3。
新月の夜は、嵐と重なった。
エトワールは星導宮の庭のはずれに立っていた。
アレクサンドルがわざとつくってくれた警備の穴から敷地外へ出る。100年近く住んだ場所だ。なんの感慨も無いと言えば嘘になる。しかし、立ち竦んでる時間はない。見つかって疑いをかけられれば、星導宮の管理を一任されているアレクサンドルに迷惑がかかると、感傷を振り切り、エトワールは駆け出した。
闇にとける漆黒の外套が強風にはためき煩わしい。夜目が利くとはいえ、生い茂った緑を避けて走るのは困難だ。枝葉で髪や肌をひっかけながら、それでもエトワールは目印を付けた石壁に到着した。周囲になじむように置かれた背の高い鉢植えをずらすと、そこに質素な扉が現れた。エトワールの代よりずっと昔に、何の目的かわからないままつくられ、放置されて久しい扉にはいくつもの頑丈な錠がつけられているが、アレクサンドルの手によってただの飾りと化している。手が傷つくのも構わず力づくで錠をはずすと、エトワールは錆びて軋む分厚い扉を全身でこじ開けた。
娘ひとりようよう通れるくらいに開けた扉から身を滑らせたエトワールは息を呑んだ。
―――「外」、だ。
新月のせいで、見えるのは風に弄ばれる木々だけ。…それでも。
「…は、ははっ…」
降り始めた雨に、風になぶられながらエトワールは笑った。外だ。ずっとずっと求めてきた世界が眼前に広がっている。名を呼ばれなければ、その場で踊りはじめていたかもしれない。
風の音にまぎれて呼ばれた「エトワール」の名。この名を知っているのはアレクサンドルと―――
「…どなた?」
木の影からひょろりとした長身の男が姿を現す。最悪の事を考え、エトワールは外套の下に忍ばせた短剣の柄に手をかけた。
「そんな警戒しなくていいよ。ラウル・ベルジェ。アレクから聞いてるだろ?」
あえて光を抑えているのだろう洋燈を手に立っているのは、アレクサンドルと同年代と思しき青年だった。エトワールはうなずいた。名前も、ざっと確認した限りの特徴も、アレクサンドルから聞いていた通りの人物だ。
「ここはまだ王宮の敷地内だから。出入りの商売人の通用口に馬車待たせてる。…走れる?」
ラウルは小柄なエトワールにあわせて腰をかがめると、首を傾げた。洋燈に照らされた顔はいかにもひとが良さそうだ。心配そうに下がった眉が情けないような、可愛らしいような。エトワールは小さく笑った。
「けっこう余裕ある?聞いてたとおり、肝据わってんね」
…いったいアレクサンドルからなにを聞いていたのか気にはなったが、後回しだ。ラウルに手を引かれ、エトワールは走り出した。
どれくらい走っただろう。途中、物陰に隠れながら休憩をはさみ、通用口の外に待たせてあった馬車に乗り込んだ時にはエトワールの膝は笑っていた。
「ちょっとラウル!あんた、突貫で走ってきたんじゃないでしょうね!!エトワールさん、くたくたじゃない!」
座席につっぷし、ぜひぜひと呼吸の整わないエトワールと対照的に、気持ちよく言葉を飛ばすのは馬車のなかでふたりを待っていた娘だ。
ラウルの先導で通用口までたどりついた時、彼はそれまで着ていた外套を脱ぎ捨てるといかにも商家の人間といった服装になっていた。アレクサンドルの友人だというから騎士だとばかり思っていたが、はかったように件の馬車から若い娘が降りてきた時にはもうなにがなにやらわからなくなった。
ラウルと娘はひとことふたこと言葉を交わすと、周囲の様子を探ったがはやいか、力ずくでエトワールを馬車に押し込め、今に至る。
「エトワールさん、大丈夫?はい、これ、ウチのお茶」
ラウルを怒鳴りつけていた時とは打って変わり、娘はおおきな吊り上がり気味の目を潤ませ、金属の水筒を差し出してきた。夏とはいえ、さんざん雨に打たれた身体は冷え切っている。
ここまできて相手を疑うのもばからしく、エトワールは礼を言って水筒を受け取った。強張った肌にあたる湯気が優しい。
御者台でラウルが鞭を取り、何事も無かったように馬が走り出した。
花の香りのする茶をゆっくりと数回に分けて飲む。ようやく一息つけたエトワールはにこにこと自分を見つめる娘に視線をやった。
「…あなたは?」
「あたしはオデット。そのお茶を騎士団に卸してるシャンテカイユ商家の娘よ。この馬車もね、ウチの持ち物なの」
…本格的にわけがわからない。見えない疑問符を飛ばすエトワールに、いたずらっぽくオデットは笑った。猫のような印象の娘は、その瞳のようにころころと表情を変える。
「ラウルとアレクさまはね、騎士団の同期なの。で、あたしはラウルの幼馴染で、共犯よ」
「共犯」とエトワールが繰り返すと、オデットは口に手をあて、ますます面白そうに笑う。
「アレクさまから話は聞いてるわ。あなた、身寄りがないのにつけ込まれて、星導宮で奴隷みたいに働かされてたって。大変だったでしょ。でもきっとそれはアレクさまに出会う為の試練だったのね!」
エトワールは「なにそれ」と言いかけてなんとか口を噤んだ。どうやらオデットはアレクサンドルの捏造した「孤独で健気なエトワール」設定を鵜呑みにしているようだ。しょんぼりとうなだれたと思えば、次の瞬間瞳を輝かせ、感極まったようにエトワールの冷たい両手を握りしめる。
「アレクさまとあなたの出会いを聞いた時、あたし、興奮で眠れなかったわ!あのアレクさまに協力をお願いされたのはもちろん、まるで恋愛小説みたいな出来事がほんとうにあるんだって!!」
いいえ、そんなんありませんよ?エトワールはあやうくこぼれそうになった言葉を唇を噛んでこらえた。商家の娘というから、農村出身者の偏見として、したたかで抜け目がない性格の持ち主かと思いきや、驚くほど純粋だ。
「…でもオデットさん」
「オデットって呼んで」
エトワールの両手を握りしめたまま、オデットはぐい、と距離を縮めてきた。ちかいちかい。きらきらとした瞳の輝きが申し訳なくて直視できない。
「…オデット、にもラウルさんにも迷惑をかけてしまったんじゃないかと思うと、…その」
「そんなのいいのよ!ラウルは騎士団でアレクさまにいろいろお世話になってるし、あたしはアレクさまとお近づきになれたし!あ、もちろんエトワールからアレクさまを奪おうなんてこれっぽっちも考えてないから!!エトワールとアレクさまのあれこれを覗き見するだけで満足!おいしい!ごちそうさま!!」
オデットは全力で言い切ると、ようやくエトワールの手を放した。あれほど冷えていた両手はすでにもとのぬくもりを取り戻している。
「いいわよねぇ、困難にも負けず、身分違いの恋を実らせるふたり!あ、エトワールがデュノアイエ家に収まったらウチのお茶を御贔屓にしてね」
「……しっかりしてるねぇ」
ぽかん、としたエトワールにオデットがにっこり笑う。
その混じりけの無い笑顔に、星導宮から出てこちら、エトワールもようやく自然に笑みを浮かべる事が出来た。
*
風がおさまってきた頃、馬車はエトワールが当面滞在する建物に到着した。王都でよく見る煉瓦造りの家屋だ。オデットの両親が営むシャンテカイユ商家の持ち物らしいが、いまは誰も使っていないという。
「むかしはウチももっと潤っててね、通いの使用人の臨時の宿として使ってたのよ。でも王族と星詠みの巫女のせいが好き放題したせいで、商売あがったり。無茶な税のせいで、どれだけの商売人が店をたたんだか…」
「オデット、親父さんに帰ったこと報告しにいけよ」
オデットが憎々し気に吐き捨てるのをさえぎり、馬を厩舎につないできたラウルが開けっ放しの扉を叩く。
「言われなくても行きますぅー。じゃあエトワール、あとでね」
ひらひらと手を振り、オデットが足音も軽やかに部屋を出るとラウルが「ごめん」と謝った。
「…あいつはなにも知らないんだ」
「…あなたは知ってるんだ?」
傷付く要素も無く肩をすくめたエトワールが訊けば、ラウルはうなずいた。手にした洋燈を使い込まれた木製の円卓に置く。
「アレクから話を振られた時は正直びびったよ。あの星詠みの巫女を星導宮から逃がすなんて、えらい無茶振りだと思った。でもまぁあいつが下手打つわけないし、オデットから聞いた?俺、アレクに何度も助けられてるからね。ここらで恩を返して身軽になっとくのも悪くない」
「厄介なのにつかまったものだね」
「お互いさまでしょ。ま、オデットが協力したぶん、シャンテカイユの店が潤うし、悪い事はないよ」
苦笑するラウルの顔に暗いものはいっさい見えない。これはまた、見た目を裏切らない善人だ。エトワールは気の毒になった。
「…アレクはオデットにまで協力をあおいだの?」
「まさか。そんなこわい顔しなさんなって。…俺とアレクの様子がおかしいのに気付いたんだろうね、ずばり訊いてこられたよ。あいつヘンなとこで鋭いからさぁ。…オデットを巻き込むのはどうかと思ったけど、あいつの…正確にはシャンテカイユの馬車を使えば、ことはもっと円滑に進むし、…この店、けっこうぎりぎりでやってんのね」
ラウルは円卓に指を滑らせた。やや垂れ気味の双眸は、かつてにぎわっていただろう店を回想しているようだ。
「俺経由で騎士団に茶を卸してはいるけど、若い男どもが飲む茶の量なんてたかが知れてる。アレクは生粋の貴族のおぼっちゃんだけど、義理や恩には厚い。オデットが関わった事であんたを自分のところに連れてこられたら、あいつはなにがあってもシャンテカイユを見捨てないよ。あのデュノアイエが飲んでる茶ていうだけで、かなりの広告にもなるしね」
「…なるほど」
馬車のなかで、オデットはラウルについてやたら幼馴染を強調していたが、それが素直になれないだけなのだとエトワールは気付いていた。そしてラウルも、彼女を憎からず思っていない。なんとも微笑ましい。それこそ、利潤は抜きにして、全力で応援したくなる。
ひとり穏やかな気分になっていたエトワールに、逡巡をにじませながらラウルが言った。
「…あんたはさ、けっこう冷静なひとに見えるから言っとくけど、騎士団長のこと」
エトワールは首を傾げた。アレクサンドルがてらいない尊敬と信頼をささげる人物だ。
「…俺もさ、あのひとのことすげぇ尊敬してるよ。下級貴族だってのに、身体ひとつであそこまで昇りつめてさ。めっちゃ強いし、鬼みたいに厳しいけど公正だし、…平民上がりの俺が騎士を名乗れてるのも、あのひととアレクがいてくれるからだって感謝もしてる」
「…はっきり言いなさいな」
彼もまた、騎士団長を頭にいただくに相応しいと思っている。エトワールが促さなければ、ラウルは決定打を口に出来ない。あえて居丈高にエトワールは言った。
「王宮を制圧した時、あのひとはアレクにだけ星導宮に向かうように命じた。俺を含めた他の奴らには、継続して王宮に鼠が残ってないか探すように言ってね。それから…、星導宮の監視の指揮もあいつに一任したんだ。アレクはさ、能力も高いし、信頼も出来る。別におかしなことはない。…でもさ、なんか都合が良すぎるっていうか」
それはエトワールも薄々感じていた事だ。星詠みの巫女の未来視の異能で、あの夜星導宮に乗り込んでくるのはアレクサンドルだとは知っていた。だが、それ以降、警備も含め、彼以外の騎士の姿どころか、気配も感じたことが無かったのだ。
「今回、あんたを星導宮から連れ出すっていう計画を聞いた時、俺、アレクに訊いたんだよ。俺以外にエトワールとの関係を知ってる奴いるかって。…そしたら、俺だけだって」
「…あまりに都合が良すぎると気持ちが悪いものだね。それこそ、恋愛小説でもあるまいに」
「同感」とラウルはうなずいた。「俺の杞憂ならいいよ。誰も不幸にならないしさ。でもなんか落ち着かなくてさぁ。あー…、ごめん。あんたこれからが大変なのに」
とことんエトワールを思いやってくれる青年に、エトワールは引き攣った笑みを浮かべるしかない。
これから。
アレクサンドルの言うところの「準備」が調えば、エトワールは彼とともにデュノアイエ家に向かう。
そして、社交界の女王と名高いデュノアイエ夫人―――アレクサンドルの母親との初顔合わせが待っているのだ。