29.使用人と聖女
リンドは王城を去った。しかしサーシャに、感傷に浸っている暇は無い。
すぐに、使用人の長を務める女に今後のことを尋ねに行った。すると、背に掛かった髪について注意を受けた。
「髪紐はどこへやったの」
「その……失くしました」
リンドに売ったと言うのも恥ずかしくてそう答えると、その使用人ははあと溜息吐きながらも彼女に新しい髪紐を与えてくれた。そして同時に、新しい任も与える。
「クリストン家へ行きなさい。聞いているでしょう?」
「はい。それはいつからでしょうか」
「今すぐよ」
「えっ?」
と思わずサーシャは声を漏らすが、使用人の女は「頑張りなさい」と言うとすぐに仕事に戻ってしまった。それで止む無くサーシャも、彼女に一礼してから控室へ戻る。
そして慌ただしく荷物を纏め支度を整えると、十一年間を過ごした王城の使用人控室を後にした。尤も、「纏める」と言うほど荷物は無かったのだが。
その場所に対しても、強い感傷を覚えることは無かった。使用人仲間と言葉を交わすことはあったが、寝起きと少しの食事に戻るだけの場所だった。彼女にとって一番の居場所はリンドの傍であり、その喪失感に比べれば王城を離れることなど些末なことだった。
サーシャは誰もいない部屋に深々と頭を下げてから、静かにそこを去った。
*
リンドの口添えによって、サーシャが使用人として次に働く場所はクリストン家となった。クリストンの邸宅は、王城のすぐ隣。あっという間に行き着く。
石造りの屋敷の前では、一人の使用人が掃き掃除をしていた。黒髪の長身の女だ。
「こんにちは。あの、私今日からこちらで働くことになった―――」
「来たわね。さあ入りなさい。こっちよ」
サーシャが彼女に声を掛けると、自己紹介も無いまま屋敷の中へと案内された。
入ってすぐの玄関広間には、両脇に上階への階段と、中央に奥へと続く扉がある。その階段から二階へ上がってすぐのところには、使用人たちの控室があった。そこへ荷物を置くと、今度は階下へ下りて玄関広間の奥へと進む。
その先には、扉が一つと二つに分かれた廊下が続く。そこにある扉の先は中庭と教えられた。それからその中庭を囲うように続く廊下の一方を通って奥へ進むと、また上階への階段がある。その上がクリストンの人々の主な生活空間であると聞かされた。
挨拶するためサーシャが上へ上がろうとすると、そこで止められる。そして、この家の使用人として守るべき最も重要な規則を教えられた。
「クリストンの方々に、心を寄せては駄目よ」
「え……?」
困惑するサーシャに、使用人の女は説明する。
曰く、クリストン家の使用人はアルバートに雇われており、クリストンを監視するために置かれているのだそうだ。故に使用人たちは常にクリストンの人々の動きに目を配り、異常を感じた際にはアルバートに報告する。
それが、サーシャに伝えられた最初にして最大の規則だった。
その大則を伝えると、使用人の女はサーシャを連れて階段を上がった。
階段を上がると、そこにも扉が一つと二手に分かれて続く廊下が見える。サーシャはそこに見えた扉の中へと導かれた。すると、その広い部屋には幾人かの人の姿があった。
扉の傍に立っている一人は恐らく使用人だが、他は皆クリストン家の人々だろう。男が一人と女が三人。中年くらいと見られる彼らは、中央の大きなテーブルを囲む形で椅子に腰掛けていた。
一家団欒、というわけでは無いだろう。四人の内の三人の男女は机上に散らかる鉄や布を手に取り、木箱に納めている。そしてもう一人の女は、右手の人差し指で空に何かを記していた。その掌からは、淡い紅色の光が漏れていた。
「―――織布」
その声に応じて、強い輝きの中からテーブルの上にふわりと亜麻の布が舞い降りてくる。その様は宛ら天からの贈り物のようで、サーシャは思わず目を見開いてしまう。
「綺麗……」
転び出た言葉に、魔法を使った女がちろっと睨むような視線を向けてくる。ただ、それだけで何か言ってくるでも無い。表情には疲労の色がはっきりと浮かんでおり、声を向ける気力も無いといった様子だった。
そんな彼女に、サーシャはぺこりと頭を下げる。
「失礼致しました」
「本日よりこちらで働くことになった使用人です」
とサーシャを案内してきた使用人が告げる。
「名前は……何て言ったかしら」
「サーシャ・ルイスです」
言うと、その使用人は首を横に振る。
「家名は要らない。私たちはクリストン家の使用人なんだから」
告げられて、サーシャは思い出す。王城で最初に挨拶した時にも、似たようなことを言われた気がする。もう十一年も前のことなので、すっかり忘れていた。
「すみません。以後気を付けます」
サーシャが詫びると、しかし相手はそれに応じることなくクリストンの人々の方を見た。
「正式なご挨拶は、グレイ様が戻られてから改めて致します。特にご要件が無ければ、彼女には一先ず屋敷前の掃除をさせますが……」
その使用人の言葉に、クリストンの女の一人が手を挙げた。他の二人と魔法素材を箱に納めていた人物だ。赤みがかった長い茶髪が特徴的な女だった。
「それなら、この階の廊下の掃除をお願いできるかしら」
「お義姉さん……!」
と魔法を使っていた女が声を上げるが、赤茶の髪の彼女は取り合わない。そのまま視線をサーシャに向けてくる。
「―――お願いできる?」
「承知致しました」
とサーシャは、それに一礼を返して応じた。
「では、そのように致しましょう」
と使用人も応える。
「掃除道具は、先ほどの控室にあります」
そうサーシャに伝えると、彼女はさっさとその場を去って行ってしまった。
サーシャは、あまり歓迎されていないのか。或いはあの使用人が、そうしたやり取りを煩わしいと感じる人間なのか。いずれにしても、あまり良い印象ではない。
しかしサーシャは、その程度のことでへこたれるような柔な女では無かった。早速控室に戻って道具を取ると、件の作業部屋がある廊下の掃除に取り掛かる。
ここにある他の部屋についても何の部屋か確認しておきたいところだったが、それは折を見て訊いてみることにする。今求められていることは、与えられた仕事に対する実績を示すことだ。それによってクリストンの人々や他の使用人たちから信頼を得ることだ。今も若くはあるが、彼女は十年以上の経験を持つ熟練者である。そうした判断に、今更迷うことなど無かった。
サーシャは廊下の一方の奥まで行って、そこから掃除を始める。突き当たりの開かれた鎧戸の幅の狭い羽板を、内と外から麻の濡れ布巾でぐいぐい拭う。すると、思いのほか布に汚れがこびり付く。どうやらここの使用人の仕事は、あまり褒められたものでは無いらしい。サーシャは肩を竦めながらふうと息を吐き、より本腰を入れて窓掃除に当った。
それが済むと、今度は床掃除。石の床の上に敷かれた赤い絨毯から土埃を掻き出しては、塵入れに掃き取っていく。
だがその床掃除の途中で、彼女の足はぴたと止まった。
不意に、声が漏れ聞こえてきたからだ。
「―――それじゃあ、今と変わらないじゃないっ!」
耳に届いてきた若い女の声に、サーシャは通り掛った傍の扉を見やる。そして、すぐに自分のすべき「仕事」を理解した。
ゆっくりとその足を扉の方へ近づけると、外に漏れるほど熱を帯びた中の会話を十分に聞き取ることができた。
「家畜みたいに囲われて飼われるのは、もう御免だわ!」
また女の声。それに、若い男の声が応えた。
「大丈夫だよ。君のことは僕が幸せに―――」
「嫌っ! 離してッ!」
それから、唐突に沈黙が訪れる。
突然の静寂をサーシャが訝しく思った、―――その次の瞬間。
嫌な感覚が、彼女の身体を走った。
ずんと頭と身体にかかる重圧。内から沸き出す強い恐怖。
退魔の力だ。
「何してくれるッ!」
と、男の激昂する声が耳に届く。
「人が優しく接してやってるのに、何だその態度はァ!」
その状況にサーシャが躊躇する時間は、もう無かった。
こんこん、と強張る身体でぎこちなく戸を叩く。
ぴたと静まる部屋の音。
サーシャは返事を待たずにその扉を開いた。
部屋には、ベッドに仰向いて倒れている女と、その上に覆い被さって彼女の首に手をかけている男の姿があった。
「っ……!」
男の手が緩んだのか、女の方が噎せ返る音が聞こえる。
「―――誰だ?」
男の鋭い視線が、こちらを向く。
若い長身の男だ。歳はサーシャと同じくらい。茶の髪を男にしてはやや長めに伸ばしているその顔立ちは整っているが、今はその右の頬に引っ掻き傷ができており、傷口からだらだらと血を流していた。
「サーシャと申します。本日より、こちらで働かせて頂くことになりました」
サーシャは震えそうになる声を整えながら、慎重に話をする。次に言うべき適切な言葉を必死に考えながら、言葉を継いでいく。
「マルク様、先ほどグレイ様よりレイド様に諫言がございました」
こちらを睨み据える男はマルク・アルバート。街でも「遊び人」としてその名が知られているレイドの長男。―――そのはずだ。
「貴方様がフレア様と深く関わられるのは、困ると」
ベッドに倒れている長い赤茶の髪の若い女はフレア・クリストン。クリストンの次代を担う現状唯一人の存在。―――そのはずだ。
「……それを、何で君が伝えに来る?」
明らかに不機嫌なマルクの声に、サーシャは息を呑む。しかし、口は閉ざさない。
「本件は『出立の儀』の式前でのやり取りですので、国王陛下の御耳にも入っております。このままでは貴方様のお立場が危うくなると思い、差出がましくもお声を掛けさせて頂きました」
ギルト王の名を出すと、流石にマルクもまずいと思ったのか、ちっと舌打ちしてベッドから離れる。ようやく退魔の力も解かれ、サーシャはふうと蟠っていた不安をを吐き出した。
立ち上がったマルクは、頬の血を拭って部屋を出て行く。
その去り際、扉の傍に立つサーシャを見下ろした。
「出立の儀……。そうか君、リンドの世話係の」
言って、その口元がにやと歪む。
「―――綺麗な髪だね」
声と同時にその血に濡れた右手が、サーシャの金色の髪を撫でた。その手はそのまま彼女の頬に触れ、首筋を舐めるように滑って肩に掛かる。
「リンドがいなくなって、寂しいだろ? 代わりに僕が慰めてあげるよ」
「お気遣い頂きありがとうございます」
とサーシャは頭を下げる。
「ですが、必要ございません。私の片割れは、今もリンド様と旅をさせて頂いておりますので」
「あ、そう。まァ、気が向いたらいつでもおいでよ。リンドなんかより、良くしてあげるからさ」
マルクはふっとキザに笑むと、ひらひら手を振りながら部屋を去って行った。
「……比較の仕様が無いですね」
サーシャは苦笑しながら、一人呟く。
それから、くるりと再び部屋の中へ向き直る。そして、ベッドの上に倒れたままのフレアに歩み寄った。彼女は亜麻色の一繋ぎの衣をマルクの血で汚し、恐怖に髪と同じ赤茶の瞳を潤ませていた。
「大丈夫ですか?」
声を掛けると、未だ呼吸を乱しながら放心状態にあった彼女の目の焦点が、ようやくサーシャに合う。
そして彼女は、ふいとサーシャから顔を逸らした。
「……あんたもアルバートの手先なんでしょ。あっち行ってよ」
「ですが、お身体の方は―――」
「あっち行ってって言ってるでしょっ!?」
フレアが声を荒げる。
考えてみれば、当然のことだ。クリストン家の使用人はアルバートの代わりの監視役という話だし、サーシャの先の遣り取りもマルクの立場を心配する形で収めた。不信感を持たれても仕方が無い。
「失礼致しました」
とサーシャは頭を下げ、フレアの部屋を後にする。
すると不意に、その背に声が掛けられた。
「―――ねえ。出立の儀って、リンド・アルバートが魔法王の討伐に発ったの?」
「はい」
とサーシャが答えると、フレアは「ふうん……」と呟く。そしてそれきり、言葉は返って来なかった。
それでサーシャは、再び一礼して彼女の部屋を出た。
部屋を出ると、サーシャは廊下の壁際に寄り掛かる。そしてはあと息を吐いてスカートの具合を確かめた。
「……やっぱり消えちゃった」
案の定だが、やはり他も魔法素材のものに替えられているらしい。
リンドに貰った金で、早めに買いに行った方が良さそうだ。
「外出許可を頂かないと」
呟きながら、廊下を歩き出す。歩きながら、外出理由を考えた。
「手持ちが無くなる前に、必要なものを買いに……」
自分で言っておきながら、サーシャは苦笑した。