2.王子の月下の決意
さて、気をつけねばならない。
と、リンドは辺りをきょろきょろと警戒しながら真っ暗な廊下を歩く。
ここは純人王国の王城だ。夜間も衛兵が城内外を見回っている。王子であるリンドがこんな時間にうろうろしているところを発見されれば、問答無用で部屋に戻されてしまうことだろう。
よって、注意して進まねばならない。灯りが消えた真夜中の城内において視界は大して利かないが、却って見回りの持つ灯りには気付きやすいとも言えた。
王家の居住スペースから謁見の間までは、王族以外は許可無く入ってこられないので問題ない。問題はその先だ。すすすと音を忍んで謁見の間とそこへ続く廊下を抜けて、その先。リンドは入口の広間へと続く扉をそっと開く。
こそっと隙間から様子を窺うと、広間に人の影は無い。よしきたと踏み出そうとしたところで、その耳にこつこつと遠く足音が聞こえてくる。慌ててリンドは扉を閉めた。
扉の傍で様子を窺っていると、その足音はどんどん近付いてくる。石の床を打つ音のリズムは二つに分かれる。どうやら、二人いるらしい。
二人の衛兵は何やら話しながら広間まで戻ってくると、そのまま壁際で話し続ける。恐らく、リンドが息を潜めている謁見の間への廊下の傍。扉を挟んで、会話が漏れ聞こえてくる。
「―――それで、お前も金目的なのか?」
「それもあるけど……、何より身の安全だよ」
一方の問いに、もう一方が溜息交じりに答える。
「アルバートに目ェつけられないようにするなら、『港町』に住むのも手だぞ」
「それも考えたよ。けど、俺には家族もあるんだ。無法地帯で暮らすよか、アルバートに媚売って庇護下に入る方が安全ってもんだろ」
―――あまり、耳心地良くない話のようだ。聞いたのが自分で良かった、とリンドは内心でほっと胸を撫で下ろす。これがリンド以外の誰かであったなら、彼らの命は無かっただろう。
そう、リンドでなかったなら。
その左の掌に浮かぶ黒い龍の印と一筋の古傷を見下ろして、リンドは一人ふうと息を吐いた。
*
一頻り愚痴った後に、衛兵たちは城外の見回りに出て行った。
再び閑静さを取り戻した広間に、リンドはそっと出ていく。音立てぬように、しかし足早に広間の曲がり階段を上る。二階の廊下に出れば、目的地は目の前。
その扉は、風でがたがた鳴っていた。
扉をそっと押し開けるとさあと冷たい空気が流れ込んできて、リンドの顔や身体を叩く。思わず身を引くが、このまま戻る気にはならない。思い直して、リンドは扉を開け放った。
刹那ぶわと身体を駆け抜けた風は、すぐにどこかへ吹き去る。
残されたのは、しんと静まり返った夜。空には星々が点々と輝き、大きな満月も広い露台全体を明るく照らしていた。
柔らかな光に包まれて、リンドはふーっと長い息を吐く。それから今度は、すーっと冷たい空気を深く吸い込んだ。
少々寒いが、冷気は頭も心地よく冷やしてくれ、纏まらないまま蟠っていた考えにも冷静に向き合えるような気がした。
纏まらなかった考え。
蟠っていた思い。
瞑目し、そのことに意識を向ける。
夜風が吹いて、耳元でざわざわ音を立てた。リンドの胸の内が形を持って現れたかのように、ざわざわ、ざわざわと。
そして、瞬間激しく吹きつける。
驚いて目を開くと、視線の先でふわりと舞い降りるものがあった。
少女だ。薄茶色の髪と瞳の少女。
肩にかかるほどの長さの髪は亜麻布の襟巻の中に乱れなく収まっていて、身綺麗な印象を受ける。やや下がっている目尻の傍には泣き黒子があって、淡黄色の一繋ぎになっている衣を身に纏った立ち姿は年齢以上に大人っぽい雰囲気をリンドに感じさせた。
歳はリンドより三つ程上だったはずだが、しばらく会わない間にもっと差が開いたのではないかと疑ってしまうくらいだ。
「―――アリア」
と、リンドはその少女の名を呟く。
すると、彼女はリンドの方を見て微笑む。
「リンド、こんばんは。―――こんな夜更けに、何をしているの?」
「それはこっちの台詞だ」
リンドは呆れ交じりの視線を彼女に向けながらそう返す。
しかしそんな視線は、アリアの柔らかな笑みを僅かばかりも揺るがさない。
「どこかの王子様が、独り泣いてないかしらと思ってね」
「泣いてない」
むっとして言い返しても、彼女は表情を変えずにほんの少し首を傾げるだけ。
「あら、あなたのこととは一言も言っていないのだけれど」
「……」
そうなるともう、リンドにできるのは口をつんと尖らせることくらいだ。
しかし、それも上手くいかない。そよと吹く風に、くしゅんと格好のつかない音を返してしまう。顔を俯けてすんすん鼻を啜っていると、視界の向こうからはくすくすと忍び笑う声が聞こえてくる。見れば、アリアは口元に手を添えて上品に笑っていた。
だが、リンドが恨みがましい視線を送っているとそれを収め、そそと静かな足取りで歩み寄ってくる。
「そんな恰好でいると、風邪を引いてしまうわ」
言って、その首に巻いていた亜麻布を解く。
さらと、彼女の髪が風に靡く。薄茶の髪は、月光を透かしてきらきら輝いたように見えた。
その髪に気を取られていると、肌の色に近い土色の襟巻がリンドの頭上を抜ける。そうしてその後頭部から首の後ろの辺りに布を回すと、アリアはまるで大切なものを包むかのようにリンドの首に襟巻を巻いてくれた。
「首を温めると良いのよ」
襟巻の具合を整えると、彼女は満足そうにそう言う。
「……ありがとう」
会話をするには少々近過ぎる間合いに気恥かしさを感じ、リンドの声は呟くようだった。
「うん?」
お陰で彼女には届かなかったようだ。或いは、聞こえないふりをしたのかもしれないが。
リンドはふいと顔を背けるのと同時に、彼女から数歩の間合いを取る。そして、はぐらかされた先ほどの問いをもう一度投げかけた。
「―――それで、本当は何しに来たんだ?」
「さっきの答えも、強ち間違いではないのよ?」
とアリアは答える。
「あなたの顔が見たいと思っていたのは本当だもの」
「でも今日来た目的じゃない」
リンドがちろっと視線を向けると、アリアは微笑みを浮かべたまま分かった分かったとばかりに肩を竦めてみせた。
「家に忘れ物があったのを思い出して、取りに帰ってたの」
「忘れ物? 何を」
「人に言えないもの」
と、アリアはその艶やかな唇に人差し指を押し当てる。
「あんまり詮索すると、女の子は嫌がるわよ?」
「もう既に老若男女問わず嫌われてる」
「あなたのお世話係にも、嫌われてしまうわよ?」
そう言われてしまうと、リンドもふいと顔を背けるしかない。
「あの子、何て言ったかしら?」
「サーシャ」
「あぁそうそう、サーシャ。私と入れ替わりだったから、うろ覚えだったわ」
―――興味が無かったからだろう。
と、リンドは内心で返す。
アリアという少女は、非凡な才を有していた。知識という知識を片端から平らげて、それでも満足できずに新たな知識を自ら探り出すほどに知識欲旺盛な人間だった。
他方で他者に対する関心は薄く、彼女の次元において新たな刺激にならないと判断すればまともに言葉をかわそうともしない。そういう人間なのだ。リンドが相手してもらえているのも彼女にとって何らかの益があるからということになるだろうが、それが何なのかは彼の知るところでは無い。
「―――ところで、」
と、今もアリアは興味の無い使用人の話を早々に打ち切って話題を転換した。
「リンドこそ、何をしにここへ来たの?」
「……」
その問いにほんの一時忘れていたことを思い出して、思わずリンドは押し黙ってしまう。それを見て、アリアは首を僅かに傾げてみせる。
「怖い夢でも見たの?」
それにリンドは、首を横に振って答える。
「違う。―――あれは、記憶だ」
言って、彼は自分が見たものについてその一切合財をアリアに話した。
夕暮れ時の酒場。
自分と両親だけの店内。
突然現れたアルバートの男。
「見せしめ」として男に斬り伏せられた両親。
自分に伸ばされた左手とその掌の黒い龍印。
そして、声。
アリアはリンドの話を、ただ黙って最後までじっと聴いていた。そしてリンドが話し終えると、うんとゆっくり頷く。
「……それはきっと、兆しね」
「兆し?」
怪訝な顔をするリンドをよそに、彼女は腕組してまた僅かばかり首を傾げてみせる。
「―――おかしな夢よね。だってあなたは、アルバートの側の人間でしょう?」
言われて、リンドはこくりと頷く。
リンドは、アルバート王家に生まれた。次期国王の第一候補ギルト・アルバートの長子だ。
「けれども、あなたは酒場の家の子供としてアルバートの裁きを体験した……」
アリアは朗々と語り、そしてリンドを真っ直ぐに見つめた。
「どう思った?」
「……何も」
とリンドは答える。
「何も、思わなかった。思えなかった」
「何を感じた?」
とアリアがまた問う。
それにリンドが答えられることも、ごく僅かだ。
「何も。―――どうしようもなくて、空っぽだった」
「そう」
リンドの言葉を聴いたアリアは、小さく頷いて腕組を解く。それから、もう一つ問うた。
「―――それじゃあ、どうしましょうか」
「どうする……?」
質問の意図が分からず、リンドは首を捻る。それを見て、アリアがふふと笑う。
「言ったでしょう、兆しだって。あなたがこれからのことを決めるのに良い機会だって、私はそう言ったのよ」
「これから……」
「そう。これから、あなたは何をしたいの? ―――それがきっと、リンドの『役』なんだと私は思うけれど」
アリアの言葉が、腑に落ちたような気がした。それでリンドは、しばし瞑目して彼女の問いに対する答えを自身の中に探す。
答えを見つけ出すまでに、それほど時間はかからなかった。リンドは真っ暗な自身の中から月夜の露台に帰ってきて、その目をアリアに向ける。そして、静かに口を開いた。
「―――俺は、この世界を終わらせたい」
言うと、アリアの眼がほんの少しだけ大きく開かれたように見えた。
それから彼女は、ふっと小さく吹き出す。
「そう……リンド、そうなのね……!」
抑えるように忍び笑うアリアを前にして、リンドは決まり悪そうに顔を背ける。
「そんなにおかしいか」
ちろっと横目で睨むが、赤らんだ頬ではどうにも迫力に欠く。
対してアリアは、目元を手の甲で拭いながら首を横に振った。
「そんなことないわ。あなたらしいと思う」
言って、くるりとリンドに背を向ける。その先にあるのは、王都の街と夜空に浮かぶ大きな満月だ。
「そう。リンドはこれから、世界を終わらせる存在になっていくのね……」
呟きながら、彼女はそのまま露台の淵の方へと歩んでいく。
アリアが、去ってしまう。直感したリンドは、彼女を引き留めようと口を開く。
「アリアは、どうするんだ」
「どうするって?」
彼女が肩越しにリンドの方を振り向く。その彼女に、リンドは問う。
「これから、どうするんだ?」
「……そうね、」
とアリアはその白くて細い人差し指を口元に当てて、考えるような仕草を見せる。
「何も考えていないなら―――」
考えていないなら、俺を手伝ってくれ。
アルバートの王城に来ていた時のように、教え導いてくれ。
そうリンドが口にする前に、アリアは駆け出していた。たたと軽やかな足取りで露台の端まで駆けると、その淵の手摺壁の上にひょいと飛び乗る。
「アリア、」
と呼びかけるリンドの声を、彼女は聞いていないようだった。胸の前で右の人差し指を立て、十字を切る。魔法を使うための作法だ。彼女がそれをすると、その右の掌から紅い光が溢れ出した。
「―――リンド。私はね、」
彼女はその場で舞うようにくるりと回って、リンドの方を振り返る。
「私は、世界を手に入れたい」
その微笑みは、常と変わらない。しかし真剣な眼差しは、冗談を言っている風では無かった。
「リンド、競争しましょうか」
とアリアは言う。
「あなたが世界を終わらせるのが先か、私が世界を手に入れるのが先か。競争よ」
「アリア―――」
「さようなら、リンド」
一方的に告げて、彼女はそのまま城の外へと身を投げた。
追いかけようとしたリンドに、強い風が吹き付ける。足を前には進めさせてくれない。
一時吹き荒れた風が止んでリンドが露台の端まで駆けた時には、その先にアリアの姿は無かった。夜闇に溶けるように、彼女の姿は消えていた。
そして、その時リンドは理解したのだ。
アリアと自分とは、折り合えないのだと。
二人揃って、大団円を迎えることはできないのだと。
―――それから十年。リンドは未だ彼女の行方を知らない。