1。
その日、国中が喜びに轟いた。
民を虐げ、暴利の限りを尽くしていた国王が義憤に駆られた若き騎士たちの手によって斃されたのだ。国王夫妻は誅殺され、継嗣の王子は王宮深くに幽閉され、処分を待つ身。
そして国の未来を予見する星詠みの巫女は、騎士団の監視下に置かれる事となった。
*
この国では、古くから王を補佐する為に神に選ばれた予言者が現れる。
選ばれる巫女の身分は関係無く、星を詠む力が与えられる条件は清らかな乙女であるというその一点。
当代の星詠みの巫女の力は抜きんでており、4代前の国王の時代より正しく国を導き、栄えさせたとして国民に敬愛されていた。
星詠みの巫女は、民の前にはけっして姿を現さない。神託を聞けるのは、王族と限られた聖職者のみ。
ゆえに民は、乱れ続ける国を前にして巫女の予言の力が失われたのではないかという疑いを抱き始めた。
巫女は、己の地位を保持するために王族の暴政に加担しているのではないか。
神託が王によってことごとく撥ねつけられている事など知る由もない民の疑心は、いつしか真実となって語られる事となり、王家への憎悪はそのまま星導宮の奥深くに住まう巫女にまで向けられることとなった。
白銀と金。星詠みの巫女を象徴する色彩で飾られた星導宮を、夜、ひとりの騎士が進む。
アレクサンドルは、系譜を辿れば王家と縁戚の身分にあるにも関わらず、国王の暴虐を見てはいられぬと有志を集い、立ち上がった。
端正な容姿だけでなく、誠実で誇り高く、さらには剣士としても有能な彼は、同性からは羨望を、異性からは熱っぽい溜息を引き出して止まない。
長く伸びた廊下を進み、アレクサンドルが辿り着いたのは星導宮の最奥。金細工で星座を施した白い扉の向こうに星詠みの巫女は軟禁されている。
ゆっくりと両開きの扉を開くと、まず目に飛び込んでくるのは豪奢な寝台だ。幾重にも紗を重ねたそこに、かつて巫女だった女性が腰かけていた。
アレクサンドルが入ってきた事に気づき、彼女は振り向いた。巫女として選ばれた日から老いる事を忘れてしまった、まるで少女のような顔は忌々しげに歪んでいる。
「…なにしに来たの、クソガキ」
おおよそ巫女らしからぬ暴言にアレクサンドルはむっとしたが、すぐに口角を吊り上げた。悪態を吐いても、彼女が自分を拒絶することは無いと知っている。
「わかっているくせに。…それとも、星を詠めなくなったとたん思考する事も忘れたか、エトワール?」
「…わたし、そんな名前じゃないわ」
白い頬に朱を散らし、アレクサンドルを睨み付ける巫女の瞳は青みがかった金色。
星詠みの巫女は、神からの啓示を受けた瞬間から、元来はどれほど濃い色素を持っていても白銀の髪と金色の瞳へと変じてしまう。
エトワールと呼ばれた彼女の長い髪も、銀の輝きはまだ残っているにしろ、"人間であった頃"の栗色にかえりつつある。
―――それは、彼女から巫女の資格が失われた徴しるし。
アレクサンドルは笑うと後ろ手に扉を閉めた。
悠然と脚を進める男にエトワールは瞬間表情を強張らせたが、すぐに傲然と顎を反らした。
「…悪趣味もいいところよ、ガキ」
「…もうガキじゃない」
アレクサンドルは腕を伸ばすと、エトワールの細い手首を掴んだ。
*
王族の縁戚であるアレクサンドルは、幼い頃、好奇心から王宮内を散策する事を繰り返していた。
口やかましい伴を撒き、迷い込んだのが後に星導宮と知る場所。
王宮の敷地内とは思えぬ、静寂に満ちた庭でアレクサンドルは妖精と見紛う少女に出会った。
長く伸ばした白銀の髪、神秘的な金の瞳。只人の持ちえない色彩を纏う彼女に、幼いアレクサンドルは一瞬にして魅入られた。
生垣から身を乗り出したまま動けないアレクサンドルを見つけた少女の目が大きく瞠られる。それは、男子禁制の星導宮に子供といえど男が入り込んでいた、という驚きよりももっと深いものに見えたが、アレクサンドルに判別はつかない。
少女はすこし躊躇ったようだったが、夕陽に透けるストールをひるがえすとガラス細工のような手でアレクサンドルの腕を引いた。
「こんなところにいると知れたら、ひどい仕置きをされるわ」
そう言って、彼女は「秘密の隠れ家」にアレクサンドルを案内すると、自分もそこに腰を落ち着けた。
「じきしたら日が暮れる。夕闇に紛れてお帰りなさい」
母を含め、アレクサンドルの周囲の女は衣装が汚れる事を嫌う。だというのに少女は地面に直接座り込んだ。
まるで男のような所作に、アレクサンドルが驚いていると少女は苦笑した。
「ずっとしゃがんでいると疲れるでしょう?」
もしかして日暮れまで一緒にいてくれるのだろうか。少しでも同じ時間を過ごしたくて、アレクサンドルは彼女の名を訊いた。
すると少女は困った顔で首を傾げた。
「…もう憶えてないの。無くしちゃったわ」
胡乱な顔をするアレクサンドルに、少女は苦笑した。
「だってわたし、あなたの曾祖母さんの、そのまたお母さんの時代から生きてるし、…ここに来るまでに全部捨てなきゃいけなかったんだもの」
意味の分からない言葉への疑問は、彼女の途方に暮れた顔で宙に浮き、かたちを取ることは無かった。
その時のアレクサンドルに彼女の表情の理由はわからなかった。ただ、ひどい孤独の中にいるのだという事だけは理解できた。
騎士は主君と心に決めた貴女に尽くすもの。目の前の少女が悲しんでいるのなら、それを癒すのが自分の役目なのだとアレクサンドルは信じて疑わず、彼女の方に身を乗り出した。
また来る。そう誓うアレクサンドルに、少女は白銀の頭を振った。
なにかを堪えてるように伏せられていた金の瞳はしかし、昏い光を宿してアレクサンドルを見据えた。
「…きっとまた会う事になるわ。それまで、あなたは正道を征きなさい」
少女の両手がアレクサンドルの手を包み、額に押し当てる。そこには悲痛なまでの祈りが込められているようで、アレクサンドルはただ頷くしかなかった。
その後、アレクサンドルは彼女が星詠みの巫女と呼ばれる存在だと知った。
巫女に選ばれた者に拒否権は無い。身分を、友を、家族を、それまでの繋がりを示す―――己の名をすら捨てて、国の為星を詠む存在へと昇華する。
次代が顕現するまで、巫女は"人間"と袂を分かたねばならない。それは10年、それとも100年。もっと長い間かもしれない。神のみぞ知る年月を、巫女はかしずかれ、真の意味で誰にも心を許す事の出来ぬまま孤独に過ごす。
少女を唯一とさだめたアレクサンドルに、それは看過できない事だった。
彼女が尊重されているのならばまだしも、国王は神託に耳を貸さず、星詠みの巫女はいまや詐欺師の毒婦呼ばわり。このままでは国は、―――彼女は滅びの道を辿るだけ。
アレクサンドルは決意を同じくする同志たちと決起し、国王を討った。
返り血に塗れたまま星導宮を疾駆するが、止める者はおらず、"悪名高い"星詠みの巫女を討伐せんと騎士が乗り込んでくることを怖れたのか、女官たちの姿もどこにも見えない。
―――…きっとまた会う事になるわ
星の動きから未来を詠むという彼女はこの事態を予期していたのか。また会えるというのなら、どうか。
星導宮の最奥の部屋に、果たして彼女はいた。星座を象嵌した硝子張りの天井の下、月と星の光に照らされた白銀の巫女の手には白刃。
王が弑された今でも、星を詠もうとするように彼女の金の瞳は夜空を見上げている。
その目が、ふとアレクサンドルを捉えた。
「…ほらね、言ったとおりだったでしょ」
まるで子供のような笑みを浮かべた彼女は、自身の首に刃を押し当てた。
長い長い茶番劇にようやく幕を下ろせる安堵の表情で刃を引こうとした彼女の手に向かって、アレクサンドルは短剣を投げつけた。短剣は過たず白い手の甲を抉り、拍子に刃を取り落す。
その身を傷付けられたことなど初めてだろう彼女が呆然としているうちに、アレクサンドルは刃を蹴りつけ、華奢な肢体を腕の中に囲い込んだ。
怒り、安堵、そして望み続けた娘が自分の腕の中にいるという感動。さまざまな感情で震えるアレクサンドルを、金の瞳が見上げる。
どうして、と娘の渇いた唇がこぼした。
まるで生きている事へ疑問を呈するようなつぶやきに、アレクサンドルの脳は灼熱した。
死ぬつもりだったのか。それともそういう未来を詠んでいたのか。
どちらにしろ、許しがたい。彼女を救おうと努力した自分のこれまでは―――
―――「…いや」
こみあげた激情をアレクサンドル自身、否定した。
彼女の孤独を癒したいと思った事は本当だ。それ以上に、彼女が欲しかった。はじめて会った瞬間から、彼女に恋をしていたのだ。
神からの、祝福という名を借りた呪いを解く方法はひとつ。
男の―――白い肌に触れ、暴れ出す寸前の自分の欲で彼女を汚してしまえばいい。
彼女は抵抗しなかった。ふと開かれる潤んだ金の瞳の奥に宿るものがアレクサンドルにはわからない。
行為の後、アレクサンドルは彼女に名前を付けた。エトワール―――"星"を意味する名前に、肌に赤い花びらを散らした彼女は「…安直」と呻いて頭を抱えた。
言葉を、熱を交わすたび、彼女を知る。
もとは農家の娘だったこと。上に2人、下に2人の5人兄弟で、毎日牛の世話に追われていた事。存外口が悪い事。とんでもない暴挙に走ったアレクサンドルを「クソガキ」呼ばわりする事。意地っ張りな事。
…肌をかさねる時だけ、「アレク」と呼んでくれる事。
それから、本当は栗色の髪と青い瞳を持っている事。
アレクサンドルはエトワールの手首をひいて、柔らかな唇に自分のそれを重ねた。閉じていた目をそっと開くと、ほんのりと頬を染めた愛しい娘の顔がある。
アレクサンドルにつられたように現れたのは、潤んだ青い瞳。晴れ渡った空の色。
命を燃やし尽くした星は消えていく。けれどまた、新しい星が生まれる。
太陽の下、見えずとも。
星は輝いている。