霧中の、あなた
・友人のサイト管理人さんが作ってくれた「自然に綴る28のお題」の「2.霧の館」をもとに作成されています。お題は現在公開停止中です。
それこそ何かに憑かれたみたいに、僕は君に惹かれていたんだよ。自分でもおかしいくらいだった。
君はぼくの目には、あまりに美しく、眩しかった。豊かに波打つ飴色の髪も、晴れた空の色の瞳も、上等の白磁のような肌もみんな、奇麗で奇麗で本当に奇麗で……心の底から、そう思ったんだ。
---------
君を描いてくれと依頼されたときは、正直言って驚いた。君のお使いだというあの女の人に報酬を提示されたとき、僕は思わず飲んでいたコーヒーを噴き出しかけたよ。幼稚園児だって知ってる有名画家に言うのならともかく、僕なんかにはどう考えても荷が勝ちすぎる金額でね。さすがに怖気づいてしまって、最初は断ろうと思ったんだけどね。何しろそのときは、滞納していたアパートの家賃をどこから捻出しようか頭を抱えていたものだったから。
今だから訊くけど、どうして僕になんか依頼しようと思ったんだい? 君ほどの資産家だったら、どんな画家でもよりどりみどりだったろうに。
いや、自分のことを卑下しているわけではないよ。ただ、画廊にお情けで置いてもらっている僕の絵は、まだ一点だって買い手がついたことはないから、少し不思議に思っただけなんだ。……はは、わかったよ。もうそんな野暮なことを訊いたりなんてしない。
ああ、窓の外をごらんよ。今日も霧が濃いね。気流の関係だろうか、このあたりはいつもそうなんだね。
ん、僕には別に不都合はないよ。描き始めた頃は湿気に戸惑ったけれど、もう慣れた。ただ、出来上がった絵は、あまり湿っぽいところには置かないようにしてくれ。せっかく、僕が渾身の力を込めて描いたのだから、どうか大切に扱ってほしい。
僕としても、せっかくカンヴァスに描きとめた君の姿が劣化していくのは、どうしたって我慢ならないんだ。無名の貧乏絵描きの勝手な願いだけれど、絵描きであるからこその切実な願いだ、どうかわかってほしい。
ほら、もう少しで描きあがるよ。ずいぶん待たせてしまった……妥協しないと言えば聞こえは良いけれど、要するに僕の力不足が原因なのだから申し訳なかったね。
うん、そう……だね。これが描きあがってしまったら、もう僕はここに来ることもなくなってしまう。なんだか寂しいな。ずいぶん長いこと、このお邸には通わせてもらったから。
君のご両親の遺産なのだと聞いたけれど、本当に立派なお邸だね、ここは。僕の友人なんかは、いささか古びすぎだ、なんて言うんだけど、まったくわかっちゃいないと思うよ。経てきた年月をそのまま、こんなふうに心地よい重みと厚みに変えてしまえる建物なんて、なかなかないのにね。
そうそう、そいつは、こんなことも言っていたよ。聞きたいかい? ふふ、じゃあ、どうか怒らないで聞いてくれよ。
このお邸には、「出る」のだって。このお邸にひっそりと棲んでいるのは人ではない何かで、それはお邸に迷い込んだものを取り殺してしまうのだって。
うん、どうしてそんな顔をするんだい? そんなに君を傷つけてしまったろうか? 悪かった、頼むよ、どうかそんなに哀しそうな顔をしないでおくれ。君のいちばん幸せな姿を描きたいのだと、僕のわがままを聞いてくれたのではなかったのかい? さあ、どうか笑っておくれよ。僕の描いたこの絵と同じように。
……え、もしその話が本当だったらどうするかって? ははは、君は意外とその手の話が好きなのかな。うん、わかった、わかったよ。真剣に答えるよ。
そうだな、もし、友人のたわごとが本当のことだったとして。
それでも僕は、君を描きたいと思ったろうし、実際今と同じように、渾身の力を込めて君の肖像を描きあげようとすると思うよ。
だってね、僕は最初から、君にはひどく惹かれていたから。それこそ、自分でもおかしいと思えるくらいに。
君に初めて会ったときのことを、僕はきっと一生忘れないだろう。それほどに……眩しいほどに、君は美しかった。この人のすがたを完璧にカンヴァスに描きとめることができたなら、その場で死んでもいいとすら思った。嘘じゃあないよ、誓って全部、本当のことさ。君はまったく、絵描きなら誰でも惹かれずにおれない魅力に満ちている。こんな牽引力を持ったモティーフを、僕はほかに知らない。
だけどね、僕が君を描きたいと、こんなに強く思っているのは、たぶんそれだけじゃなくて……そうだな、なんと言ったら、格好がつくだろうか。
……ああ、言葉が見つからないから、率直に言うよ。
僕は、君を愛しているから。君の豊かに波打つ飴色の髪も、晴れた空の色の瞳も、上等の白磁のような肌も……この、霧に沈んだ古い古いお邸に住まう主の、君のすがたが、一目見たときからずっと、僕の心から離れないんだ。
だから、もし君が僕と同じ世界の生き物ではなかったとして、そんなことはまったく関係ないんだ。世界の隔たりなんて軽く飛び越えられるほど、君の持つ牽引力は強いんだよ。君自身意識していなくても、僕はそれを感じられる。たとえ君が何であっても僕が何であっても、その気持ちは絶対に変わらないよ。
え? 今なんと言ったんだい? ……もういちど、言ってくれないか?
……もういちど。うん、頼む、もういちどだけ。
……ああ、本当に? 神様に誓って? ……うん、嬉しい、な。そう、そうか。そうなんだね。
ああ、こんなに幸せな気持ちになったのは初めてだよ。ほかでもない君と僕が、こんなふうに同じ気持ちでいられるなんて。これからどんな奇跡が起こったって、きっとこれ以上幸福になんてならないだろうな。ああ、どうしよう、僕は今、どんな顔をしている? とんでもなく間抜けな顔をしているんじゃないだろうか?
ああでも、もうこの絵が描きあがる。カンヴァスの上に、君のすがたができあがる。
この絵が描きあがってしまったら、もう僕がここにいる理由はなくなるけれど。それでももう、僕は満足だよ。
絵描きとして最高の仕事ができた。最高のモティーフを描くことができた。
そしてなにより、君を愛し、君に愛されることができた。
……だからもう、いいよ。いいんだよ。
僕にはもう、未練なんてない。だってこんなに、幸せなんだから。
だからもう、終わらせても、いいんだ。
そう、もし友人のたわごとが本当のことだったとして。
言ったろう? 僕は君を……僕の何より愛する君を描けさえすれば、その場で死んだって構わない、って。
---------
その夜も、その邸の周囲には霧がたゆたっていた。気流の関係だろう、このあたりはいつもこうなのだった。日によって濃淡はあれど、細かな水滴の織り成す薄い紗のような霧は、常に邸をすっぽりと包んでその重厚な輪郭を周囲にぼんやりと溶かしている。
邸の主は、いつもそうしているのと同じように、自分のいちばん気に入りの部屋にいた。照明は最小限に抑えている。主のかつての想い人と同じように、主自身もまた、闇を駆逐するのでなくそれと共存するかのような、ひかえめな明かりの持つ独特の情緒が好きだった。
主は、部屋の壁にかけられた一点の油彩画を、薄明かりのなかに透かし見る。
油彩画に描かれているのは、豊かに波打つ飴色の髪と、晴れた空の色の瞳と、上等の白磁のような肌を持った、美しい少女だ。
主の顔に、微笑が浮かぶ。おだやかで、そしてどこかもの哀しい微笑み。
「律儀な方、ですね。本当に」
主は、今夜も「待って」いたのだった。その想いがかなえられることはないと、どこかで確信しながらも。
主の思い人であり、主を同じく愛していると言ってくれた人を。几帳面な性格で、いつもきっかりこの時間に、主のもとを訪うはずの人を。
――この絵が描きあがってしまったら、もう僕がここにいる理由はなくなるけれど。
それは確かにそうかもしれない。でも、ここに来るのに理由なんて要らないのに。理由なんてなくてもここにいてほしかったのに。あなたは私を愛してくれて、私もあなたを愛していて。それだけで十分なのに。世界の隔たりなど関係ないと、その口で言ってくれたはずなのに。
けれどもう、駄目なんですね。あなたはちゃんと、満たされたのですね。あなたをここに来させる理由はもう、なくなったのですね。
「本当に、律儀な方」
主はもういちど、同じ言葉を呟いた。主の、日中の空と同じ色をした瞳から一筋、涙が光る尾を引いた。
---------
街外れの古い古い洋館――いつも霧に巻かれて白く霞んでいるあのお邸には、人でないものが「出る」のだとか。
洋館の主は、一人の老女。若くして洋館を相続して以来、結婚もせずにひとりでひっそりと暮らしている。そんな変わり者の切り盛りするお邸は、幽霊にとってはかえって居心地がいいのかもしれない。
噂によるとその幽霊は、貧乏な画家の姿をしているのだとか。その画家は夜な夜な、お邸の老女主人とむつまじく語らうのだとか。お邸の一室からは、乾いていないテレピン油のにおいがいまだにするのだとか。
その画家はある絵を描いている途中で肺病に倒れ、そのまま再び絵筆をとることもできずに亡くなったのだとか。だが不思議なことに、彼の遺作になったその絵は、どう見ても製作途中ではなく、彼自身の筆致できちんと描きあがっているのだとか。
――すべては、噂にすぎない。本当のことはきっと、お邸の老女主人と、その幽霊だけが知っている。
今日も霧の館は、真実を何もかも抱え込んだままに、乳白色の紗のなかに佇んでいる。