6.少女が迎える旧都の朝
日の入りを知らせる鐘が鳴る。やがて鎧戸の隙間からも、朝を知らせる陽光が差し込んできた。
ニーナはベッドに寝転がったまま、首だけ隣のベッドに向く。そこには、魔法王国と戦うための力で人々を支配する「偽英雄」の姿がある。
あるのだが、今はぐっすり眠っている。その寝顔は安らかで、少年のような純粋さがある。それを見ていると、ニーナは思わず呆れ交じりの疲れた息を吐いてしまう。
相手を警戒し目を閉じて身体を休めるだけの状態を心掛けていたと言うのに、その相手が気持ち良さそうに寝ているのだ。自分の行動が馬鹿馬鹿しく思えて溜息の一つも吐きたくなるというものだ。
「……無防備だなァ」
ニーナは静かに身体を起こして、静かに寝息を立てる男の様子を窺う。
「これじゃ何されても、―――文句は言えませんよ」
囁くように言いながら、するりとベッドを抜け出る。
そしてすすと忍び足で近寄ると、そっと彼のベッドの上に上がった。それでも、彼は瞑目したまま動かない。
「……」
ニーナは枕元で暫く彼の寝顔を見下ろしていたが、やがてすっとその首に手をかける。
「……温かい」
思わず呟く。人の体温を感じる場面などほとんど無かったので、その感覚はニーナの鼓動を速くする。
その手にほんの少し力を込めれば、きっと今感じている温もりはあっという間に失われてしまうのだろう。
そう、その手にちょっとでも力を入れたなら―――。
ニーナは親指で彼の喉元をなぞり、―――そしてその手を首から離した。
「―――壊すのは、あんま気持ち良くないし」
言い訳するように呟いて、ふうと小さく息を吐き出す。すると、目の前の男の目がぱちと開く。
「それは良かった」
「わァッ!」
悲鳴にも近い声を上げて飛び退くと、リンドはむくりと身体を起こしてくあと一つ欠伸をする。
「……いつから起きてたんですか」
ばくばくいう心臓を抑えつけるように胸に手を当てながらニーナが問うと、彼は元々跳ね上がっている髪を寝かしつけるようにくしくししながら答える。
「お前がベッドから出てきた辺りから、―――かな」
「ならもっと早く目を開いてくださいよ……。うっかり殺されてたかもしれませんよ?」
ニーナが憎まれ口を叩いても、リンドは落ち着き払った様子のまま腕組して天井を仰ぐ。
「まあ多少賭けではあったが、信用得るにはこれくらい身体張る必要はあるだろ」
「そんなことしなくても、あの『力』使えば言うこと聞かせるくらいできるでしょう」
呆れ交じりに言うと、リンドは些かむっとした様子で言い返してくる。
「俺が欲しいのは服従じゃない。信頼だ。―――でなければ、一緒に戦っていくことなんてできない」
「そういうもんですかね……」
どうにも読めない男だ。「世界を終わらせる」などと言ったかと思えば、今度は信頼関係について説教垂れてくる。善人とも悪人とも取れない。今ニーナが言えることは、人々が語る「偽英雄」像とこのリンド・アルバートの姿とはどうも合致しないのではないかということだけだ。
考えながらリンドを矯めつ眇めつしていると、彼ははたと何か思い出したようにニーナの方を見て口を開く。
「おはよう」
「は?」
「挨拶してなかった。おはよう」
「……おはようございます」
戸惑いながら、ニーナも挨拶を返す。顔がおかしな半笑い状態になっていることは、ニーナ自身にも分かる。しかしリンドは、全く気にしていないようだった。
「よく眠れたか」
「隣に偽英雄サマが寝てたら、恐れ多くて眠れませんよ」
皮肉たっぷりに返すものの、彼が憤る気配は全く無い。ただ「そうか」と言って口元に手をやり、何やら考えている。
「……部屋を分けられるほど金に余裕は無いんだ。あとは俺が廊下で寝るという方法はあるんだが、―――できればそれはしたくない」
「でしょうね」
思わず呆れた声が出てしまう。その場合、外に出されるのは本来ニーナの方だろう。それが彼女の知る「普通」だ。なのにこの男は、何を言っているのか。
「あーもう気にしなくていいですよ。そのうち慣れますよ」
言うとリンドはうんと頷いて、「悪いな」と詫びる。
「取り敢えずは今から野暮用を済ませてくる。待ってる間寝ててくれ」
「はいはい」
適当に返して、リンドを送り出す。どうにもこれまで接してきた日常と全くテンポが異なっているので、ニーナとしては却ってやり辛さを感じてしまう。朝から疲れてしまった。昨日から眠っていないせいもあるが。
リンドがいなくなった一人きりの部屋で、ニーナはベッドに寝転がり束の間の休息を取った。
*
ぼんやりとした意識の中で、遠く声が聞こえる。何と言っているのかは、分からない。ニーナはただぼーっと、その音を聞き流す。
やがて、声ははっきりしたものへと変わっていく。
ニーナ。
ニーナ。
起きろ。
「―――起きろ?」
それでニーナは、ようやくぱっと目を開く。ほぼ同時に、職人たちの仕事始めを知らせる鐘が鳴った。
ベッドに寝転んだ彼女の目の前には、リンドの顔がある。
「げ」
「げって言うな」
彼はややむっとした様子でそう返す。
「あと涎」
指摘され、ニーナは慌てて口元をぐいと拭う。流石に恥ずかしく、頬が火照るのを感じる。
「いや『げ』っていうのはあなたの顔のことではなくてですね……」
言いかけて、やめる。まさか爆睡してしまうとは思わなかったから、とは言えない。
口を噤むニーナに、リンドはさっさと今日の予定を話した。
「朝食を摂ったら、服飾の店に行く」
「服飾……新しい服買うんですか?」
「お前のな」
言って、彼はニーナの着衣に視線を落とす。
「ソレじゃあ流石に心許無い」
「そうですかね?」
とニーナも自分の服に視線を落とすが、見解は異なる。
「旧都までもこの服で来たので、別に問題無いと思いますけど」
しかしリンドは譲らない。
「俺が不安なんだ」
そう言われてしまえば、ニーナとしては特に固辞する理由は無い。
「分かりました」
ニーナが応えると、リンドは満足したように一つ頷いて部屋を出ていく。
―――と、その手が扉のノブに触れたところで、彼は再びニーナの方を振り向く。そして、やや小声で告げる。
「……あと、基本的に俺がアルバートであることは伏せるようにしてくれ。色々面倒だから」
「あぁ、はい」
それは昨日の様子を見れば、ニーナにも何となく分かる。彼が左手に布を巻いているのは、身分を隠すためなのだろう。剣の柄に巻かれたそれも、目立つ装飾を隠しているのかもしれない。もっとも、その方が却って目を引きそうな気もするのだが。
ニーナが返事すると、今度こそリンドは満足して部屋の戸を開いた。
二階の部屋を出て階下でパンと薄いエールだけの簡単な朝食を済ませると、ニーナはリンドについて街北西部の服飾店に向かった。
空は薄雲に覆われていた。この地域では珍しくない天候だが、ニーナのような格好ではやや肌寒さを感じる。
目的の服飾店が建つ通りは大通りから外れた場所に位置しているため、余計に寒々しさを感じた。
「ここ、ですか」
「うん」
「……なんか、もっと他に良いお店ありそうですけど」
「いや、ここが良い」
と、リンドは断言する。
「店は自信が価格に出る。買うなら見栄張った表から少し外れた店の方がいい。それに下見もしたから、ここなら安くて確実なものが手に入る」
「あぁ、野暮用って下見のことだったんですか」
言うと、彼はうんと頷く。
「まあ見たというか、店が閉まっている内に外から魔法素材を排除したんだが」
「魔法素材?」
耳慣れない単語にニーナが首を傾げると、リンドが説明してくれる。
「名前の通り、魔法で生成された布や鉄なんかのことだ。もちろん、退魔の力で消失する」
「ふうん……」
と、適当に相槌を打ったニーナだったが、すぐに事の重大さに気付く。
「―――え、それってあなたが力使ったら、魔法素材の服着てる人は途端に素っ裸になっちゃうってことですか……!?」
「うん」
と彼は淡々と答える。
「そういう現王の施策だからな。密やかに魔法素材を浸透させて、気付けばアルバートに対して抵抗する術を失っているってわけだ」
「いや、そんなの困るじゃないですか! いざ戦おうって時に武器も防具も無くなっちゃったら―――」
「だから、事前に手を打ったんだ」
リンドは落ち着き払った様子で言う。
「今この店に魔法素材を使った服は無い」
「ああ、そっか。―――ん、てことはこの服も魔法素材じゃなかったんですね。良かった……」
ニーナはほっと胸を撫で下ろす。あわや全裸に剥かれて宿に運ばれるところだったわけだ。
しかしリンドは、「それはない」と言葉を返す。
「魔法素材は主に高価な素材の代替が作られてる。服で言えば、麻より亜麻の魔法布がほとんどだ。だからお前が着ているような服は、ほぼ問題無い」
「……それ、喧嘩売ってます?」
ニーナはちろっと睨んでみるが、リンドは首を傾げるだけだ。悪意は無いようだった。それだけに却って厄介とも言えるが。思わず彼女は、ふうと疲れた息を吐き出す。
一方のリンドは、ニーナの様子を気に留めること無くくるりと踵を返した。
「それじゃあ、俺は別の用を済ませてくるから」
「え、またですか?」
思わずニーナは声を上げる。
「ていうか私、服買えるほどお金持ってないんですけど。自分で何とかしろと?」
「違う」
とリンドはやや面倒臭そうに答える。
「支払いは戻ってきたら俺がする。お前はそれまでに服を選んでおいてくれ」
「選ぶって言っても、いくらまでとか分からないと選びようがないですよ」
ニーナは文句をつけるような口調でさらに問う。どうにも目の前の王子サマは、理解を前提に話す傾向があるようだ。訊けば答えてくれるようだが、慣れるまでは少々苦労しそうだった。
さて、当の王子サマは、口元に手をやってふむと少し考えた後に答える。
「―――銀貨三枚には収まると良いな。できれば、二枚半」
「待って待って。銀貨一枚って銅貨何枚分なんです?」
ニーナのこれまでの生活の中では、銀貨に触れる機会など無い。全て銅貨だ。故に、銀貨の価値を知らなかった。
リンドの変化に乏しい顔が、また面倒臭そうな雰囲気を醸し出す。しかしそんな顔をされても、分からないものは分からない。ニーナがじいっと見返していると、彼はふうと息を吐き出した。
「銀貨一枚が銅貨十二枚分だ。因みに金貨一枚は銀貨二十枚分。銀貨三枚なら、―――分かるな?」
「えーっと……」
問われてニーナは、首を捻る。金貨の件は、取り敢えず無視する。どうせ覚えていても使う機会が無い。
「銅貨十二枚分が、三つってことですよね。ってことは十が三つで、十、二十、三十。あとは、二ですね。二が三つあるから……」
「銅貨三十から三十六枚で収めてくれ」
「え? あー言わないでくださいよ!」
不平を漏らすニーナをよそに、リンドは悩ましげに頭を掻く。そしてそのまま、歩み去ってしまった。
「……勝手な人だなァ」
彼の背を見送りながら、ニーナは呟く。
しかし服を買ってくれるというのは、悪い話では無い。ニーナはくるりと軽やかに身を翻し、やや古めかしい服飾店の方を向く。そしてとてとて歩み寄ると、その扉を開いた。