21.聖女の恐怖と偽英雄の謝罪
きいと音立て、扉が開く。ばっとそちらを見やれば、そこにはリンドの姿があった。
「何だ、あんたか……」
「誰だと思ったんだ」
「あんた以外だったらどうしようと思ったの。―――いや、あんたでも嫌なんだけど」
フレアはぐちぐち言うが、リンドは気にする様子も無く彼女の傍―――正確には壁際に歩み寄る。そしてそこで身を屈め、隣の会話に聞き耳を立て始める。そうすると彼の目線の高さは丁度フレアのスカートの裾辺りまで落ちてきて、少々居心地が悪い。それでフレアは、そこを離れて中央の寝台に腰を下ろした。
リンドはじっと隣の様子を窺っているので、部屋の中は静かだった。故に壁際で無くても、耳の良いフレアには他の部屋から漏れる小さな声や振動音が聞こえてきてしまう。
「……そういえば、ニーナはどうしたの?」
静寂を嫌って、フレアは呟くように小さめの声で問う。するとリンドも、聞き耳を立てながらも静かに答えてくれる。
「さっきまでは俺と下の部屋いた。情報収集とフレアの監視をしていた」
「一応は、見張っててくれたのね」
「ああ。思った通り、男を呼び寄せたな」
「囮だったの!?」
思わず声が大きくなるフレアに、リンドが人差し指を立てて見せる。それに従いつつもむすっとした顔で睨む彼女に、リンドは言葉を継ぐ。
「お前が残るって言ったから、利用させてもらっただけだ」
「……」
未だ納得しないフレアをよそに、リンドは話を戻す。
「今ニーナには、下で娼婦たちに話を聞いてもらってる。オリバーについての情報を」
「あの男が、犯人だと思うの?」
「それを今調べている」
言って、リンドはまた口を噤んだ。それで止む無く、フレアも黙る。
再び訪れる沈黙。それによって耳に流れ込む愛の詩と舞踊。それはフレアの胸の奥の所を、とくとくと速く打たせる。
落ち着かず、彼女の視線は虚空を彷徨う。寝台の掛け布を握っては離し、座位定まらず何度も座り直す。大きく胸反らして天井を仰ぎ、足を組んで戻し膝と膝をぴたとくっ付ける。
熱も湿り気も籠る部屋は、二人がいるだけで何となく暑くなってきた気がした。現に彼女の額にはじわと汗が浮き始めていて、蟀谷の程からつっと一筋流れたそれは首筋を通って鎖骨の辺りまで伝った。フレアは未だ外套を羽織り頭巾を被ったままの姿なのだ。暑いのも当然と言えば当然のことだった。
彼女はちらとリンドの様子を窺ってみる。彼は壁際にしゃがんだまま微動だにせず、隣部屋の会話に耳を傾けている。涼しい顔で、汗も掻いていないように見えた。
彼の様子を確認すると、フレアは被っていた頭巾を脱ぐ。首筋に張り付いていた長い茶髪を払うと、いくらか清涼感を得られた。さらに外套の前を開け平手で囁かな風を送り込みながら、フレアは仰向いてふうと息を漏らした。
すると、視界の端に突然リンドの姿が映った。
「何、済んだの―――」
そちらへ顔を向けた瞬間、がっと肩を掴まれて寝台の上に押し倒される。そして驚いている間に、リンドはフレアの身体の上に覆い被さった。
「何するのっ―――!?」
「来る」
とだけリンドは答えたが、フレアの鼓動はばくばくと激しく波打って彼女から冷静さを奪っていた。ベッドに身を沈める彼女を上から彼が見下ろすその構図は、嫌悪し憎悪する一場面を思い出させる。
目の前に映るリンドの姿とマルクの姿とが重なる。
「嫌っ……やめてッ!」
「落ち着け―――」
とリンドが口を塞ぎにかかってくるが、それに思い切り噛みつき抵抗する。彼の無表情が、一瞬痛みに歪んだ。それでもフレアは、その手を食い千切らんばかりに噛みつく。口内に鉄を舐めるような不快感が広がるが、尚も離さない。
加えて右手でリンドの腕を掴み、その身体を引き剥がそうとする。その右手は、不意に赤くぎらついた。
リンドがびくと反応し、その左手を握り締める。次の瞬間、リンドの上衣の肩口が燃え、そして即座に消えた。同時にフレアの頭を猛烈な恐怖が駆け巡り、目の前が暗くなり、耳元で不快な雑音がぎいぎい鳴り響いた。
意識が遠のきかけるが、退魔の力はすぐに解かれてフレアの強張った身体もすっと脱力した。それでも彼の右手に食らいつき左腕に爪を立てていると、突然ぎっと扉が開く音が聞こえた。寝台に寝かされリンドが覆い被さっている状態では、その様子を視認することができない。
しかし耳に届いてきた声で、フレアはそれが誰かを理解した。
「おっと……、こりゃ失礼。部屋間違えたわ」
オリバーの少々おちゃらけた声に、リンドは常よりも少しばかり不愉快そうな声を返す。
「さっさと閉めてくれ」
「まァそう怒んなよ、悪かったって。―――どうぞどうぞ、続けてくれ」
謝罪の言葉と共に、扉が閉められる音がした。
「……」
オリバーが去ると、幾らかの間を置いてリンドが視線をフレアに戻す。そして口を開いた。
「離してくれ」
その声に、強く掴んだままの右手を彼の腕から外す。
「口も」
と言われて、思い出したようにフレアは噛みついていた口も離した。
歯形がついて血も滲むその右手を、痛そうにリンドは摩る。それから彼は、フレアの上から退いた。それで彼女は口の中に残ったアルバートの血を飲み下すと、上体をずるずると起こした。
「……説明して」
やや乱れた着衣を整え、外套の前を掻き合わせながらフレアが問うと、リンドは静かに口を開く。
「オリバーが『用を足しに行く』と言って部屋を離れようとしたんだ。間違いなくこちらの様子を窺いに来ると思った」
「だから、演技したの?」
「ああ」
「……なら、先にちゃんと説明してよ」
「時間が無かった」
「説明してよッ……!」
とフレアは声を荒げる。その拍子に、ぽろと涙が零れ落ちた。
「怖かった……、怖かったんだからっ……!」
未だ乱れた呼吸は整わない。外套を掻き合わせる右手は、小刻みに震えている。
「……悪かった」
とリンドは言った。それ以上フレアに一切反論することなく、ただそう謝罪した。その姿は、アルバートらしからぬリンドらしい。それでフレアは、ようやく深い息を吐き出して落ち着きを取り戻した。
そして、小さな声で呟くように言う。
「……私は、謝らないからね」
「何を」
問い返されて、フレアはその視線をリンドの右手に向ける。それで伝わったようで、リンドはうんと頷く。
「これは俺が失敗して怪我しただけだ。お前は悪くない」
そうあっさりと断じる。そして彼は「それより」と言葉を継いだ。
「さっきのあれは、何だったんだ」
「あれ」と言われて心当たりがあるのは一つしかない。無綴無唱で発動した魔法のことだろう。ただそれは、フレアに上手く説明ができるものでない。
「……私も、よく分からない。あれが起こったのは今と貴族の男に襲われた時の二回だけだし、どういう条件で発動するのかは分からないわ」
数年前のその時には、意図せず発動した魔法に相手も手立てが無く、彼は顔面に大火傷を負うことになった。フレアとしては結果的に身を救うこととなったわけだが、その時の凄惨な場面が頭から完全に消失することは恐らく無い。
フレアの説明とも言えない説明に、リンドは「なるほど」とだけ言って首を捻った。ただ彼女自身も理解が及ばぬものであるということは伝わったようで、それについて彼がそれ以上訊いてくることは無かった。
そうしてリンドが口を閉ざすと、部屋に沈黙が戻る。先ほどまでとは別種の静寂だ。先の件で互いに何となく気まずさが残って言葉を交わすことを躊躇っているような、そんな空気感だった。
その空気を打ち破ったのは、フレアでもリンドでも無かった。
きいと扉が開いて、フレアはびくと肩を弾ませる。しかし見やれば、ひょこと顔を覗かせているのは見知った小柄な少女だった。
「聞いてきましたよ。……あれ、何か変な空気?」
首を捻るニーナの疑問に、リンドは答えない。壁から離れフレアの座る寝台の方へ歩むと、ニーナを手招き声を潜めた。
「―――何か聞けたか?」
「見てください。パンもらいました。食べます?」
「餌付けされてどうする……」
懐からパンを取り出したニーナに、リンドは呆れ交じりの声を出す。しかしニーナは「いやいや」とそのパンを振りながら答える。
「もちろん収穫はパンだけじゃないです。ここに来る客のことも聞けました。ラギアっておじさんは鍛冶士らしいけど、ケチだし下手だしで常連一のハズレらしいです」
「ラギアじゃなくてオリバーなんだけど……」
フレアは不安げに呟き、「ちゃんと伝えたの?」とリンドを見やる。対して彼はうんと頷きを返してきた。
そんな二人のやりとりに、ニーナはつんと口を尖らせる。
「ちゃんと覚えてますよ……。色々聞けたって話です」
「なら早く」
とリンドが急かす。余計な回り道は要らないと言わんばかりだ。それに対して肩を竦めてから、ニーナは口を開いた。
「その『オリバー』って人は、ここによく来てるらしいです」
「それは知ってる」
とリンドが言葉を返すが、ニーナはさらに続ける。
「何か羽振り? 良いらしいです。―――お金一杯持ってるってことですよね?」
「まあ、大体合ってる」
「商人、って確か言ってたわよね。羽振り良いってことは、有名な商人なのかしら?」
フレアが首を捻ると、ニーナが「あーっ」と声を上げる。
「商人! それ言おうと思ってたのに」
「分かってる情報取り合ってどうする。―――それでお前の情報は全部か?」
リンドが問うと、ニーナが「あと一つ」と人差し指を立てた。
「その有名かーの話ですけど……、誰もその人がどこの商人か知らないみたいでしたよ」
「名の知れてない商人ってこと……?」
「実績の見えない商人がそこまで稼げるとは思えない」
と言ってリンドは腕を組み、考える姿勢になった。
「リンドさんは、何か収穫あったんですか?」
ニーナが問うと、彼はうんと頷く。
「今日も良い仕事ができたらしい。儲けも十分にあったと言っていた」
それだけ言って、彼は口を閉ざす。その答えに、フレアは怪訝な顔をした。
「……それだけ?」
「ああ」
とリンドは返してくるが、フレアとしては納得がいかない。
「待ってよ! 私にあんなことしといて収穫それだけ!? もっと何か無いの!?」
「え、リンドさんあんなことしちゃったんですか!?」
とニーナが別のところに食いつく。それにリンドは面倒臭そうに視線を向ける。
「してない。俺が抱くのは妻と決めた一人だけだし、それは全部終わってから決めると決めている」
「それ、先に言っておいてくれれば焦らずに済んだのに……」
フレアは文句をつけるが、リンドが「いや」と否定する。
「それ言ってても、どうせ信じないだろ」
「それは……そうかもしれないけど」
「え? え? それで結局あんなことってどんなことなんですか?」
ニーナが尚も食いつくが、リンドはもう話を先に進めていた。
「今日は祭日なんだ。グルードの言葉を借りれば『こんな日にせっせと働く奴なんていない』はずだ」
「でも働いちゃ駄目ってわけでも無いんだし、それだけでおかしいって言うのは―――」
「確かに働くこともあるかもしれない」
と彼は、フレアの言葉尻を待つことなく答える。
「だがあいつは、商人と言った。商人は取引相手がいなければ儲けが出ない。もし今日儲けが出たのだとすれば―――」
「祭りの日に、他に取引する人間がいる……?」
フレアが言うと、リンドは頷いた。
「それにあいつは、下で娼婦たちに言ってたろ。『祭日で商人は金稼げない』って」
「嘘吐いてたってこと?」
問うと、今度は返答が無かった。
彼は暫く腕組したまま瞑目して考えているようだったが、すぐにうんと一つ頷いて目を開き、組んでいた腕を解く。
「どちらが嘘かまでは確かめられない。ただ、追ってみるに十分な情報は得られたと思う」
「跡をつけるの? でも顔見られてる私たちじゃすぐ気付かれちゃうんじゃ……」
とそこまで言ってから、フレアははたと気が付く。それをリンドが口にした。
「フレアとリンドはもう顔見知りだろうが、―――子供はまだ初対面だ」
「何その言い方……」
と呆れ交じりの息を吐きながらも、フレアはリンドと共に視線をそちらへ流す。
「やだなァ。リンドさんは私の男ですよ」
二人の視線の先で、その子供もといリンドの真の女はにやりと不敵に笑った。