2。
寝台の真ん中に座ったエトワールの髪を、そばに寝そべったアレクサンドルが指に絡めてはほどいていく。満足そうにほころんだ顔はほんとうに幸せそうで、エトワールの胸にもあたたかなものがひたひたと満ちていく。
「髪、ずいぶんもとに戻ったね」
エトワールの腰まで届く髪は今、3分の1ていどが栗色の、なんとも中途半端な状態だ。それでもアレクサンドルは徐々に「人間であった頃」に戻りつつあるエトワールの姿がうれしいらしい。
アレクサンドルは身体を起こすと、エトワールを背後からやわらかく抱きしめた。アレクサンドルはこうしてエトワールに触れたがる。…100年のうちに人間は、皆こんなに積極的になったのだろうか。
「外」の世界に戻るにあたり、エトワールが最も心配していたのは時代の変化だ。10年ひと昔、というけれど、事実、桁が違う。エトワールがそう不安を口にすると、アレクサンドルは星導宮に文献を持ち込んでくれた。
時代の推移を文字と絵で事細かに記述した分厚い辞典を見るだに、ここ100年で産業にも生活にも、おおきな変化はなかったようだ。だがこれから―――、宮廷の刷新、なにより、未来を予言する巫女の不在という事態はこの国と人々に、どれだけの変化を要求してくるか。
アレクサンドルは3日に1度は星導宮に現れ、エトワールと夜を過ごすが、端正な顔に隠しきれない疲労を刷いている事がままある。彼はけっして愚痴を口にしない。しかし、エトワールが耐えきれず案じる言葉をかけた時には、愛おしさがにじむ眼差しで額に口付けを落としてきた。
「疲れてるから、エトワールのところに来るんだよ」
…あの時はうれしいやら切ないやら愛おしいやらで、エトワールは無言のまま悶えたものだ。
思い出してもぞもぞするエトワールの肩口にアレクサンドルが顔をうずめる。
「…はやくエトワールから巫女の色彩が抜ければいいのに」
そうすれば星導宮から連れ出して、自分のもとに連れていけるのに。声に出さずとも、アレクサンドルがそう言いたいのはわかっていた。
ふだんは子供か、ともすれば犬のように無邪気にエトワールにくっついてくるアレクサンドルだが、ふとした瞬間に烈しい独占欲をのぞかせる。神と呼ばれる誰かがつけた徴がエトワールを縛っている事が許せないのだ。
「…先代の巫女はわたしがはじめて会った時にはもうもとの色が髪にまじってたな。それから…、ひとつきぐらいして完全に黒髪にもどってたよ」
「ひとつき」とアレクサンドルは繰り返した。
先代のことを思い出すと、エトワールはこの幸せに後ろめたさを感じてしまう。彼女はどこで、どんな人生を送ったのだろう。満たされた瞬間はあったのだろうか、幸せだと思えた場面は?
うつむくエトワールの顎をアレクサンドルが背後からそっととらえる。逆らわずに振り返ると、大好きな緑柱石の双眸があった。
「…先代はエトワールによくしてくれたの?」
エトワールはうなずいた。本人にそのつもりは無かったろうが、彼女の言葉や眼差しは茨のなか立ち竦むエトワールに道を示してくれた。
「服…、ドレスもね、あのひとが考えてくれたの。わたしに合うようにって、かたちも、色も」
「似合ってるもんね。…着るひと…、エトワールのこと、きちんと考えてつくってくれたんだよ。いいひとに会えたね、エトワール」
巫女であった頃、女官たちに先代を引き合いに出して侮辱される事はあったが、エトワールが彼女のことを口にしたことは無かった。明確な理由は無く、なんとなく口にするのが憚れる雰囲気があったのだ。
それを誰かと共有できることは、こんなにもうれしい事なのか。なにげないことで、胸があたたかいもので満たされる。
「…幸せになってくれたかなぁ…」
エトワールが口にするのは傲慢ではないかと感じていた「願い」。
アレクサンドルはなにも言わず、もたれかかるエトワールの髪をやさしく撫でた。
*
「“星詠みの巫女”の処遇が決まったよ」
洋燈のしたでアレクサンドルが持ってきてくれた恋愛小説を読んでいたエトワールは、5日ぶりの恋人の来訪に顔を上げた。
「ずいぶん時間がかかったね」
「利に聡い賢い大人たちが集まるとこうなるね」
エトワールは長椅子の端に移動した。残り少なくっていたお気に入りの茶葉で淹れた紅茶で満たしたカップを差し出すと、アレクサンドルは礼を言ってエトワールのとなりに腰を下ろした。
「…俺としてはエトワールの髪と目がもとに戻る時間が稼げたのはよかったけどさ」
アレクサンドルは一気に紅茶を乾すと、エトワールの肩に頭をあずけた。エトワールが無言で撫でてやると、唇をゆるませる。
「とりあえず聞きましょうか」
「…余韻もなにもないね、君…。…巫女の愚挙は許し難し。己の欲の為、民を謀り、国を困窮させた罪は万死に値する。しかし、長年にわたり、国を導いてきたのもまた事実。神の慈悲と恩寵により、巫女には自裁を命じる」
「…ほほぉ」
なんともいえぬ顔でエトワールはうなずいた。断頭台での処刑を申し渡されていたら、はたしてどうしたものかと考えていたのだが。
そう言うと、アレクサンドルは天井を仰いだ。
「その意見も出た。でも粛清逃れた貴族連中も、うっかり巫女を外に出して自分たちの隠してた悪事口外されると困ったんじゃないか?必死の形相で止めてきたし。あとは…、団長の一言が大きかったかな」
「だんちょう。騎士団長?」
「そ。俺も断固自裁推しだったんだけど、団長が口添えしてくれてね。…あのひと、口にはださないけど、巫女制度よく思ってなかったみたいだし」
「ふーん…」
アレクサンドルの言葉の端々からは、騎士団長に対する信頼と尊敬が感じられた。よかった。そんな為人ならば、女官長の「告発」も真摯に受け取ってもらえただろう。
「巫女の遺骸は火葬。残った骨も厳重に隠す。…なにに利用されるかわかったものじゃないしね」
エトワールはしっかりと首肯した。
「巫女については以上だよ。エトワール、君と、俺のことだけど」
アレクサンドルは円卓にカップを置き、エトワールに向き直った。エトワールも居ずまいを正す。
「3日後の新月の夜に、俺の友人が手配してくれた馬車で星導宮を出てもらう。そのまま俺の家に連れて行きたいけど、準備がいるんだ。隠れ家にこもってもらう事になる」
「…友人って、大丈夫なの?その、ばれたらお友達に迷惑がかかるんじゃないの?」
自分たちのことで、無関係の人間に被害がおよべば。アレクサンドルの目を覗きこむと、彼はあきれたように破顔した。
「そうならないようにうまくやるんじゃないか。それにエトワール、俺がどうしてここまで時間をかけたんだと思う?君から巫女の特徴が消えるのを待ってたんじゃないか。君は栗色の髪に青い目の、俺の恋人だ。いまの君を見て、星詠みの巫女と結びつける人間がどれだけいるかね」
…たしかに。星詠みの巫女は白銀の髪に金色の瞳を持つ。その思い込みは、強い。エトワールの確固とした味方になってくれるだろう。
「もし疑われてしまった時の為に俺は設定を考えている!エトワール、君は星導宮に従事していた下働きの下女だ。親も兄妹もいない、天涯孤独のひたっすらに可愛い子だ!」
「最後のいらなくない?」
「そんな不幸な星のもとに生まれてしまったかわいいかわいいエトワールはしかし!誰を恨む事も無く、日々健気に生きていた。それを見ていた人間がいる。神じゃないよ、俺、神が善良とか信じてない」
「知ってる」
「とにかく細かい事ははぶくけど、エトワールは星導宮で働く事になったんだ。しかし時代の荒波は容赦無く君を呑みこむ!王と巫女の暴挙に耐えかね、騎士団を中心とした蜂起、王宮の制圧!他の女官たちはみな逃げてしまったが、自分を拾ってくれた恩があると巫女に最後まで忠を尽くそうと残った君は、星導宮に乗り込んできた俺と出会い、お互い一目惚れしてしまう!」
「……」
ツッコむ気力も無くし、半目のエトワールをよそにアレクサンドルはひとり盛り上がり放題だ。
「共に生きようと説得を続ける俺に、君はなかなかうなずいてくれなかったよ。けれど巫女が自裁を申し渡された事を知り、未来に向かって歩むことを決めるんだ!どう!?」
「…いいんじゃないの?はい、おつかれ」
劇団アレクサンドルのひとり舞台をやりきった騎士どのに、エトワールは紅茶を淹れたカップを渡した。溜息を押し殺し、ちらりと円卓の上に重ねられた本に目をやる。そのすべてが、アレクサンドルおすすめの恋愛小説だ。現代の事情がわかるものを、と頼んだらアレクサンドルは嬉々としてこれを持ってきてくれた。時間だけはあるので、そのすべてに目を通したが、なるほど、女心は100年経っても変わらない。いつまでも天上の王子さまが平凡な自分を迎えに来てくれると思っている。
エトワールはあまりにお決まりな展開にすでに倦んでしまったが、妄想族のアレクサンドルは小説をお伴に、再会できるまでの日々を乗り越えてきたらしい。
「いきさつはいいとして、その“エトワール嬢”が星導宮で働くに至った細かい設定こそきちんと考えてた方がいいわよ。細部がつくりこまれてると、それだけで信憑性増すから。星導宮で働くのは、聖職者の家系のいいとこのお嬢さんっていう前提を忘れないで。ひょんなこと、っていうのは無しね。無理がある」
「…忌憚ないご意見ありがとう」
真剣に設定の練り直しをしはじめたアレクサンドルに苦笑をこぼし、エトワールは窓の外に青い瞳を向けた。
あと3日。新月の夜。
それが、エトワールがまったく新しい世界に飛び込む運命の日になる。