1.王子が見る悪夢
(キャラクターイラスト制作:たたた たた様)
赤い陽が、開け放した鎧戸から差し込んでいた。
夕陽に照らされた酒場の中に、まだ客の姿は無い。が仕事終わりの時間だ。直に仕事を終えた職人たちが集まってくることだろう。
少年リンドは、そんな静かな酒場の中ほどに立っていた。
傍らには、「母親」の姿がある。彼女はテーブルからテーブルへと足を進め、その木天板を麻布で丁寧に拭いていく。綻んだ柔らかい表情は、この穏やかな一時を静かに堪能しているようだった。
後背を振り返ると、奥では「父親」がこちらも一つ一つ丁寧にマグを拭っている。こちらも表情は穏やかで、今日も訪れる職人たちの陽気な宴を待ち望んでいる様子だった。
その父が、ふと顔を上げる。そして、―――マグを取り落とした。
かこん、という少々間の抜けた音が部屋に響く。
ばっと店の入り口へと駆ける父の姿を目で追うと、その先に男が一人。
白の装飾の鎧を身に纏い、白い鞘の剣を携えたその出で立ちは、どこか余人の介入を許さない現離れした雰囲気を感じさせる。
少しも揺らぐことのない厳めしい顔に目を向けると、その髪と瞳は鎧と対照的に深い深い黒。窓から差し込む夕陽も、或いは天高く照る真昼の陽光であっても、その目に光を灯すことはできないように思われた。
男のことを、リンドは知っている。リンドだけではない。両親も、町の職人たちも、国の多くの人々がその存在を知っている。
英雄の血を受け継ぐ王家、「アルバート」の人間だ。
「退魔の力」と呼ばれる魔法を打ち消す特別な力で、魔法王国の侵略からこの純人王国の民を守っている存在。―――そのはずだ。
しかしながら、今そのアルバート一族の男を前にした両親の顔色は優れない。青褪めている、と表現した方が正しかろう。
血相変えた父親はアルバートの男の前に立ち塞がり、母親はリンドを庇うように傍まで駆け寄ってくる。
「こちらに、何か御用ですか」
上擦りそうになるのを無理矢理抑えつけたような父親の声。
その声に、アルバートの男は長い間をおいて答える。
「―――これは、見せしめだ」
「は……?」
「国を乱す者たちを、正さねばならない」
と、男は静かにしかし重々しく語る。
「そのために、彼らが集うこの場所で見せしめを行う。彼らに見せしめるのは、―――お前たちだ」
冷たい声音に、応える声が無い。父の方を見やれば、その横顔は絶望に歪んでいた。
「違う……。こんなことは……、間違っている」
やや掠れた声で、それでも父は訴える。
「酒場は自由な場所なんだ……そうでなきゃいけない。国を乱して良いって言ってるんじゃない。ただ酒を呷る一時に自由を―――」
そこで言葉は唐突に、ぷつりと途切れる。同時に、ぞわとリンドの背筋が冷えた。
酒場の空気が、一変する。まるで時が止まったかのように、父と母の身はぴたと止まる。
退魔の力が持つ副次的な作用だ。強い恐怖心を引き起こし、傍にいる人々を苦しめてしまう誰も望まない作用。……そのはずなのだ。
実際に時間が停止したわけではない。父の頬を伝う汗が、そのことを証明している。恐怖に足が竦み、声を発することもできず、ただ焦燥の汗が額に浮いては顎の方へと流れ落ちていく。
かっと見開かれた目だけが、父にできる唯一の抵抗だった。
その目を向けられたアルバートの男は、しかし顔色一つ変えない。冷徹な表情を少しも揺るがすことなく、淡々とその腰の剣の鞘に左手を添える。
その左手が掌から鈍い光を漏らしているのを、リンドは見逃さない。
男は静かに右の手で剣の柄を握り、ゆっくりと引き抜く。すらとその白銀の刀身が姿を現し、赤い陽を反射して輝いた。
「純人王国の礎となれ」
剣を両の手で握って掲げ、男は極めて冷淡にそう言った。
直後、振り下ろされた剣が父の肩口から胸にかけて深く食い込む。
噴出する赤い赤い血。瞬間天井に達するかと思われるほどのそれは、床を撥ね壁を打ちそしてアルバートの鎧を染めた。
父は悲鳴を上げることも無く、そのまま膝から崩れるようにして床に伏した。
リンドも、母も、沈黙していた。未だ、声を発することはできなかった。男の―――アルバートの「力」がまだ母子を縛っていた。
父を斬り捨てた男はその身に浴びた返り血を全く気にする様子も無く、すぐにリンドの方を向く。傍に寄り添う母で無く、間違いなくその目はリンドを捉えていた。
一歩、また一歩と男はリンドの方へ歩み寄ってきた。母親には目もくれず、その横をすり抜け―――ようとしたところで、その足がぴたと止まる。
母親の強張ったままの手が、それでも男の腕を掴んでいたのだ。我が子の元へは行かせまいとする気迫は、その眼光鋭い瞳からも伝わってくる。
しかし男の動きが止まったのは、その一瞬だけ。次の瞬間には、ばっとその手を振り払う。
そして、その足を剣で払った。
「うぅッ……!」
と呻きのような声を上げて、母は床に倒れ込む。右の太腿辺りに食い込んだ剣がつけた傷は、彼女を立ち上がれなくするには十分だった。
「お前は証人だ」
歯を食いしばり床の上で苦しむ母を温度の無い目で見下ろして、男は告げる。
「国を乱す罪人に何が起きたのか、何が起こるのか。お前が伝えろ」
そして彼の目は、再びリンドに向く。
リンドは、ただ立ち尽くしていた。目の前で起こる惨劇を、ただ黙って見ていた。
そうしている内に、その惨劇を起こした主はリンドにも迫ってきた。
男の左手が伸びてくる。
その掌の上では、黒い痣の様な印が鈍く光を放っている。それは黒龍が円を描くように天を翔ける様にも見えた。
アルバートの一族が持つ黒龍の印。
吸い込まれるようにしてその印を見つめていたリンドは、いつの間にか真っ暗な空間の中にいた。父も、母も、アルバートの男の姿も無い。酒場も、夕陽も無い。
星も月も塗り潰されてしまったような漆黒の夜の中に、リンドだけがぽつんと残されていた。
やがて、声がする。
「人にはそれぞれ、与えられる役というものがある」
それは、誰の声であったか。
「それは例えば、英雄の血筋かもしれないし、魔法の国の王かもしれない。或いは酒場の看板娘かもしれないし、鍛冶屋の跡取り息子ということもあるだろう」
リンドがよく知っている人物の声だ。
以前に、聞かされたことのある言葉だ。
「何の役を与えられるかは、生まれてみなければ分からない。確かなことは、生まれたその時点で役は決まっているということだ」
声は淡々と、静かに語りかけてくる。
そして、最後に耳に届いた言葉はこうだ。
「―――与えられた役を全うしろ。何があろうと。最後まで」
*
リンドは、はっと目を覚ました。
暗闇に包まれた石造りの広い自室。そのベッドの上に、八歳になってまだ間もないリンドは身を横たえていた。
大して物を置いていない部屋は、広さがある分だけ余計に寒々しい。
リンドは黒髪の癖っ毛頭を掻いて、くあと一つ欠伸する。それから切れ長の眠たげな目を擦ると、毛布を引き寄せごろりと寝返りを打った。
その拍子に息が漏れると、それは白い靄となって空気に溶けていく。空気の温度も、冷たい。太陽が照る時間は大分延びてきたのだが、夜間はやはりまだ冷える。鎧戸の隙間から流れ込む冷気は、再び微睡の中に戻ろうとするリンドの頬を執拗に刺して邪魔をした。
もっとも、眠れないのは寒さのせいだけではないのだが。
先に見た夢のせいだ。あの夢のことが、頭から離れない。
というのも、その夢を見るのは今日が初めてではないのだ。ここ最近、もう何度もリンドはその夢で起こされていた。
英雄の血を引く王家アルバートに両親を殺される夢。しかし忘れられない理由は、その夢に感じる恐怖のためだけでは無い。
その夢の視点には、明らかな誤りがあるのだ。
リンドは、はあと溜息を吐く。それから、もぞもぞとベッドを這い出て靴に足を突っ込んだ。
このままでは眠れない。夜風に当たって、身に蟠る不快感を吹き飛ばしたい。
これまでと同じようにそう結論して、リンドは寝衣の上に上着を羽織っただけの恰好で部屋を出た。