち向かわないように、それがあなた方のこの世の邪悪を打ち負かすための戦いです。私があなた方にその手本を見せましょう。そんな彼は、人々の(あざけり)となったが、忠誠の民にとっては、燦然と輝くヒーロー・王なのである。私はあなた方のもとを去るが、私の精神は不滅である、あなた方がその精神を伝えて行くとき、神の国という「世界平和国家」が生まれます、私はあなた方にそう約束します。あなた方が愛を抱くとく、そのあなた方の中に私は存在します・あなた方と共に私はいます、神は愛です、あなた方の中の愛の種を大きく育てて行くとき、神の国はこの地上に到来します。私たちは彼から「愛・神の遺伝子」を受け継ぐことができるのである。神の遺伝子は肉によって引き継がれない、精神によって引き継がれる。キリストの精神を引き継いだ者が、キリスト・神の子孫なのである。これは誰もが神の子供になれるということである、肉親という縛りがない、自分の自由な意思で神の子供になることも、ならないことも出来る。神の国という報いにありつくか、ありつかないかは私たち次第である。そう、私たちの運命は「私」という個々ではなく、「私たち」という生命体・人類の選ぶ道にかかっている、ということである。それが、神が人を「われわれ」という形に想像したわけである。

ーーそして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と仰せられた。(聖書・創世記2:26)

「私が、私が」と自分ファースト・自分本位であることは、自分たち・人類の滅びにつながる、キリストはそう教えたのであるが。その意思・精神はキリスト教・自身をクリスチャンと呼ぶ人たちに伝わったのだろうか。自らをキリスト教・キリスト教信者と呼ぶ西洋の人たちであったが、彼らはその強い軍事力を世界に見せつけたのである。世界の隅々まで手に入れようと、平和な民族を侵略して行ったではないか。ヒトラーは人を愛したのか、ナポレオンは本当に民に愛されたのか(彼のように祖国に勝ちをもたらした者でも、使い捨てにされた感である、最後誰に慕われることもなく孤島での幽閉生活である)、彼らの最期はなんともお粗末なのである。連戦連勝の凱旋将軍は、永遠不滅の何を残したのか。ヒトラーをドイツ国民は誇りとするのか。私は西郷隆盛に対して、私が期待していたようなヒーローではなかった、それとはあまりにかけ離れたヒーローの姿だった、惨めに負けたヒーロー、と言ったが、正にキリストとはそんな悲劇のヒーローなのである。キリスト教というと異国・西洋の宗教と認識されるのであるが、ナポレオンやヒトラーをヒーローとした国々の民より、「負けるが勝ち」と言い、西郷隆盛をヒーローとする日本人の方が、キリスト(悲劇のヒーロー)を知る・理解することが容易なはずである、と私は思うのである。日本人というのは、物事の裏側・見えない部分、そこにある真理を見ることのできる国民だった、と知るのである。強大な軍事力を持って戦争に勝利する、それがヒーローではない。日本では泥棒だってヒーローになった、ねずみ小僧次郎吉はヒーローである。金持ちの家に盗みに入り、盗んだ金を貧乏人に与える、あれは創作だとも言うが、日本人のヒーロー感が出ている、ヒーローは弱い者の味方なのである。私は、貧しい者に向かってパンを盗むなかれなんて言うクリスチャンを胡散臭い、どうしてあなたがもう盗まなくてもいいように私が盗んであげましょう、そしてあなたの代わりに私が牢屋にでも地獄にでも行ってあげましょう、と言わないのだろうと思っていた。キリストは罪人(である私たちの身代わり)となり、十字架にかかり、黄泉に下った、正にそれをしてくれたのがキリストだ。

(2020年追記) クリスチャンであると言うならば、キリストと同じ姿になるべきだ。罪とは縁遠いような上品さで、お腹の空いた家族を抱える者に、パンを盗むななどと諭す教会の牧師を、日本人が無視するわけである、日本でキリスト教が流行らないわけである。教会は上品すぎて、敷居が高い、自分のような罪人には居たたまれない場所だ。口でいいこと・きれいなこと言うけど、実行力・実践力がない、助けにはならない・頼りにならない、社会の隅に追いやられている、大人しい人たちだ。自分の身を捨ててまで、あるいは自分が罪を着てまで、庇ってはくれないだろう。残り物の施しをしてくれるだけだ。誰にだって優先順位があるだろう、まずは自分の家族を満たしたい・守りたい、余力があれば他を助けよう。自分の全財産を投げ出して、自分の家族を露頭に迷わせてはいけない、そんな残り物の施しなのだ。まずは自分の家族の身の安全を確保して、誰もが真っ先に考えることだろう、一つしかない救命具を自分の子に渡すか、他人の子に与えるか、そんな究極の場面で牧師はどうするのだろう、天の父・神様が見たいのはそんな究極の選択・愛なのだ。聖職者が配偶者を持たなかったのは、そんな究極の道の妨げになるからだった、自身が無用な苦しみを負うようになるからだった。牧師は妻子を持って、目にも慕わしいクリスチャンホームを持つようになったし、迫害だってない、クリスチャン自体が生ぬるくなった、血も涙も流さなくなった。クリスチャンホーム・麗しい我が家などという幻影を吹き込んだのだーーそれがプロテスタントだ。聖職者と一般人の区別がなくなったし、「我が家」という個の幸せを追求するようになった。神様を信仰すれば、幸せな家族生活の知恵を得ることができますよ、エホバの証人においても誘い文句だった。けれども天の父は私にこう言ったのだ、「お前が幸せになるときは、みんなが幸せになるときだ」、社会全体の幸福が実現されなくて、個の幸せなど実現されるものでない、と。「お前の幸せなど、不幸な人々から見れば、嫌味でしかない」、そう言って私の家を荒れ廃らせてしまった。教会の人たちから見れば、私が教会の教えも守らず、教会から離脱したから、俗な言葉で言えば、バチが当たったと思うかも知れないが、私が教会から足を遠のけたにはきちんとした理由があるし、私が教会に入る(私は潜入捜査官・スパイですからね)も出るも、天の父のお導きだった。キリスト教は、プロテスタントだ、カトリックだ、エボバの証人だ、モルモンだ、アーミッシュだ、言っている場合ではないのだ。それは人間が作った党派・派閥だ。キリストの正しい教えを伝えてはいない。キリストの教えを知りたければ、キリスト自身を見れば十分である、全ては聖書に記してある、どの党派も同じ聖書を用いている、私が教会を離れたわけである。自分たちの考えを主張する党派に属する、その交わりに加わることは、返って害なのである。日本人の多くが惑わされないというのは、日本人は肌身に神を感じることができるからである。それが日本人が培ってきたものである。

 「世界平和国家」という一つの国を建てるに、世界国民皆で「宇宙船地球号」という大船に乗るために(そうして皆で宇宙の大海原に出て行くのでしょう。「宇宙開発」という大プロジェクトを始動させるでしょう)、旧い制度は解体されなければならない。そんなとき・旧い制度が解体されるとき、持つ者たちは、持っているものを捨てなければならないのである、歴史はそう物語っている。彼らがそれを持っていては大船・新型船には乗れないのである。今の世界の体制を見れば、富国はその富を離したくないのである、それを持ったままで、どうにか新しい船に乗ろうとしている、各国首脳たちは出来ない話を話し合っているのである。彼らは新しい国を立てるのに、旧い体質やシステムを持ち込みたがっている。そのために埒の開かない話し合いが延々と続いてきたのである。誰かが、一番のリーダー格が、おれ、それもうやーめた、一抜けた、と言えば、一番なのである。リーダー格と仲のよい者が、彼を別の向きに引っ張っていくことも出来る、その打診くらいはしてもいいだろう。彼がいなくては何も出来ない、彼のご機嫌とりでは、その者はいつまで経ってもヒーローにはなれないのである。ただの意気地なしである。民衆は豪を煮やすであろう。

(2020年追記) 当時父神は、日本がアジアのリーダーになることを勧めていましたよ。でも今の国際情勢を見ると、日本はその時を逸したようですね。アジアの国々も必死に頑張り、自力で這い上がってきましたからね、日本のようなリーダーはいらないでしょう。リーダーに媚び売らずに、下々に恩を売っておけばよかったのにね。日本の外交はさておき、世界の国々は、それぞれに自国に得になることばかりを考えている、まるで反対方向に進んでいるんでいるようだが、ますます拍車がかかる一方という気がします。「世界平和国家・神の国」の実現は見えない。似たようなことは進められているようですが、似ていて非なるものもありますからね。新世界秩序ニューワールドオーダーやグローバリズムは、一つになる世界を吹聴しているが、陰謀論者のみならず、今それに危機感を抱く人たちがいるようですね。明治新政府が中央集権を推し進め、藩を廃して、県とした、地方の独立性・自律性が失われ、地方自治が衰退、地方の独自性・特色なども失われた。同じようなことが世界規模で起きる、国が廃され、国や民族の独立性・自立性がなくなる、文化や生活習慣、言語も失われていく、ある民族の一つの思想が世界を覆ってしまう、彼らの思想が世界を支配するようになるーー世界のどこに行っても同じ、つまんない世界になりそうですがねーー日本国や日本人は既にそのような思想に染まっている・犯されている(陰謀論者はそれを彼らの陰謀と捉えているんですね)、日本人であることを取り戻そう、そんな声を耳にします(「私は陰謀論者ではありませんが」と言う人たちも脅威を感じているようです)。父神が、西郷さんをリバイバルさせようと思ったのにもそんなわけがあるのでしょう。お蔵入りになっていたもの・「タイムカプセル」ですが、日の目を見せてあげましょう。


 息子たちの小さな群れ・「ドリームチーム」が「世界平和国家」に発展、話が大風呂敷を広げたように大きくなったので、矢面に立った息子、に戻そう。西郷、天の父なる神、どちらも自分の息子を矢面に立たせたのである、父の心中いかばかり。実に、神は、そのひとり子をお与えになるほどに世を愛された(聖書より)。西郷は民を、神は人をそのように愛されたのである。薩摩の民の中には政府と戦争しよう、言う者たちがいたのである。「西郷先生はどうお考えですか(戦争をすべきか、しないべきか)?」と聞かれ、西南戦争は西郷にとって不本意・出来るならしたくない戦いだったのであるが、「自分は一同にこの体を差し上げよう。あとはいいようにしてくれ」と、それが彼の決断であった。事実上民が反乱を起こすことを認めたのである。天皇とその国に逆らうことはよくないこと・大罪である、西郷はそんな誰もが百も承知のことを言って聞かせなかったのである、ただ、「自分は一同にこの体を差し上げよう」と言い、自分の命・運命を相手に委ねたのである。おれは君たちの事情・実情を分かっている、君たちが決めたことにおれは従う、どんな時にもおれは君たちと一緒だし、死ぬときも一緒だ、運命を共にしたいのだ。それがわれわれのリレーションシップ・結びつきである。主従関係・上下関係を超えた「われわれ」という一体感・親密感・親近感があるのである。誰が・何が間に入り、打ち壊そう、引き裂こうとしてもできないのである、そんな一つ体の結びつきであるーー神はご自分の体・御住まい・神殿としてそのようなものを望んでおられる。われわれ(のリレーションシップ)は永遠不滅だ。神が「われわれ(神々)に似るように、われわれ(神々)のかたちに、人を造った」ことの表れのような、彼らの姿・結びつきではないか。民は西郷に愛されていたのである。西郷は自身の身を滅ぼすほどに民を愛したのである。民に慕われる・愛されるリーダーだったのである。反乱軍のリーダーは、自分は罪人の頭である、国に逆らう不届き者である、その不名誉を引き受けることを潔しとした。

 きれいな言葉や、正しい諭し、中途半端に残り物を差し出す行為、その場しのぎにパンを与えて「神は慈悲深いよいお方です。ですからあなたも改心しなさい・悔い改めなさい」などと偽善・欺瞞でしかない。何の解決にも至らない、子供騙しだ、「ああ無情(レ・ミゼラブル / ジャン・バルジャン物語)」だって作為的な物語だ。銀の燭台が盗まれたって、牧師の身は痛まないのである、暑くも寒くもないのである。仮にその銀の燭台が偉い人からの預かり物で、それを失くした牧師がひどい罰を受ける、それでも牧師は盗人を庇う、それだったらそんな牧師の姿を見て盗人も改心するかもしれないが。自分の身を身代わりに差し出せない・自分が罪を着るわけでもない、そんな程度の牧師の徳が盗人を改心に導くなんて、子供騙しもいいところだ、物事の表面をきれいになぞって見せただけだ。まあ、「ああ無情レ・ミゼラブル」の醍醐味は、冒頭の牧師の徳と盗人ジャン・バルジャンの改心ではなくて、その後のジャン・バルジャンの生涯なのだが。西洋人は自分の徳を表に出して見せますけどね、何でもきれいにコーティングして見せますけどね、キリストは言っているんですよ。

ーーあなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(聖書・マタイ6:3・4)

自分で、いいことをやっている・施しをしている、なんて思う自体が、いいことでも施しでもないんですよ、自己欺瞞や傲慢ってやつです。あなたに対して施しをしようなんて、どうか私の行為を傲慢に思わないでくださいね、私は人に施すときそういう少しこわい気持ちになりますけどね。キリストが言ってることは、そういうことでしょう。聖書を曲解して読んでるのは、クリスチャンを自負する彼らの方ですよ。

「日本人は神様知らないからな」

夫は何かにつけて言ったけれど、本当のキリスト・キリスト教の真意を知っているのは、そんなこと言うあなたたちじゃないから。私は教会こそ行っていないが、自分を半端なクリスチャンとも、勉強不足で間違った考えのクリスチャンとも、思っていないから、正真正銘のクリスチャンだと思っているから。西郷さんや、ねずみ小僧、自ら罪を被った汚れ役がヒーローの本質だって知っていた日本人は、キリストを知っていたのよ。「汚れ役を引き受ける」の意義素は「他人のために、敢えて困難な状況に陥ること」となっている、正しくそれがヒーローでしょう。

 「先生はどうお考えですか?」

 への西郷の答えは、

「おれはどんな時も君たちと一緒だ。死ぬも生きるも一緒、運命共同体だ。君たちと運命を共にしたいのだ」。

それが答えだったのである。西郷にとっても民にとっても、勝ち負けはことの外なのである。彼らの間には、死ぬ時は一緒だ、と暗黙の了解があったのである。西郷が民に身をあずけ、民がまた西郷に身を委ねる、両者の愛・絆の確認行為なのである。互いの身・命のあずけ合い、委ね合いである。自分の身・命という最も大事なものを相手にあずける・委ねるのである。民は自分たちが西郷に愛されていることを知るのである、それは西郷が何をどう語るよりも、民を納得させたのである。(はた)から見て、どんなに「(合)理」に反するように見えても、互いに結ばれた彼らにとっては「(道)理」なのである。「理性」とは何か、理性的であるとはどういうことか。西郷は非常に理性的・理知的な人である、このようなことを引き受ければどうなるか、全て知っているのである。全て知っていて、尚・その上で・敢えて、そうするのである。そんなことをしたら我が身が危うくなる・我が身を滅ぼすことになる、何の得にもならないことをすべきではない、だったらその人は「利己的」なのである。「理性」があるとは言えないのである。理性とは、自分の欲望・欲求・利得とは反対の場所にあるのである。理性を働かせれば人は自分の利得を捨てるのである、つまり「愛」である、理性の働くところに愛があるのである。愛は盲目、愛は略奪、だったら、それは真実の愛ではないのである。人が利己的であるうち、広やかな神の愛は見えないのである、神にある理性(神のお考え・ご意思)を知ることができないのである。「どんなお考えがあって、神はこのようなことをなさるのか」私たち人は時に神に訴えかけるのである。神のなさることは、私たち人にとって知り難いのである。その全てが見えたとき、人は神に従いたいと思うのである。

(2020追記) 実は私は、神の愛を知らない、知識では知っていると思うのだが、その愛を感じることができない、実感することができない。そんなわけで、この物語は、ヒーローを探す旅であると同時に、愛を知る旅でもある。ヒーローは弱者の味方である、彼は下の者に慕われる・愛される存在である、皆が従いたいと思う人望あるリーダーである。


 神のお裁きーー神は、キリストが裁きの座に着かれた、最後の審判は始まっている、って言ったんだけどーーの前座が息子たちの物語だった、のか。息子たちを客引きに、日曜日はグランドにサッカーの試合を見に行こう、と言う人々を「教会」に招く、それが神の算段だった、と今頃気づかされた。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ(聖書・十戒)。日曜日は教会に行く日だゾ、なんて言ったて、働く父母には日曜日は家族の日なのよ。父は庭の草むしりや子供の守りをしなくちゃならないし、母は掃除して布団も干さないと、忙しいのよ、のんびり教会の椅子に座っている時間が惜しい、そんなあなたのために我が教会はあるのです。あなたの家のパソコンが直接神様とつながっちゃう、便利な時代になったわね。これなら曜日も時間も関係ない、あなた好きな時間に彼を訪ねることが出来る、個室でゆっくりお交わり出来るわ。

ーーあなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

また、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことばが多ければ聞かれると思っているのです。

だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

だから、こう祈りなさい。

 「天にいます私たちの父よ。

  御名があがめられますように。

  御国が来ますように。

  みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

  私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。

  私たちの負いめをお赦しください。

  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

  私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

  [国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。](聖書・マタイ6:5〜13)

我が教会にようこそ。神様は場所も時間も選ばない、あなたが呼べば即座に来てくれるのが神様よ、予約も順番待ちもないの(ヤブ医者だなんて言うなよ、ですって)、万人が一度に呼んでも応えてくれるのが神様だから。「24時間宅配サービス、即座に伺います」教会のキャッチフレーズはこれだな、チラシを出してくれって。地上じゃ神様の知名度はまだまだ低いから、せっせと宣伝しないと。

ーーよいことの知らせをを伝える人々の足は、なんと立派でしょう(聖書・ローマ10・15)

現代人の私は、足を使わずに指を使ってます、パソコンのキーをしきりに叩いてます。

(2020年追記) 12年前、こうして「教会」を立てるはずが、頓挫してしまったんですね。人は皆メッセンジャーなんですよ。人は自分が生きることで、メッセージを伝えるんです。「苦しい、痛い、悲しい、お腹が空いた、寒い」それもメッセーです。そんな負のメッセージを受け取った人たちは、そんな世界を変えようと働くことになっていたんです。私も、自分が神の言葉のメッセンジャーであることを自覚して、メッセージを発していくことにしました、それ以外にないんです。この地球は神様のボディ・体のようなものです。神様は私たち人に自身の身を委ねた、運命を委ねた。一緒に心中してくれるんだ(自分だけトンズラしちゃうの私は知ってるんだけどな)。私は神様の裏切りを根に持っている、私と神様の足並みが揃わない、大丈夫かな・・・



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