上司と部下
「浅野着いたぞ」
「あ、はい」
正直に言ってここまでの何週間か食事が喉を通らなかった。
せいぜい一日一食が限界。
桜の季節だと言うのに、まるで私を打ち負かすような淡い色には目もくれず、ひたすら後処理に追われた。
気がつくと足元には既に散り終えた花びらが固まっているのみ。
まさか木下の件で自分がここまで打ちのめされるとは思ってもいなかった。
と言うか、たかがアイツの件でこんなにも自分が弱かったのかと思い知るにも至った。
(これを機に引き締めていこう)
主任の後へ続き電車を降りた。
「ただいま帰りました」
「浅野先輩!どう、でしたか?」
いつも気を遣ってくれる後輩社員から恐る恐る声を掛けられた。
「うん。きちんと謝罪して今後も改めて取引き継続。部長と主任のお陰。伊集院にも迷惑かけてごめん」
「・・いえ。俺なんか別に・・。浅野先輩にはいつも世話になってるのに何も出来なくて」
「伊集院も私みたいなミスしないよう気をつけてくれればいいんだって」
「・・先輩」
「さぁ、仕事。仕事!」
◆◆◆
「じゃあ、お先ー」
「お疲れ様でした」
残る社員はとうとう私のみになった。
部長は別の打ち合わせの為に直帰だし、主任もギリギリまで残ってはいたが連日残業が続いていたので帰宅するよう促されていた。
私は今回の件で少し対応が遅れていた別の仕事に着手していた。
とは言っても日頃から何があるか分からない為、前倒しで進めては、いる。
つまり。
別に今日どうしても進めなくてはならない、というわけではないのだ。
ただ・・・。
どうしても今日という日は出来るだけ遅く帰宅したかった。
ましてや金曜日だ。
「・・・うーーん・・」
強張った体を伸ばす。
喉が渇いていた事に気づき、傍にあったペットボトルを手に取った。
普段は座る事は滅多にない部署の脇にあるソファへと足を運ぶ。
私以外はいないからいいか、とそのまま腰を下ろした。
しばし頭が真っ白になる。
そして思い出すのは木下の事、今回のミスの事。
自分の浅はかさ・・・。
一連の出来事が、まるで走馬灯のようにじわじわと嬲る様に襲ってくる。
目の前の光景が少し揺らぎ、熱い感覚が目頭を覆ってきた。
「・・・・・・・・くそっ!」
思わずソファに拳を叩きつけた。
「何だ浅野。まだいたのか?」
「・・・・・・っ。主任?!」
まさかの事態に心臓が跳ね上がった。
と同時に、あまりの恥ずかしさに背中に冷たい汗が流れてくる。
(どうしているんだよ~~)
「し、資料作成してまして。でももう片付けて帰ります。主任こそどうされたんですか?」
「忘れもん。・・・・と、あったあった」
そこには普段と変わらない涼しい顔をした主任がいた。
まるで今の醜態など見ていなかったと言わんばかりに。
「そうでしたか。あ、私最後に施錠して帰りますのでお先にどうぞ」
とりあえず一人になりたい、落ち着きたい!
主任には何の落ち度もないが早く帰ってもらいたかった。
「浅野、お前メシ食ったか?」
「え?いえ・・・・。えっと適当に何か食べたりしていたので・・」
「そうか」
忘れた、という資料をバッグに入れながら主任は時計をチラリと見た。
時刻は9時。
そんな時間になっていたとは、自分でも気がつかなかった。
「じゃ片付けたらメシに付き合え」
「・・・・・・は?」
コノヒトハナニヲイッテルンダ?
よく状況が掴めない。
何でこの人こんな事言うんだろうか。
昼間のミス、今の醜態、これ以上ないっていうぐらいの恥をさらしておいて、何ゆえ二人でメシを食わんといかんのだ。
「俺も食い損ねたんだ。丁度いいだろ?」
「・・えっと・・」
「もちろん俺の奢りだ。遠慮すんな」
(してねぇよ!)
主任は時々、意味が分からない。
この人が優秀なのは一緒に仕事をしていてよーく分かってはいる。
ただ、この人は・・・。
この人の人物像だけは今もってよく分からないのだ。
「片付けたか?」
唐突の申し出にぼんやりしていると主任が近寄ってきた。
「あっ、えっと・・」
「少し歩くけど安くて美味い店があるんだよ。奥詰まってるから意外な穴場なんだ」
(・・・・そんな詳細情報いらんですよ)
はぁ、と相槌を打ちつつ、ちまちまと片付け始める。
「人間は食べなきゃ生きていけないんだからさ。どうせ食うならマズいより美味いもん食った方がいいに決まってんだ」
「・・・・・・」
・・・・・・・。
あれ?
何だろう。
この言葉、どっかで聞いた事がある。
しかもただ聞いたんじゃなくて見た気もする・・。
こういうの・・。
こういうのデジャブって言うんだっけ?
「PCの電源落とせよ」
「はい」
席を立ちながらシャットダウンの準備にかかる。
「あ」
「あ?何だ?どうかしたのか?」
「いえ。私が鍵を持ってますんで最後に閉めます」
「分かった」
そうだ。
思い出した。
いつだったか、後輩がミスをした時、主任が今のセリフを言って飲みに誘っていた場を目撃したのだ。
・・・・つまり。
これってつまり、そういう事、なのか・・?
施錠を終え、社の外へと一緒に出た。
「よし。外に出たな?もう仕事の事は忘れろ」
「はぁ・・」
結局、主任の言われるがままに一緒にメシを食う羽目になった。
「そういや、ゴールデンウィーク中は何か予定あんのか?」
「えっ?!」
「そんな警戒すんなよ。ただの世間話」
こんな女子みたいな世間話を、まさか主任とする日がこようとは・・・。
「そうですね。特には・・」
ミスの後始末が精一杯で連休どろころではなかった。
ましてや主任に言われて連休が近づいている事を気がついたぐらいだ。
「なんだ、そうなのか」
「・・・・そういえば主任、海外に行くとか言ってませんでしたか?」
「え?!何で知ってんの?」
そこには冗談でなく本気で驚く主任の姿があった。
「以前、木下達が主任と飲みに行った時に、そんなことを言ってたと聞きまして・・」
「・・・・そうなんだ」
こんな風に動揺する主任を初めて見た。
と同時に、変な事を言わなければよかったと軽く後悔した。
「すみません。何だか余計な事を言ってしまったみたいで・・」
「あ~。うん、まぁ旅行自体は予定あったんだけどキャンセルになったんだよ」
「そうだったんですか・・」
「・・・・」
「・・・・」
(何この空気?!)
「そういえば、お店はどのぐらいかかるんですか?」
「・・あー、そうだな。ま、歩いて10分ぐらいだよ」
「へー・・」
「・・・・」
「・・・・」
(だから何だってば、この空気!)
「会社の近くに、主任が薦めるような店があるだなんて知りませんでしたよ」
「・・そうだな。見つけた俺もラッキーだったよ」
主任はまだ動揺してるようだ。
さっきから私と目を合わせようとしない。
「あ!主任」
「え?」
十字路を通過しようとした時だった。
我々側は赤信号。当然、主任も歩みを止めるものだと思った。
そのまま通り過ぎようとする為、主任の腕を全力で引っ張り上げた。
「・・・あ、ぶなっ。・・・・何してんですか!気をつけてください!」
「・・・・・」
「大丈夫ですか?」
「悪い。申し訳ない・・」
主任は心底驚いているようだった。
「・・こちらこそ、大声出してすみません・・」
主任の腕から手を離す。
「浅野は悪くねぇよ。俺の注意不足。浅野がいなかったらやばかったよ。ありがとな」
「いえ・・・」
「あ、そうそう。店はここ曲がるんだよ」
主任から注意を奪う程の、この旅行キャンセル話とは何なんだろう。
そう思った事は言うまでもない。