7。
どれくらい泣いたのか、エトワールは常の呼吸と平常心を取り戻したが、泣きすぎてとんでもない事になっている自覚があるので、顔が上げられない。冷やしたタオルに助けを求めるが、アレクサンドルが意地悪く遠ざけてしまう。
「エトワール、…顔、見せてよ」
「…やだ、断固拒否します」
顔を背けて距離をとろうとするが、アレクサンドルの手がエトワールの両頬を包んで上向かせてしまう。
「…エトワールが俺に泣き顔見せたの、はじめてなんだよ」
「涙くらい見たことあるでしょう。貴族の御令嬢とか、可愛らしい街娘さんとか」
逃れようともがくエトワールに、アレクサンドルが目を瞠る。
「え、嫉妬?」
「ちがいます!」
お門違いとは言い切れない女心に、ついきつい口調になってしまう。アレクサンドルはあきれた顔をした。
「あちらの涙は手練手管の一環だから。武器だとわかってて食いつくほど馬鹿じゃないよ、俺は」
完全にそうだとは言えないのだろうが、エトワールは黙っておく。恋敵は少ないほうがいい。しかし村にいた頃は、同性であれば演技だとわかる涙に、男はほいほいひっかかっていたような記憶があるが、これが名門貴族の跡取りか。スレている。
「あのひと達はね、泣くのも戦略のひとつなの。でもエトワールは違うでしょ。我慢して我慢しての感情の奔流だ。いっそ呑み込まれたいよ」
不穏な光を宿した緑柱石の双眸が近づいたと思えば、舌で頬に残った涙を舐め取られる。ぎょっと目を見開き、硬直してしまったエトワールに喉奥で低く笑い、アレクサンドルは今度は唇に口付けた。
じわり、とエトワールの腹の奥に火が灯る。熱に喘ぐように薄く開かれた唇にアレクサンドルのそれが重なり、そのまま深くさぐられる。いっしょに飲んだ、シャンテカイユの紅茶の香りがした。
ことさらゆっくりと唇が離れ、アレクサンドルがとろりとした笑みを浮かべた。濡れた唇がエトワールの首に吸いつく直前―――
―――「っわ―――!!」
エトワールは絶叫し、アレクサンドルのこめかみを殴打していた。いきなり急所をぶん殴られ、さしもの王国騎士も頭を押さえて呻く。
「こっ、こんな事してる場合じゃない、こんな事してる場合じゃない!」
襟を押さえ、エトワールはあたふたと周囲を見回した。腹に生まれた火も、冷水をいきおいよくぶっかけられて見る影も無い。
「…エトワール、…俺、その気だったんだけど」
「ご、ごめん!でも、ほんとうにこんな事してる場合じゃないんだって!」
「男にとっちゃ死活問題だよ!!」
「ごめんって!!アレク、…わたし、エカチェリーナさまに見限られた」
口にして、また涙がにじむ。痛みすらともなった熱に、もう目から血が出てるんじゃないかと心配になる。
アレクサンドルはこめかみを押さえたまま胡乱な顔をした。
「母上が?エトワールを?それはないよ」
「あんた、そんな暢気な…」
これだから貴族のおぼっちゃんは、と八つ当たり気味にエトワールは詰ったが、アレクサンドルの表情に緊張感は無い。
「母上は合理主義だから、見込みがないと思ったらさっさと捨てるよ。伸びしろがあれば、それこそ鬼みたいに厳しいけど、絶対に手を離すなんて無い。母上、エトワールがうちに来てから外出もしないで、君にべったりでしょ」
「でもでも、今日のダンスの授業だって、もういい、明日も明後日も休みだって」
「純粋に休ませたかったんじゃないの?母上、おかしなところで素直になれないから」
身を乗り出すエトワールに対し、「誰かさんみたいにね」と付け加え、アレクサンドルは盥の水にくぐらせたタオルでこめかみを冷やし始めた。
「明後日については俺から母上に話をしたんだよ。エトワールについてきてほしい場所があるからって」
「…そうなの…?」
「まさか明日も休みをくれるとは思わなかったけど。頑張ってたんだね、エトワール」
やさしく細まる緑の双眸にはもう、こちらまで火傷をしてしまいそうな不穏な熱はない。それをエトワールはすこし残念に思い、そう思ってしまう事を恥じる。ほんとうに、そんな事をしている場合ではないのだ。
「今日はふたりでごろごろして、明日はいっしょに街に出よう。エトワールに似合いそうな帽子を見つけたんだ」
アレクサンドルはエトワールを抱き寄せると、長椅子に転がった。正直、明日もこうして怠惰にくっついていたいが、街に買い物に出るなどはじめてだ。農村にいた頃は羊毛や牛酪を売りに出る事はあったが、ここは王都。王族の暴政の影響は徐々にではあるが改善され、流通も戻りつつあるらしい。「金を持ってる人間が消費しなきゃね」とアレクサンドルはうきうきとエトワールに欲しいものを訊いてくる。
人目を気にせず、ふたりで連れ立って歩けるのなら欲しいものなど無いのだ。
…などとは、もちろん恥ずかしくて口に出来ないので、エトワールは無言のままアレクサンドルの胸に顔をうずめた。
*
甘く見ていた、とアレクサンドルの手を借りて馬車を降りつつ、エトワールは胸中で苦々しく吐き捨てる。
ひとつはアレクサンドルの市井での人気。容姿も家柄も能力の秀でているとなれば、未婚既婚問わず女が群がるのは目に見えている。しかし恋人が一緒であればまだ控えるだろうという希望的観測は、彼女たちの殺意すらはらんだ視線に薄氷の儚さで砕け散った。
アレクサンドルは貴族出身ではあるが、平民のラウルと親しくしている事で、ちょくちょく城下にも降りていたらしい。身分意識の低い若い騎士ならば、もしかして恋愛小説のような展開が、と女ならば考えてしまうものだ。だが久方ぶりに現れた彼は、恋人だと称する女を連れていた。これが絶世の美女だったり、あきらかに上流の淑女であれば女たちもあきらめがついたろう。しかしエトワールは顔立ちは整ってはいるが、人目を引くような美貌とは程遠い。かといって男心をくすぐる所作の持ち主でもなく、笑顔であれこれと気を回すアレクサンドルに対してぶっきらぼうに接する、お高くとまった嫌な娘だ。
…エトワールが四面楚歌でなお、恋人といちゃつけるほどの肝の太さを持ち合わせていないなどとは、周囲は考えない。
エトワールに似合うものを、と帽子店で次から次に試着を勧めてくるアレクサンドルの能天気な笑顔が疎ましい。こういうことが前にもあったな、と流行りのかたちだという帽子をいろんな角度でかぶせられながらエトワールは思い返す。アレクサンドルは自分が異性受けすると知っているが、そこに対する気遣いが全く出来ないのだ。
アレクサンドルは、母エカチェリーナを合理主義者だと評した。息子である彼もそうだとエトワールは思う。情は濃いほうだろう、そして一途だ。しかし、好意を持っていない、そして自分に不要だと思った存在は彼の中の箱にいっしょくたに入れられて終わり。貴族として、騎士として丁寧に接するが、そこにアレクサンドルという個人の感情は無い。だからこそ逆に、平等だの博愛だのいう印象を持たれるのだ。
アレクサンドルに恋をした女は不幸だ。零か百か。彼もまた愛してくれれば、なにがあっても手を放さないでいてくれるけど、それ以外は友情すら得られない。
それから―――
「うん、やっぱり可愛いエトワールには可愛い帽子が似合うと思うんだよね!」
アレクサンドルが頬を紅潮させて見せてきたのは、白い生地を、これでもかと花やリボンで飾った華やかを通り過ぎて目に痛い帽子だった。エトワールの顔から血の気が引く。
「絶対にやだ!事故死する!!」
恋人のことが好きすぎて、両目が物語の魔法の鏡になっている。
―――もうひとつは、神とかいうひねくれた超越者だ。
アレクサンドルに手を取られたまま、エトワールは眼前の建物を見上げて目を眇めた。代々、騎士団長には、専用の邸宅が準備されている。そう、騎士団長の邸宅、だ。
善良すぎるラウルが、苦悶を浮かべながらも忠告してくれた人物が、ここにいる。思わずアレクサンドルの手をつよく掴んでしまい、彼の手が未だにエトワールを支えてる事に気づく。目をやると、アレクサンドルは感動を湛えた双眸で、しみじみとうなずいた。
「…エトワール、ほんとうに努力したんだね。昨日も思ったけど、所作がすごく洗練されてるよ。まえの男の子みたいな動きもよかったけど」
…仮にもずっと片想いしていた相手の前だったので、粗雑な動きはせぬよう気をつかっていたつもりだったのだが、…そうか、男の子みたいに見えてたのか。エトワールはすこし落ち込んだ。
アレクサンドルが「ついてきてほしい」というのはまさかの騎士団長の屋敷だった。しかも来訪は先方からの要望。アレクサンドルは騎士団の中でも有望株だ。騎士団長とも親しくしているというし、なんらおかしなところはない。
この胸騒ぎが杞憂でありますように、と祈りながらアレクサンドルに手を引かれ、騎士団長夫妻との面会を果たす。
使用人を通すことなく、玄関で出迎えてくれたのは、なるほど心得の無いエトワールでも人目で武人とわかる出で立ちの男だった。身長はアレクサンドルとおなじくらいだが、厚みがまるで違う。分厚い胸板もさることながら、丸太のような腕に腿。皮を剥いで熊が出てきてもエトワールは驚かない。骨格からがっしりとした顔貌は荒削りだが、粗野な印象は受けない。圧倒的な武力を理知で制している、そんな印象だ。
対して、彼に寄り添う奥方はおっとりとした雰囲気の、いかにも上流階級の婦人だ。やや重たげな瞼の下、上下するたびに音のしそうな睫毛に縁取られた榛色の瞳は光を湛えて潤んでいる。
聞けばふたりはまだ新婚らしい。独身を通すつもりと言われていた団長―――ドミニクの突然の結婚宣言に騎士団は一時騒然となった。しかも相手は熟した美女というのだから、馴れ初めをみな訊きたがったが、ドミニクは無言を貫いているという。
「お招きありがとうございます、ベルナールド閣下。こちらがエトワール嬢です」
「お初にお目にかかります。エトワール、と申します」
アレクサンドルの促しで、エトワールは優雅に一礼してみせた。夢でまで練習したお辞儀だ。アレクサンドルが感極まったように瞳を潤ませる。…ほんとうにわたしの作法はひどかったんだな、とエトワールは思った。
「は、はじめまして。デュノアイエ伯、エトワール嬢。お会いできて嬉しいわ、…ほんとうに」
ベルナールド夫人マリエットは、アレクサンドルの感情が伝染してしまったように、双眸に涙をにじませた。
「……」
エトワールはさりげなくマリエットから視線をすべらせ、ドミニクをうかがうと、彼もエトワールを見ていた。目が合うと、ドミニクは口元に猛々しい笑みをひらめかせた。気に入らず、エトワールが目を細めると、ますます可笑しそうに唇を震わせる。
―――こいつ。エトワールはあやうく淑女にあるまじき舌打ちをするところだった。ラウルの不安は的中だ。それが吉と転ぶか、凶と出るかエトワールには判別できない。
「こんなところで話をする事も無いだろう。奥に茶を準備してある」
ドミニクに促され、アレクサンドルとエトワールは彼に続いた。マリエットもドレスの裾をひるがえすが、優雅な所作とは対照的に、双眸に落ち着きは無い。
デュノアイエ邸と比べるとこじんまりとしているが、あたたかな印象の調度品で調えられた応接間に、柔らかな紅茶と菓子の香りが満ちる。この香りはシャンテカイユのお茶だ。うまいことやっているのだな、とエトワールはオデットを思い出した。
年季の入った長椅子に並んで腰掛け、エトワールはアレクサンドルとドミニクの会話に耳を傾けていた。話を振られれば控えめに返すていど。いつもなら「すこし慎め」というほどエトワールに絡んでくるアレクサンドルも、今日はおとなしい。上司の前だからか、勘の鋭い彼のこと、なにか察しているか。
四半時ほど当たり障りの無い談笑を続けていたが、ふとドミニクが立ち上がった。
「アレク、ここしばらく机上仕事ばかりで身体が鈍ってるだろう。稽古をつけてやるよ。ご婦人方も、女同士で話をするほうが気安いだろ」
「ドミニクったら…!」
夫の軽口に、マリエットの頬に朱が差す。すこし怒ったような、困ったような、絶妙の表情だ。
この邸宅には離れとして鍛錬場もあるらしい。アレクサンドルは尊敬するひとに1対1で稽古をつけてもらえると、喜びに頬を紅潮させて立ち上がった。しかし、すぐにエトワールを見下ろして眉を下げる。
「…いってらっしゃいな。わたしはベルナールド夫人に、淑女の心得を教授していただくから。よろしいでしょう、ベルナールド夫人」
エトワールが首を傾げると、マリエットは大袈裟なほど肩を震わせたが、白い両手を胸の前で握りしめ何度もうなずいた。
「…ええ、もちろんですわ。エトワール嬢」
男ふたりが退室すると、マリエットはあわあわと立ち上がった。
「ご、ごめんなさい。紅茶が冷めてしまいましたわね。ああ、それからお菓子も…!」
まるで初めて来客の対応をする少女の落ち着きのなさで、マリエットはポットを持ち上げた。しかし見事に手元が狂い、せっかくの焼き菓子に紅茶がかかってしまう。
エトワールは溜め息をつき、立ち上がった。
「…あなたね、そこまで緊張する事はないでしょう。アレクはどうかわからないけど、あなたの旦那さまは確実に面白がっていたよ」
マリエットの双眸がおおきく見開かれる。エトワールは苦笑した。
「久しぶり。…まさか騎士団長の奥方になってるなんて思わなかったから、びっくりしたよ」
瞠られたままのマリエットの目に、涙の膜が張る。それはあっというまに破れ、鮮やかに染まった頬を流れ落ちた。
「…わたくしも、ほんとうに驚きましたわ。…巫女さま…!!」
ベルナールド夫人マリエット―――かつて星導宮で女官長として采配を振るっていた女性はしかし、かつての主人との再会に、美貌にくしゃくしゃの泣き笑いを浮かべた。




