ジュウロク色
トン、トントン、ポロン。
前までこの声の正体を探ろうとしていたのに、なぜだろう?今は耳を塞ぎたい。
ふわふわする空間は、俗に言う夢の中、なのだろう。
トン、トントン、ポロン。怖い、この声から逃げたい。
早く早く早く!私、目を覚ませ!
『…、っ、うえ』
汗でべたつく体を起き上がらせ、急いで桶へと顔を埋める。
口内が酸っぱく、胃液がまた競り上がってきた。
しばらくえずき手探りで水を探すと、カツン、と手にコップが当たった。何も考えずコップを口へ持っていくが、夜のうちに飲みきってしまったことを思い出す。
『み、ず、』
気持ち悪い口内を一刻も早く洗浄したい。
桶とコップを持ち、ふらりと揺れる膝に力をいれながらなんとか立ち上がる。
冷たい指先で障子を開けると、もう太陽は上っていたことに気づく。
壁を伝いながら重い足取りで台所まで歩く。
もう夢から覚めたはずなのにまださっきの、形容しがたい声が聞こえる。
誰にも会わないことを祈りながら、ようやく台所へたどり着き、水を含む。
何度かうがいをすれば、吐き気も気持ち悪さもとれ、なんとか一息つくことができた。
汗も引いていき、ゆっくりと深呼吸すると、朝のしっとりとした空気が肺を満たした。
『とん、とんとん…』
夢の中ではそう聞こえるのに、声に出して言ってみると全然違うような気がする。
もう一杯水をくみ、今度は体をすっきりさせるために時間をかけて流し込む。
すると、夜と同じように足音が近づいてきた。
今から出掛けるのかな?
閉じていた台所の扉にうっすらと影が写る。影は一定の速度で横切り、玄関方面へ進んでいった。
どうやら私には気づかなかったようだ。
当たり前だが、締め切った台所を朝っぱらからわざわざ見にこないだろう。
影が見えなくなった時に静かにドアを開け、驚かせないように名を呼ぶ。
『緋色さん』
振り向いてくれないとはなんとなく予想していたが、まさか的中するとは。
彼はそのまま玄関へと着き、靴を履くため腰を下ろす。
私はその数歩後ろで手持ち無沙汰に待機。なんとなく視線を下に向けると、彼の手の甲に絆創膏が貼っているのに気づいた。血の滲んだそれに、傷が浅くない事を知る。
新しいのを持ってこようかと思ったが、救急箱の位置を知らない。
勝手に転がり込んでくるわ、迷惑をかけるわ、熱を出すわ、救急箱の位置も知らないわ・・・言い出したらきりが無い。私は何て厄介者なんだ。
ガサ、と彼が身じろぎをしたが私の頭はネガティブ菌に侵されている最中だった。
「おい、顔色が悪いぞ。唇、紫だ」
突然指摘され意味のない行動だが、反射的に手で口元を隠す。いつの間に振り向いたのか。
それから緋色さんは何も言わずに腰をあげた。
私も慌てて手を口から離し、一歩玄関へ進む。
『行ってらっしゃい』
本当は夕飯がいるかどうか聞きたいのだが。体調の悪い自分に言われても、いらない、としか言ってくれないだろう。
まあ、今までに、欲しい、とも言われたことはないけれど。
緋色さんはいつもどおり何も言わずに行くと思っていたが、戸に手をかけたまま立ち止まり、くるりと180度回転。
かちり、と視線が合う。
言葉を探しているのか、言うことをためらっているのか、視線を下へ落とした。
『あの、』
「あんたに一度も出迎えも見送りも頼んでない。余計なことをするな」
早口で言われた言葉を一瞬理解できなかった。が、脳内で拒絶という単語が現れた。
催促しようとした言葉は空気に溶けていく。
『ごめんなさい、でも、』
寂しいじゃないですか。
せっかく家に人がいるんだから。おかえりもただいまも、言えるんだから。
『私、緋色さんとな、仲良くなりた、い、んです』
頭がくらくらする。
あ、駄目だ、立ってられない。
『ごめんな、さい、ごめんなさ、い。迷惑かけて、ごめんなさ』
くらりと回る視界に。
ひやりとする玄関は少し心地が良く。
ださい格好で膝をつく自分があまりに無様で。
「、おい」
『・・・・平気、ですから、いってら、っしゃ、い』
ブサイクな顔なんだろうな。足から力が抜けているのが分かる。
それでもなんとか笑顔を作って、手を振って、迷惑といわれた言葉を搾り出す。
彼は立っているからだけど、私を見下ろしながら冷めた瞳で口を開いた。
「死にそうだぞ」
貧血くらいで人は死にませんよ。たぶん。
言えたかはわからないけど、なんとか聞き取ってくれたのだろう。
彼はもう何も言わず、外へ行ってしまった。
『う、へっへへ・・・・』
緋色さんと、いっぱい喋れたや。今日の私、100点!
傍から見れば奇妙な笑い声を上げている私は酷く変人だっただろう。
それでも、今の達成感は中々のものだ。
前の世界では、気にもしなかった。
誰かの役に立ちたい、だなんて。
前の世界では、諦めてた。
人との関わりを。
うへへへ。