23.聖女の誇り
後背の気配。それに気付き振り返りつつ魔法を綴る間に、フレアは一人の男に両腕を掴まれ地面に倒された。べしゃっと地面に顔を擦って痛みが走る。
あの氷結魔法の一撃で敵の全部が倒れるなど、都合が良すぎた。その中に倒れた振りをしただけの人間がいることをフレアは考慮しなかったのだ。地面に伏せられながら、彼女は自身の驕りを後悔する。
「おいおい、あんま傷つけんなよ? 折角の美人が台無しだ」
視界の外でじゃりと、倒れかかっていたオリバーが立ち上がる音がする。対して、その傍に立っているはずのリンドが動く気配は無い。動けない、と言う方が正しいだろう。
しかしフレアの方は、黙っているつもりは無い。
「無駄よ! 私はもう綴りを終えてる! 火傷したくなければ―――」
言いかけて、また地面に顔を擦りつけられる。
「ッ―――!」
「そうか、咄嗟に炎の魔法を……素晴らしいね」
とオリバーはその手を打ち鳴らす。
「でもその状態から、俺を狙えるのかな? 君の上に乗っかってる彼だけを焼けるのかな?」
「……っ」
答えは、どちらも否だ。視界から外れているオリバーを正確に狙うことは難しいし、彼女の背に密着する形で伸し掛かってきている男を狙おうとすれば自身も焼きかねない。
歯噛みするフレアをよそに、オリバーはリンドに言葉を向ける。
「真っ当に打ち合うだけが戦いじゃないんだよ。……いや、君の場合その真っ当な打ち合いさえなっちゃいないけどね」
ひゅっと音を立てたのは、短剣だろうか。恐らくその刃先は、リンドに向いているに違いない。
「自分の正義のために相手の正義斬れねェ奴なんざ、ここで無くてもいずれ終わってたさ」
「……」
オリバーの言葉に応じるリンドの声は無い。
それでオリバーの方からは、ふうと溜息の交じった息を吐き出す音が聞こえる。
「……まァ、それはいいさ。―――それより、俺から一つ提案だ」
何も応えないリンドに向かって、彼は一人喋り続ける。
「俺は『純人教団』ってちっとは名の知れた組織の幹部なんだが……、お前ら教団へ入らないか?」
「え……!?」
と驚いたのは、フレアだけでは無かった。彼女を抑えつける男も、やや困惑した声を漏らす。
「待って下さいよ。教団に偽英雄と魔法人を入れるなんて―――」
「毒には毒だよ」
とそれにオリバーは先回りして答える。
「異人共と殺り合う上で同じ力が一個でもこちらにあると分かれば、奴らも余裕ではいられない。しかもそれがいつでも殺れる人質でもあると理解すれば、流石の連中も動きは鈍るはずだ」
そう語ってから、彼はその声を再びリンドに向けた。
「―――そういうわけで、協力してくれるな?」
「断る―――」
リンドの声が聞こえた瞬間、がっと硬質な音が鳴り響く。そしてぱたたと、流血が地面に滴り落ちる音が続く。
「何を―――!?」
「大丈夫だ。問題無い」
フレアの声に、冷静なリンドの声が返ってくる。酷い怪我では無さそうだった。恐らく、殴りつけられたのだろう。
「それは、俺の望む答えじゃないなァ」
オリバーの低く重い声が耳に響く。
「次は慎重に答えろよ。でないと今度は、クリストンのお嬢サマが怪我するぜ」
「……」
「退魔の力を使うのも良いが、その場合はクリストンが死ぬ方が早い。そのことを覚悟して使ってくれよ。―――もっとも剣も抜けない腰抜けの兄ちゃんには、そんなことできるとは思えないけどな」
二人のやりとりに……否、オリバーからの一方的な言葉に、フレアの鼓動はとくとくと早まっていた。自分が交渉の材料に使われている。そのことに無性に腹が立っていた。オリバーに対してはもちろん、自分に対しても。
フレアはいつだって弱い方だ。誰かに狩られる方で、その立場が逆転したことは無い。いつも負けてばかりで、いつも足を引っ張る人質で。宛ら、童話に出てくる囚われの姫だ。王子が助けに来るのをただ待って、涙を流して。
冗談じゃない、とフレアは歯噛みする。フレア・クリストンは囚われの姫などでは無い。フレアは王子になりたかったのだ。家族を脅かす悪魔を打ち払うような、そんな王子に。
だから、こんなところで虐げられている場合ではない。
大丈夫。名実共に本物の王子はそこにいる。故にフレアは、王子の勇敢なる仲間として戦えばいい。
クリストンの名に恥じぬ、勇戦を―――。
「……リンドっ!」
とその名を、フレアは呼んだ。伏せられた視界の中では、それが彼に届いたのかは確認できない。しかしきっと、彼はフレアを見ている。その確信が彼女の中にはあった。
だから、彼女に迷いは無かった。
「燃焼ッ!」
彼女の声で、その背に爆炎が巻き起こる。
「うあァッ……!」
と悲鳴を上げた男と共に、熱い火炎は一瞬でフレアをも包む。
しかし、それは本当に一瞬のこと。炎は瞬く間に消失した。代わりに彼女の身を包むのは、仄暗い闇だけ。その闇に、さわさわと耳を擽るざわめきに安心を覚えたのは、初めてのことだった。
そして顔を上げると、リンドの振るう白の装飾の剣が動きの鈍ったオリバーの脇腹に打ちつけられていた。
直後に退魔の力が解かれると、ゆったりと流れていた時間が元に戻ったかのように錯覚する。時の流れに干渉する作用などありはしないのだが。
思い切りリンドの打撃を受けたオリバーは、倉庫とは反対側の道端に派手に転がった。ふと傍を見やれば、フレアを捕えていた男もばったりと倒れている。思ったほど火傷の程度は重くなく、彼女は内心でほっと安堵する。
そこに、リンドが歩み寄ってくる。
「馬鹿か。死ぬ気か」
声には珍しく怒気を感じる。それに思わずフレアは、くすっと息を漏らした。
「だって、あんたが助けてくれるじゃない」
言うと、彼は少々面食らった様子で頬を掻いた。
「……怪我は無いのか」
「ええ。これが役に立ったわね」
そう答えて、フレアはその身に纏う焦げた外套を示す。こうなる前からボロけていたが、それでもあの一瞬には彼女を守ってくれたようだった。
「―――いや、参ったな」
不意に声が耳に届いて、フレアはばっとすぐにそちらを見る。そこには、地面に仰向いたまま呟くオリバーの姿があった。
「クリストンのお嬢サマが、とんだお転婆したもんだ」
「お生憎様。あんたたちの思う淑女でなんていてあげないんだから」
ふんと息を吐いて、フレアは彼を見下ろす。それにオリバーはくくと笑った。
「してやられたよ。仕方無い。好きなもん持ってけよ。―――但し、」
とそこで、彼は一旦言葉を切る。そしてフレアが訝しげな視線を向けると、ゆっくりと上体を起こして再び口を開いた。
「くれてやるのは、『物』だけだがな」
「何が言いたい」
リンドが問うと、オリバーはふっと笑む。
「教団で取引してるのは物だけじゃないって話さ。―――お前らが教団を荒らそうってなら、その子供共を殺るぜ」
後半につれて、彼の声は低く鋭くなる。
「外道だな」
静かに言うリンドに、オリバーは鋭い眼光を見せた。
「獣道這ってでも、行き着きたい場所があるんでな。お前もそれくらいの覚悟持てなきゃ、他の人間に踏み台にされるぜ」
「……」
「あんな男の言葉なんか聞く必要無いわ」
フレアは口を閉ざしたリンドの腕を引いた。
「それより早く―――」
「動くなッ!」
とオリバーが大きく鋭い声を上げる。そしてその声を、今度は倉庫の中へ向かって飛ばした。
「おい! 子供共を連れてこいッ!」
彼の声は倉庫の奥まではっきり届いたようで、すぐに返答がある。
「はーい!」
そのあまりにあどけない声に、オリバーの眉根が寄った。
「……誰だ」
その問いに答える代わりに、倉庫から厳つい男たちが数人放り出された。皆、意識を失っているようだった。
「あまり乱暴に扱うなよ」
リンドが呆れ交じりの声を向けたその先で、ようやく声の主はひょこと顔を出した。
「はーい。でも言いつけ通り、倒す時には一滴の血も……あ、鼻血は出たかも」
「ルーマス君は!?」
緊張感の無い声で喋るニーナに、フレアは問う。すると彼女は、ふいと後背に視線を送った。その視線を追うと、倉庫の中からこちらを窺う数人の子供たちの姿を確認できた。
「いましたよ。あの茶髪の子。お父さんはグルードって言ってるし、間違いないです」
「そう……良かった」
「何だお前は……!?」
そこへようやく我に返ったらしいオリバーが声を向けてくる。
「一体どこから……? それに上には俺の部下たちが―――」
「どこからって、窓からに決まってるじゃないですか。あんなの一跳び……と隣の壁の一蹴りで行けますよ」
とニーナは、然も当然のように二階の小窓からの侵入を明かす。
「それに喧嘩っ早いだけの雑魚置いたくらいじゃ、お話になりませんよ。グルードに借りたナイフ使うまでも無かったです」
「雑魚……」
オリバーの反応を見るに、彼らもそれなりの手練だったのだろう。しかし相手がニーナでは、その強弱に恐らく大差は無い。
「相手が悪かった」
とリンドが告げる。
「娼家で俺やフレアだけじゃなく、ニーナにも会っていればそもそもつけられることは無かっただろうが……」
そう言って彼は、オリバーの方を指差す。―――正確には、そのさらに後方を。
「―――これで、あんたの詰みだ」
ばっとオリバーがそちらを振り返れば、そこにはグルードとその職人仲間たちの姿があった。
「……はは。こりゃ確かに終いだな」
彼の乾いた笑い声が、夕暮れの町に空しく響き渡る。
「―――完全に、俺の負けだ」
言って肩を落としたオリバーは、鍛冶士たちに囲まれその身柄を押さえられた。
それを確認して、フレアはようやくほっと安堵の息を吐き出す。ニーナの後から倉庫を出てきた四人の子供たちも、いくらか安心した様子を見せていた。
しかし唯一人、未だ唇を噛み締めて俯いているボロの衣を纏った黒髪の少年がフレアの目に留まった。
「……大丈夫?」
声を掛けると、少年はぎろとフレアを睨むように見る。強い警戒心を感じる目だ。余程怖い目に遭ったのだろう。
「もう心配無いわ。悪い人たちは、私たちがやっつけたからね」
少年の前で膝をつき、同じ目線の高さで優しく語りかける。すると少年は、ふいと顔を背ける。未だその両手は強く握られ、肩には力が入ったままだ。
それでフレアは、はたと思いついてその身に纏っていた外套を脱ぐ。そしてそれを、少年の背に羽織らせてやった。
「ごめんね、こんなのしかないけど……少しは温かくなるから」
そうして出来得る限りの優しい微笑みを浮かべて言葉を向けると、少年は黙ったままだったがその外套でぎゅっと身を包んで鍛冶士たちの元へと歩んでいった。
「良いのか」
リンドに問われて、フレアはうんと頷く。
「私にはもう、必要無いもの」
そして、歩いて行く少年を優しい眼差しで見つめる。
「―――身体を温かくしていれば、心もきっと温かくなるわ」
言うと、リンドが小さく息を吐く音が聞こえた。
「……やっぱりお前も、クリストンの娘なんだな」
「なにそれ」
とフレアは呆れ交じりに笑みを溢す。
そして言ってやった。
「当たり前でしょ。あの家に生まれたことは、私の誇りなのよ」




