第一話「最後の学校生活」
夏の日差しがアスファルトを焼き、蜃気楼を作り出していた。
天高く上った太陽は木陰すら焼く勢いでその勢力を広げ、熱くない場所など外には存在しない。街中を歩く人々は次第に涼を求めるようになり、公共の施設やコンビニなどに逃げ込んでいる。
そんな誰もが外に出ることをためらう時間帯に一人、高校の校舎の屋上で、タオルに巻かれたペットボトルを片手に外を眺める青年がいた。生暖かい風に吹かれながら、胸元まであるフェンスに寄りかかる彼の名は永瀬天靖という。
彼の奇怪な行動には、大層な理由があるわけではない。この屋上で外を眺め、下で教員にしごかれながら炎天下で練習に励む喧騒を聞くのが好きだからここにいるのだ。
ここは彼にとって平和を、日常を一番に感じることができる場所。雨や雪の日以外、時間が空けば決まって彼はここに訪れた。今日のこの時間も、学校の昼休みという空き時間だからここに来ている。その証拠、というわけではないが足元には空になった弁当箱が置いてあった。
天靖は一口、ペットボトルの中身をあおると、足元に置き、元いた体制に戻って下を眺める。屋上につながる階段のほうからトントントン、と弾むような足音が鳴るも、耳に入らない程にはその行為を楽しんでいた。彼が聞くのは学校の中の喧騒。下を見ては苦笑いと微笑みの二面相を繰り返している。
彼はまだ高校に入学したばかりの一年生。それなのに何故こんなにも枯れてしまっているのかというと、過去が関係した。しかし、今は来訪者が来るため説明は持ち越そう。
「あ、天靖こんなところにいた」
鉄の扉を開く重い音とその声でやっと気付いたようで、天靖は目を丸くしながら入り口を見やる。どうやら予想外の人物に乱入されたらしい。
来訪者、水望こころは手を振りながら天靖のもとまで走り寄ってくる。なぜか背後で犬がしっぽを振っているような錯覚を与えてくるが、それは愛嬌の良さゆえだろう。
「こころか、この時間に屋上に来るとは珍しい」
「今日は委員会で用事があってね、だから帰りは一緒になれないって連絡」
はにかみながら腕を後ろに、若干前かがみになって口を開いた彼女は自分の武器というものをわかっているのだろう。学校裏サイトに構築された、水望こころを見守る会で伊達にロリ巨乳と崇められている彼女ではないのだ。
しかし、そんな奮発も「そうか」の一言で終わってしまってはやるせない。
恥ずかしさで一杯になった顔を隠すべく、こころは天靖に倣ってフェンスに体を預ける。だが、それは夏の日差しによって熱く熱せられた鉄。「ひゃあ!?」というどこから出たか分からない声とともに退いてしまった。
そうなればもう後の祭り。天靖がペットボトルに巻いていたタオルを敷いてくれたが、口元をひくつかせ、ポソリと礼を言いながら真っ赤に染まったその顔を、腕の中にうずめることしかできなかった。
「ねぇ、天靖」
「なんだ」
「よ、呼んでみた、だけ、かも?」
「なんだそれは」
意を決し、出した言葉も彼の前では不発、というか自然消滅に終わった。彼女の乙女ポイントはもうMP切れ。とほほといった感じでうずめた顔を腕から出すと、外で本を読むとある少女にひらひらと手を振る。
なぜか、練習に励むサッカー少年が釣れてしまったが彼女の視界には入らなかった。
こんなやり取りを毎度のごとく繰り返す彼と彼女は幼馴染である。
家が隣同士ということもあり、幼いころは家族ぐるみの付き合いがあった関係。今は花嫁所業を続けながら天靖の優しさを貰うこころと、そんなこころの努力は露知らず、無自覚に彼女に優しさを与える彼の構図が出来ていた。
二人の関係を長年見た者は、なんで付き合ってないのなんて思うが口にはしない。
恋愛には奥手なこころと、無頓着な天靖。天靖に至っては男に気があるのでは、と疑問視されるほどの無頓着さ。
気の置けない中であるのは周知の事実であるが、天靖の地雷原に踏み込むことを恐れ、口に出すことがはばかられていたのだ。
「なぁ、こころ」
「え!? あ、な、なに!」
唐突な天靖の問いかけに、動揺と期待を隠せないこころはグラウンドにまで聞こえる音量で返事をした。下では読書に励んでいた少女がため息をつきながら立ち上がり、校舎の中へと戻っていく。これから彼が口にすることを知っているのだろう。
次に天靖から発せられた言葉は恋愛とは全く無関係で、それでいて彼女にとっては一大事になり得ること。
「次の時間は数学だが大丈夫か?」
水望こころは数学が、というか勉強が苦手である。技能科目は感覚や身に沁み込ませればいいだけなので、何とかなっていた。しかし、暗記や思考を主軸とする勉強はなぜか苦手なのだ。
「え!? しゅ、宿題忘れちゃった!!」
「それなら大丈夫だ」
「ほ、本当! 見せてくれるの?」
「見せるのはダメだが教えることはできる。それと、次の時間にあるのは課題提出ではなく、テストだ。課題提出は来週だ」
直後、無情にも昼休み終了を知らせる鐘が鳴る。恨みがましくこころは鐘を奏でるスピーカーを睨みつけるも、止まることは無い。
ううぅ、と一瞬唸った彼女は「私急ぐから!」とその言葉だけを残し走り去ってしまった。その後ろ姿に天靖は苦笑いを送ると弁当とペットボトル、それとタオルを回収する。
ペットボトルの中にあった氷は夏の日差しのせいか解け切っていた。
◇◆◇
「おい、こっちにこい」
「あぁ、御剣君か」
天靖が屋上から続く階段を下りていると二階に来た辺りで下から呼び出しがかかった。のぞき込んでみればそこにいたのはこころに手を振り返していた御剣剣治である。
まだ時間は十分にある為か、天靖は彼の言葉に応じた。一階の階段が影となっている広いスペースまでついていく。目的の場所に着いたのか前を歩いていた剣治はくるりと振り返ると拳を鳩尾にめり込ませた。
「うぐ!?」
「お前さ、何度言ったら分かるんだよ」
突然のことに対応できなかったのか、天靖は腹を手でおさえながら顔を俯かせ、膝をつく。彼には見えていないが、前には未だイラつきを隠せず、骨を鳴らしながら再び拳を作る剣治がいる。
剣治が天靖に突っかかる理由は極めて単純で、それでいて常人には理解のし辛いものだった。
「調子に、乗るな、こころに、近づくな、か?」
「分かってるならなんでやらねぇんだよ、ぁあ!? それとこころを名前で呼んでんじゃねぇよ!」
「ぐぅ、がぁあ!?」
二度の蹴り上げによる暴力の再来に痛みを伴った天靖の声がこの空間にこだました。
剣治は水望こころに恋をしている。
恋は盲目というべきなのだろうか。高校入学当初は優しさを持ち、分け隔てなく交流を行っていた彼は、こころの純粋さにやられ変貌した。
執拗にこころの近くにいるようになり、彼女に近づく人間。つまり永瀬天靖を排除するために動き始めたのである。
周囲も彼の変化には気付いているようだが、何せ牙を向ける対象が彼だけであり、上手いこと隠しているものだから「こころちゃんのことが好きなのかも?」程度にしかわかっていない。
一人、二階の階段横にある図書室の壁に背を預け全貌を把握している人間がいるが、たったそれだけだ。彼を止めることのできる人間は一人もいなかった。
「もう近づくんじゃねぇぞ、仏の顔も三度までだ」
どこが仏だと言いたい。
彼の本質が暴かれるのはいつになることやら。未だ痛みで苦しむ天靖は、したり顔で階段を上っていく彼が見えなくなるまでにらみ続けた。
「惨めね」
彼が二階へと消えた後、一息入れようとしていた天靖へ、新たに頭上から声がかけられる。仰ぎ見ると階段の手すりに左手を乗せ、見下ろす女生徒が一人。
後ろでひとまとめにした艶やかな髪を揺らしながら降りてきた彼女、弓矢綴は天靖の前に立つと先ほど吐いた言葉と同等の意味を込めてため息をつく。
そんな彼女に対して天靖はふっ、と含み笑いを浮かべる。先ほどまでの痛がりはどこへ消えたのだろうか。驚くことに、ごみ埃を払いのけながら平然とした面持ちで立ち上がったのだ。
視線がまっすぐぶつかり合う。175前後の身長と渡り合える彼女は女性としては長身の部類に当てはまるだろう。穏やかな視線と、弓道部員であるためか真っすぐと鋭く心内を覗く視線。
口を開いたのは天靖。彼は先ほど送られたため息に応えるように述べた。
「そうだな。あれほどまで意気揚々と帰っていったのに全てが演技と気付かないとは。はたから見れば惨めこの上ないだろう」
「何を、言っているの? ちょっとあなたの言っている意味が分からないわ」
彼のその仕草に驚いたのだろう。綴の細かった目は少しばかり開き、声に動揺が乗る。というかまず、彼の言葉の意味が全く分からなかった。
自信家とでもいうべきか、ため息を吐きながら上を見上げる彼の姿は滑稽に思えて仕方がない。
「綴、じゃなかったな、弓矢さんが惨めと言ったのはあの滑稽な独り芝居をしていた彼のことじゃないのか?」
天靖も彼女の言葉が意外だったのか顔を正面に戻すと、不思議そうに頭をひねった。
普通、あの場面を見てどちらが惨めか、といったら十人中十人が天靖を指さすだろう。ここで相手のほうを指すのは天靖ただ一人だけだ。
「いいかげん誰でも名前呼びをするのはやめた方がいいわよ。それを嫌う人もいるから。例えば私とか。それで、あなたの問いに対する答えだけど。私が惨めねって言ったのはあなたのことよ」
彼の訂正を耳にした彼女はこれ幸いにとつつき始める。本当はこんなことをする性格ではないのだが、彼を目の前にしてしまうと止めることができないようだ。
そんな綴の言葉を聞いてやはり、天靖は驚愕した。
彼の驚愕度合いにあきれ果てたのか、綴は一つため息を漏らすと再び言葉を吐きつける。その様は諭すようでもあり、苛立っているようでもあった。
「何もせず毎回殴られて、時には蹴られる。改善しようとは思わないわけ? あいつの言いたいことを受け入れるだけの人生でいいの? これだけは言いたくなかったけど、こころが泣くわよ」
その言葉すら天靖には届かないのか、始めは不思議そうに綴を見つめ続けるだけ。もしかしたら彼にはこころが泣く理由すらわからないのかもしれない。それでも、「泣く」という言葉が響いたのか、少しばかり真剣な顔になる。
「なぜこころが泣くのかは分からない。だが、俺がここにいる限り、俺はこころを守る」
「あなた、本当に分からないの?」
その問いには無言を返す。じっと見つめ続ける綴は、その態度に煮え切らないようで、だんだんとその顔に怒りを募らせた。そして、時間切れを表す鐘が鳴る。最期に彼女が彼に向けたのは「最低ね」という言葉。
「あぁ、そう、かもな」
無人になってから呟かれた言葉は誰のもとにも届かず、影の中へと飲み込まれた。
◇◆◇
「あいつは、あいつは、あいつは!」
静かに、激情を吐き出すという高等技術を使いながら綴は教室へと歩を進める。
そんな彼女だからか、扉を勢いよく叩きつけるように開けてしまう。普段であればそういう生徒に率先して注意をするような彼女のその行動に教室にいた者達は驚愕する。
しかし、彼女にはそんなものも目に入っていないのか、自分の席にドカリと座り込むと、苛立たし気にシャーペンをノックし始める。
触らぬ神に祟りなしということか。近くでテストの準備をしていた者はこそこそとその場を離れ、遠くに座る友人の席へお邪魔した。普段怒らないものが怒りだすと怖いとはこういうことを言うのだろう。そんな彼女のもとに涙目な勇者が一人。
「綴~! たすけて~!!」
「――! あ、ごめんなさい。こころにあたるところだったわ。それと、皆さんすみませんでした」
一瞬大声を出しそうになった彼女は目の前にいるのが親友こころであると分かるとその留飲を下げた。その後、立ち上がると周囲に向かって頭を下げる。
どうやら涙目女神のおかげで荒神の怒りが納められたようだ。散っていた者たちは自分のあるべき場所へと帰っていく。
「どうしたの? 何かあった?」
「いいえ、大丈夫よ。それよりもこころ、何か助けて欲しいことがあったんじゃないの?」
「そうだった! 次の数学のテストのこと教えて!!」
「あなたって子は。あと2分で何を教えれるというのよ。まぁいいわ、分からないところどこ?」
「ありがとう、綴!」
ため息をつきながらも綴はこころのためにと教え始める。
彼女たち二人の出会いはこの高校を受験するときだった。遠方から訪れたせいで道に迷っていた綴をこころと天靖が案内したことが始まり。
天真爛漫な彼女とそれを受け止める素朴な男子。楽しげに会話をする2人の関係性が気に入り、自分も仲間に入りたいと思ったことがきっかけだった。
初めのうちはこころと天靖に名前呼びを許容していたようだが、どこから違えてしまったのか。今ではこの学校で綴を名前で呼ぶのはこころともう一人、彼女の幼馴染である金剛岳だけ。
「あ」
「どうしかした、綴」
「なんでもないわ、続けましょう」
天靖には、今日は特別に割り増しだが、教室に入ってきた瞬間に牙を向けたくなるほど敵対心を感じてしまっていた。
彼女自身どうしてこうなったのか分からない。
ただ自分の中にある何かが変わってしまった。そのことだけは自分でも分かっていた。
「そういえば、あの作戦はどうだったの?」
「それ今聞く!? 見てたよね!」
こころはまた涙目になった。
他の話も誤字脱字確認終了後行っていきます。
これからもよろしくお願いします。