5.少女と偽英雄
黒い髪と瞳の若い男だった。歳の頃は二十……まではいかないくらいだろうか。癖っ毛の黒髪は所々跳ね上がっていて、切れ長の目は眠たげに開かれている。
着ているものに大きな特徴は無い。街の大通りで見かけるような人々の恰好だ。特徴を挙げるとするならば、肩から背にかけて垂れた長い襟巻と腰に差した白い装飾の剣。あとは、剣の柄の付け根と左手に巻かれた麻布といったところだろうか。
体格的には周囲の男たちと大差無く、特別迫力を感じるような要素は無い。
無いはずなのだが、その黒い瞳と目が合ったニーナは言い知れぬ不安を感じる。本能的な恐怖とでも言うべきものを、彼女はその男に感じていた。
「お前が『ニーナ』か」
男が静かな口調で問うてくる。
「あなた誰です?」
上から投げ下ろされたぶっきら棒な問いに少しばかり腹が立って、ニーナの声はやや尖る。
「先に訊いたのは俺だ。まず俺の質問に答えてくれ」
「相手が何者かも分からないのに名乗れません」
「名乗れとは言ってない。『ニーナ』かどうかを訊いてる」
ニーナが渋っても、相手は譲ろうとしない。
「王都の裏街で荒くれ者相手に喧嘩吹っ掛けて金を奪った『ニーナ』って少女に、俺は用があるんだ」
「金を奪ったって、嫌な言い方だなァ……」
思わず呟き、はっとして口に手を当てる。ちらと男の顔を窺うと、彼は小さく首を傾げて「そうなんだな?」と確認してくる。
それで止む無く、ニーナはふうと諦めの息を吐く。
「ちゃんとルールを決めて喧嘩して、それで勝ったからお金を貰ったんですよ」
「ニーナなんだな?」
「同じように旅しながら裏街で稼いでる『ニーナ』って娘がいなければ」
彼女の捻くれた回答に対して、しかし彼は真面に取り合う気は無いようだった。すぐに話を先へ進める。
「お前が箱を壊した辺りから見ていたんだが―――」
「ていうか、だからあなた誰なんですか?」
ニーナが文句をつけると、男はああそうかと思い出したように口を開く。
「俺は、リンドだ。リンド・アルバート」
店内が、途端に静まり返る。二人のやりとりを見守っていた観衆は、先ほどまでも気にならない程度には静かだった。しかし今のそれは、全く別のものだ。
誰もが、音を立てまいとしている。その空気感だけで、ニーナは目の前の人物が危険な存在なのだと理解できる。
もちろん、ニーナもその家名は知っている。アルバート。魔法を消し去る「退魔の力」で純人王国を魔法王国から守り、また統治する王家の名だ。
しかし人々がその名に対して抱くのは希望ではなく、絶望だ。アルバートは退魔の力の副次的な作用を利用して、人々を恐怖で縛っている。そうして国を統べている。王家に反する者は、粛清されるのだ。
故に、この現状が生まれているのだろう。ニーナは、初めてそれを目の当たりにした。
「―――ふうん。あなたが、『偽英雄』なんですね」
口にすると、周囲がざわっと一瞬反応する。
「偽英雄?」
男―――リンド・アルバートが首を傾げて訝しげな顔をする。その内心まで推し量ることはできないが、どうであったとしてもニーナが態度を変える理由にはならない。
「アルバートは昔魔法王国の侵略からこの国を守った英雄だったけど、今は違う。『偽英雄』だって皆言ってました。―――違うんですか?」
物怖じしないニーナとは対照的に、周囲の男たちはだらだら汗を垂らしながら後ずさっている。小声で「そんなこと……俺らは言ってないよな?」とか「初めて聞いたぞ、俺ァ……」とか呟きながら。
「……そうか」
と、リンドは言っただけだった。そしてそれ以上その話に触れず、ニーナに向かって告げる。
「俺と一緒に来い」
「えぇ……、嫌ですよ」
即座に彼女が拒絶すると、彼はまた「そうか」と言ってその左手に巻かれた布を解く。
「―――!」
その左手がニーナの方を向いた瞬間、ニーナは後方に飛んでいた。
無意識の行動だった。
直後、どんと頭に衝撃が走る。実際に頭を打たれたわけではない。ただ、強い感情が一瞬にして頭に湧き上がった。
強烈な恐怖心。それが、ニーナの身体を硬直させる。
彼女だけではない。酒場にいた全ての人間が恐怖に表情を歪ませ、その動きを止めていた。唯一人、その左手をニーナに向けるリンド・アルバートを除いて。
差し向けられた彼の左の掌の上では、一筋の古傷の下で黒い竜の印が鈍い光を放っていた。
これが恐らく、退魔の力のもう一つの作用だ。力を受けた者に、強い恐怖を感じさせる。
不意に、背に感触が起こる。気がつくとニーナは、店内の端まで後ずさっていた。壁に背をついて、それでもなおリンドから距離をとろうとしていた。
その無意識の行動に気付いて、ニーナはぎりと歯噛みする。
「何やってんだ……私は」
そしてその足を、引き摺るようにしてそれでも前に出す。
「―――驚いた。お前は動けるのか」
その様子に、リンドは少しばかり目を見開く。
「この力を浴びたことがあるのか」
その声に言葉を返すことはできない。ニーナは黙ったまま、首を横に振る。あとできるのは、にやりと不敵に笑んで見せることくらいだ。
当然、まともに戦える状態にはない。ゆっくりと迫ってくるリンドに対して、ニーナはその拳を握ることしかできない。
リンドの左手が腰に差した剣の鞘に触れ、その右手が剣の柄を握る。そして、その柄頭がニーナの鳩尾を正確に打った。
そこでニーナの記憶は、一旦途切れる。
*
それは恐らく、五年くらい前のことだ。正確に時を捉えていない時期があったので、明確にはならない。
いっそ忘れてしまいたい。そう思っているのに、少女ニーナはまたその何にも無い部屋にいた。
木造家屋の一室。窓はあるが、木板で内から塞がれている。扉は一つ。両親が生活するメインスペースに繋がる扉だ。だが、その扉の向こうにニーナの居場所は無い。
彼女は朝から晩まで、生活のほとんどを今いるこの部屋で過ごしてきたのだ。
何をするでもない。何も無いこの部屋でできることなど限られている。あとは、朝に母親から受け取るパンをほんの少しずつ口に入れるだけ。
命だけが繋がっている。他の繋がりは断たれ、新たに繋がることもない。
それが、ニーナの日常だった。その日までは。
扉の向こうで、入口の戸が開かれる音が聞こえる。それでニーナは扉を少しだけ開けて、隣部屋の様子を窺う。何が起こるのかは、もう分かっているのに。それでも身体は、あの日の行動を忠実に再現する。
扉の隙間から見えたのは、帰ってきた父親とそれを迎える母親の姿。ただ「帰った」と言っても、それは仕事からでは無い。別の女の家からだ。父親はそうして何とか男児を得ようとしていた。その目的まではニーナの知るところではないが金だけはあったようで、働きもせずに日がな一日女を物色していたようだった。
この家で過ごすのは、ほんの一時だけ。それでも母親は、甲斐甲斐しく父親の世話を焼いていた。彼女にそうさせるものが何だったのか、ニーナには未だ全く理解できない。
「買い手がついた」
父親は、開口一番にそう言った。
「買い手って……?」
戸惑い気味の母親に、父親は呆れ交じりの視線を向ける。
「ニーナの買い手に決まってるだろ」
ニーナの胸の奥の方が冷えていく。何度見ても、その瞬間の感覚は消えない。
「ニーナには買い手がついた。―――これで、お前との縁もすっぱり切れる」
それだけ言うと、父親はすぐに家を出ていく。母親は、その腕を掴んで引き留める。
「待って! ダメよ、そんなの……!」
「煩ェなッ!」
父親が腕を振り薙いで母親を床に転がす。そしてその腹を蹴飛ばした。その様はニーナの触れたくない過去を呼び起こさせ、彼女の身を硬直させる。
―――ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません。許してください。
ほんのちょっとした好奇心。それを父親は許さず、徹底的に「躾ける」。その度にニーナは、泣きながら頭を床に擦りつけたのだ。
「要らねェんだよ、お前はもう」
床に転がったまま噎せ返る母親を見下ろして、父親は言う。そしてそのまま、家の外へと消えていく。
それでも母親は、すぐによろよろと立ち上がる。そして父親を追って、家を出ていく。
「お願い、私を一人にしないでっ……!」
ニーナの耳に残る、母親の去り際の言葉。
それから間も無くのことだった。家に見知らぬ男たちがやってきたのは―――。
*
遠くで鳴り響く鐘の音が、耳に届く。恐らく、日没を知らせるものだ。
気がつくと、ニーナはベッドの上に寝ころんでいた。ぼーっとする頭を覚醒させるように、目元をぐいと拭って目を瞬かせる。
見知らぬ天井。恐らく旧都の宿屋だが、彼女に自分の意思で宿に来た記憶は無い。詰まる所、何者かによってここまで運ばれてきたというわけだ。その何者かが何者であるかについては、大凡見当がつくが。
首を巡らすと、隣のベッドに背を向けて座っている男の姿を確認できた。黒髪の癖っ毛頭。長い襟巻は、畳んでベッドに置かれている。剣も今は、ベッドに立てかけられている。
背を向けているのは油断なのかそれとも余裕なのか。ニーナの力を以てすれば、この距離はすぐ詰められる。武器は無くとも思い切り殴りつければ―――と、そこで静かに身体を起こしかけたニーナは腰の辺りに違和感を覚える。
「―――え?」
思わず、声を漏らしてしまった。
その声に、リンドがこちらを振り向く。
「起きたか」
「……あの、コレは」
ニーナは怪訝な顔で、腰に差したままのナイフを彼に示す。
「うん? お前のじゃないのか」
「いや、そういうことじゃなくて」
と彼女が返しても、彼は首を傾げるだけだ。それでニーナは、わざわざ説明する羽目になる。
「だから、折角捕まえた人間を縛りもせずしかも武器持たせたままで良いんですかって聞いたんですよ」
手足を拘束するどころか、怪我をした右手には布―――恐らく彼の首巻きの一部を切り取ったものであろうそれが巻きつけられ治療が施されている。つい先ほど力技でニーナを捩じ伏せた人間のすることとは思えなかった。
ニーナに指摘されたリンドは、目を瞬かせる。
「―――それを、捕まった人間が言うのか」
「言わせたのあなたじゃないですか!」
思わずわっと声を出すと、彼はふむと腕を組む。
「まあ、縛ってずるずる引き摺っていっても意味は無いからな」
「なら強引にここまで引っ張ってきた時点でダメじゃないですか」
ニーナは呆れ交じりの息を吐きながら言う。
しかしリンドは、落ち着き払った表情を変えない。
「それはお前のやり方に従ったんだ」
「……言ってる意味が分かりません」
ニーナの言葉に、彼は酒場での言葉を繰り返す。
「―――箱を壊す辺りから、お前を見ていた」
「ふうん、それはどうも」
「お前は、全部の悪を引き取ったんだろ?」
リンドの問いに、ニーナの返答は一瞬遅れる。その間に彼は、さらに言葉を継ぐ。
「あの大男の悪事を晒して、次に大男を叩いて自分を一番の悪者にした。―――違うか?」
「深読みし過ぎですよ」
と、今度はすぐに返す。
「私はお金が欲しかったからあの箱割りに参加しただけ。で、刃向かってきたからイカサマおじさんもやっつけたってだけですよ」
「なら、その『イカサマおじさん』の金も盗った方が良かったんじゃないのか?」
ニーナの返答は、またも少し遅れる。
「―――何言ってるんですか。私盗りましたよ。あなたも見てたんでしょう?」
「見た」
とリンドは答える。
「お前が握り拳だけ袋から出し入れしてるのは見た」
「握り拳だけだなんて、なんでそんなことが―――」
「お前が気絶した後に、確認もしたんだ。あの大男の袋には、金が残ってた」
「……」
そこまで言われてしまえば、もうニーナはふいと外方を向くことしかできない。
その彼女に、リンドは続ける。
「大男の哀れはもう十分に演出できた。だからお前は金を盗らなかったんだろ」
「……それで、それがあなたの行動にどう繋がるんですか」
「お前があの場における一番の悪者だった」
と、リンドは答える。
「だから俺は、それを上回る悪者をやった。……あの力は、使いたくなかったんだが」
そう言って、彼はふうと溜息を吐く。その姿は、ニーナが聞き及んでいた「偽英雄」の姿とは些か異なって見えた。
「……なら、なんでやったんですか」
「お前が欲しかったから」
「―――は?」
思わず、尖った声が出る。しかし、リンドの淡々とした様子は変わらない。
「お前を引き受けるなら、背負ったものごと引き受けるのが筋ってものだろ」
「私は引き取ってくれなんて頼んでませんけど」
「それはこれから俺が頼む」
ニーナの睨むような視線を物ともせずに、リンドは言葉を返す。そしてベッドから立ち上がると、ニーナの方を真っ直ぐに向く。
「俺の旅に加わってくれないか?」
「旅?」
とニーナは首を傾げる。
「何の旅ですか。人生の旅なら御免ですよ」
「伴侶は今決めたりしない。それを決めるのは全部終わってからだ」
「じゃあ、何の旅ですか? 魔法王の討伐とか?」
アルバートは今も魔法王国に攻め入ってその王を討つことがあると聞く。その役を今は彼が負っているのかもしれない。
しかしながら、それに対するリンドの回答は曖昧だった。
「魔法王には会いに行く。ただ、討つかは決めてない。それが目的ではないから」
「それなら、何が目的なんです?」
「―――この世界を、終わらせる」
「え?」
思わず聞き返すが、リンドの答えは変わらなかった。
「この世界を終わらせるのが、俺の目的だ」
リンドの言葉に、ニーナは言葉を失う。冗談、というわけでも無さそうだ。彼がこちらに向ける真っ直ぐな眼差しは、真剣そのものだった。
ならば、彼は本当にこの世界を終焉に導こうとしているのだろうか。そうだとすれば今人々にとっての脅威は魔法王国ではなく、この男なのではないか―――。
とそこまで考えたところで、ニーナはその「人々」の中に自分を含んでいないことに気付いて苦笑する。
別に望んでなどいないのだ、ニーナは。世界が守られることを。
辛い目にしか遭ってこなかった。これまで生きてきた十数年間、ニーナには幸福な瞬間など無かったのだ。虐げられ、裏切られ、利用され、すれ違い、全てを失って、今は何も無い。そんなニーナが、一体何のためにこの世界が守られることを望むというのだろう。
「―――俺に協力してくれるか?」
自嘲を浮かべるニーナに、リンドは問うてくる。
ニーナはその顔を見上げて、小さな口を開く。
「……私、癖っ毛頭と半開きの目の男は嫌いなんですよね」
「顔に文句をつけられても困る」
あまり表情の変わらない男だが、リンドはややむっとしているように見えた。それを見て、ニーナはふっと笑みを溢す。
「―――でも、まあ退屈しない旅みたいですから、ちょっとついて行ってみるのも良いかもですね」
「そうか。助かる」
とリンドは相変わらずの淡々とした口調で応じる。そして、右手をニーナに差し出してきた。
「これからよろしく」
「よろしくするかは、まだ決めてませんけどね」
言って、その右手に軽く触れる。ニーナの意向を汲んでか、リンドも彼女の手を握ってくることはなかった。
そうしてニーナは、リンド・アルバートの「世界を終わらせる旅」に加わることになったのだった。