38.偽英雄と怪物
太陽はその軌道の頂きに達した頃だろうか。厚い雲に覆われていなければ、その輝きに最も町並みが照らされている時であるはずだ。
しかし今、その陽光は地上に僅かしか届かない。そしてその微かな光も、これから少しずつ失われていく。
アニーが家を飛び出した。
それを認識したリンドは、他の誰よりも早く行動を起こして彼を追う。しかしそれでも遅かった。家の外へ出たものの、目の前の通りを右に見ても左に見てもアニーの姿は無い。どうやら通りへ出てすぐに脇道へ入ってしまったらしい。
港町は家々の並びが不規則なため、その間を通る道も少々入り組んでいる。目印が常に見えていたバリスタの家を目指すのと違って、逃げる小さな少年を探し出すのは容易でない。しかも、彼の方が土地勘があるのだ。闇雲に探し回っても見つかるとは思えない。
そうであるならば、探すのは止めだ。リンドはすぐに結論して、バリスタ家の方を振り返る。するとその戸が開いて、フレアがばたばたと慌ただしく出てきた。
「家に行ったかも―――」
顔を合わせた瞬間に口にした言葉は、綺麗に重なった。思わず二人して目を瞬く。
先に再び口を開いたのはリンドだった。
「場所は覚えているか?」
問うと、フレアは若干自信無さげに頷く。
「多分……」
その口ぶりからは不安しか感じない。訝しむような視線を向けると、彼女はううと身を捩った。
そのままじいと見ていても、彼女のあやふやな記憶がはっきりするでもない。リンドはすぐに次の行動を起こした。
バリスタ家の人々に訊けば良い。その家の誰かがアニーの家を訪ねたはずだ。
「待ってろ」
とフレアに言い残して、ばたばたとまたバリスタの家の中へと戻る。先ほどまでいた部屋に行くと、彼らはまだその席に着いて固まっていた。
戻ってきたリンドに気付くと、長男の妻がこちらに縋るような目を向けてくる。
「アニーは……!?」
「分からない。見失った」
リンドが答えると、彼女はがくりと肩を落として項垂れた。
「やっぱり、私たちは遅過ぎたんですね……」
「知らない。反省なら後でやってくれ」
ばっさりと切って、それから彼は問う。
「それより、アニーがいた家はどこか分かるか?」
「あ……、はい! 確か情報を聞いた時に書いた地図が―――」
と言って、彼女はぱたぱたと部屋を出て行く。これではどちらが大人か分からない。
程無くして、女は一枚の紙片を持ってきてそれをリンドに手渡した。
「これです」
その簡単な地図を受け取って道を確認していると、女から控えめに声を掛けられる。
「……あの、私も一緒に行っても良いでしょうか」
その問いに、地図から顔を上げたリンドは首を横に振った。
「今は、止めておいた方がいい」
「……そうですよね」
彼女もその答えは想定していたようで、それ以上食い下がること無くただリンドに頭を下げる。まだ齢二十にも満たない、目上に対する礼節を知らず態度が大きなその男に。
「どうか、アニーのことをよろしくお願いします……!」
その必死さは、果たして真にアニーを心配する気持ちから来るものなのか。或いは、己を義父母に対する引け目から解放したいという保身の思いから来るものなのか。リンドの目からは、断じかねるところだ。
頭の中を廻る思考をひとまず扨置いて、リンドは再びバリスタの家を出た。
*
アニーの家―――正確にはそれがあった場所は、港町の北の端だった。町の中心部にあるバリスタの家からは遠い。そこからではバリスタの家の屋根は見えても、その家の人々の姿は知りようもないだろう。
フレアを伴って、リンドはその場所まですたすたと足早に細い路地を進んでいく。
いつもより幾分か感情的になっていることを、彼は自覚していた。それが生まれによって苦しむアニーに自分の姿を重ねているせいなのか、はたまた仲間のニーナにも関わっている問題であるせいなのかは分からない。それを考えるのは、もう少し落ち着いてからの方が良いだろう。
今はとにかく、先を急ぐ。小股で後をついてくるフレアが半ば走っていることも気にせずに、リンドは大きな歩幅で早く足を繰った。
そうして歩いて行くと、狭かった道が突然開ける。
広く空いた何も無い土地。そこに、ぽつんと一軒の小さな木造の家だけが建てられていた。家の周囲は畑にする途中なのか、一部が耕されている。
「―――あれよ。あの家」
追いついてきたフレアが、やや呼吸を乱しながら言う。
それを聞いて、リンドは眉根を寄せた。
「……アニーの家を潰す必要は、無さそうだな」
するとフレアも隣で、うんと頷く。
「私も思った。だから聞いたら、『壊れかけの空き家で危なかったから』って。―――ホントかしら?」
「嘘だろ」
とリンドは即答する。
「家の状態は知らないが、少なくとも理由は」
「そうね。きっとアニー君への嫌がらせよ」
「―――それも違うな」
憤るフレアを尻目に、リンドは腕を組んで考えを纏めるように話す。
「嫌がらせのためだけに、わざわざ家建ってるところを潰してまた建てるなんて労力は掛けない。強い恨みでもあるなら話は別だが……、アニーと繋がりのある人間でも無いんだろ?」
「確かにお互い知らないみたいだったけど、―――なら何だって言うのよ?」
フレアの問いを耳に入れながら、リンドはその場に片膝を突く。
所々に、木材の破片が見受けられた。ただそれをアニーの家の残骸と見るには、若干の違和感がある。
その木片を手に取りながら、彼はフレアの問いに答えた。
「―――家を隣に建てたら、周りの土地を独占できない」
「な……、何よそれ!?」
「何らかの利益を欲しがってやったと考える方が妥当だ。そしてその利益になりそうなものなんて、この場所じゃ限られてる」
言いながらも、リンドは考える。
恐らく、理由はそれで合っているはずだ。しかしそうであるならば、アニーの家を壊すのにこれほど木片を撒き散らすようなやり方はしないだろう。畑を作るのに余計な片付けの手間が発生してしまう。
だとすれば、目の前にぽつぽつと散っている木片は―――。
「……それは多分、俺の家じゃないよ」
不意に耳に届いた声に振り返れば、細く暗い路地の方からこちらを見るアニーの姿があった。
予想通りの場所に先回りできていたようだ。
「だろうな」
と応えて、リンドは彼の元へ歩む。その傍にいたフレアも彼の存在に気付いたようで、「良かった……」と呟きぱたぱたと駆け寄っていく。
「これは、お前の家の周りにあった家のものだな?」
確認すると、彼はこくりと頷いた。
「周りの家も巻き込まれたみたいで、ボロボロだった。それで皆怖がって、その後すぐに家ばらして別の場所に行った」
「……そうか」
呟き、リンドはその手に取った木片を見下ろす。
その時そこにいた「彼女」は、恐らくこれまでにリンドが見てきたどの彼女でも無いのだろう。
そのことを思ってリンドが黙ると、今度はフレアがアニーに声を掛けた。
「どうして急に出て行ったの?」
「……」
その問いに、彼は黙ったまま項垂れる。
そんな彼に、フレアは優しく声を掛けた。
「確かにあの人たちは迎えに来るの遅かったかもしれないけど、でも悪い人じゃないと―――」
「そういうことじゃない!」
とアニーは彼女の言葉を遮る。
そして不安を滲ませる消え入るような声で、言葉を継ぐ。
「俺はずっと小さな家で、何の『特別』も無い普通の子供やってきたんだ。それがいきなり町一番の商人の子供になって次期当主とか言われても……、どうすればいいんだよ」
戸惑う彼の様子を見て、リンドは納得したようにうんと頷く。そして小首を傾げるフレアの方へとその視線を向けた。
「お前と違って、お坊ちゃま暮らしに慣れてないってことだ」
「何その言い方……。あんたも私と同じでしょうが」
フレアにちろっと睨むような視線を向けられてしまったが、しかしリンドの実感は異なる。
「俺は、あの家には居づらかった」
生まれた時にできた左手の傷により、彼は忌み子として周囲から白い目を向けられてきた。そんなリンドにとってアルバートの王城は、必ずしも安息できる場所では無かったのだ。
フレアのように家に対して誇りを感じたことも無い。王家という最高位の家に生まれてはいるものの、リンドの内心はフレアよりも寧ろアニーの方に近いと言えた。
その彼の心の内を察してか、フレアはこほんと一つ咳払いして仕切り直す。
「とにかく、家が無い以上一旦は―――」
そう彼女が言いかけた、その時だった。
不意にばきばきっと木板が圧し折れる音が鳴り響き、直後に木片が北方から飛んできて南の路地を作る家々の一つに突き刺さった。
北方から感じる強い気配。町の中なので、知らず警戒を緩めて気付くのが遅れていた。リンドはすぐに腰の剣の柄に右手を掛け、木片が飛んできた方へ目を向ける。
その視線の先では、町を囲う木板の壁の一部が破損していた。そしてそこに立つのは、熊。体長はリンドよりやや大きいくらいで、魔物としては大きくない。だが文字通り二足で立って、その目でぎろりと町の中を見据えていた。
「ウソ、町の中に入ってきたの……!?」
「考えるのは後だ。構えろ」
動揺するフレアに声を向けながら、リンドは剣を抜く。
それから、アニーにも声を掛けた。
「アニーはここから離れてろ」
「わ、分かった」
言うと、彼は狼狽えながらも町の中央の方へ向かって駆けて行く。
それで場を整えると、リンドはふうとゆっくり息を吐き出して集中力を高める。
目の前の一軒家にも声を掛けに行った方が良さそうだが、その家はリンドたちと魔物との間に位置している。しかも家からの距離は、熊の方が近い。迂闊にこちらが家に近づくと却って状況を悪くしてしまうかもしれない。
そうなると、魔物の注意を引きつけて家から離した方が良いかもしれない。
一人結論したリンドは熊との距離を保ったまま足を横に進め、相手の視界から家を外しにかかる。フレアも魔法の準備をしつつその背について共に動いた。
魔物はこちらに気付いたようだったが、しかし向かってくることは無く、辺りを警戒しているかのようにきょろきょろと見回す。
それでリンドは、さらに注意を引くために一歩踏み出した。
「『カリスト』……ではないか」
「確かにこの前の『ケリュネイア』に比べると小さいわね。第一世代じゃ無さそう」
神話に準えた熊の名を口にすると、フレアが後ろから言葉を返してくる。その通りなのだが、しかしリンドの中には若干の違和感があった。
感じる気配が、見た目以上に強い気がする。それに獣に近い程度の魔物が、単体で町の壁を強行突破するだろうか。
「普通では、無さそうだな」
リンドは、一人呟く。
すると、その次の瞬間―――。
「お前たちも、だろ?」
不意に耳に届いた声に、思わずリンドは目を瞬く。声がした方向と声音の低さから違うと分かるが、それでもつい後ろを確認してしまう。
するとフレアも呆けた顔をしていて、リンドと目が合うと我に返った様子でぶんぶん首を横に振った。
「私なわけないでしょ!?」
「―――だよな」
言って視線を前に戻すと、熊の魔物がべたべたとだらしない足の運びでゆっくりとこちらに近づいてきていた。
訂正すべきだろう。やはり目の前の魔物は『カリスト』と呼ぶべき異常な存在だ。
そのカリストは相変わらず辺りを見回しながら、少しずつこちらとの距離を詰めてくる。
「……やっぱり少し、匂うんだよなァ」
その口ではっきりと呟くと、カリストはリンドたちからまだいくらかの距離を残したままその足を止め、こちらに視線を向けてくる。
「おい、『ユニコーン』はどこだ」
「……ユニコーン?」
リンドは思わず眉根を寄せる。
ユニコーンと言えば、神話に出てくる幻獣だ。飽くまで神話上の存在であり、実在するという話は聞いたことが無い。
そのユニコーンを、目の前のカリストは探していると言うのだろうか。
首を捻っていると、その背をどんと叩かれる。
「魔物の言葉なんかに耳傾けてどうするのよ!」
「意味は成してる」
と後背にちろりと視線を向けて返すが、フレアは頭を振る。
「『ユニコーンはどこだ』なんて質問はおかしいでしょ!」
「―――知らないか」
とそこへ、カリストの低い声が届いてくる。
「ならいい」
その声に視線を戻せば、カリストの口の端が不格好に吊り上がっていた。
まるで、笑っているかのように。
「それより、戦おう。強い奴には、興味があるんだ……!」
不気味に口角を持ち上げたカリストは、そう口にした。