桜の花の散るがごとくに
日本人の好きな英雄に、西郷隆盛がいる。私は若い二十歳の頃、期待をもって西郷隆盛のビデオドラマを観たんです。西郷隆盛は「豪傑・英雄」などと日本人に人気のある歴史上の人物であるが、彼の人となりはどのようだったのだろう、どうしてそんなに人気があるのだろう。期待外れ、というか、彼は私の思ったようなかっこいいヒーローではなかったんです。明治維新がおこり、明治新政府が樹立される、天皇を中心とした中央集権国家・新しい国造りが始まるーー日本が新しい時代に突入する、そんな時、古い体制から抜け切れない郷里の武士たちに担ぎ上げられて、新政府と戦争をする。要するに国賊・国に対する反逆者である、なぜ彼がこの国の民に支持される英雄なのか、分からない。一国対薩摩藩(一地方)の戦いである、そんな負けが目に見えているような戦いをどうしてしなければならなかったのか、分からない。どうして、同胞の尊い血が流されるような戦いを自分が率いてやる必要があるんだい、「お前ら、そんな馬鹿なことはやめろ」って一喝したらいい、あんたが「おれはそんな(理に適わない)ことはしない」って言えば、あんたの民だもの、彼らだって考え直したかもしれないよ。新政府の要人であった西郷は、政府内で自分の意見が通らないことに腹を立て、郷里に帰って来てしまう。新政府には新しい国造りという理念があったはずではないか、そこを離れ、時代に乗り遅れたような人々のもとに戻りその長になろうなんて、新しい国造りはどうした、捨てたのかい。色々な疑問が沸き起こり、ビデオを見終えた私の胸はすっきりしなかった。西郷隆盛は惨めに負けた英雄だった、私が期待したようなかっこいいヒーローではなかった。ナポレオンやヒトラー、連戦連勝、戦の神のように自国に勝利をもたらし、国民の喝采を受ける、カリスマ的強い統率力で国を一つにまとめ上げる、そんな西洋の英雄の華々しさからすれば、西郷はかっこ悪かった、私の理(合理・理知・理性・利得・功利・効率)を満たすものではなかった。理解し難い存在だったのである。
私は、学校の歴史の教科書で「西郷隆盛、征韓論」と習った。この征韓論(朝鮮侵略論)というのも西郷さんという人を分からなくさせるものであった。他国を侵略しようなどという思想の持ち主がヒーローであるはずがない、本当にわけの分からない人だな、私は思ったのである。新政府の中には二つの意見があったのである。一つは、国内に戦がなくなり武士たちは失業状態、力の余った彼らは暴動も起こしかねない、その力を国の外に向けさせよう、朝鮮侵略論である。もう一方は、いや、今はそんな時ではない、外国に軍など派遣させず、内政を整えるべきだ・優先させるべきは内政である。中学校の歴史の教科書など物事の表面をさらりと撫でるだけである、「西郷隆盛、征韓論」それだけ書ければ高校受験も通る、私が西郷さんを誤解したわけである。新政府が立つと、その功労者である西郷は勿論政府要人としてのポストに着いた、が、彼は自身の推す「征韓論」が敗れると、憤慨して、郷里薩摩に帰ってしまう。敗れた西郷さんは尻尾を巻いて田舎へ帰ってしまったか。自分の考えが通らなければ怒って、一抜けた、それだったら余りに子供っぽく感情的である。新しい国造りという一大事業も途中でほっぽり投げてしまった感である。
実は西郷が推した征韓論とは、武力を持ってすぐさま朝鮮を侵略する、というものではなかった。使節を送り、朝鮮と友好関係を持てるようにしましょうよ、相手が応じなかったら、その時は武力という威もありますよ。西郷は武力でよその国を侵略する気はなかった、武力はあくまで威である。なぜそのようなことが言えるかといえば、西郷はそれと同様のことを以前にやっているのである。京都御所内の会議の席に岩倉具視らは出席していた、岩倉ら新政府は天皇中心の新しい政治を行いたい、政治から徳川将軍を完全撤退させたい。対して相手は徳川将軍と幕府という旧いものにこだわりを持ち、新しい制度の中にそれを持ち込みたい・温存させたいと思った。両者の話し合いはまとまらず、このままでは時間ばかりが経ち一歩も前に進まない、外で護衛をしていた西郷がそんな中の様子を聞くと、私はこれを持ってますよ、使いたくはないですけど、ご用とあらば使う覚悟はあります、ちらり刀を見せたのであるーーこれで脅せば済むことだ、会議の席に戻る岩倉に西郷は耳打ちしたのである。話し合いがつかない場合、薩摩は武力を持って幕府を倒す覚悟だ、岩倉に言われ、それまで散々ごねていた相手であるが、びびって話し合いは即決。西郷は、相手に引きずられてぐずぐずと物事を引き延ばすことを潔しとしなかった、そのための威である。武とはさように有効に使うものである(決して無益に使ってはならない)、武は最終手段である、それが西郷の武に対する考えであろう。西郷は自国が武力を持つことの意味も知っていたし、相手に引きずられ時間だけが過ぎて何の解決にも至らない話合いにどう決着をつけるかも心得ていた、外交手段に長けた人物だったのである。武士の刀とは無益に血を流すためのものではない、話し合いさえ着けば、西郷はいつでも刀を鞘に納めたのである。
「江戸で戦いが起これば、民が巻き込まれます。何の罪もない大勢の人々の血が流されます」
という勝海舟の言葉を受け入れた西郷の英断あって、江戸城は無血開城(血を流す戦いなく解決に至った)。西郷は血を流したくなかったのである、何の益もないことに・流さずも済むことに血を流したくなかった。そのようなことを考えるとき、西郷が政府に反旗を翻して西南戦争を起こしたわけも、彼がなぜ征韓論を推したのかも見えてくるのである。
二世紀半という長い間続いた江戸幕府であったが、その支配力・統治力は衰えていた。最早幕府には国をきちんと治める力がない、開国した日本であるが、幕府は外国との交渉もままならなかった。幕府を倒し、天皇を中心とした新たな国政を造ろう、と政治変革が行われたのが明治維新である。その立役者が西郷隆盛である。さて西郷は、これまでのやり方が古くなったと知っていた、自身は明治新政府にある新しい国造りを支持したのであるが、旧い体制を捨てられない・それにより頼んでいる人たちがいる、彼の郷里の同胞・旧薩摩藩の士族がそうである。別のよいやり方が見つかった、自分たちの船は小さかったけど、今度はみんなで新型の大きな船に乗れることになった、だけどその船に乗るには君たちは今まで自分たちが持っていたものを置いていかなくてはならない、それを持ったままで船には乗れないんだ。新しいやり方とは一体何だ、おれはここに田畑も屋敷も持っている、それを置いて行くだって、「文武両道」素晴らしい教育だって持っている、今まで通りの教育を子孫に授けたい、このよいものを子孫に伝えて行きたいのだ、殿様もいなくなり、自分たちの忠義・忠心も消えてしまう、我々の家・武家が絶えるなんて考えられない。旧い制度・システムが壊されるとはそういうことだろう。「廃藩置県」ーーこれまでの殿様が治めていた藩を廃止し、代わりに県を置き、国が直接に治めることにしよう・国の直轄地にしよう。そのような新制度の導入に当たり、西郷は郷里の者たちに言って聞かせなければならなかっただろう、説明し、納得してもらわなければならなかっただろう。新政府はその難しい交渉役を西郷に任せた。西郷が激怒するのは当然である、苦心して承諾を取りつけてきた、そんな西郷の苦労に新政府は知らん顔で言ったのだ、彼らはこの船に乗れない、と。幕末の混乱と内戦(戊辰戦争)が治まったのは、西郷ら薩摩藩の武士のお陰である。新政府はそのために彼らの武(力)に頼ったのである。そうして国が平定されると、もう君らの仕事は終わった、ここには君らにやる職がない、と首切りである。それが命がけで戦った彼らへの報いですか、忠義も忠誠もあったものじゃない、皆で大きな新型の船に乗ろうと言った西郷さんの顔も丸潰れです、西郷さんが「お前らとはもう一緒にやれない」と出て行ったわけです。「御恩と奉公」彼らの中に長く根づいていたもの、その精神・忠義心・忠誠心を、新政府の者たちは甘く見た・蔑ろにしたのである。彼らが知っていたのは「合理」だったのである。昨日まで私たちはそうして働いてきたんですよ、なのに今日はもう職がない、どういうことだ、おれたちどうして・何をやっていったらいいんだ。戦がなくなることはいいことだ、だけどそれでは武士は職がなくなるんだ、その辺りをどうか考えてくれ、新しい国造りもいい、だけどそうして制度が変わって、自分たちのシステム・組織・会社が解体されて、おれの同胞たち・地方武士は何もかにも取り上げられてしまうんだ、そこのところをもう少し考えてやってくれ。我が身だけのことを考えれば、その時点で西郷自身は新政府の要人の地位に就いていたし、西郷の率いる薩摩武士は中央で近衛職、新政府の護衛や一揆や反乱の鎮圧などに就いていたが、その一握りを除けば地方の武士は失業状態である。彼らの鬱憤が一揆や反乱・暴動にもなっているのである。征韓論を推した西郷は他国侵略も戦争もする気はなかった、ただ、「軍隊」じゃなくても「自衛隊」ってかたちでも、彼らに仕事を与えてくれ、彼らがスムーズに旧制度から新制度に移行できるよう、どんな措置でも取ってくれ。君らにとって使い捨てでも、おれにとっては大事な民、同胞なんだ、大事以上、民とおれとは一つ存在、そんな関係なんだ。それが武士の主従関係だったんですね。彼らは主人のためにいつでも命を捨てる覚悟である、それが我が民である、だからおれも彼らのためには命を捨てる、それが道義ってもんだ。だから彼は、
「先生、立ち上がって戦いましょう、兵を挙げましょう」
と言う若者たちに、お前らにおれの体を預けた、どうにでもしてくれ、と言ったのである。彼は自分の民と共に戦う・命を捨てる覚悟を決めたのである。西郷は本当は、新しい国造りの象徴でもある新政府に反逆するようなことはしたくなかったのである。郷里に西郷が帰って来たことで盛り上がった薩摩藩士の士気、「西郷先生を中心に」と新たな未来・国造りに理想と熱意を抱く、血気盛んな若者たち、皮肉にも、そんな空気が戦いの口火となった。負ける戦いのリーダーを引き受けた彼は、知恵足らずの郷里の若者たちの先生で、担ぎ上げられた存在だったのか。
西郷が郷里に帰って来て見たものは、倹しい生活の中、若者たちが学問に励み、竹刀木刀を振るう姿であった。世の中・社会システムが変わり、士族の子弟の生活は困窮していたが、そのような中でも彼らはその精神を失わず、勉学に熱心で、「文武両道」心身の鍛錬に励んでいた。本当に良いものが受け継がれていた。彼らの姿は西郷さんに眩しく見えた。中央で彼が見て来たものとは対照的だったんですね。皆それぞれに私利私欲に走り、自分の思いを通し、好きなようにやりたかった、そのために派閥を作ったり、仲間割れしたんです。その生活ぶりを見ても、自らが特権階級みたいです。中央にいる間も、西郷さんの生活ぶりは「お偉いあんたがこんなところに住んで、こんな生活をしているんですか」と人が驚く質素倹約であった。西郷さんは、苦境の中にいる同胞を思えば、自分だけが贅沢三昧することは出来なかったんでしょうね。幕府の時代から、外国の新しいものを取り入れていたのが薩摩藩だったことから見ても、薩摩の民が田舎者で、知恵足らず、時代に乗り遅れた人たち、時代錯誤な旧式な人たち、だったわけではないんです。若者たちは広く新しい知識や思想を積極的に取り入れ、学び合い、新しい国造りに理想と情熱を持っていました。我々は我々の生活を守る、立て直す、再生させる、そして我々の手で新しい国造りをして行こうーー若い彼らが目指すものは、旧い武家社会を保守するというものではなかった、むしろ彼らが戦うべき敵としたのは「旧い制度」や自分たちの「今の窮状」の打破だったんです。彼らは新しい国造りという志に燃えていたんです。西郷は見抜いたんですね、新しい国造りはこの若者たちにこそあるのだと。新しい国造り、っていうのは、皆が平等で、下々の者が潤う、そんなのじゃないかね、そのために殿様は領地を捨て、武士は刀を捨て、彼らは解体されたのである。なのに新政府のやることときたら、解体された者たちの痛みなどお構いなしのよう。強い絆で結ばれていた彼ら(の社会・組織・からだ)は解体された、その痛み・犠牲の上に成るのが「新しい国」であり、その推進力が新政府のはずであったが、彼らはその任を慎み深く受けなかった。自分の身を切ったのは西郷さんだけだったんですね。言わば、自らが軍を率いて戦いに赴いていた現場職・下級士族が西郷さんだった、西郷さんと民の結びつきは強かった。西郷さんほど下の者、現地・現場の者たちと親しく交わっていた人はいなかった。現場の実情をよく知っていたのは、彼らと共に生きて来た・生活を共にした西郷さんだったんですね。岩倉使節団の岩倉具視はお公家様(出身)ですしね。征韓論を論を退け「内政重視」を唱えた欧米視察組であったが、彼らは自国の民がどうなっているか、現場の実情を無視していた・知らなかったのである。彼らは「切り捨て型のシステム」を導入することに躊躇いなかった。西洋の宝物庫を開けて見せられ、その進んだ科学技術や社会制度に魅せられ、一も二もなく、どんな深い考えもなく飛びついてしまった。西洋文化の流入は、長い年月培われた精神・武士道・日本人の美徳を一気に押し流してしまうものだったのでしょうか。彼らがモダンな洋服を着ているのに反して、西郷さんは簡素な着物姿で描かれている。日本人が西郷さんを好きなわけですよ、西郷隆盛を日本人の心、日本人の美徳、自分たち日本人を象徴するような人物と見ていたんですよ。
情に厚い、感情豊か、情緒に富む、そんな西郷さんのイメージを誰もが持つのであるが、西郷は情は深いが、情にのみ流される男ではなかった、しっかりと物事を見据えていた、と分かります。西郷はただ民を哀れんで、身内かわいさに、彼らの味方をしよう・彼らの側につこう、そう思ったわけではないんです。良い習慣や精神、古きを守りつつ、新しいものに対する欲(吸収欲)や敏感さ(アンテナ)も備えている、新しい国造りの理念もパワー(力)も、この若者たちのエネルギー溢れる姿にある、西郷さんは思ったんですね。西郷さんにとって、「新政府=新しい国造り」でも、新政府を去ること即ち新しい国造りの放棄でもなかったんですね。自分の理念のあるところに新しい国造りはあったんです。感情のみに流されないで、物事の本質を見ることができた、理知的な男だったんです。
新政府から見れば、自分たち中央政府にあるのが新たな国造りーー目指すは中央集権・中央一極型なんですよ。「西郷さんを中心に」なんて、地方権力・地方分権・地方自治は望ましくないんです。そのために「藩」を廃して、「県」と改め、国が直轄するようにしたわけですからーー地方に殿様・リーダーなんていらない、我々は一つの国であるから、一つの頭・頭脳があればいい、それが中央政府・新政府である。まして薩摩は武力集団である、「暴力団上がり」中央政府からすればそんな脅威なんです。よく見張ってろ、少しでも不穏な動きがあったら、こっちから攻め込むぞ、そのための兵も雇ってある。新政府は「徴兵令」を出したが、それを課されるのは農家の次男・三男である。自分の息子たちを兵に取られる、そのような徴兵制度自体を国民(下々の者たち・農民)は反対していたのである。そのようなことをするなら、組織され訓練された武士を「自衛隊」として常備してはいかがですか、溢れる失業武士を雇ってやってくれーー国内の反乱や一揆、治安の維持は勿論、彼らは外敵・外国との戦いにも怖じません、西郷の征韓論の真意である。「徴兵令」一つとっても、政府の政策は国民(武士にも農民にも)支持されなかったのである、農民をも士族をもどちらも殺すものだったのである。訓練もされない農民が武器を持って戦うことは彼らは殺されるであろうし、武器を取られた武士は生計も立たずに殺されるのである。ところが、自分本位な新政府にとっては、武士から武を取り上げるのが一番に思えたのである。地方武士・未だ武士の魂を持っている彼らは脅威だったのである、内戦の火種を抱えているようなものだったのである。西郷が帰った鹿児島県(旧薩摩藩)を政府がマークするわけである。西郷は勿論、そんな戦いをする気はなかったのであるが、皮肉なことに、戦いの口火は切られた。西郷にとって国に背く戦いは不本意であった、むしろ、どうにかして戦争を起こしたかった、そのきっかけ・口実が欲しかったのは政府の方なんじゃないのか。薩摩の民にあったのは、どうにかして自分たちの生活を立て直そう、この苦境を乗り越えよう、そして明るい未来を展望しようという自助努力だったのです、そのために勉学に励み、竹刀木刀を振る稽古もした、心身の鍛錬を怠らなかった。あんなにやる気があるのなら、きっと何かしでかすに違いない、政府は疑心暗鬼に陥った。
西郷は政府と戦う気はなかった、政府の疑心暗鬼である、と言うのも、先に佐賀で士族が反乱を起こし、その長である江藤が西郷に助けを出してくれるように頼んだ時、西郷はきっぱりと断っている。西郷にとって、新政府(自分たちの国・自分たちの頭)に向かって立ち上がることは「愚」だったのである。新政府は新たな国の幕開けの象徴であったし、政府は自分たちの国(の頭の地位)である、彼は新たな自分たちの国に反旗を翻さないのである、自分は今どんな立場にあろうとも・政府を退いたとしても、それは自分たちの国であるし、自分は自分たちの新たな国造りに協力したい、それが西郷の心であった。政府の中で同じく征韓論を推し、それが敗れ、西郷と共に退陣したのが江藤であるがーーであれば薩摩・西郷は味方についてくれるはずだ、佐賀・江藤には臆測があったろうーー西郷はそれを愚としたのである、自分はそのような派閥によっては動かないのである。「西郷は実は個人的に江藤によい感情を抱いていなかった、いついつのどうこうの件で」なんて歴史書の解説もそれこそ間違いである、人間てのはほんと了見が狭いんですよ、自分がそうであるからあの人もそうであるに違いないなんて、自分の尺度でものを見るんですよ。西郷はそんな狭い人間ではない。江藤(友・同胞)を見捨てる冷血さもない。江藤、お前は長としての自分の責任を取れーーお前も男だ、最後の締めは自分でどうなりとやれ、俺のしゃしゃり出る幕はない、とある意味江藤に花を持たせている、と思えるのである。自分の花道を飾りに行け、西郷の友に対するそんなこの世での決別の辞は、江藤の心にも届いていたものと思うーー俺は一緒について行けない、新しい国を灰にすることは出来ない、お前と俺が組んでやることはそんなことだよ、俺たち自身がその導火線・火付け役になることになる、リーダーとして俺の民を率いては行けない。俺たちの出番ではない、俺たちの時はまだ来ていない、その時が来たら華々しく大砲でも花火でもあげましょう、江藤を見送る西郷は『天命降れば・時さえ来れば、自分にもその覚悟はある』と呟いたであろう。西郷が江藤を断ったとしても、江藤に対するその心は同士に対するものですよーー人の心の奥底を映し出す鏡がここにある、それを覗いてご覧、と神は私に言われる。大義は新たな国造りである、そのためになると思えば、西郷は動くのである。そのためにならないと思えば動かない、それだけである、ぶれがないのである。
西郷は自分たちが戦に勝たなければならない・勝てる、とは思っていなかったでしょう。だったらなぜ、戦などしたのでしょう。彼は、何の益もないことに・血を流さずに済むことに、血を流したくなかったーーとすれば、彼らが流した血は益をうむものであった、血は流されなければならなかった、ということである。内戦の火種は地方に燻っていたのである、彼らの侍魂に火がつけは内戦は起きた、国は再び戦禍・戦火に飲まれたのである。あの薩摩が負けた、であれば、武士が刀を振るう時代は終わっただ、そんな見せしめを世にすることが必要であったーー新しい世を実現するには、誰かがこの役を買って出なければならなかった。流されなければならなかった血・犠牲なのである。西郷は、自分の愛する民を犠牲にしようと思われたのである。それがなかれは、国中が再び戦火で焼けたのである。国に反逆した彼が、英雄なわけである。ここに至り、彼の目指した「新しい国」は日の出を見たのである。彼は自ら旧世界の幕引きをし、新世界の幕を開けた、それが彼の戦だったのである。彼は新しい国造りという自分の志を遂げたのである。私は敢えて「戦」と「戦争」と言葉を使い分けた、西郷にあったのは「争い」「戦争」ではなかったから、「戦い」だったから。西郷は新政府と敵として戦った・争ったのではなかった、彼らの国造りを自分にできるやり方で手伝ってやろう、そのために俺は戦う。江藤に対して、俺の民を率いては行けない、と言った西郷であったが、我々の新しい国のためだ、共に戦い果てよう、と彼は自分の民に言ったのだったーーそれが彼らの戦であった。日本は革命国家ではない・革命による生々しい血を流して生まれた国ではない、と思っていたけれど、新たな国は血を流して生まれるものなんですね。日本が近代統一国家として生まれ変わる時、血は流された、西郷さんは革命児だったんですね。続く自由民権運動などを見ても、理想と情熱に燃える若い者たちの血が流れた、彼らは投獄や自らの血を流すことを恐れなかったんですねーーそれはキリストの追随者に見る姿です、彼らはそのような精神を持っていたんですね。お上品に教会の席に座るだけがクリスチャンじゃない、って私が思うわけです。人類は絶えず血を流してきた、人類の歴史は流血の歴史である。それが私たちが今このような姿で在る、ということである。自由や権利、快適な生活環境、様々なものを手に入れた私たちであるが、それは先人の尊い犠牲の血・積み重なった屍の上に成り立つものである。あなた方があなた方の父と母を敬わなければならない、という聖書の教えもそんなところから来ていると思われるのですが。
私は、神様なんて分からないけど、ご先祖様には感謝してます、今自分がこうしてあるのはご先祖様のお陰だからね、だからお盆にはお墓参りするし、そうして先祖を供養しています、私の友達が言った。クリスチャンの私の夫は、自分の母親に仏壇を捨てさせてことを得々と語ってました、母親は娘息子らに説得され泣く泣く捨てたようですが。夫にとって仏壇は異教の習慣、悪魔的なもの、偶像礼拝だったんですね。お葬式で焼香した夫に妻が、あなたクリスチャンでしょう(クリスチャンならすべきではない)と苦い顔をした、教会内でそんな姿も見た。両親がクリスチャンの一家に生まれ育った、生粋、バリバリのクリスチャンの妻と、妻との出会い・結婚をきっかけにクリスチャンとなった夫とでは、違っていたんですね。自分の方が早くからキリストを知っている、キリスト教文化の根づいた国に生活していた、と思う私の夫も、やはり私を「新米クリスチャン」、クリスチャンとしての正しい知識がない、と見做しているようでした。先祖供養や仏壇について、私は悪いイメージは抱いていないんですね。先祖に感謝し、供養をする、友達が言ったことは、自分が今あるを感謝し、先人を敬うというところで、「あなたの父と母を敬え」と言う聖書教えの延長上にあるように思えるから。祖母はお盆に仏壇にお供えをしましたよ。きゅうりやナス、ほおずきなど色とりどりの野菜だったり、爪楊枝の脚がついて馬のように形作られたナスだとかがわらの船に乗っていたり、祖母の工作を見て心楽しかった。クリスマスに色とりどりの飾り付けをするのと同じ様な嬉しさがあった。日本の農村て殺風景で色彩に乏しい、外国は飾り付けが多くてカラフルだ、私はそんなふうに思っていたんだけど、私が子供時代を思い出す時、見えるのはいつも、祖母の家の彩り・色取りのある庭だった、季節ごとの花が植えられていて、花摘みすることができた。庭にござを敷いて飯事するとき、『お花さんごめんなさい』そんな気持ちで花を摘んだ。お墓参りに行くときには、祖母は庭先の花をチョキンチョキンと切った。柏餅を包む葉も庭の木から取った。畑の野菜や庭の草花や木々は、彩・色取りに満ちていたんだな、草や野菜や葉っぱにしたって、濃いものから薄いものまで色々な緑色があった、と思う。山の新芽や紅葉、田園風景にしたって緑の水田から黄色の実り、季節ごとに変化のある色彩でいっぱいだったのだ、それらはクリスマスツリーの飾りつけのようにどぎつい自己主張はしなかったけれど、生活の中に溶け込み、人に嬉しさをもたらすものだった。アメリカのホームドラマは夢のよう、彼らの日常生活にも色が溢れている、対して貧しい日本の農村はモノトーンのように色彩に乏しい、そこで生活してきた日本人の色彩感覚も乏しい、私はそんなふうに思っていたが、日本人ほど繊細で豊かな色彩感覚を持っている民族はなかった、花や月を愛でたり、雛祭りも、鯉のぼりも、七夕飾りも、色彩のある季節の行事は多い。行事はまた家族を一つにするものでもあった。私は祖母や母がせかせかとそんな行事の用意をするのを見るのも嬉しかった、待ち遠しさが募った。畑仕事や庭の手入れ、食事の支度などの家事、包丁研ぎに至るまで、私は祖母のすることを見ることができた、大人と子供が一緒に生活していた。今って大人は大人で仕事に行く、子供は子供で学校や学習塾に行く、お互いに何をやっているのかよく分からない、親と子供が一緒にいて、子供が親から生活の仕方を学ぶ、そんな大人と子供が一緒の時間て少ない気がする。祖母は私たちがお飯事してるのをちょっと気にして、小豆の豆をお椀に入れてくれたり(私は本物の豆でお飯事できるのが嬉し誇らしかったり)、私は今日のおかずは何だろうと祖母の台所を覗いたり、お互いに見るともなく相手の姿ややっていることを見ていた。とても嬉しく、安心な子供時代だった。
毎朝仏壇や神棚にお水やご飯を供えることで、1日の始まりの引き締まった気持ちを持てるし、食事に対する感謝も芽生え、自分が真っ先に食べるんじゃないお行儀のよさも身につく。真っ先に優先するものが何か、見えない存在を認めている、優先するのは自分自身ではない、自分の(食)欲が真っ先でない、感謝の心であったり、人を自分に優先させて大事にする心であったり、仏壇や神棚が日本人の家にあることは、自分ファーストとは違う心を養うことになっていたのではないか。そう考えるとき私は、それらはただの思想ではなく私の経験則・肌感覚なのだが、仏壇や神棚をキリスト教とは違う異教のもの・偶像礼拝・悪魔的なものとし排斥することが適ったことなのか疑問なのである。それらを目の敵に駆逐しようとする彼らの考えに疑問を抱いてしまうのだ。日本人は無宗教・多宗教だと言われるが、日本人の日常生活の中に自然の色彩が溶け込んでいたように、神様・信仰心は日本人の中に溶け込んだものだったのではないか。日本人の神仏感は、自己主張の強いキリスト教の宗教観とは違うのである。表現の仕方が違うだけで、日本人は無信仰・無宗教だったわけではない。キリスト教を支持した民族が見える表の部分を整えようと戒律主義になったのとは違うだけである、彼らにとっては聖書も解釈を必要とする法律書なのではないか。自分たちの勝手な解釈で仏壇も神棚も偶像礼拝と決めつけているのではないか。日本人は仏壇や神棚を拝んでいるのではない、そこにある目に見えないもの・そこにある精神を大事にしていたのである、仏壇や神棚はその心の表れ・象徴だったのである。最初に形があって、形があるものを拝んだのではなくて、形のないものを拝んでいた、その形のないものに住まい・神殿・お宮を与え、そのものの象徴としたかった、それはそのものに対する畏敬の表れであったし、自分たちはこの一つのものを共有している、という旗印にもなったのである。キリスト教の神であるヤハウェ(エホバ)には神殿があったではないか、旧約聖書では神殿は大事な役を果たしている、神の臨在の場である。大きな神殿は戦争でもあれば、災害でもあれば、崩れ落ちてしまう。それを・神殿・神の臨在の場を小分けにして、家々・家族家族が持っていたらどうだろう、どこに移動するにも一緒に持って行くことが出来る、戦争や災害で失われることがあってもミニチュアであれば再建も簡単である。第一それは神そのもではない、神殿が崩れ落ちても、神そのものが失われた・ダメージを受けたわけではない。家々・各家庭は小さな神殿・神の宮を持ったのである、そこは神の宿る場である・人が襟を正し神と面会できる場である、面会したいと思えば人はその前に座ればいいのである。日本人はそのように神を小分けにした(実際の神が分断された・切り刻まれたわけではない)、同じ一つの神を皆が持った・共有したのである。一つのパンを分けて、皆がそれに預かった、ということである。お札やお守りも同様である、そこに神様の力が宿っている、神様(の力)を分けてもらっている、神とは有難い存在である、と考えるのである。お守りは一番コンパクトで、個々人が肌身離さず神の加護を携帯することが出来る、人が神と共に在ることの表れなのである。日本各地に神社があるが、どこの神社の神様はお参りしてはいけない、あそこの神社の神様は自分たちの神社の神様とは別のものだ、などと言わない・喧嘩しないのである。どこの神社も同じ、神様は一つ、同じ一つの神様を皆が信仰しているというのが、暗黙の了解だからである。無宗教でもなければ、多神教でもない。日本人は信心深い民であり、一神教である。狐や蛇などの動物や歴史上の人物を祀るのは問題あるがーーあなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。(聖書・出エジプト記20:4・5)ーー旧約聖書に記された十の戒律の中の一つに抵触するのである。自分とは全く違うもの、狐や蛇や、牛や象なんかを象って、これがあなた(の姿)だなんて言われたら、神様だって憤慨しますよよね。歴史上の人物を祀った靖国神社については後ほど説明します。日本人が宗教で戦争しないというのは、元の部分で神様は一つだ、神様とはありがたい存在だ、神様の教えは敬うべきものだ、と思っているからである。ルーズな多神教だから、他の宗教に寛容なのではない。しかし、こういった寛容さは、私の夫などからすれば、君は真のクリスチャンではない・「生温いクリスチャン」「白でも黒でもない、グレーなクリスチャン」ということになるのであろう。死んだ人を悼む式典がその家族の思う形式やその地方の風習に従って行われていれば、そこへ行く私はその彼らの形式や望まれるやり方に従います、それは私のクリスチャンとしての良心に恥じることではありません。焼香しないのが正しいクリスチャンだとしたら、クリスチャンとは余りに形式的です、あまりに無礼です。クリスチャンが伝えるべきものは、そのような風習や儀式(の形式を重んじること)ではなくて、その精神であるはずである、キリストの人となりであるべきである。よその土地へ来て無礼に自分たちのやり方を押し付けることではない。風習や儀式など形式的なものはその場所・土地柄によりまちまちであるし、その時代に応じて廃れも・変わりもする、風化して行く。見失っていけないのはそれの持つ本来の意味、そこに宿る精神である。
ーーすべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい(神は「これこそが有益であり、徳を高めることだ」と言っている、と思うのですが)。市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです(すべてのものは元来清いが、それを汚すのは人の心や考えである、と神は言うのでしょう)。もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい(自分が行きたいと思って葬儀に出席したら、その家の者たちは自分たちの良心に従って良かれと思うことをしているのだから、人の家に行って出された物をあなたの出した物を私は食べられません、そんなことを言う方がおかしい・恥ずべき・無礼・良心に反することなのだ。家の主人があなたをもてなそうと用意した食事を、毒が入っていますね・腐敗していますね、と言うようなものだ。家の者が死者を送り出そうと真心込めて用意した式である、彼らの良心ややり方を尊重して、焼香をするくらい何がいけないのだ、それで傷む私の良心ではない)。しかし、もしだれかが、「これは偶像に捧げた肉です。」とあなたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません(人が良かれと思ってしてくれたことは、受け入れるべきだ、ということだろう)。私が良心と言うのは、あなたの良心ではなくて、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか(私たちは自分がどうするも自由なのだ、他の人の良心を尊重することが、自分の良心を傷ませることになってはよくないが、それが自分の良心を傷めないと思うのなら、私たちは自分自身の良心に従って好きな振る舞いをしていいのだ。問題はそれをすることで自分の良心が傷むか、傷まないかである。あなたが良心を傷めることについて、神はあなたをさばくのである。もっと言うなら、神は私たちに良心を傷めて欲しくないのである、それは私たちの中の神を傷めることだからである。私たちは自分の良心の傷まない振る舞いをするべきなのである。それが真に有益で、私たちの徳を高めることであるーーくどくど分かりづらいですかね。要するに自分が良いと思うことはしなさい、悪いと思うことはすべきでない、従うべきは自分の良心、それだけです)。もし、私が神に感謝を捧げて食べるなら、私が感謝するもののために、そしられるわけがあるでしょうか(神は私たちに感謝されたいのである、つまり私たちに喜んでいていて欲しいのです。「♪いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい」歌の通りよ。私たちは良心・内なる神を傷めては喜びを感じることができないんです)。こういうわけで、あなたかたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を表すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、つまづきを与えないようにしなさい。(聖書・コリントⅠ 10:23〜31)
キリスト教の神様は、戦争を引き起こす神様だ、なんて神様が誤解がされている、それはクリスチャンと名乗る人たちの行いがそうだからです。彼らは人につまづきを与えているんです。彼らは偽のクリスチャンですよ、キリストの名を語った侵略者ですよ。キリスト教と言いながら、キリストの思想ではなくて、自分たちの思想を広めたかっただけですよ。それは西洋合理主義や植民地支配、自分たちが勝手に作ったルールを相手に押し付ける、相手が言うことを聞かなければ武力行使、自分ファーストな考え、かもしれません。
日本には神社とお寺という別々のものがある、神社は神を祀るものであり、お寺は先祖供養をするためのものである、日本人は先祖や仏壇を神として崇めていたのではないことが分かる、両者をきちんと区別していたのである。祖父母の家にも私の父母の家にも、神棚と仏壇の両方があり、神棚は仏壇の上、仏壇より高い位置に置かれていた。日本人が先祖を神のように祀っていたわけはないのである、先人に感謝し先人を記憶にとどめたい、彼らを自分たちの身近な存在として感じていたい・思い忍びたい、そんな心の表れが仏壇となったのではないか。神と仏は本来対立関係にあるものではなかった。それぞれ別の意味を持つ、違ったものだった。だから仏壇を勝手に神に敵対するもの、偶像礼拝、悪魔的などと、勝手な解釈で排斥するクリスチャンはいかがなものなのか、彼らは真実のクリスチャンなのだろうか。我が家は神道、我が家は仏道、などと分けが出てきたのは、「一神教」を豪語するキリスト教が入って来たことによる弊害、キリスト教を真似た、派閥・党派主義、信者集めの偽宗教が現れて来たからではないか。同じキリスト教でもカトリックとプロテスタント、私の夫はカトリックのことも激しく憎んでいた。カトリックもプロテスタントも同じ聖書の教えを持っているが、両者の対立のもとがどこにあるかと言えば、教会の中にキリスト像が飾られているかいないか、信者がロザリオ(十字架のネックレス)をぶら下げているかいないか、そんなところにあるのである。プロテスタントの夫は、ステンドグラスのあるような豪華絢爛、贅を尽くした建物をカトリックの悪徳だ、浪費でしかない、と言ったし、聖者の像を並べるのも、キリスト像すらも偶像礼拝にあたる、教会は屋根に十字架があるだけの簡素なものが望ましい、贅沢な建物も聖者像も、キリスト像すらいらない、自分たちはそのような偶像ではなく聖書にのみ忠実であればいい、教会のシンボルは十字架のみで事足りる、と言った。喧嘩の原因がくだらないと思いませんか。彼らは日本の神社仏閣をも同じ理由で攻撃しているんです。聖者像は仏壇、すなわち偶像礼拝だったし、数珠やお守りはロザリオです。これも私の経験則・肌感覚なんですけどね、私は実は子供の頃教会学校に行っていました。カトリック系だったと思います。私はその部屋でキリストの肖像画や十字架につけられたキリスト像(教会にあるような大きなものではなく、机の隅に乗るようなミニチュアでしたが)を見ました。十字架にかけられたキリストの姿はヒロイック・鮮烈で、幼い私の心を揺さぶりました。キリスト・神に対する私のイマジネーションが働きました。あのヒロイック(英雄的)な姿を教会の中で見られないとしたら、どこで見るのでしょう。どこで見る機会を得られるのでしょう。教会の中にあのヒロイックなキリストの像の一つくらい置いてあった方がよい、私はそこから・キリストのその姿からイマジネーションを養い、霊的なものを受けた・得たのですから、と思うのです。私はあの像を拝んでいたのではなく、その精神やそこにある霊的なもの、見えないものを拝していたのですから。建物を取り壊せ、像を除き去れ、そんなことを言う、そんな見える部分にこだわる、そんなことのために唯一神を分断する、一つのもので取り合いの喧嘩をする、「キリストは自分たちのものであって、お前たちのものではない」そんな争いをする、あなたたちの方が偶像礼拝なんじゃないですか。私が教会から遠退いたわけです。
「私は神様から直接話を聞いてるから、教会に行かなくてもいいの。私が『分からない、教えて』って言えば、神様は何でも教えてくれるから」
私がこんなことを言ったので、もちろん夫は不味いものを食べた時のような顔をしましたよ、臭いものでも嗅いだような顔をしましたよ、
「君は間違っている。君は牧師先生より偉いのか。君がどんな間違いを犯しているか、牧師先生に聞いてみたらいい」
って。彼は私をお話しにならないクリスチャン、何の知識もない、勉強が足りていない、そんなふうに思っていました。だけど神様がこんな風に口を開くとは、彼らの方が勉強が足りていない、何の知識もない・無用な知識を振りかざす、お話しにならないクリスチャンなんですよ。
最後、靖国神社のことに触れますが、神社に死者を祀って、神様(信仰)と仏様(先祖供養)・神社と寺をごっちゃにしてますよ、偶像礼拝はこうして忍び込むんですよ。だけど、クリスチャンと名乗る人の中にも、靖国参拝する人たちの政党に票を入れている人たちはいるんじゃないですか。そうやって偶像礼拝を容認・支持しながら、人には仏壇は偶像礼拝だだの、葬式の焼香はだめだだの言っている。自分勝手な間違った解釈をしているんですよ。私は自分では仏壇も神棚も持ちませんし、神社やお寺に敢えて出向くこともしませんが、それを持ったり、そこへ出向いたりする人を批判したりしませんよ。それでも自分を正真正銘のクリスチャンであると明言できますよ・宣誓できますよ。
(2020年追記)これを書いたのは12年前であるが、世の中の問題解決は依然されていない、以前同じような状態だ、いや更に悪化・深刻化していると思われる、問題というのは時間に任せていてよいものではない・時が解決するものではない、と気づく。そしてさらに驚くのは、西郷隆盛が活躍したのは150年も前であるが、軍事・自衛隊の問題、時間だけが費やされ解決しない外交問題、武士の首切りも、現代のリストラ(終身雇用制度の崩壊と労働者派遣制度の導入)に通じるものがあります。問題解決がなされない根本・根底には何があるのか。清廉潔白、愛国心に満ち、外交にも長けた、西郷隆盛のような政治家が出てくるといいですね。