かのこと修二【BL 頭蓋骨フェチ】
合同誌『川骨の花に落つ』の試し読み。
注意 BL メリバ
かのこと修二
(一)
二階の窓から見える中庭。
しとしと降る雨に打たれて、紫陽花がほんのり青く色づいてきた。つい数日前まで薄緑だった花の、変化は早い。
窓の木枠に肘をついて、かのこは中庭の様子を静かに見下ろしていた。昨夜から降り続く雨に、部屋の中もじんわりと湿っている。かのこが眠っていた布団も、湿気を吸って重たくなっていた。
窓から風が一つ、吹き込んだ。その冷たさに、かのこは思わず身震いした。それも無理のない話だった。彼の体にかかるのは、長い黒髪のみ。この時期でも、朝は冷える。肌が細かく粟立ち、しばらくすると元に戻る。さっきから、花とそればかりを見ていた。
目が覚めたとき、いつもと同じ天井の竿が目に入る。灯の匂いがする。修二の温かさがある。それが彼を、酷くやるせない気持ちにさせるのだった。
(二)
かのこ、の背はしなやかだ。男性らしさを保ったまま、優美な曲線を描いている。
彼がいる部屋に戻り襖を開けたが、彼はこちらを振り向きもしない。
修二は昨晩の名残惜しさを見せないよう、ぱさり、と彼の肩に着物を羽織らせた。
「わるいな」
振り返りもせずに、かのこが言う。女のような容貌には似合わぬ低い声、それが高く掠れるのを修二は好んだ。
親から疎まれ、ひっそりと育てられた、いや勝手に育ったと言うべきか。自ら進んで家から出ることもなく、家に迷惑をかけまいと息を潜めて暮らしていたのを、修二はずっと見ていた。
かのこの父は売れっ子の役者であった。それが遊びで手を出していた女に子ができた。その女がかのこの母である。
母は見た目が美しいだけの弱い女だった、とかのこは幼い頃を思い出す。父の女癖の悪さが正妻の心にヒビをいれ、加えて、遊びの女にできたかのこが男子だった。正妻が「かのこ」などと女の名をつけたのは、当てつけだったに違いない。ただの赤子であったかのこにしてみれば、いい迷惑だ。幼いながら、家内の勢力図を正しく把握した彼は、なるべく母とともに火の粉を被らぬよう、目立たぬように生きる術を身につけたのだった。
長く伸ばした髪が、着物に隠された。修二は櫛を持って、彼の髪に手をかける。
「お前はそればっかりやな、こっちが禿げてまう」
念入りに髪を梳く修二に、彼は呆れたようにため息をついた。
修二はうっそりと笑みを浮かべただけで、気がすむまで生糸のような美しく太い髪に櫛を通し続けた。
暫くそうやってから髪を束ねると、かのこの首筋に点々と、赤い斑が落ちているのが目に入った。昨晩に修二がつけたものだった。
かのこの首筋からは、彼の脂の匂いがする。酷く艶かしい匂いだ。
自然と喉が鳴り、櫛を持つ手に力が入った。
「修、そろそろ仕事やないか」
かのこが肩越しに銀平を渡してくる。修二が贈った亀甲文様の簪。あまりの間の良さに修二は苦笑した。すっかりかのこに見透かされている。自分の欲。
「わかっとる」
「ほんまか」
かのこが少し笑ったようだった。修二は受け取った銀平に、整えたばかりの黒髪を、時間をかけて巻きつけていった。
修二の家は西陣にある呉服屋で、山本といえば知らぬ者がいないほどの大店だ。山本の家には息子が三人娘が一人、修二は上から三番目の次男坊であった。
彼の兄が後を継ぐということは、かのこが家から連れ出された時に修二から聞いた。修二に連れていかれたのは、江戸の時代には既に、しもたやになってしまった古い町屋。西陣からまだ南にだいぶ下がった、下立売通に面した家であった。
この家はどうしたのか、と聞けば買ったという。男同士で暮らすのは醜聞になるのではないか、と思ったが、元いたところから追い出されてしまった彼には、修二のところ以外に行く当てがなかった。
いつまで『友人』を同居させておけるのだろう。行く場所はない。しかし、自分の存在は近いうちに必ず、修二の障害になるだろう。
「おわったで」
きゅっと髪をきつく留めて、修二が鏡を渡してきた。ええできやろ、と鏡の中の彼が満足そうにかのこの頭に手を置いた。手が描く曲線は、かのこの記憶の中の、母の頭の形と似ている。そして自分の顔は、母よりは幸せそうに見えた。
修二を仕事に送り出して、かのこはいつものように神棚の掃除をし、通り庭で米と野菜を洗った。修二がいない家は静かだ。しんとして、火をたいていないと、雨の気配だけで心が沈む。
一通りの仕事を終えても昼を少し回ったぐらいだ。修二が帰ってくるのは夕刻。それまでの時間、かのこは修二に貰った本を縁で読んだ。碌に文字も読めなかったのに、この家ではこれくらいしかすることがない。それで、この一年でかのこは修二の尋常小学読本を全て読み、夜、彼に書き方も習った。
修二は、かのこの生活がこの家の中だけで完結するように仕向けていたが、かのこはもとよりここから出る気もなかった。
そうやっていると、表を叩く音が聞こえてきた。
昼間に尋ねてくる人などいただろうか。
不思議におもいながら、かのこは引き戸を開けた。そして、戸口近くに立った人を認めて少なからず驚いた。
「お久しぶりやなぁ」
父の正妻である昌が、細い雨の中、傘を傾けて立っていた。かのこが家を出る少し前、彼女は真っ赤な紅をひきはじめた。それが今日の梅雨色の中でも、いっそう美しく歪んでいた。
(三)
表の引き戸が擦れる音を聞いて、かのこは我に返った。
自分の目の前には、昌に出した煎茶の碗と座布団がそのまま残っていた。部屋の陰影が、もう夕刻だと、そっと教えてくれる。通り庭に続く襖が開いて、修二が姿を見せた。かのこは慌てて立ち上がろうとした。どれだけの時間ぼうっとしていたのかと、自分でも嫌になる。
「すまん、途中まで用意はしてあるんやけど」
「誰か来とったん」
「昌はんが」
そこまで言うと、修二は顔を顰めて玄関間へ上がってきた。少ない明かりの中で、かのこの顔をまじまじと見る。そして、ぐいっとかのこの目尻を乱暴に着物の袖で拭いた。
「泣いとったんやな」
「いや。ああ、そうや」
かのこは自分が、昌を送り出して部屋に戻ってからどうしていたのか、全く覚えていなかった。だから、修二がそう言うのなら、泣いていたのだろうと思う。
「夕餉ん支度するわ」
通り庭の方に行こうとするかのこを、修二が押しとどめた。
「そんなんええから。なに言いにきはったん、あのお人」
「大したことやない」
ーーあれからずっと、山本の坊ちゃんを騙くらかしているやなんて、血ぃの繋がり言うんは怖いなぁ。
昌の声が毒になって、体に回る。
かのこが幼かった頃から、彼女は必要以上に優しい声色で、惜しげも無く言葉の毒を流し込んだ。蝕まれた自分の体は、それが事実でないと知っているにも関わらず、優しい毒に靡く。そういう風に躾けられている。
修二を騙したことなどない。かのこをくれ、と言った彼に引き渡したのは父や昌であった筈だ。
怒りは一瞬吹き抜け、それを表す手段を彼は持っていなかった。ただ、じっと昌の言葉を聞くより他、なかった。
ーーこれは、死なな治らん病気や。
かのこは唇を噛んだ。顔を上げて修二を見ると、その背後に昌がいるような気がした。騙している、と囁きかける昌が。
今日、昌が着ていた着物は青白く、部屋の中でぼうっと浮かんでいた。色づき始めた中庭の紫陽花にそっくりであった。
「紫陽花の葉、毒があるやろ。それ食べたら、死ねるやろか」
「かのこ」
「俺ゃ、しくった。しくったんや、修。もう直らへん」
「何がや」
「生き方」
(四)
夜になって修二は、ようやくガス灯を灯した。畳に突っ伏したかのこが、くっきりと見えるようになった。修二が渡した手ぬぐいを握りしめて、岩のように横たわっている。もう、嗚咽も聞こえない。
修二と一緒に暮らすようになったかのこが、こんなにも感情を発露させるのは初めてのことだ。幼馴染である彼の、境遇は知っていたつもりであったが、あの家から離れてなお、かのこは蝕まれている。
修二は箪笥の上のつげ櫛を手にとって、かのこの側に座った。頭を掻きむしった時に乱れた黒髪。その中に埋もれた銀平を丁寧に髪から外した。そして、かのこの髪を梳きはじめた。幾度か、頭の先から背に至るまで、梳いたときだった。
「お前はほんま、そればっかりやな」
かのこの、掠れてしまった声がした。岩のように微動だにしなかった体がのそり、と動いて人の形になった。
「すまんな、夕餉の準備、無駄になってしもうた」
「ええよ、明日食べりゃ」
修二は思わず笑った。気にかけるところが面白いと思ったのだ。紫陽花を食って死ぬ、と言っておきながら、反対では夕餉のことを口にする。
「そんなに好きやったら、髪切って、お前にやろうか」
「髪は添え物や。お前から離れたら意味ないやろ」
「なんやそれ」
鼻をすする音がする。
「うちは、お前の頭の形が気に入っとる」
「赤子に言うようなこと、言うなや」
かのこが少し笑った。
「お前のここ、少し出てるやろ。ほんで頭の天辺が平らで、後ろのところ、首にかけてのこの曲がり具合が絶妙や」
修二は、かのこの額から後頭部、そして首にかけてまでを、ゆっくりと櫛を動かしながら説明した。
「ほんなら、俺が死んだら俺のしゃれこうべは、修にやる」
「それ、いつの話や」
「さあな。でもそんくらい、俺が決めるんや」
今までに自分が決めたことなど、何もなかった。死んで尚残る、自分の遺骨。それが抱える未練は、自分のものなど何一つなかった人生に違いない。
「えらいもの、任しよる」
修二は喉を鳴らした。
彼は想像したのだ。かのこの頭蓋骨を抱える自分を。
妖艶な流し目も、首筋の匂いも、こうやって幾度となく髪を梳いたことも。全て自分の記憶の中だけにあって、彼の頭蓋骨を愛しく見つめられるのは、自分しかいない。肉体がなくなった彼は、彼が望むにかかわらず色香を振りまくことはないだろう。
かのこを彼の家から連れ出したのは、彼が売られてしまう前に自分のものにしたかったから。しかし、二人だけで住むようになってからも、修二はかのこの心まで縛り付けられないことを痛感していた。
頭蓋骨に心はない。そう思うと、かのこが死んだはずの未来は嬉しかった。
「な、修。約束やで。必ずもろうてや」
「分かった、分かった。でもな、うちはこうやってお前ん髪梳くんも、話をすんのも捨てがたいんや。それやし、それに飽きたら考えるわ」
櫛はまだ刃物にはならない。いや、毒の方がいいか。
頭蓋骨になったかのこを想像して、修二は口の端が上がるのがとめられなかった。
冷めてしまった夕餉の、鰹出汁の匂いがほんのりと部屋に満ちていた。二人は腹が減っていたが、それよりも。
修二の櫛を持つ手を払って。彼の方を振り向いたかのこが、今は生きるために、修二の唇を舐めた。