プロローグ
プロサッカーに、雅也のようなディフェンダーがいたらいいのにと思う。自分の役割をきちんと把握しつつ、時に中央突破で上がって行く、完成されたフォーメーションに縛りつけられていない、臨機応変な立ち回りができる。近頃は雅也の中央に上がる姿は見られない、彼の前に中継の翔(植中MF・ボランチ)・頼もし君がいるからだろう、そんなふうに雅也はチームや自分の役割をよく知っている。このチームの良い点は誰もが自分の役を知り、それを確実にこなしている、このチームが完成したと言えるわけである。初めの一歩を踏み出した次男のチームと完成された長男のチーム。サッカーが一点を取るのが難しいスポーツだと言うことは、ディフェンスは守りではなく、手堅い攻めなのだ、そこが強ければチームは攻めの態勢にあると言うことだーーフォワードが点を取ることだけがチームが攻めていると言うのではない、ディフェンスが固いことが、またチームが攻めていると言うのである。次男のチームを見たらよい、彼らは点を取ったが、点を取られている、攻めていたのではなくて攻められていたのだ。ディフェンスの雅也がチームの要・最重要人物なわけである。晃太が線の細い中性的な魅力を持つとしたら、雅也はもっとぐっと男らしい、シャープで気骨ある男なのだ、フィールドの上の美しい黒豹。二人の男らしさには違いがある、対照的と言っていい二人であるが、そのコンビネーションは絶妙である。雅也は晃太にへばりついて、晃太を保護しているわけでない。晃太の役は晃太に任せる信頼感、離れた場所からいつも晃太を見ているチームメイトへの心配り、ピンチとあらば疾風のようにやって来る間一髪の救済劇、雅也の優れた身体能力のなせるわざである、雅也の真似は誰にも出来ない。雅也のプレーには、彼の優しさ、チームメイトへの愛情がにじみ出ている。雅也のプレーを見たら、僕は雅也みたいなディフェンダーになりたい、そんな子供たちが現れるのではないか。私もそんな生のサッカーを見るまでは、フォワードがかっこいいと思っていた。私が知っていたのは、子供の頃に見たテレビアニメ「キャプテン翼」のフォワード翼君のかっこいいシュートシーンだったから。あれは漫画のキャラクター、生身の選手のプレーではないよ。だけど、そんなのが小学生のサッカーの「フォワード神話」になってる・根底にあるんじゃないか。小学生は、僕フォワードだったら、絶対、絶対、点入れるよ、だけど、ディフェンスだとやる気出ないな、と言う。「キャプテン翼」さすがにあれは古いよ、私の小学生時代だ、大昔だよ。そんなのが未だに「神話」になっているようではだめだよね。私は雅也という生身のディフェンダーを見て、その華麗なプレーを見て、また、晃太というディフェンダーの真摯な姿を見て、また、秀俊というディフェンダーの自分のポジションにかける熱い思いを見て(彼はサッカー始めた最初からそこに立ったんだよ)、ディフェンスというポジションが好きになった。そんな生の・生きのいいサッカーを提供するのが、プロサッカーの役目なんじゃないかな。僕は、あの選手みたいなプレーがしたい、あの選手のあんな技を習得してみたい、子供たちがそんなふうにプロサッカーを見る、見習う、そして見習うと言う模倣から、自分たちのサッカーを探り出し、見つけ出し、形にしていく・表現していく。自己を表現していくフィールド(活躍の場)を見つけ、広い世界に巣立っていく。私がなぜ、息子たちのチームを「ドリームチーム」と呼んだのか、分かるでしょう。雅也も、晃太も、秀俊も、みんな輝いているでしょう。どんなポジションでも、一生懸命やれば輝けるんだよ。フォワードをやりたいチビたちへ、先輩たちはメッセージを送っているよ。我らは「元祖ドリームチーム」ーーこのチームはこの一連の大会が終われば、三年生は引退し、解散となる。が、彼らはその「鋳型」を残す。鋳型の中にあるうち、実物・本物は完成しない。鋳型を抜けたとき、実物・本物が出来上がるのである、その意味で鋳型は脱皮の殻・古い角質と言える。だから、彼らが残す鋳型とは、形のある型ではない、この通りに、俺たちがやったのと同じ形でやれ、それでは「完成されたフォーメーション」と同じ姿になってしまう。彼らが残す鋳型とは、その「精神」である。
時代の流れと共に形が古くなったものがある、が、そのもには、そのものが本来作られた・生まれた意味や目的がある。例えば、日本という郷土に根差した四季折々の行事など、雛祭り、端午の節句、七夕、お月見、秋の収穫祭、お宮参りなども、廃れたもの、本来の意味とはかけ離れたもの、形骸的なものとなる。現代の人々は古びたそういったものを捨てていくのであるが、かつてそこには確かに、そういったものが行われる意味があったのだ、そういったものが途絶えていくということは、それを受け継いできた人々の精神が途絶える、ということである。
(2020年追記)例えば、私は子供の頃、雛祭りなど嬉しかった、お雛様を出してきれいに飾ったり。お月見も、満月の見える場所にテーブルを出して、花瓶に秋の草花を生けたり、お団子をお供えしたり。何か(例えば雛祭り当日、お月様の出る時間など)を心待ちにして、時間や手間を惜しまずその準備をする、そんなのが嬉しかった。一日中働いて日が暮れてから帰ってくる忙しい母親、子供たちも習い事や学習塾に忙しく、家族皆が揃うことも難しい、忙しい現代人が忘れてしまった贅沢があった。私は大人になって雛祭りが好きでなくなってしまった、嬉しい、晴れやかな気持ちで娘たちのために祝ってやることができなかった。お雛様も、鯉のぼりも、嫁の家が嫁ぎ先に買って出すものという田舎の風習があり、どんなに豪勢なものを買って出すかで家の格が決まる、そんな見栄の張り合いの象徴のようになってしまったから。そこから私と夫との結婚生活にも綻びが出ることとなったから。今時代七段飾りの大きなお雛様も、鯉のぼりも、若い夫婦の家には飾る場所もない。私たち親世代も、自分たちの親のようなではなく、誰もが生活するのに厳しい時代という背景もあり、豪勢な祝い事を好まなくなったのかもしれない。5月の晴れやかな空に泳ぐ大きな鯉のぼりなど田舎でもほとんど見なくなった。そんな廃れるもののために夫婦の間に亀裂が入ったのかと思うと、何とも言えない気持ちである。家(柄)であるとか、私たち世代はそのような悪弊を捨てたのであるが、鯉のぼりは消えても、そこに託された精神が消え去ってはいけない。
雛祭りや端午の節句、子供の健やかな成長を願う気持ちの現れである。その行事は廃れても、その精神は古今東西変わらないものである、世界のどこの地域にも似たような行事があるだろう、形は違ってもその精神は同じなのである。神社仏閣が関わるような祭りごとや行事は、私の2番目の夫は好きではなかった。異国籍でクリスチャンである夫は、ほかの神々が関わるような物事を憎んでいた。私は子供たちをお宮参りや七五三、初詣にも、神社に連れて行ったことがない。最初の夫とのことがあったので、面倒な行事ごとをしなくて済んで幸いとも思ったが、それはそれで寂しいものであった。日本ほど子供の成長を願う行事が多い国はないようにも思えるので、それがないというのは子供たちも寂しい思いをしただろう、今となって思う。そんな宗教的なことが世界戦争にまで発展している。それは宗教を傘に何か間違ったこと・自分たちの考えを押し付けるようなことや自分たちの利得を忍ばせるようなことをしているからではないか。かたちは違っても、豊かな収穫を神に感謝する、そうして見えない神の存在を称える、その精神は同じものであるはずである。神様がこうも分離してしまったのは、何か混ぜ物をした神様を人が勝手に作り出したからなのではないかと思ってしまう。夫は私を「生温いクリスチャン」「勉強不足のクリスチャン」と言い、私は夫を「権威主義のステレオタイプのクリスチャン」「鼻がかりなクリスチャン」と言い、我が家にも宗教戦争の嵐が吹き荒れた。同じクリスチャン同士がこうも分かり合えない存在だったなんて、いや、同じクリスチャン同士だからこそ互いの信念を曲げることができなかった。クリスチャンて何よ、クリスチャンて名乗る人が、実質クリスチャンであるとも思えなかった。日本人はキリストを知らない、なんて蔑まないでよ。教会に行っている自分たちだけがキリストを知っている、なんて自惚れないでよ。私はそんなクリスチャンの群れには属せないの。日本人の心の中にだって、教会に行っていない人たちの心の中にだって、神様はいるから、彼らはキリストを知っているから。神は唯一である、その同じ神を皆が称えるのである。神はわれわれの心のうちに住む存在である、われわれの心が一つであれば、神は一つ、世界平和の神なのである。われわれ(チーム、世界国家)は一つの心、一つの存在、運命共同体、それが「元祖ドリームチーム」が後世に残す遺物・模範の型である。
(2020年追記) 2010年ワールドカップも終わり、次男と二つ違いの三男(H.13生まれ)の時代になると、出て来ましたよ。「ぼくは長友選手みたいなディフェンダーになりたい」って、三男のチームメイトは言いましたよ。日本のプロサッカーにもそんな生きのいいプレーを見せるディフェンダーが出て来た、それを目標にする子供たちが出て来た。この世界の未来を占う存在が子供たちだとしたら、私はちょっと不安なんです。長男たちが残したものを、三男たちは受け継いでいるのかと、同じサッカー部の中でもいじめがあったりする。祖父母も、近所の人たちも、日本人は皆が子供を大事にしたんですよね、季節や地域の行事にもそれが表れていたと思うんです。近頃子供は、父母にも虐待されてしまうでしょう、どんな助けもない・誰も助けてくれないでしょう。おじいちゃんやおばあちゃん、保育園や学校の先生はどうしたんでしょうね、福祉職員や警察官はどうしたんでしょうね、誰も子供たちを助ける権威を持っていない。
私たちの生活がいかに快適になろうとも、私たちの生活様式がどんなに変ろうとも、そこにあった精神をなくしてはいけない。古いものを温め直したときに、新しいものが生まれる、古いものの中にあるよい精神を受け継ぎ、時代に合った新しいかたちのものを作り出す、「温故知新」です。「型(旧式なフォーメーション)を破った」息子たちのチームの活躍に見たものは、そんな精神だったんです。私は少し心配になります、息子たちは「温故知新」の意味を知っているのか? 「曲者」の読み方が分かるか? 思わず「くせもの」とカナ振っちゃいました。「チームプレーは皆一人一人がヒーロー、一人一人の頑張り、輝き、技が、チームの頑張りであり、チームの輝き・栄光であり、チームの偉業である」私はそんな言葉を彼らに冠したけれど、そんなのを見せつけてくれた彼らだけど、「技」と「業」の掛詞に気づいたか、体力だけでなく、知力も鍛えないとね。今こそ、われわれ「世界国家」は知恵を絞らなければならない。世界の一部で戦争が起こればそれはたちまち全体に飛び火する、一部で伝染病が発生すれば瞬く間に世界に広がる、世界が狭くなり、私たちはそのような危機感を抱いている。正に世界は一つのからだなのである。身体の一部に病があれば、全体を脅かすのである。
「植田、一丸! パス攻勢だ つないでつないで3年ぶり参戦」
それが新聞の大見出しだった。「ボールに先に触れ」のコーチの指示通り、相手キーパーが蹴ったボールもうちのチームが先に触った。それを「つないでつないで」ーーパス出しが上手い場合もあるし、パス出しにズレがあっても受け取りが上手い場合もある、つまり多少のミス・ズレは上手くカバーできる、ミスがミスにつながらない、連携がいいのである。彼らのパスワークのよさは、彼らはパス出し(の正確さ)以上に、パス受けの方が上手かった、どんなボールもさばく・見捨てない翔君スタイル・職人気質の生真面目さはこのチームのスタイルでもあったのだ。「受けが上手い」とは、彼らは相手に合わせることが出来る、相手のミスをカバーすることが出来る、そのために必死に走る、脚を出す、のである。それがこの「つないでつないで」なのだ。彼らに冠するなら、「フォーメーション」の完全性よりも、むしろ、「コンビネーション」の完全性なのだ。一人一人のプレーに個性が出ている、彼らのプレーには自由な自己表現があるが、自己顕示・私欲がないのである。私はそんなところにチームとしての「成熟度」を見る。これだけの自我・個性の集まりが、これだけのまとまりを見せるのも珍妙である。私はつくづく新聞に載った彼らの写真、その一人一人の顔を眺めて、本当に彼ら(とうい一つの存在)はみょうちくりん、とらえどころがない存在・ユニークな存在である、と思った。世界国家の生き残り(滅亡か存続か)は、一丸、連携、私欲を捨てる、私服を肥やすことなく誰もが真面目に働く・職人気質な勤労、息子たちが見せてくれたあの姿、そんなところにかかっているのではないか。「ドリームチーム、世界を救う」そのうち新聞の大見出しに載るんじゃないか、大袈裟な話でも何でもない、君らはそんなヒーロー(戦士団)なんだ。
あれ、うちの息子の出番がないままに終わっちゃうぞ。輝、この物語のアンカーは君だよ。アンカーはどんなに差が開いても、最後まで一生懸命走る、その一生懸命な姿に皆が拍手を送る、そういうものだよ。このチームの「未完成」部が君である。皆、鶏冠のかっこいい雄鶏になったのに、うちの息子だけがまだ産毛のひよこちゃん(身体のわりに変声期は遅かったし、ほんと未だ産毛・ひげも生えずに女みたいにきれいだ)。出来ない息子を持った母の焦りも分かります。君のスコア表を開いてみよう。ここだけ(フィールド上君の立っている場所だけ)雰囲気違うんだよね。輝、「蹴鞠」って知ってるか? 奈良・平安時代の貴族が袴はいて庭先でやる優雅なお遊びだ、みんなはサッカーやってるけど、お前がやってるのは蹴鞠なんだよ。母は息子にきついね。君は、自分を晃太と比べるな、どうせ比べるなら雅也と比べてみろ。晃太が持っているのは刀一本だ、だけど、剛太の刀は切が味がいいぞ。君のプレーは切が悪いんだ、中途半端なんだよ。なぜだか分かるか。君は晃太よりも多くの武器を持っている、背も晃太より高い、走るのも晃太より速い、なぜ晃太と自分を比べる。白銀の甲冑の身を包み、白馬にまたがった、麗しの君、西洋の騎士のように優雅なそのいでたち。なのになぜ、君は怯えるのだ、敵の強さに怯えるのではなく、君の敵は君の中にいる・自分自身である。己に打ち勝つことの出来ない君の哀れである。君は小学校の運動会で毎年個人走で一等賞を取る、二等賞には必ず入った、なのにリレーの選手になったことがない。運動会でリレーは花形競技である、君がヒーローになれる場である、それを毎年君は辞退しているのである。小学校1年生のとき・初めての運動会で、速く走ればリレーの選手に選ばれることを知らなかったから、君は辞退できなかった。君はリレーの選手で走ったが、抜かれたんだ。相手は今陸上部にいる雄太、雄太は小学校の卒業文集にも「将来の夢、オリンピック100メートル競技で世界最速」って書いてるぞ、雄太が速くて君は抜かれた、以来君はリレーの選手を辞退し続けていたんだ。弱い者とは戦えるが、強い者とは戦えない、君が自分を晃太と比べ、雅也と比べないわけだ。輝は身体がいいから、これからもっと(背が)伸びてくるだろうし、中学になったらいい選手になるんじゃないか、Sコーチは言っただろう。輝、Aチームに選ばれたよ、(合流組では)輝だけだよ、二年生の初め秀俊母は言ったぞ。だけどどうだ、ここに来て、結局君は晃太にも抜かれ、ドンケツということだよ。君はいつも、かっこ悪い姿は見せられない、失敗したらかっこ悪い、と思っている。失敗しそうな場面はなるべく避けて通りたいんだ。僕の「イケメン」に傷がついたら大変だ、そんなこと思っているのか。そうだよな、「正統派ジャニーズ系」とか、「イケメン」とか、みんなに言われるだろう。君は絶対に失敗できないんだよ、その顔に泥を塗ることが出来ない、君はそんな思い違いをしているんだよ。結果、君はかっこ悪いんだよ。君のプレーには迷い・邪魔・雑念がある、晃太とはまるで逆なんだよ。どんな「負」もない君は「腑抜け」・腰抜けなんだよ。君のイケメンという「プラス」は君の「負け」にはなるが、君を鍛えるものとはならない。君は自分の容姿・外見ではなくて、別のものを磨かなくちゃならないのに、その鍛錬がおろそかになるんだ。コーチは試合中よく君たちに身体の向きのことを言うだろう、「どっち向いてるんだ、身体の向きが悪いぞ」って。彼は別の方向を向いている・向くようになるんだよ。毎朝、髪のセットに余念がないことで、ご苦労様。だけど、その髪型は人のパクリで、本当は君の髪質に合ったものではない。君の柔らかな髪を無理に突っ立たせている、似合わないんだよ。君は間違ったことばかりしている。つまりイケメンは+要因ではなくて、−要因なんだな。お前の妹も最近きれいになったから、よく鏡を見る、髪を切った時なんか二時間も、三時間も鏡を手にしていた。私は、この娘も、息子以上に心配である。私は手のかかる息子たちにかかりきりで、大人しく手のかからない娘はほったらかしになっていた。男兄弟ばかりの中で彼女は孤独である。家の中でも自分は余り相手にされていない、と彼女は感じているだろう。彼女は何が得意なわけでもない、ピアノも、テニスも、長続きしなかった、勉強も芳しくない。そんな彼女が年頃になり、外で「きれいだね」と言われたとしたら、私の武器はこれだ、この美貌を武器にしよう思ったら、大変である。「女が容姿のきれいさを武器にしようと思ったら、とんだ間違い犯すよ」私は言った。私は苛々のあまり、ある晩とうとう怒鳴った、「お前ら兄妹二人、気持ち悪いんだよ、鏡ばっか見て。そういうのナルシストって言うんだ」。ナルシスト、自己愛、これは最低最悪である、そんなところへ落ち込むのである。君の存在価値はそれとは全く別のところにあるはずである。イケメン男はそれを見出すことが出来ない・出来にくいのである、彼は男としてはあまり上等ではない。私は息子・娘に言う、お前らについて来る女・男はあまり良くないと思え、外見重視、それに騙されるような女や男だからな。私は彼のサッカーについてはどんなことも言わない、ただ、それ以前・彼の人間性に問題があると言うのだ。それゆえ、彼のサッカーも上手いものとはならない。
(2020年追記) 自分がイケメンだ・かわいいと思っている子供ほど、うっとりと時間をかけて鏡の中の自分を見ますよ、そこに価値を見出して欲しくないんですけどね。今思うと、子供たちが鏡を見るのも成長の過程、目くじら立てなくてもよかったとも思いますけど。目的もなく、自分にあまり自身のない若い彼らが着飾るのも成長の過程。自分に色々な服を着せてみたい、きれいな服でも着れば、若い彼らは自分でも魅入る(見入る)ほどに美しい、それは本当ですよ。だけどそのうち、飽きる、気づく、するとそういうことに時間や労力、金を使わなくなっていく。自分の美しさに人が寄って来たって、それは不実で薄っぺらい付き合いだ、煩いである。美しさや人気を売るホストなどは、自身の中に何かコンプレックスや歪みがあるんですかね。
息子のサッカーを少し評価しよう。君は、腰抜け発言を連発している。合宿から帰って来て、「やばいよ、おれ、PKになったらどうすっかな」。合宿でPK外したのか? 「大丈夫だよ、輝まで回んないよ。その前にけりが着くよ。順番で行けばまずは〇〇だろう、次に〇〇で・・・・」和也が言い、「そうかな、ならいいけど」、この会話は何なのでしょう。輝はディフェンス左サイドだけど、ドリブルで随分前まで上がって行ったから、「お前、剣ちゃんにボール上げられないのか? だったら自分で入れてもいいぞ」私が言うと、「おれは外すから」。だったらちゃんと剣ちゃんに渡せ、自分で入れるつもりもない、剣ちゃんにちゃんとしたパスも通せない、だったら何のためにあそこまで上がった、君のプレーには意味がない。目的意識を持ってプレーしていないんだよ。ボールがゴールに入るイメージを描け、そのイメージをチームのみんなと共有しろーー君は鼻から失敗するイメージを描いている。どうすっかな、どこにやったらいい、そんなその場しのぎの処理をしてはいけないんだよーー君のプレーのキレの悪さだ。だから君のパスは受けづらいんだ、君がどんな目的で、どこに、どんなタイミングでパスを出すか、誰も予測できない。君のアクションを予測できないのは、君はうつむき加減に走っている、剣ちゃんにパスを出すなら、もっと剣ちゃんの方を確認しろ。自分のタイミングを欲するんじゃなくて、剣ちゃんのタイミングを見計らえ、君のプレーは自分本位だ。自分が失敗しないタイミングが欲しいんだ、君が相手の立場・立ち位置を思い遣れない人間だと言うことだーー君の自己愛・自分かわいさだ。剣ちゃんが失敗した・シュートを外したんじゃなくて、お前が失敗したんだよ、剣ちゃんに彼が失敗するようなパスを出してしまった、お前のミスだよ。この判断ミスは、彼が自分しか考慮に入れにことから起こってくる。処理に困ったボールを剣ちゃんにパス、そんな無責任なプレーをしてしまった。君を責めてるわけではなく、大人の世界でもそんなことがあるってことだよ。彼の白銀の鎧は保身である。彼は身にまとわりつく邪魔なものをかなぐり捨て、必死で走らなければならない。もう間に合わない、と思いつつも(いやそんなことを思ってはいけない)、「走れメロス」は友のために走ったのである、裸で走った彼を人々は喝采を持って迎えた、彼は英雄である。「輝、すごい顔して走ってたよ」今年の運動会のリレーを見た彼の妹が言った。出だしずっこけたから、必死になったんだろう、それでも抜けたのは二人だったな。中学になってから彼はリレーの選手を引き受けている、小学校の紅白対抗ではなく、中学校はクラス対抗なのでクラスの半数近くがリレーの選手だったから、そこに選ばれないのは返ってかっこ悪いと思ったのだろう、あの身体で、サッカー部だし、出ないわけにはいかない。だけど私は、一度も彼のかっこいい姿を見たことがない。いつも安全地帯を取ったし、珍しく今年は第一走者だったが、スタートでこけた。こけなきゃ一番になるはずだったんだ、彼はいつもそんな言い訳や言い逃れをする。勉強? おれはやれば出来るから大丈夫だ。だけど、やれば出来る、って言うんだけど、いつやるの? そう言いながら、やらないで終わっちゃうんじゃないの。それが彼の人生だろう、リレーも、サッカーも、とうとう活躍せずに終わってしまった。大成しない、先が見えてる。なんか滅入ってくるわね、これ書いてて。そろそろ切り上げたほうがいいわね。最後に、神は、自分に与えられたわずかものもを有益に使った者・「よい管理者」には、更に与えられる、与えられたものを無駄に腐らせた者・悪用した者・「悪い管理者」からは、持っているものまで取り上げられる、と言われるーー神の国が到来するときにはそのようである。それまであなた方は与えられた富(才能・自分の持ち物)をしっかり管理離、保持しなければならない。それは神から与えられたもの・預かったもので、自分のためではなく、世のため人のために用いられなければならないものである、それが富の正しい使い途である。
息子一人を矢面に立たせたが、こうでもしなくちゃ人の前に立って誰かを庇おうなんてしないのが彼だからね。彼は、ヒーローになりたくないのである。彼がそんなふうに思うのにはわけがあった、と私は気づいたのである。彼はヒーローになりたくないのである。ヒーローは「失墜する権威」だからである。自分の父親は妻をよその男に取られ、次の(弟たちの)父親は妻に家を追い出され(彼の母親は「バツ2」)、自分がやっと見つけたヒーロー・小学校の時のサッカーコーチも、クラブチームの設立の約束を果たすことなく自分たちの前から姿を消した。彼にとってヒーローとは「失墜する権威」なのである、かっこ悪いものなのである。父親は家の頭、コーチはチームの頭、その統率者・リーダーたちはいずれも相揃って、その権威を失墜させているのである。彗星のごとくに現れ消えていく、桜の花が散るがごとしに散っていく、それはこの世のヒーローの本質・定めであったろう。そんなわけで、私は、息子たちと共に、ヒーロー探しの旅に出ることにしたのである。私は、彗星のごとくに、と、桜の花の散るがごとしに、と二つの例えを出した。ナポレオンやヒトラー、彼らは西洋の英雄たちであるが、彗星のごとくに現れ消えていく、そんなイメージを与えるのである。桜の散るがごとくに「あわれに」散っていく、私はこれに日本の西郷隆盛という英雄をイメージするのである。「あわれ」は古典の授業で学んだであろうが、「趣きのある・情緒に溢れた・心揺さぶられる」という意味である。
プロローグ
あるところに、泣き虫で、弱虫で、意地っ張りな男の子たちがいました。彼らはそんな弱虫な自分たちのヒーローが欲しいと思いました。彼らはそれにふさわしいと思える存在を見つけました。あの人を親分にして、僕たちは彼について行こう。「ガキ大将」が子供たち集めて何かやってる、母の目にそう見えたものが、男の子たちには「若き英雄」に映ったのでしょうね。彼は彼らの憧れの的であり、目標でした。親分と男の子たちは皆で一つの船に乗って漕ぎ出しましたが、途中で大波が来て、船は転覆してしまいました。不甲斐ない親分だな、男の子たちは失望し、彼のもとを離れました。彼らはヒーローが欲しかったのです。そんな彼らは、ある時、自分たちがヒーローになっているのに気づいたのでした。これはそんな彼らの物語(成長の記録)である。
彼らはヒーローが欲しいと思ったのです。いつしか彼らはヒーローを欲しいと思わなくなっていました。そんなうざったいもの今のおれたちには必要ない。親も、学校の先生も、サッカーの指導者も、なんかうざったい。かつては君の父親が君のヒーローであり、君のサッカー・コーチが君のヒーローでありしたのに。君たちは、彼らが完全無欠のヒーローでないことに失望したのか。「お兄ちゃん、僕たちにサッカー教えてよ。僕たちの相手してよ」君たちがそんなことを言われた日には、君たちはヒーローの心を知るであろう。ヒーローとは荷が重い役である。「役」と言うからには「架空の存在」なんですよ。ヒーローは君たちの夢(憧れの世界)に存在したんですよ。君たちはその夢(憧れだったもの)を一つ一つ自分の手につかんで行く、すると君たちの中にいたヒーローは存在しなくなるけれど、君たち自身がヒーローとなって行くんだよ、「夢をかなえる存在」、それがヒーローだよ。君たちが前進し、夢を現実に変えて行けば、幼い君たちの心の中にいたヒーローは存在しなくなるけれど、君たちが心に夢(志・目標)を抱いて進んで行く限り、その君たち自身がヒーロー(夢をかなえる存在)なんだ。君たちはかつての君たちのヒーローに追いつき、追い越す存在となって行く、ということだよ。ヒーローが君たちの前に、いつまでも立ちふさがる壁でいてはいけない、そういう意味で、君たちはその存在を捨てる・自身の手で打ち壊す、ことが必要だった。それが君たちと父親、またはコーチ・恩師との関係だ。すべてが自然なことなんだよ。
ただ、ヒーローという像を壊すことと、父親やコーチ・恩師という実のものを壊すことは別である。君たちの中で「父親=ヒーロー」・「コーチ=ヒーロー」という等式が崩れた(彼らに重なっていたヒーロー像が壊れた)だけで、君たちにとってやはり父親は父親として、威厳あるもの、恩師は恩師として、尊敬に値するもの、彼らは敬われなければならない。敬いの根拠は、君たちが今ここにある、彼らがいなければ今の自分が存在しない、父母が時にどんな理にかなわない・間違ったことを言っていると思えるときにも、僕という存在を生んでくれて・つくってくれて・育ててくれてありがとう、その気持ちを忘れないことである。君らはむやみに父親に反抗し、だって親父だって間違ってるだろう、なんで俺のことを正せるんだよなどとですね、父親の権威を傷つけないことである。私も分かってますよ、親や学校の先生だって間違っていることを言っている・やっていることはあるんですよ。それを向きになって攻撃しないこと、彼らの権威を傷つけない・おとしめないことです。ごもっとも、という顔で聞いているしか手がないってのも辛いとこですけど、だったらあなたはあなたの子らにその間違ったことを教えないことです。それにはあなた自身が本当に正しいことは何か、人生の中で探し求め・追い求めて行くことです。きっと見つかるはずです。何が正しいとこで何が間違ったことなのか、何がよいことで何が悪いことなのか、よいも悪いも分からない立場(それが今のあなた方です、ただ生意気なだけ、手がつけられない、そんな時期なんです)で、他人の間違いを攻撃することはいけない、父母、学校の先生、彼らあなた方のために良かれと力を尽くしてくれている人たちに不従順であってはいけない。聖書はそんなあなた方に、「いのちのことば」を与えます――「あなたの父と母を敬え」(十戒・神がご自分の民に授けた十の戒め)。自分が真に正しいことを知った上で、その時は父親にでも母親にでも、どんな権威に対しても、立ち向かいなさい。だけどあなた方がそれを知ったとき、あなた方はもうあなたの父母に悪口ついて歯向かいたい、そんな気持ちはなくなっているはずです。彼らの労をねぎらいたい、そんな気持ちになることでしょう。それが本当の大人、あなたたちはまだまだ半端者、そのあなたたちにああでもないこうでもない言われる父母の気持ちを考えよ。
彼らが抱いていたヒーロー像が壊れるこの時期、親がとやかく言うと、お前はおれにとやかく言える立場かよ、と彼らは反抗します、俗にいう「反抗期」がこれです。そういう時期なのよ、物分かりのいい母親たちは、そう言って大目に見てやってます――今時代の親たちはちゃんと心得ているんですね。親が「こうしなさい。あれはだめ」という子供に対する権威を振りかざさなくなった今の時代、あなたがた子らは従順なんじゃないかな、と見受けられます。親子が激しくぶつかり合い、対立し合う、それは今は昔、母たちが子だった頃のかたちのような気がします。物分かりのよい親や先生の下で、子供たちはのびのびと育っている。親や先生が物分かりがよくなってくると、子供たちはその権威を認めづらくなる、親や先生という本来権威のある存在が、その権威を失ってくる。そんな社会現象が起きているのが今の時代かと思う。ある討論番組を見た。フレンドリーな先生・生徒と友達のように接する先生、それはよいことか悪いことか。賛成派はフレンドリーなことはよいことだ、生徒と先生のよい関係が築ければ物事もスムーズに行く、生徒は先生を信頼し従うようになると言い、反対派はそれでは先生としての権威の失墜である、生徒は先生を甘く見るようになる、返って好き勝手をするようになる、と主張した。フレンドリーな先生など生徒のご機嫌取り・人気とりである、と言った。威圧的に、脅威を与え支配するより、フレンドリーな方がいいはずである。フレンドリーな先生が生徒のご機嫌取り・人気取りに終わらないためには、先生は生徒たちに本当のことを教えることである。あの先生の言うことには間違いない、そうして生徒は先生の権威を認めるわけである。それが出来ないジレンマが、親と子、先生と生徒の間で問題を生み出しているのである。正しいことを知るということが人生においていかに難しく、いかに重要であることか。
彼らはヒーローが欲しいと思ったのです。彼らはある時、自分たちがヒーローになっていることに気づきました。自校に優勝旗を持ち帰った君たちはヒーローである。市内に中学校は何校あるか、その全校生徒は何人だ、君たちはその中のベスト・イレブン(最も優秀な十一人、サッカー部門)、そう考えるとヒーローと言ってもいいだろう。ベスト・イレブンは最も優秀な十一人ではなくて、最も優秀なサッカーチームでしたね。
(2020年追記) 2008年当初、本当はこんなプロローグでこの物語は始まっていた。けれど長男と三男(長男との年齢の差は8才)、この二人の息子たちを比べると、子供(の質)が変わったな、急激に世の中が変わるのと同じくらいのスピードで、子供たちが変わったな、そんな気持ちになってしまった。ヒーローの少年たちは時代遅れだ、このプロローグも時代にそぐわない、それで本来最初に配置すべきプロローグを、後回しの位置においた。タイムカプセルを取り出すにはまだ早い、12年・干支を一周しただけだ、と思っていたのだが、いざ取り出して中身を見てみると、タイムカプセルの中の少年像は古臭く、古きよき時代を彷彿とさせるような大昔、近年時間はとても早く進んでいたんですね。
これは現在26歳になる長男の中学時代(およそ十二年前)に私が綴ったものなので、あの頃はまだかろうじて教師や指導者、目上の人たちの権威が保たれていて、子供たちはそういった存在を認めていた、権威に対して現在の子供たちより素直で従順だったように思われる。私が悪ガキたちを叱れば、彼らはシュンとなったし、説教中はきちんと立って黙って聞いていた、そんなフリだけでもしてくれた。小学校高学年だった彼らが、兄のようなサッカーコーチをヒーロー視する、そんな純朴さがあったんだなと、今となっては一昔前の子供の姿だなと、思う。つまりは話としてはちょっと古いです。今年高校を卒業する三男(長男とは8歳違い)の姿と見比べると、弟たちは上なる権威を認めない、そういったものを認められない時代にいる、ヒーローなど存在しない、いらない、子供の質も変わったんだなと思う。先生に怒られることの重さを噛みしめない、先生を甘く見てるし、親を自分の都合のいいように考えている。自分の肩を持ってくれるのが親であり、自分を痛くしないのが親である、なんて甘えてる。本来権威のある者が、権威を持たなくなった時代なのだなと思う。三男の友達に私は説教などしない、どうしろこうしろ言わない、しらっとした様子や薄ら笑いで向こうに行ってしまうか、仲間同士で喋りながらチラ見で行ってしまうかだから。子供だけの無秩序な世界で生活しているみたいで、大人たちとの間には壁を作っている、そんな気がした。言うこと聞いても得がない(なのにどうして聞く必要があるのか)、手ぬるい大人なんてどうにでもかわせる、かっこいい大人なんて見たことない、彼らの言い分は色々あるだろう、結局は大人の質が落ちたということだろうか。