第四話「幻惑魔法使いナディア」
天靖は背中を襲った二度の衝撃と、足に走る激痛で苦しんでいた。コツコツと近づいてくる足音。しかし、内出血や骨折、腱の断裂によって足は使い物にならない。
「ぐぅ、はぁ、はぁ、ここ、は?」
彼が辺りを見渡すとそこには建物の影も、砕けたはずのステンドグラスもなかった。彼が目にしたのは太陽光を取り入れ荘厳な雰囲気を出す廊下。
その幅の広さ、長さは目を見張るもので、天靖が倒れ伏すその場をもってしても分かれ道を見ることはできない。軍隊が丸々1つ入っても余りそうだ。
廊下を支える柱には一本一本に、この世界の成り立ちを綴った聖書が刻まれていた。この世界において、世界創生の神は絶対的存在。それ故にどのような国でも創世神話は重宝され、場所を問わずこのように記載されている。ある国では街に走る道で聖書を書いた、なんていう話もあるほどだ。
「あなた弱くなったわね。抗えもしない。体は鍛えていると思えば飛ぶ距離も短い。そんなに平和な場所だった?」
先ほどの場所からこの廊下に入れ替わったのも、吹き飛ばされたのも全てが彼女の仕業だった。
ナディアの職業は幻惑魔法の使い手。
彼女の力は脳に作用し、視覚情報に始まり嗅覚、聴覚、味覚、触覚の情報を彼女自身の手で好きなように操ることが出来る。あの月明かりに照らされていた空間を作り出したのも、クラスの人間が王の言葉を全て信じたのも、彼女によるもの。
普段はそうポンポンと使えるものではない。世界に来た当初の彼らだからこそ出来たのだ。
「痛い? それがあなたを失った時の私たちの痛さよ」
「あ、ぁあ、もう、俺は」
「その言葉は後で、もう一発いかないと。あなたが自殺した分を分かってもらってない」
そう言うやナディアは倒れ込む天靖の頭に手を置く。
すると、なんということか天靖は手を使って自分で飛んだ。その手には過剰な圧力がかかっているのだろう。血管が浮き出ては弾け、バツンという破裂音が聞こえては顔を歪める。飛び終わって床に着いた頃にはその腕は骨がなくなったかのようによれ曲がっていた。
天靖に使用した幻惑魔法は、脳のリミッターを切らせ、限界以上の力で飛べと命令するもの。
最早身体操作の領域だが、これは並の幻惑魔法使いにできるものではない。人が受け取る感情を長年研究した結果によるもの。彼女だからこそ使える幻惑魔法だ。
齢30前半に見える彼女は今では112歳。この世界における人間の生存限界年齢は240歳なのでまだ半分にも満たないが、それでも経験を積めるだけの長生きはしていた。
彼が今もなお意識を保っているのも彼女によって心に過剰な恐怖を与えられ続けているから。ナディアは近づき、もう一度頭に手を置く。彼女が手を離すと、触れたところには魔法陣の描かれた羊皮紙が張られていた。
「これは」
天靖が体験したのは超回復魔術。癒系統の中級に位置するもので、致命傷ともいえる彼の体は十秒足らずで元に戻ってしまった。
「正直に答えて。これがあればあなたやカディの未来は変わったと思う?」
ナディアは天靖の前に座り話しかける。
天靖が体を起こしてみた彼女の顔は、怒りが頂点に上り微笑む顔ではなく、何かに悔やむ顔であった。頭に張り付けられた紙を見るが、この世界で暮らしていたのに、天靖はその魔法陣を解読することはできなかった。そのため自分が死んでから作られたのだろうと考える。
ナディアの顔に浮かぶ後悔。それは、この魔法陣さえあれば天靖は死なずに済んだのではないか、という思いから来るものだった。この魔法陣は彼女が描いたもの。魔法陣の構築の方法、字の癖、そこから判断して開発に成功したのが彼女なのだと分かる。
天靖は一つ息を吐くと、頭を振った。
「変わらなかっただろうな。魔法陣は書いておけば詠唱に使う時間は無くなるから一瞬で使える。だけどこれは神代の時代に使われていた欠落級の魔法の再現じゃないだろう」
「えぇ、中級の超回復魔法の再現よ」
「俺が受けたのは一瞬で身を焦がす炎だった。カディリスは、自分は即死級魔法を受けて死ぬと言っていた。蘇生魔法か蘇生魔術でもない限り不可能だ」
「でも戦い方が変わっていたかもしれないわ。そうすればあなたが死ぬことも無かったし、カディの目的もみんなで達せられたはず」
天靖の答えに納得がいかないのか、今度はポロポロと雫をこぼし始める。
魔法、魔術の階級は初級、中級、上級、欠落級に分けられる。神代の時代、この世界の神が使ったとされる蘇生魔法は、今なお使用できるものは現れず、欠落級とされている。
欠落級には他にも魔法創生や天候操作、生物創造などが在り、世界の魔術学者が魔法解明のために人生を注いでいる。しかし、上級の魔法陣を作れないのが現状だ。
ちなみに召喚魔術は神が残した唯一の欠落級と呼ばれ、アーティファクトの中に封印されていた。なぜその事実が世界に広まっているか定かではない。しかし、世界中の人間がこの国に神代の遺物が眠っていることを確かに知っていた。
そして、その魔法陣は封じ込まれている類のものであり、解析することは叶わず、今回の召喚で砕けたため、闇の中。
この世界にはもう欠落級の魔法、魔術は存在しない。
「俺は今から酷いことを言う。お前と先程した約束を破るような考え方だ。でもこれだけは分かってくれ、もう自分を犠牲にするようなことはしない。突然いなくなるようなことはしない。分かってくれるか」
「言葉によるわね」
静かに見定める彼女に天靖はおもむろに口を開いた。
「俺は、どんな状況であれ、あの時は俺が死ぬしかなかったと思っている。それは例え蘇生魔法があったとしても、だ」
「っ!? あなた後悔したのよね! 私たちと一緒にいたかったって、自殺してしまうほど辛かったんでしょう!? それなのに、それなのに、あなたは自分が死んでもよかったって思っているの!? 私たちの心を傷つけて、自分の心すらずたずたに引き裂いて、それでもそれが良かったっていうの! 私たちと一緒に戦いたかったぐらい言えないの!?」
立ち上がり、心の底から湧く激情をぶつけるナディア。彼女の目からは止めどなく涙が零れ落ち、天靖からだけはその言葉を聞きたくなかったと告げる。
彼女は気付いていないが、幻惑で隠していただろう左目を通るようにして走る縦の亀裂が現在露になっていた。天靖といた頃は無かった傷。それは彼がいなくなってから彼女の身に起きた、悲惨な出来事によるものだった。
天靖はそれに一瞬息を吞みそうになるも、彼女と対等であろうと立ち上がって言葉を続けた。
「俺は、これから来る魔王の強さをカディリスから聞いていた」
「なっ!?」
先程から所々に現れているカディリスやカディという名前。それは天靖とナディアが所属していたパーティー、リベルティのリーダーであった男のものだった。本名をカディリス・ギル・ラ・サリスティアという。
彼の職業は先見師。枝分かれをした未来を見ることのできる未来視魔法の使い手だった。
そして、天靖はカディリスからこれから来る魔王軍の強さを知らされていた。
ナディアが驚いたのも無理はない。カディリスが見ることのできる未来は自分の生きる可能性が残っている未来のみ。つまり、天靖が来る前よりも、新たな魔王が誕生する前よりも、彼は即死級魔法で死んでいるというのに、その言葉はまるで、今なお生きている可能性があったというものだったのだから。
「どういう、こと?」
「俺も詳しく聞いたわけじゃない。可能性を繋げていった結果残った道はこれだけ、そう言っていた。俺が戻ってくるなんて思ってもいなかったが、これがあいつの見た可能性なんだろうな」
「ま、魔王は攻撃に何を使うの?」
「見れなかったと聞いている。自分たちだけの力ではどうしようもなかったと」
「そんな」
生まれたての魔王が一国を亡ぼす。それは早々できることではない。
アリビア帝国が滅びるとき、かの国は魔王の接近さえ予知することも、察知することもできなかった。それは魔王が一人で攻め込んできたから。単体で一国を亡ぼせる力。それはどれほどの脅威なのだろうか。
その事実はナディアや、もちろん天靖は知る由もない。それでも、未来視魔法で先手を取れるカディリスが敵の攻撃を見るまでもなく敗れるとは、彼女は想像もできなかった。
「今なら分かる。カディリスは俺に未来を託した。だったら俺はそれに応えるまで。もう一度約束させてくれ、俺は魔王を倒す。そして、生きて帰ってくる」
「あの人の言葉なら蔑ろには出来ないわね。その約束、破ったら本当にこの世界に足を踏み入れる度に来世へ行かせてあげるんだから」
カディリスが天靖に伝えた言葉には続きがあった。
「俺が見た可能性を繋げていった結果残った道はこれだけだった。お前には辛い思いをさせる。俺を恨んでもいい。だが、俺の妻と、息子を頼まれてはくれないか」
天靖はその言葉の意味をやっと知ることが出来た、と心のどこかに刺さっていた棘を外す。やはり、戦友である者の言葉は隅々まで理解したかったから。
一方、ナディアは零れていた涙をひとしきり拭うと、精一杯の笑顔を作り向き直る。その手には黄金色の装飾が施されたカードがあった。
「一応あの2回で私はけじめをつけたからね、おかえりなさい。イレイド。今のあなたの名前はテンセイ・ナガセって言うらしいけど、私はいつも通りレイって呼ぶから。使えるか分からないけど、これはあなたのカードよ」
彼女が手渡す身分証には名前がイレイドであった頃の彼のことが記載されていた。
「持っていてくれたのか」
「あなたの事情知ってるんだから、当然よ」
天靖の事情。それは前世の記憶を持っていることに他ならない。
彼のそれを知っているのは、どこの世界を見てもこの世界の今は亡きカディリスと、ナディア、後は残りのリベルティのメンバーしかいない。その事実から察することが出来るように、それほどまで彼はこの世界を自分の居場所としていた。
「ありがと、う。これは」
「書き換わってる?」
天靖が受け取った瞬間、その現象は起こった。
転生者ということが起因しているのだろうか。身分証の文字が次々と変わり、そして身分証の色が、装飾が変化していく。
色が金から銀へ、銀から銅へ、銅から木へ、そして、装飾が無くなる。
名前がイレイドから永瀬天靖へ。
所属がパーティー名であったリベルティからサリスティア王国へ。
職業が付与魔術師から――
最後の項目を見た瞬間、天靖は素早く左手の甲に服に付着した血を使って空間魔術を書き込む。星を書いて凹部分を円で繋ぎ、中に自分の名前をこの世界の言語で書くだけ。魔法陣はすぐにかけた。そして馴染ませると直ぐに身分証を収納する。
しかし、見られていたのだろう。正面から笑いをこらえる声が聞こえてきた。
「ぷふ、あなたその職業で私たちを助けるって。あぁ、でももしかしたらできるかもしれないわね。ぷふふ、でも私にはやめてよ。未亡人とは言え、最愛の人がいるんだか、ぷ、ぷははははははは、やっぱり我慢するの無理! お腹痛い! お腹痛いってぇ!」
どうやらこらえきれなかったよう。
ナディアはお腹を押さえて笑い始める。その顔に涙を再び溜めるが、それはシリアスから来るものでは、もちろんない。
「誰にも口外するなよ」
「きゃー! 襲われちゃう!」
肩を掴み説得をしようと試みる天靖だが、ナディアはわざとらしく叫びその場から逃げ去る。それを追いたい天靖であったが、先ほどのことで体が疲れ走ることができない。
廊下の奥にそびえたつ、ステンドグラスと同じ装飾が施された扉。
耐容を反射させる銀髪を躍らせ、そこに駆けるメイドを天靖はため息を吐きながら見送るしかなかった。彼女を追う道中、彼は足元で輝く洗浄魔術に隠れて起動する鑑定魔術を見る。
「弱くなった、か」