1。
エトワール嬢とアレクのそれから。登場人物がみんな元気いっぱいです。
視界に広がる光にエトワールは目を開けた。瞼を閉じていても感じた容赦ない陽光は、寝室の硝子天井からふりそそぐものだ。
身体を動かすと、名状しがたい痛みと倦怠感。それでも時間をかけて寝台から上半身を起こし、…自分が全裸なのだと再確認する。エトワールは頭を抱えた。
昨夜、アレクサンドルとああなってこうなって、今に至る。いろいろおかしな事があるが、いちばんおかしかったのは、エトワールの精神状態だ。どこをどうすれば人が融けて消えるのだ。極限まで追いつめられていたとしても、無茶苦茶だ。
記憶がよみがえれば、叫びたいような、暴れまわりたいような衝動に駆られる。そうするには咽喉が渇いていたし、身体中、あちこち痛い。
上掛けを身体に巻き付けたまま周囲を見回しても、件の金髪の騎士の姿は見えない。しかし、寝台側の小さな円卓にはパンと少量の果物、水差しが準備してあった。熱を帯びた手で水差しに満たされた水をそそごうとグラスを手に取ると、そのしたに二つ折りにされたメモがはさまっていた。
ひどく慌てた筆跡でひとこと。
―――今夜、また来る。
エトワールは髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜると、グラスの水を一気にあおった。
アレクサンドルとの出会いは、エトワールの、星詠みの巫女としての終焉を意味する。それはつまり…、こういうことか。処女でなくなるから、巫女としての異能も失われるという、…そういう。
「…わっかりづらっ…」
変化球にもほどがある。エトワールは呻いた。先代は神とやらの性格の悪辣さを呪っていたが、なるほど、彼女も見えない手にさんざん翻弄されてきたのだろう。
昨夜の自分の醜態を思い返したくないエトワールは機械的にパンと水を口に運ぶ。エトワールの自刃は失敗した。アレクサンドルは、エトワールを殺さなかった。
ならば、これからどうなるのだ。
エトワールは寝起きで絡んだままの髪を一房手に取った。老人の白髪とはちがう、金属の輝きをおびた白銀のまま。おそらく瞳も金のままだろう。
騎士団がエトワールを処刑するとすれば、巫女の色彩が残っている間に。そうでなければ、エトワールが巫女だと民衆に示せない。
エトワールは大きく息をついた。…アレクサンドルを信じたい。エトワールを求めたのは、情からだと。彼はどうにかエトワールを救おうとしているのだと。
…信じたいのに、未来の見えない、現実があまりに大きな壁となってエトワールの視野を奪う。
恋焦がれた相手と最期に結ばれ、処刑される。そんな文学的悲劇はごめんだ。…生き残ったのなら、アレクサンドルと未来を歩みたい。
「…そんないい男じゃないかもしれないじゃない」
勝手に盛り上がる自分に釘を刺してみるが、うまくいかない。鼻の奥がつん、と痛み、涙が滲んでくる。
終焉を望んでいたくせに、今さら都合がいいとわかっている。
でも、明るい未来が欲しいのだ。
*
誰かが髪を梳いてくれている。
つややかな栗色の髪はエトワールの自慢で、絹のようにすべらかな感触が気持ち良いと姉や妹がよく指に絡めて遊んでいたのだ。
愛情をにじませた手はけれどもう遠くて、家族の顔もはっきりと思いだせない。なんてわたしは薄情な女なのだろう。自己嫌悪に唇を噛むと、髪に触れていた手がそっとはなれ、今度は労わるように唇をひと撫でした。
のろのろと瞼を開けると、そこにあったのは緑の双眸を案じる色でいっぱいにした男の顔。
エトワールが反応できないでいると、濃紺の騎士服のアレクサンドルはますます眉を下げた。
「こわい夢、見てた?それとも身体、いたい?」
幼児のようにつたない問いに、エトワールはゆっくりと瞬きをした。洋燈の灯りに照らされてはいるが、周囲はすでに闇に沈んでいる。いつの間にか眠っていたらしい。
腕を突っぱねて身体を起こすと、アレクサンドルがそっと身体を支えてくれた。エトワールが反射的に身体を強張らせると、アレクサンドルは慌てて手を引っ込める。
「…悪い」
…なにに対しての謝罪なのか。エトワールは訊くのも億劫で、黙って頭を振った。
なんともいえない沈黙が落ちる。エトワールは自分が上掛けの下は全裸だという事が今頃になって居たたまれなくなってきた。
「…あの、エトワール」
沈黙が苦痛でいいかげんエトワールが叫び出しそうになった時、アレクサンドルが口を開いた。
「エトワール」。星を意味する単語だ。エトワールは周囲を見回した。天井を見上げれば、硝子の向こうには、なるほど夏の星が雲に遮られる事無く生き生きと輝いている。
「エトワール。君の名前だ。…はじめて会った時、名前はもう無くしたって言ってたから、ずっと考えてた」
「……あ、安直すぎない、…かな…?」
星詠みの巫女だから、“星”。あれだ、白い犬に“白”とつけるのとおなじだ。
視線を泳がせながらエトワールがそっと反論すると、アレクサンドルは愕然としていた。
「き、気に入らない?第二候補は君、すごく色が白いから百合っていうのも考えたんだけど」
「百合…」
なんだろう。なにかひっかかる。エトワールは首を傾げて記憶をさぐっていたが、ふいに思い出し、吹き出した。
「あれだ。わたしが村にいた頃に産まれた山羊の仔が真っ白で、その仔にわたし、百合ってつけたんだ」
「山羊…か」
どうしていきなりこんなことを思い出したんだろう。家族の顔ももう曖昧なのに。
…名前で呼ばれる。その事に、心が浮き立っているのかもしれない。
「山羊とおなじ名前は俺がいやだから、うん、やっぱりエトワールがいいな。俺のエトワールはひとりだけだし、響きも綺麗だしね。ねえ、エトワール」
「あ、決定したんだ。っていうか途中、しれっと変なこと言わなかった?」
星詠みの巫女を連想させる名前だと不快に感じたのは一瞬。アレクサンドルの低く柔らかな声で呼ばれると、なぜ嫌だと思ったのかわからなくなってしまう。
「エトワール、昨夜のことは、なんというか…、…驚かせて悪かった。びっくり、させた。本来ならお付き合いをしたうえで、あれやこれや手順を踏んでからのことなのに…」
それからはごにょごにょと言葉にならなかった。まっすぐにエトワールを見つめていた瞳は伏せられ、ついにアレクサンドルはうなだれてしまった。
貞操観念に照らせば、エトワールとて昨夜の行為がけっして認められない事だと理解している。でもアレクサンドルの肌も熱も、エトワール自身が望んだのだ。
エトワールが、アレクサンドルを欲したのだ。
エトワールが口をつぐんでいると、うつむいたアレクサンドルが勢いよく顔を上げた。
「言い訳に聞こえるかもしれないけど、エトワール。俺は君が好きなんだ。はじめて会った時から、ずっと」
…声もでなかった。驚きのあまり、目も口も開けっ放しになっているエトワールに、自棄になったアレクサンドルは気付かない。
「ずっとずっと君を解放する事を考えてきて…、10年以上も片想いしてたっていうのに君は死のうとするし、どうしたら君を巫女でなくせるかと考えたら…」
「…勢いでイタしてしまった、と」
「いきお…、だってずっと妄想のなかでしか会えなかったのに、生身の君が目の前にいるんだよ!常の状態でいれると思うか?いや、無理!」
「待って待って、もう聞きたくない。妄想とかちょっとヒくんだけど」
「男の俺からしたら、女の子ってびっくりするくらい柔らかいんだよ。この衝撃といったら…」
―――「わたしを両想いの感慨に浸らせなさい、このクソガキ!!」
沸騰した感情のおもむくまま怒鳴りつけて、はっとした。
「りょうおもい」とアレクサンドルがつぶやく。
クッションをぶん投げられたアレクサンドルは呆然としていたが、その顔に笑みが広がるのに時間はかからなかった。
「…エトワール!俺、すごく嬉しいよ!!」
「いや、ちが…。ほんと、ちがうから…」
なにが違うのかわからないまま、エトワールは必死に反論を試みるが、舞い上がった騎士どのは聞いてない。全身で喜びを弾けさせている。すこしは慎め。
「俺、君をどう説得して星導宮から連れ出したらいいか悩んでたんだ。これで君を恋人として俺の屋敷に連れていけるよ!!」
「こっ…!?待て待て待て、展開が早過ぎる!脚がからまって転倒するわ、膝の皿が割れる!!」
「大丈夫、俺が背負って走るから!」
言うなり、アレクサンドルはエトワールを抱きしめた。勢いあまってふたりそろって寝台に倒れ込むが、アレクサンドルの腕が緩む気配は無い。
「…頑張ってきてよかったよ、エトワール。ほんとう、嬉しい」
「…ひとの話きちんと聞きなさいよ、ガキ」
顔が、身体が、…胸の深い深い場所まで、ぽかぽかとあたたかい。
孤独で石のように固く冷えてしまった心に、昔、幼いアレクサンドルが灯火を与えてくれた。
そして今、大人になったアレクサンドルが全身でぬくもりをくれる。