4。
傷付いた皮膚がかたく厚くなり、痛みを感じづらくなるように、エトワールの心は、王が代替わりする事に硬く、鈍感になっていった。
エトワールが巫女となって、王は4人目になったが、あいかわらず夢は見たり見なかったり。しかし歴代屈指、すでにひとの寿命などたやすく凌駕する時間を星詠みの巫女として過ごし、国を揺るがす事例をいくつも予言してきたエトワールを軽んじる者はいない。
100年近くを少女の姿のまま生きる未来視の異能者は、畏怖と畏敬の対象だ。
昔のように部屋から出るだけで細かく詮索されるようなこともなく、エトワールは水縹より一段薄い色のドレスに千歳緑のショールを羽織り、庭に出た。
日中はじっとしていても汗ばむこともあるが、秋の深まってきたこの頃は、日が落ちればぐっと冷える。この時期の夕暮れは、他のどの季節とも違う。息を呑むような朱金が空を支配したかと思うと、あっという間に濃藍から夜闇に沈む。明日を生きる為に今日を死ぬ。「命」に触れられなくなったエトワールが肌で感じる事の出来る、天上の讃歌だ。
この世界には自分しかいないのではないかと疑ってしまうような静謐のなか、エトワールは庭を進む。しばらく歩けば、夕陽を見るのにいちばんいい場所に出る。
と、視界の端でなにかが動いた。庭に迷い込んだ動物か、…星詠みの巫女を狙う者か。後者であれば、すでに何人もが未来視により捕縛されている。
恐怖は無く、好奇心からエトワールがそちらに足を進めると、まろぶように現れたのは子供だった。
…さすがに驚いた。木の葉をからませた金髪の持ち主は、少年だったからだ。
星導宮は男子禁制。「間違い」があってはならぬと、大神官、王族の一部の男しか入る事は出来ず、そうとわからぬように武装した女官が控えた謁見の間でのみ、だ。
身なりからして、貴族の子息だと察せられた。王宮から迷い込んだのだろう。
「外」の空気をまとった少年に興味はあったが、子供とはいえ、この星導宮に無断で入り込んだとなればきつい仕置きを受ける。エトワールは周囲を見回した。女官の目が届かないうちに王宮に戻してやるのがいいだろう。
さて、どうしたものか、と少年に視線を戻したエトワールの頭は、今度こそ真っ白になった。
濃い金髪に、優しげな緑の双眸。まだまだ子供の顔にはけれど、彼の―――何度も夢で一方的な逢瀬を重ねた騎士の面影がある。
夢の前兆は無かった。混乱するエトワールが後退ると、少年の手がドレスの袖を掴んだ。子供らしいふくふくと温かな手と、激しいまでに無垢で真っ直ぐな視線。瞬間、何十年も無彩色の世界を生きてきて鈍くなったエトワールの感覚が、鮮やかによみがえる。
―――「来て」
エトワールは反射的に少年の腕をとった。彼の手を取り、果たしてどうしたものかと首をひねる。
辿り着いたのは、先代の巫女が教えてくれた「隠れ家」だった。以前はエトワールも星導宮での日々があまりにつらい時には、ここに駆けこんで独り泣いていたものだ。先代も耐えきれなくなった時はおなじようにここで思う存分泣いていたのだと思えば、すこし気持ちが楽になった。
先代が残してくれたドレスは長い時間を経て朽ちてしまったが、エトワールはおなじ意匠のものをつくってもらい、それを着続けていた。
…彼女と別れ、もう100年近くたつ。すでにこの世にはいないだろうが、巫女の立場から解放されたのち、彼女はすこしでも幸せだっただろうか。
うつむくエトワールの手を、少年はしっかりとつかんだままだ。頬を紅潮させ、わずかも視線をはずさない彼に、エトワールはぎこちなく微笑みかけた。…笑う、なんてどれくらいぶりだろう。
「じきしたら日が暮れる。夕闇に紛れて帰りなさい」
ずっと立っているのもお互いつらい。エトワールは少年の手を引いて腰を下ろした。驚いた少年の様子に、貴族の子女はこんなふうに直接地面に座らないんだろうな、と苦笑する。
と、少年の手が突然振り払われた。目を瞠るエトワールの前で、彼は自分の胸に勢いよく拳をあてた。
「ぼっ、ぼく…、わたしは!アレクサンドル・デュノアイエ!!」
「声おおきいよ。見つかっちゃう」
「んっ、ぅん…」
アレクサンドルは両手で自分の口を塞ぎ、きょろきょろと周囲を見渡しながらエトワールのそばにしゃがみこんだ。
「アレクと呼んでくれ。あ、あなたの名前は?」
「なまえ…」
きらきらと緑の瞳を輝かせるアレクサンドルに気圧されつつ、エトワールは首を傾げた。
かつて家族が呼んでくれた名前があったはずなのに、濃い霧の向こうに置き忘れてしまった。輪郭はつかめるのに、詳細がわからず、エトワールは途方に暮れる。
…もう自分を知っているひとはこの世のどこにもいないのだと思えば、名を探す事すら虚しい。
「…もう憶えてないの。無くしちゃったわ」
偽らず答えれば、アレクサンドルはなんともいえぬ顔をした。エトワールは笑うしかない。
「だってわたし、あなたの曾祖母さんの、そのまたお母さんの時代から生きてるし、…ここに来るまでに全部捨てなきゃいけなかったんだもの」
…なにも知らない子供に言ってどうする、と自分のなかでたしなめる声があったが、エトワールは言わずにはおれなかった。ほんの少しでいい、未来の彼に共有してほしかった。
わたしは独りで、あなたをずっと待ってるんだよ。
素直な気性らしいアレクサンドルは泣きそうに眉を下げた。
すでに日は暮れかけ、冷気がひたひたと迫る。エトワールは自分のショールをアレクサンドルの首に巻いた。
「え、でも…」
エトワールとて厚着をしているわけではない。けれど、痛みも寒さも遠くなってしまった身体に、アレクサンドルと出会った事で温かなものが灯っている。
「ありがとう」と小さく礼を言い、アレクサンドルは浮かしかけていた腰を落としたが、すぐに意を決して、と言わんばかりにエトワールの手を取った。ずいぶん熱い。もしかしてすでに熱発しているのではないか。
「ぁ、あの、また来るから。今日は供の者がいるから帰らなければいけないけど。その、女のひとは甘いものが好きなんだろう。僕も菓子が好きで、いつも乳母が焼き菓子をつくってくれるんだ。今度来るときに持ってくるから、いっしょに食べよう。ここで待っていれば、またあなたに会えるだろ?」
矢継ぎ早に「次」の約束をねだる少年に、エトワールの凍りついてしまった胸が甘く切なく締め付けられる。
ああ、これは愛おしさだ。こみあげてくる激情にアレクサンドルを抱きしめようとして、どうにか耐える。代わりに、エトワールは彼の手を額に押し頂いた。
…この夜闇のように、国はすでに破滅に向かって歩き始めている。何度も神夢を詠み重ねて導き出された、揺らぎようのない未来だ。
それを阻止できるのは、国を真に憂う若者たち。
目の前の、―――アレクサンドルのような。
「…きっとまた会う事になるわ。それまで、あなたは正道を征きなさい」
後ろ髪を引かれるアレクサンドルを星導宮の外まで見送って、エトワールは彼のぬくもりの残るショールに顔をうずめた。
もう一度会えた時、それが彼との永訣の日だ。