57.魔女と約束
日暮れの頃。まだ明るいが、陽光は次第に弱まりつつあった。
鍛治町の閑静な北西部も、間も無く茜色に染まることだろう。そしてさらに幾何かの時を経れば、燃え残った炭のように夜の闇に染められるのだ。
アリアの前を行くリンドは、そうなる前に事を済ませようとその足を急がせていた。
向かう先は恐らくアリアが知る二か所の内の一方……、若しくは両方だろう。
彼女の予想通り、リンドが向かったのは町の牢獄だった。
ぎっとその戸を開いた彼に続いて石造りの建物へ入ると、地上の部屋には誰もいない。番兵は牢の中なので当然だが。
番兵のいない地上から、二人は階段を下りて地下へと向かう。
すると足音に呼応するようにして、静かだったその先が俄かに騒がしくなった。
「誰か! 誰かここから出してくれっ!」
「こっちへ来てくれっ! 助けてくれ!」
二人の男の声と共に、がんがんと鉄格子を叩く音が聞こえてくる。
姿を確認するまでもなく分かる。番兵たちだ。
二人の内の一方はリンドの姿を認めると手を伸ばして助けを求め、また一方はびくりと肩を弾ませて牢の奥へと引っ込んだ。
「おい、助けてくれ!」
声を掛けてきた番兵の一人を一瞥するも、リンドは無視してその隣の牢へと歩み寄る。
その牢の奥で、オリバーは壁に凭れて胡坐をかいていた。
「ようやくのお帰りだな。腹が減って仕方無かったぜ」
「帰らないよりマシだろ」
リンドが淡々と言葉を返すと、彼は「はいはい」と軽い調子で返す。
「で? 戻ってきたってことは、偽純人教団を無事取っ締めたんだよな? どうだ、やっぱりラギアが一枚噛んで―――」
「おいっ! 助けてくれよ! 俺は番兵なんだ! その男に首絞められて気付いたら牢の中に―――」
「あーもう、うるせェな! 黙ってろよ雑魚っ!」
隣の牢から尚も声を上げる番兵に対して、オリバーがやや語気荒い声を飛ばした。
しかし番兵は、此れ幸いとアリアたちの方へ訴えてくる。
「ほら! 危険な人間です! だからそんな男の話なんて聞いてないで―――」
「申し訳無いのですけれど、」
とそんな番兵の声を遮って、アリアは微笑み交じりに言った。
「あなた方をそこへ入れたのは、私たちなんです」
「……え?」
ぴたと固まるその男の前で、リンドが牢の鍵を取り出して見せる。
「事情を把握しているから、俺たちに言ってもあんたらは出せない。あんたらにオリバーの暗殺を指示した人間のことを話してくれるって言うなら、話は別だが」
「……」
番兵からの応答は、無かった。
ただ目の前の状況に困惑しているためでもあるだろうが、指示役に口止めされているためでもあるだろう。若しくは、指示役のことを詳しく知らないのかもしれない。
いずれにしても一番後ろで糸を引いている人物についてはオリバーが話していたそれで恐らく間違っていないだろうし、敢えて問い詰める必要もあるまい。
とにかく、場は静まった。
それでリンドが、オリバーが知りたがっているであろうことについて答えた。
「……偽の教団は捕らえた。ラギアも関わっていたから、その内ここへ来る」
「お見事。まァ、俺のお陰だけどな!」
と威張る彼に、リンドは「ああ」と応じる。
だがその後に、さらに言葉を継いだ。
「ただ、お前はあの時嘘を吐いただろ」
「……何のことだ?」
オリバーにしては珍しく、反応が若干遅れる。
そんな彼に、リンドは話を続けた。
「あんたとラギアとは、直接取引していなかった。仲介した奴がいた。そうだろ」
「おい、―――ちょっと待てよ」
ふらふらと立ち上がるオリバーは、明らかに動揺していた。
「俺は、言ったよな? 直接取引したって、はっきり―――」
「悪いが、俺は嘘が嫌いなんだ」
とリンドは返す。
「嘘だとか、偽物だとか、……そういうのは嫌いなんだ」
彼がそう口にしたのとオリバーが鉄格子に向かって駆け出したのとは、ほぼ同時だった。
あっという間に、オリバーの右手がリンドの胸倉を掴み上げる。
「アリア」
とリンドは、顎が上がった格好のまま言う。余計なことはするなということだろう。
それでアリアは肩を竦め、両手を挙げて「何もしない」と示す。
それを横目で確認したリンドは、しかしぐいと牢の方へ引っ張られて鉄格子にがんと頭をぶつけた。額が切れたのか、つっと一筋赤い血が彼の顔を流れる。
そのリンドを至近距離から鋭く睨み据えるオリバーは、先ほどまでと別人のようだった。
「お前の信条なんざ聞いてねえんだよ! 俺はお前に伝えたはずだ。お前もそれを理解したはずだ。違うか? あァ!?」
「……」
打って変わって鋭い言葉を向けてくるオリバーに対して、リンドは黙ったままその視線を別の方へ向けた。
丁度その時、彼の視線の先―――地上へと続く階段をこつこつと足早に下りてくる音が鳴り響く。
「オリバー!」
「……良い時に来たな」
息を切らしながら階段を下りてきた彼女―――ローラに、先に声を掛けたのはリンドだった。
一方のオリバーは、言葉を失っている。
だがすぐに怒りが再燃した様子で、リンドをまたがんと鉄格子にぶつけた。
「っざけんな! 牢に入るのは俺だけで十分なんだよ! ローラまでぶち込むってならまずお前をここで殺してやるッ……!」
「えっ、ちょっとどうなってんのよ!?」
説明を求めるローラに、アリアは肩を竦めて見せる。
「ご覧の通り、リンドの説明不足で揉めています」
「……説明不足?」
その言葉が引っ掛かったようで、オリバーは眉根を寄せる。
そんな彼に、ローラが慌てて説明を加えた。
「オリバー違うの! 私がここへ来たのは捕まったからじゃないわ! 彼らは何も言わないでいてくれたの!」
「……はァ?」
とオリバーは、拍子抜けしたような声を漏らす。
そしてリンドを掴んでいた手を離すと、訝しげな視線を彼に向けた。
「だったら何で早く言わねえんだよ?」
「ローラの要求は、あんたを解放するか自分を牢に入れるかだった」
対するリンドは、切れた額に手を当てながら言葉を返す。
「あんたが外に出なければ、彼女にも牢に入ってもらうつもりだ」
「……てめェ」
「いいのよ、オリバー」
とそこへローラが割って入った。
彼女は牢の中へ手を差し入れると、オリバーの手を取って言う。
「私も教団に加担したんだもの。それが正しい。それに外にいたって、あなたと一緒じゃなきゃ私……」
「……ローラ」
指を絡ませ見つめあう二人を前に、リンドが咳払いした。
「話は、まだ終わってない」
「オリバーさんをすぐ解放することについて、ある条件で鍛冶屋組合から了承を得ました」
リンドの後方からアリアが言うと、オリバーとローラは互いに顔を見合わせる。
そんな彼らに、リンドは告げた。
説明するのに、長い時間は要しなかった。
リンドの説明は端的だったが、頭が切れる二人はそれで十分に内容を理解したはずだ。
「……なるほど」
と先に口を開いたのは、オリバーの方だった。
「確かにそれはどぎつそうな労働だな。しくじったらここに何年も閉じ込められるより酷ェ目に遭うだろ。済めば解放って話を組合の連中が認めたのも頷ける」
「でももし上手くいったとしても、その先無事でいられる保障なんて無いじゃない」
そこへローラが不安げな声を向けた。
「死んじゃったら何の意味も無い。ねぇオリバー、やっぱり無理に出ないで―――」
「それをやれば、ローラはこのまま牢に入らなくて良いんだよな?」
彼女の言葉を遮って、オリバーはリンドに問う。
「あと、上手くいったらその先はお前が保障してくれるんだよな?」
その問いに、リンドはすぐ頷きを返した。
「あんたはローラの分の罪も背負うことになる。やり遂げれば、その先の安全は俺が保障する」
「よし。それなら、やってやろうじゃないの」
「オリバー!」
とローラが悲痛な声を出すが、オリバーはそんな彼女の頭をそっと優しく撫でる。
「なァに、心配無いよ。俺は腕利きの商人で純人教団の幹部だぜ? これまでだって死にそうな目には遭ってきたけど、全部乗り切ってきたんだ。もう一回くらい、適当に切り抜けて見せるさ」
そう言ってから、彼は一度咳払いを入れる。
そしてさらに言葉を継いだ。
「あー……、だからさ。この件が済んだら、」
「待て、ちょっと良いか」
そこへリンドが声を掛けたので、オリバーは不愉快そうに彼を見た。
「良いわけねぇだろ……。時と場合を考えろバカ王子!」
「いや、今が良いと思う」
としかしリンドも譲らず、その懐から小さな木箱を取り出した。先ほど集められた盗品の中から持ち出してきたものだろう。
その箱を見ると、オリバーの表情が一変した。
「お前、ソレ……」
「盗賊たちが持ち出した教団の荷物の中にあった。名前も刻まれていたから、持ち主に届けようと思ったんだ」
言って、リンドはオリバーの顔を見据える。
「盗ったものでは、ないんだよな?」
「ンなもん、盗るかよ」
とオリバーは返す。
「ソレのお陰で、俺の商人時代の最後の財産はすっかり無くなっちまったんだ」
「……え、オリバー?」
彼の傍で、ローラが戸惑った様子で声を出す。数多くの男を虜にしてきたであろう娼婦の彼女に、箱の中身を察することができないはずも無い。
ただその揺れる瞳は、人気を博す娼婦としての彼女のものでは無かった。
彼女の不安を拭い、彼女の期待に応えるように、オリバーはリンドから受け取った小さな木箱を開く。
そして、彼女に告げた。
「俺と結婚してくれ。ローラ」
「オリバー……!」
ローラの瞳が、また揺らめく。
そして、彼女はふっと笑んだ。
「指輪、つけてくれる?」
「ローラっ……!」
彼女の言葉に、オリバーも顔を綻ばせて指輪を手に取る。
そうしてローラの左の薬指に指輪が通ると、二人は鉄格子越しに誓い合うように長い口付けを交わした。
互いを求め合うように何度も何度も口吸いし、伸ばした手で身体を弄り合う。
熱い、熱い、情愛。
そんな二人を前に、アリアは踵を返して地上への階段に向かって歩む。
用も済んだので、ここに長居する理由はもう無いだろう。
しかしちらと様子を窺ってみれば、リンドはまだ愛し合う二人を見つめていた。
「あんまり見るのは、少し無神経よ?」
「……ああ」
とリンドは応じる。
そしてくるりと方向転換すると、オリバーに一言声を掛けた。
「仕事は、しっかりやってくれ」
するとすぐに「任せとけ」と声が返ってくる。
その声を背に、アリアたちは牢獄を去った。
*
今日が終わる前に、リンドが済ませたいことはもう一つあるはずだ。
アリアの推測通り、彼は牢獄を出てすぐに町の南部へと向かった。
目的地は、南西通りに面した老舗の鍛冶屋マークスだ。
その店主グルードは、店を再び訪れたアリアたちを温かく出迎えてくれた。
「リンド、また助けられちまったな。ありがとう!」
「今日中に片が付いて良かった」
対するリンドは、いつも通りに淡々と応じる。
「それで、俺の剣についてなんだが―――」
言いかけて、その口が止まる。
彼の視線を追ってみれば、店の奥から出てくるマストロの姿を確認できた。
彼は、不満げにリンドを見ていた。
事件の解決を喜んでいないはずは無いだろうが、依頼の達成は即ちリンドの願いの成就だ。そのことが気に食わないのだろう。
「……事件の解決は見事だが、オリバー解放の件は少し勝手が過ぎるんじゃないか?」
低く唸るように言うマストロに対して、グルードが呆れ交じりの息を吐く。
「けど、お前だって最終的には賛成したじゃねえか」
「それは、お前が良いって言うから……。まァ、オリバーが世のために命張るって話だし、確かに悪くは無い」
と言ってから、しかし彼は「だが、」と言葉を継いだ。
「その条件を認めたのは、お前が依頼を達成したからだ。つまりそれが依頼の報酬で、お前はもう他に対価を得る権利を失ってる」
「何を馬鹿な」
と声を出したのはグルードだ。
しかしマストロは、真剣な面持ちでリンドに詰め寄る。
「大体、俺は達成すべき依頼が一つだなんて言ってない」
「……」
リンドは、黙ったままマストロを見返していた。
そんな彼に、マストロはさらに捲し立てる。
「不満か? なら他を当たれ。鍛冶屋は他にいくらでもある。働かされるのが嫌なら、もうここには―――」
「いい加減にしろッ!」
大きな怒鳴り声に、マストロがびくと肩を弾ませる。リンドもその目を瞬いて、マストロの後背に立つ大男を見上げた。
温厚な雰囲気のグルードでも、怒りを露わにすると迫力があった。
「お前は、何を子供みたいに喚いてんだ! 恥を知れっ!」
大声で怒鳴りつけられて委縮するマストロは、それでも弱々しく抵抗する。
「だけど、仕方無えんだ。こいつは……」
「何だ? リンドがアルバートの人間だから、気に入らねえのか?」
「そうだよ。お前は偽英雄に―――って、……え?」
目を丸くするマストロを腕組みしながら見下ろして、グルードはふうと息を吐いた。
「俺が気付いてねえとでも思ったか」
「いや、だってお前何も……」
「いつから気付いていた?」
リンドが問うと、グルードはふっと破顔する。
「最初に会った時から、そうじゃないかとは思ってたよ。ただの傭兵って言うには強過ぎるし、それに左手の布とか白い柄の剣とか……。知ってる人間から見れば察しはつくぞ?」
その言葉に、アリアは思わずくすっと笑みを漏らす。即座にリンドの恨みがましい視線が飛んでくるが、肩を竦めて誤魔化した。
一方グルードは、再びマストロの方を見やって困ったような顔をする。
「俺の心配してくれるのは有難いけど、戦う相手は間違ってくれるなよ。リンドは何も悪さしてないどころか、俺たちを二度も助けてくれたじゃねえか。生まれなんかより、行動を見てやるべきだ」
「……ああ、気を付ける。悪かったよ」
詫びの言葉を口にするマストロに、グルードは首を横に振った。
「違うだろ。俺じゃなくて、リンドに謝れ」
「……」
グルードに促されたマストロは、リンドの方を見やると小さく頭を下げた。
「悪かった」という謝罪の言葉も、呟くような声の大きさだが確かに聞き取れた。
「リンド、すまなかったな。こいつも俺を気遣おうとしただけなんだ。許してやってくれ」
グルードが重ねて詫びると、リンドは「別に、構わない」と視線を外しながら応じた。
慣れない状況のせいか、彼も何と応えたら良いか迷っているように見えた。
そんな彼を見て、グルードはふっと笑む。
「……左手の布、取ったんだな」
「ああ、」
と言って、リンドはその手を見下ろす。
「もう、アルバートであることから逃げるのはやめたんだ。―――だから、立ち向かうための力が欲しい」
彼が言うと、グルードは「よし分かった!」とその大きな手を打ち合わせた。
「お前のために、最高の剣を用意しよう! 何か要望はあるか?」
問われるとリンドは、暫し考えるような間を取る。
それから、静かに答えた。
「……それなら、一つ注文をつけさせてくれ」
*
無事に剣を打ってもらう約束を取り付けて、アリアとリンドは鍛冶屋マークスを後にした。
外はもう、大分暗くなっていた。日没も間近だ。
「剣を打ってもらえることになって、良かったわね」
前を行くリンドに声を掛けると、彼はこちらを見もせずに「うん」と返す。
そんな彼に、アリアは告げた。
「そうしたら、ひと段落したし私は行くわね」
言うと、リンドがようやくこちらをぱっと見た。
その目は一瞬、寂しそうに見開かれた。―――ように見えた。
「……急だな」
「別に急でもないわ。元々、ちょっと同行するだけのつもりだったのだから」
とアリアが返すと、リンドは「そうだったな」と応じた。引き留めるようなことは言わない。
「次は、どこへ向かうんだ?」
彼に問われ、アリアは「そうね……」と考える仕草をする。
だが、実際にはもう決まっていた。
「あなたの仲間たちにも、会ってみようかしら」
言うとリンドは、少々嫌そうな声を出す。
「あまり苛めてやるなよ」
「そんなことしないわ。あなたの大切な仲間たち、なのでしょう?」
「……ああ」
とリンドは、はっきりとそう答えた。
「あいつらに、俺は無事だと伝えてくれ」
「気が向いたらね」
「何だそれ」
呆れ交じりの息を吐くリンドに、アリアは小さく左手を振って別れの時を示す。
それにリンドもこくりと頷くと、彼女に背を向けて歩き出した。
その背を見守っていたアリアは、すぐにたっと地を蹴って彼の後を追う。
「リンド、」
「何だ―――」
振り向いた彼の頬に、顔を寄せた。
彼は思わず身を引いて、その頬に手を触れる。
対してアリアは、微笑みながら指先で下唇に触れた。
「少し、油断したかしら? 気を付けなさい」
言っても、彼は目を瞬いたまま黙っている。
そんな彼に、それでも彼女は警告する。
「でないと、―――次はどうなるか分からないわよ?」
次に会う時。
その時二人は、何を思っているのか。
アリアにも、全てを見通すことはできない。だがきっと、互いに手を握り合っていることは無い。
互いの手は、互いの首に掛かっていることだろう。
故に彼女は、忠告するのだ。最大の敵にして最愛の弟に。
アリアが言葉を向けると、リンドはようやく我に返った様子でこちらをちろっと睨んだ。
それにふふと笑んで、アリアはくるりと身を翻す。
そしてそのまま、静かに彼の元を去った。
もう振り返ることは、しなかった。




