92.聖女と使用人の痛み
再会したサーシャは、気丈だった。
その身体にどれだけの傷が付けられているのか、フレアには想像できない。それほどに彼女の振る舞いは、落ち着いていた。
ニーナが指摘しなければ、フレアが気付くことは無かっただろう。
だが知ってしまった今となっては、サーシャの気丈な振る舞いは却ってフレアの胸を痛ませた。
その傷を負ったのはフレアの所為で無い、と彼女は言ったが恐らく嘘だろう。「お前の所為だ」などと使用人が仕える相手に向かって言えるはずも無いので、何度問うても答えは変わらないのであろうが。
しかしもし対等な関係であったとしても、サーシャと言う人間はきっとフレアを糾弾しないのだろうと思われた。
フレア自身はサーシャがクリストンに来てすぐ旅立ったので彼女のことをよく知らないが、あの無表情なリンドが時折懐かしそうに名前を出していた人物だ。そのことだけでも、彼女がどれだけ心配りできる人間なのか容易に推察できる。
それにフレア自身も、サーシャのお目溢しと助言によってリンドと出会えて和解できたのだ。その一事からも、彼女の人柄を想像できた。
そんなサーシャが、傷付けられていた。それも恐らく、フレアの所為で。
それならば、フレアは聞かねばならない。彼女の痛みから、目を背けるわけにはいかないのだ。
故に、フレアは問うた。
「ところで、さ……。さっきの話、聞かせてもらっても良い……?」
対してサーシャは、やや間を置いて「はい」と応えた。
そして視線を左手首に落とすと、静かに語り始める。
「これは、ラナ様に目を付けられまして……」
「ラナ? ―――って確か、マルクの妹よね?」
ラナ・アルバート。
フレアは、その人物を名前でしか知らない。フレアにとって因縁のある男……マルクと同じレイドの子であり、つまりリンドの従妹に当たると言うことくらいしか分からなかった。
フレアの言葉に、サーシャは頷きを返しながら言葉を継ぐ。
「あの方は、その……女性を愛でることがお好きなようでして」
「え……?」
と眉根を寄せるフレアの傍で、ニーナも小首を傾げた。
「フレアさんさっき、『妹』って言いませんでしたっけ?」
「あの方曰く、『男は汚らしくて嫌い』なのだそうです」
「―――待って。つまりあなたは、ラナに乱暴されたってこと……!?」
怖々口にすると、サーシャは視線を泳がせた。
それからその動揺を誤魔化すように、口を開く。
「ですが……、お陰で命は救われました。ラナ様の口添えで、私は私の失敗について髪を売ることだけで許されたのです」
そうして彼女は、「この髪に価値があって良かったです」と笑んで見せる。
だがそれが作り笑いであることは明白で、フレアは胸の疼きを禁じ得ない。
「サーシャ、ごめんなさい……」
「フレア様は関係ありません。私の失敗です」
知らず震えてしまった謝罪の声に、サーシャが優しい言葉を返してくれる。
彼女はフレアより三つ年上なだけのはずだが、その声には母親のような温かみがあった。
あと三年でフレアも、このような包容力豊かな人間になれるだろうか。
言葉を掛け合う二人を前にして、しかしニーナはふんと息を吐いた。
「その話がホントなら、悪いのは『ラナ』って女じゃないですか。何でフレアさんが謝ってるんですか。何で使用人さんが仕方無いみたいな顔してるんですか」
「……そうね」
ニーナの言葉に、フレアは頷く。
こういう時、真っ直ぐな彼女の言葉は心強い。
「謝ってたって、どうにもならない。―――私がやるべきことは、ラナに罪を償わせることだわ」
口にすると、サーシャは「ご無理なさらず」と気遣う声を向けてくる。
それに対してフレアは、「大丈夫」とできる限り強く聞こえるような声音でそう返した。
そうして言葉を交わしている内に、前方に光を感じる。
見れば行く先に、天井が無い場所が見受けられた。
「あそこ開いてますけど―――」
「王城と街とを隔ててる場所よ」
ニーナの言葉に先んじて、フレアはやや声を落として答える。
「上から丸見えになるから、気付かれないように静かにして」
「はーい」
とニーナが応えたその時、不意に頭上からどんどんと派手な爆発音が聞こえた。
さらに驚いている内に、天井が無かった箇所の大部分がぱきぱきと氷に覆われる。
「……アリアね」
「魔女さんですね」
フレアの呟きに、ニーナも同意を口にする。
間違い無くアリアが意図的に派手な魔法を使い、地上の兵たちの注意を引いてくれているのだろう。
まるで地下の様子が視えているかのような間の良さだ。自分の姉ながら、フレアは彼女に戦慄すら覚える。
「―――まあ、お陰で気付かれることは無さそうだけど」
その言葉にサーシャが頷きを返しながら、筏を進めた。
王城と街とを隔てる溝になっている箇所を抜けると、城の隣にあるクリストン邸はすぐそこだ。
再び天を閉ざされた空間へと潜って行くと、その先に街側の地下通路と同様に降りられる場所があった。
サーシャがそこへ筏を寄せて、三人はクリストン邸の地下空間へと踏み込む。
「この上が、私の家よ」
ニーナの方を見やって伝えると、彼女は眉根を寄せて天井を見上げていた。
「―――何か、臭くないですか?」
「ずっとそうじゃない」
「いや、そうじゃなくて……焦げ臭いような」
彼女の言葉に、フレアもまた眉を寄せる。
ニーナの感覚の鋭さは、もう何度も目の当たりにしてきた。勘違い、と言うことは無いだろう。
……だとすれば。
フレアは目を見開いて、駆け出す。
「フレア様……!?」
と後を追ってくるサーシャやニーナに構わず、地下通路から地上への階段を駆け上がる。
するとやがて、フレアの鼻もニーナが言っていた異臭を感じ始める。それで彼女は、さらに足の運びを速めた。
そうして階段の終わりにある地上へ繋がる隠し扉を押し開けると、―――そこは炎と黒煙に囲まれていた。
「嘘……でしょ」
思わず、その場に崩れる。
「秘密の花園」。
家族の間でそう呼んでいたクリストン邸の中庭は、フレアにとって明るい思い出が詰まった場所だった。
赤や黄や橙など色取り取りの薔薇の花が咲き乱れていて、中央には簡易なテーブルと椅子も設置されていた憩いの場。―――だが草木もテーブルも椅子も、今は炎に包まれていた。
アリアに教えられたあの白薔薇も、猛炎の中にあった。
「フレア様っ、危険です!」
とサーシャに袖を引かれても、フレアは呆然としていた。
しかしそこへ、ニーナの鋭い声が飛んでくる。
「何やってるんですか、道を開いて下さいよ! フレアさんならできるでしょう!?」
言われて、はっとフレアは我に返る。
そしてすぐに右の人差し指で空を掻いてから、その手を天へ伸ばした。
「湧水っ!」
彼女の声に応じて、ざあと豪雨のように大量の水が中庭に降る。
それで中庭を焼いていた炎は、あっと言う間に消えた。
そこに残されたのは、真っ黒な炭だけ。殆どの草花が焼け焦げてしまった。
フレアは静かに数歩歩むと、しゃがみ込んでそこに落ちている黒い薔薇の残骸に手を伸ばす。だが摘み上げようとした瞬間に、それは崩れた。
思わず、視界がぼやける。
しかしフレアは、すぐに目元をぐいと拭って頭を振る。そして前を見据えた。
そこへサーシャが、沈んだ顔で声を掛けてくる。
「フレア様……、申し訳ございません。私が迂闊でした。その……、どうかお気を落とされませんように―――」
「あなたの所為じゃないわ。私も大丈夫だから」
とフレアは言葉を返す。
そして、自分に言い聞かせるように言う。
「―――そうよ、不浄のアルバが燃えただけ。これから必ず、清浄のアルバが咲くわ……!」
嘗て姉アリアはこの場所で言った。「アルバの花は、また咲くわ」と。
その意味を、フレアは漸く理解できた気がした。
フレア自身にしか分からないその呟きを余所に、傍へ寄って来たニーナはちらりとサーシャに目を向けていた。
「出る前は何事も無かったって……、ホントなんですかね」
「嘘ではありません……! 私が地下へ下りる時には―――」
「その地下への道を聞いたのも、ホントにクリストンからなんですかね……」
「ニーナやめて」
サーシャに猜疑の目を向けるニーナに、フレアは声を向けた。
それから、中庭の出入り口を指差す。
「そこを出て外廊下を回っていけば、二階へ上がれるわ。身内を疑ってないで、早く―――」
言いながら踏み出したものの、その足はすぐに止まった。
向かうべきその扉から、皮鎧を纏った兵士が続々と入ってきたのだ。
「火が消されるのを、待ってたみたいですね」
ニーナが言う。
そして再び、ちろっと視線をサーシャへ向けた。
「身内なのはフレアさんだけです。私は違いますよ。―――『兵士の動きも普段と変わり無かった』って言ってたアレも、嘘だったみたいですね」
「……」
彼女の言葉に、サーシャは顔を俯ける。
だが今は、事の真偽を議論している場合で無い。
「それよりまずはここを切り抜ける方法を考えて!」
声を上げながら、フレアは右手の人差し指を彷徨わす。
炎で牽制……、或いは氷で動きを止めるか、若しくは―――。
考えている間に兵は増え、徐々にこちらに迫ってくる。
何れにせよ、魔法を綴る時間をニーナに稼いでもらう必要がある。
しかしこういう時いつも真っ先に動くはずの彼女は、動かなかった。
「ちょっとニーナ! どうしたのよ!?」
「……」
声を掛けても、彼女は無言のままフレアの傍で突っ立っている。
そうして、ただ迫る敵を見ているだけだ。
まさか本当にリンドと別行動であることでやる気を無くしていると言うことは、無いだろうが……。
「―――もう! 分かったわよ。私が、私が一人で何とか……!」
覚悟を決めて腰に差した短剣に手を伸ばした―――、その時だった。
フレアの横を、サーシャが駆け抜けた。
「ちょっ―――、サーシャ!?」
彼女は驚くフレアと兵たちとの間に立つと、両手を広げて兵たちと向き合った。
「お止め下さい!」
とサーシャは声を上げる。
「この方たちは、アルバートに支配される王国を変えるために戻られたのです! そのことは、あなた方にとっても悪いことでは無いはずです!」
「サーシャ、危ないから―――!」
と彼女を追おうとしたフレアの袖が引かれ、止められる。
袖を掴んでいたのは、ニーナだった。
「ニーナ! あんたも分かってるでしょ!? 彼女はリンドの大切な人でもあるのよ!?」
言っても、ニーナはその手を離さない。
そして黙ったまま、サーシャを見つめている。
その間もサーシャは兵たちに訴えかけていたが、彼らの動きを止めることはできていなかった。
「……たった一人アルバートが寝返ったくらいで、あのギルト王の体制を覆すことなんてできないさ」
兵たちの先頭に立つ男が、言葉を返す。
そして、両手で握った剣を構え直した。
「退いてくれ。然もなくば、あんたも斬らなきゃならない」
その言葉を聞いて、サーシャは肩を落とす。
だが、彼らに道を譲ることはしなかった。
「退けません」
とサーシャは返事する。
「ここでこの方たちを守らなければ、十年間私を守って下さった方に顔向けができません」
「そうか。―――ならば、仕方が無い」
言って、兵士は剣を高く掲げた。
フレアは急いで綴った魔法を詠唱しようと、口を開く。
だがそれよりも早く、傍にいた少女が飛び出していた。
「―――っ!」
剣が撥ね上げられる。
武器を失って尻餅をついたその兵士は、彼女の余りの速さに何が起こったのか理解できていないようだった。
そんな男を見下ろしていたニーナは、ちらと視線を驚いた表情のサーシャの方へ向けた。
そして、にやっと不敵に笑んだ。
「これでやっと、あなたを信じて守れますね」
「……ありがとうございます」
とサーシャは、やや力が抜けた様子で息を吐き出しながら言う。
それはフレアもまた、同じだった。
「そういうことなら、ちゃんと言ってよ……!」
「言っちゃったら、意味無いじゃないですか。―――っと」
言葉を返しながら、ニーナは向かってきた別の兵を一蹴する。
「―――ところで、目的地はどの方向ですか?」
「北の階段から上がれます!」
「北ってどっち?」
「後ろです!」
ニーナの問い掛けに、サーシャがすぐ答える。
「ただ中庭の出入り口は前に見える一つしかないので、そこを出てから廊下を回って行かないと―――」
「なんだ、そでしたか」
とそれを聞いたニーナはさらに兵を二人蹴散らしてから、くるりと方向転換した。
そしてどんとサーシャを後ろへ突き飛ばしてフレアに受け止めさせると、自分もそちらへ向かって駆ける。
「待ってニーナ……」
とフレアは控え目に制止の声を上げる。
だが、それで彼女が止まるはずも無い。
「家をあんまり―――」
「せーのッ……!」
フレアが言い終わる前に、ニーナは一陣の風となる。
そして次の瞬間に、彼女は中庭を囲う石壁を蹴付けていた。
頑丈な石壁は、常人にどうこうできるもので無い。
だが、ニーナは常人で無い。
その強烈な足蹴が素早く数度打ち込まれたかと思うと、派手な音を立てて壁の一部が吹っ飛んだ。
「……止むを得ないわね」
壁に穿たれた穴を見て、フレアは溜め息交じりに言った。
それからサーシャを連れて、先に穴を通り抜けたニーナに続く。
兵士たちは暫しその異常な事態を前に呆然としていたが、すぐに我に返って追ってくる。
だがその間は、フレアにとって十分なものだった。
「サーシャ、これ耳に入れて」
「えっ?」
「早く」
声は、ニーナにも届いている。
ちらとそれを確認しながら、フレアも耳栓を詰めた。
そして、詠唱する。
「怒りの音!」
その声に応じて、ずうんと響く低音。
それで、追ってきた兵の多くが気絶する。
だが中庭の出入り口の方から、さらに兵が現れる。
そちらまでは、十分に届かなかったらしい。
「控え目でしたね」
耳栓を抜き取ると、ニーナに声を向けられる。
その彼女にちろっと視線を向けながらも、フレアは次の魔法を綴る。
「上にお父さんたちがいるんだから、これ以上大きくはできないわよ……」
言って、さらに「氷結!」と詠唱する。
それで壁の穴と、その両脇の外廊下も一気に塞ぐ。これで暫くは、大丈夫だろう。
「今の内に、お父さんたちと合流するわよ」
「……いや、そうはいかないみたいですよ」
ニーナの返答を聞いて行く先を見やると、そこに見える階段から卑しい笑みを浮かべた若い男がすかした歩き方で下りて来た。
二十歳くらいの茶髪の男だ。髪はやや長めで、顔立ちは整っているが下品な笑みがそれを台無しにしていた。
服装は上下とも白を基調とした亜麻の衣で、腰には剣を差している。そして左の掌には、黒い龍の印がちらりと覗く。つまり、アルバートの人間だ。
尤も印など確認するまでも無く、彼がそうであるとフレアは知っていた。
フレアが最も会いたくなかったアルバートの男だ。
「マルク……!」
「久し振りだね、フレア」
彼女の声に、階段を下りた男はそう返してさらに歩み寄ってくる。
マルク・アルバート。ギルト王の兄レイドの長男だ。
家を出る以前には度々フレアに言い寄ってきて、あわや身体を重ねそうになったこともあった。その時のことは、今も頭を過ることがあった。皮肉にもその際に彼からリンドの出立を聞いたことで、フレアは旅立つ切っ掛けを得たのだが。
あの時付けた引っ掻き傷の痕は、今も僅かながら彼の右の頬に残っていた。
「フレアさん」
とニーナが、声を向けてきた。
「あの人、強いんですか?」
「退魔の力があるだけよ」
ふんと息を吐きながら、フレアは返す。
「あの男は、この街で『遊び人』として有名なのよ。あんたの敵じゃないわ」
「酷い言い様だなァ」
とマルクが口を挟んだ。
それから足を止め、ぎろと睨むようにこちらを見る。
「……僕は、頭の固い親父が嫌いだっただけだよ。長男だからと下らない仕来りを教え込まれて、死ぬほど剣の技術を叩き込まれた。―――自分の代わりに王座に僕を座らせようとしてるんだ。僕は望んじゃいないのに」
「それが、長男であるあんたの役割ってことでしょ」
フレアが返すと、彼ははっと鼻で笑った。
「知るもんか! 僕は王位だ当主だなんてものに興味が無いんだ。そんなものは、地位欲しさに目を血走らせてるゼノにでもくれてやるさ。僕が欲しいのは―――」
「煩いです」
とニーナが、その声を遮った。
そして、地を蹴って駆け出す。
しかしほぼ同時に、マルクの左手から黒い領域が一気に展開された。
領域に取り込まれると同時にびりびりと耳にこびり付くような雑音も聞こえて、フレアは思わず蹌踉ける。
走るニーナも、ぐらっと一時着地が乱れた。
それでも彼女は、止まらない。純白の髪を振り乱して跳び、マルクの顔面に殴り掛かる。
だがそれは躱されて、勢い余ったニーナは奥へ素っ飛んでいく。
そして着地に失敗して床を転げた。彼女にしては珍しい。
「ニーナ、相手はふざけた男だけどアルバートよ! 退魔の力がある以上―――」
言い掛けて、フレアは目を見開いた。
ニーナは、げほげほと噎せながら吐いていた。
「ニーナ……!?」
「フレアさん……、嘘は吐かないで、下さいよ」
口元を拭いながら起き上がって、ニーナはそう言った。