【34】前進
ひたすら無心になって体を動かすというのは、あまり歓迎できる状況じゃないことが多い。
ようするに考えたくないから体を動かし続けてそれを忘れようっていうんだから、映画の中の人物のやることだ。
「……」
「そうしかめっ面するなよ。 傷つく」
まぁ、さすがにシャワーくらいしてくるべきだったな、いくらなんでもラフすぎた。
頭からつま先まで流れた汗は地面に大きく水たまりすら作っていた。さすがに体は拭いてきたが、それで完璧に拭えるなら制汗剤なんてものは生まれてない。
「臭いぞ。 鼻が曲がる」
「お前は言葉をオブラートに包むってことを知らないのか? 俺と一緒にロードワークをこなそうぜ」
「断るし、そんなことを話に来たわけでもなかろう」
「まぁな」
わざわざ俺の目の前で香を炊き始めるアーニアルを余所に、俺も頭の中を切り替えていく。
まさか自分の体を使ってまであいつに嫌がらせしよう、なんて暇を持て余してるわけじゃない。
俺はここに用事があって、そして報告するためにきている。
「それで、国一番の駿馬を乗り回して、駅でまた新しい馬に乗り換え、その馬まで乗り潰してこっちに戻ってきた意味はなんだ?」
「相手の主格がわかった」
さすが、これだけで興味を示した野郎はこっちに戻ってきて俺の目の前に座る。
二時間ここで待たされて、これでこいつが無能だったらたまったものではないが、今や臭いなんてどこぞにいったのか鋭く目じりを尖らせていた。
……それでも、一拍置いて、俺は多少気分を落ち着けてから、何度も口の中でその言葉を転がしてからようやく重たい唇を離し……言葉を発する。
「ジャハブ・アルバンナー」
「……誰だそいつは」
俺はここが異世界だと、そうずっと思ってきた。
馬鹿げた話に聞こえるかもしれないが、戦場の中何らかのトラブルに巻き込まれて俺はこの世界に来てしまった、そういうんだ。
だがその可能性は今、限りなく低くなったと思う。
「俺の世界にいた反政府……俺の敵だ」
奴がどういう人間かを説明しても立て板に水だろう、あまりにこの世界とは情勢が違いすぎる。
「そいつが何でいるとわかる」
「イデのことは聞いてるだろ。 あいつの父親らしい」
「はっ。 魔女を作れるのかそいつは、大したものだな」
そして奴がいる……いや、奴と俺がここにいるんだ、こいつは偶然なんかじゃない。
これが偶然なら、あまりにも出来過ぎている。あの光に包まれた俺とあいつがここにいて、今再び敵対している、こんな馬鹿な話があるか。
こんな出来過ぎた馬鹿げた話が、あるものか。
ここには誰かしらの意志が介在している。
それがあいつなのかどうかはわからない。だが俺はこの世界に"連れてこられた"。
「それで、そいつは何をしようとしてるんだ?」
「そこまではわからん。 これから調べていくところだが……イデもゼーさんも知らないとよ」
「また新しい名前が出てきたな。 紹介してくれないか?」
「俺たちの新しい友達だ。 イデの姉」
俺は確かめなければならない。
「今度連れてきてゆっくり話を聞かせてくれ」
「あぁ」
あいつが俺をここに連れてきたのか。
あいつがこの世界の、主……もしくは、何らかの管理をしているのか。
俺は知らなければならない。
「なぁアーニアル」
「何だ」
絶望の淵に差し込んだ光明、こいつがどこに続いているのか。
「俺がいなくなったらその時は泣くか?」
このカンダタの糸の先に、一体何があるのか。
「急だな。 死ぬ予定があるのか?」
「明日石に躓き馬のケツに頭をぶつけて死ぬ」
「ハハ…なら、そうだな」
俺は知らなければならない。
「盛大な葬式ぶち上げてお前を聖人認定して首都のド真ん前に像を立てて我が国の守護聖人にしてやる」
「……勘弁してくれ」
あの野郎が企んでいたことを俺は知っているから。
爆発に巻き込まれて死んだ数多の人々の名前を、俺は新聞の上で、知っているから。
「なら死ぬな、私がいいと言うまで許さん」
「そうだな」
吹き込んできた風俺の髪を揺らす。
臭いこもった部屋の中に吹き込んできた風は、酷く凍てつくような冷気を纏っていた。




