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第4話「涙晶《ティアジェム》」

 戸口の鈴が鳴るより先に、配達屋の声がした。


「連れてきたぞ。……宝石屋だ」


 ブニルデンが半歩どいて、道をあける。

 その隙間から、若い娘が入ってきた。胸の前で巾着を握っている。握り方が、石じゃなくて気持ちを握る握り方だった。

 巾着は軽い。けれど、口のすき間からこぼれる光だけが、指先に重みを残した。


「……ここが、潮彩堂?」


 娘が小さく息を吸う。泣きそうな顔をしていない。泣くまいとしている顔をしていた。

 ミカピは頷く前に、ブニルデンを見た。


「……どうして、ここに?」


「走ってた。港の角で。転ぶ前に拾っただけ」


 ミカピは、うなずく前に息をひとつ整えた。慌てて返事をすると、相手の決心まで軽くしてしまいそうだったから。


「うん。そう。……どうしたの?」


 娘は両手で巾着を包みこんだ。手袋はしていない。指先が、細かく赤い。走ってきた人の赤だ。波風に叱られながら、それでも来た赤。


「これ、捨てたくないの」


 巾着の中で、欠片がちいさく鳴った。石の音。硬いものが硬いまま割れた音。なのに光だけは、まだ折れていない。


 ミカピの肩の上で、ルッコラが鼻をひくひくさせた。いつもの「きゅっ」ではなく、「くゅ……」という低い声。仕事の匂いより先に、危うさを嗅いだときの声だ。


 ブニルデンは、扉の横で娘の外套の裾を見ている。湿り方で、港のどの辺を走ってきたかまで分かる顔をしていた。


「指輪の……石?」


 娘は首を縦に振った。


「指輪は、直さない。直せないし」


 言い切ってから、娘は口の端をほんの少しだけ上げた。上げたのに、笑っていない。笑う形を借りただけだ。


「でも、石は……捨てたくない。欠片でもいいから、残したい。光だけでも」


 ミカピは、巾着を受け取ろうとして手を止めた。壊れたものは、急いで掴むと、さらに壊れる。壊れたものの光は、もっと壊れやすい。


「……名前、聞いてもいい?」


 娘は、胸を張った。胸を張るのは強い人の癖だ。弱く見られるのが嫌いな人の癖でもある。


「エルナ。宝石屋の娘」


 宝石屋、と言ったときだけ声が固くなる。誇りと、いまは誇りだけでは立てない痛みが混ざっている。


 ミカピは、巾着を両手で受け取った。軽い。軽いのに、掌の真ん中が少し熱い。光は熱を持つことがある。心が熱いときの熱だ。


「作れると思う。でも、約束がひとつ。焦らない」


 エルナは眉を動かして、すぐにうなずいた。


「焦らない。……でも、急ぎたい」


「急ぎたい理由、聞いてもいい?」


 聞いた瞬間、ミカピは少しだけ後悔した。聞くなら、答えまで抱える覚悟が要る。


 エルナは指先を組んだ。爪の際がきれいだ。けれど細い傷がいくつもある。石を扱う手の傷だ。


「来週、港の祝言の行列があるの。私のじゃない。……友だちの」


 苦い笑いが、今度はほんとうに笑いになりかけて、途中で止まった。


「その子、指輪を買いに来たの。うちの店に。私が選んだ。きれいだと思った石。……なのに、私は自分の指輪を割った」


 ミカピは、言葉を急がなかった。急ぐと、相手の痛みまで追い立ててしまう。


「事故で?」


 エルナは首を横に振る。


「私が握りつぶした」


 空気が、いちど止まった。宝石は硬い。握りつぶすのは、石じゃない。夜だ。言葉だ。笑って頷いた回数だ。


 店の奥のカーテンが揺れ、重い足音がした。木の床がきしむ音。迷いの少ない歩き方。

 背の高い男が出てきた。腕が太い。指先も太い。けれど爪の際が妙に整っている。石を削る人の手だ。


「……勝手に喋るな」


 怒りというより、困りきった声だった。


「父さん」


 エルナが呼ぶと、男は咳払いをして、ミカピへ頭をほんの少し下げた。


「店の名を出した。すまん。……俺が言う」


 男は作業台の巾着を見た。目が動かない。宝石屋の目は、嘘を見ない目だ。


「エルナは……婚約が決まっていた」


 短い言葉で、すべてを置いた。


 エルナは視線を逸らした。逸らし方が早い。痛い場所を避ける速度だ。


「相手は港の商人の息子だ。悪い男じゃない。……悪い男じゃないが、仕事の話ばかりする」


 悪いことじゃない。悪いことじゃないから、余計に逃げ場がない。


「式の話をしているのに、売上の話をする。エルナは笑って頷いて……帰ってきて、指輪を砕いた」


 男の声が、ほんの少し震えた。悔しさの震えだ。娘の苦しさが分かっているのに、救い方が分からない震え。


「直す、と言えば良かった。石は欠けても留め直せる。だが……本人が、直さないと言った」


 エルナは、頷いた。


「戻したら、また同じになる。戻したら、また笑って頷く。……だから、戻さない」


 ミカピは巾着を見る。袋が小さな胸みたいに見えた。中身は石だけじゃない。戻らない決心が入っている。


「……残したいのは、戻るための光じゃなくて」


 ミカピは、言葉を選んだ。


「戻らないって決めた人の光、だね」


 エルナの目が、少しだけ丸くなった。分かってもらえたときの顔。


「……うん」


 宝石屋の父親が、職人の頭の下げ方で頷いた。


「頼む。派手にしないでくれ。売るための派手は店で足りる。残す光は、別だ」


 ミカピは頷く。


「うん。派手にすると、軽くなる」


 ルッコラが「きゅっ」と鳴いた。肯定の音。仕事の音。


     ◇


 作業場の窓を開けると、潮の匂いが入ってきた。潮の匂いは、手を落ち着かせる。ここひと月ほど、港の夜の話し声が少し変わった。灯台の青が、目を叱らなくなったからだと誰かが言った。小さな変化の積み重ねが、港の呼吸を整える。


 ミカピは臼と杵を出し、白い布と小さな篩を横へ並べた。宝石屋の父親は、作業台の向こう側に立ち、エルナは椅子に座る。背筋が伸びているのに、膝の上の手だけが落ち着かない。


「まず、石を見せて」


 ミカピが巾着の口をゆるめると、欠片がきらりと鳴った。透明に近い。ほんの少し青い。氷みたいな青だ。


 ルッコラの鼻先が震え、すぐに引っ込んだ。「くゅ……」毛が少し逆立つ。冷たい匂いに怯える反応だ。


「大丈夫。怖くないようにする」


 ミカピは、布で欠片を包んだ。いきなり臼で潰さない。宝石は硬い。硬いものは、いきなり潰すと角が跳ねる。角が跳ねると、光が荒れる。


 木槌で軽く、軽く叩く。カン、と高い音。高い音は手を急がせる。だから音に引っぱられないように、叩く速さを落とす。


 小さく砕けた欠片を臼へ移す。杵を持って、回す。押し潰すのではなく、擦る。削る。削るというのは時間がかかる。時間がかかるから、心が先走る。


 宝石屋の父親が、ぽつりと言った。


「晶は、足すより削るほうが難しい」


 ミカピは頷いた。


「うん。足すのは、簡単。光を増やせば増える。でも……残す光は、増やす前に整えないといけない」


 臼の中で、粉が少しずつ白くなる。透明の粉なのに白く見えるのは、光が細かく散っているからだ。


 ミカピは指先で少し取って、紙片に落とした。粉の粒がまばらだと、光が跳ねる。跳ねる光は落ち着かない。


 そこで、ミカピは篩を持つ。篩にかける。さらさら、と落ちる音が優しい。粒が揃うと、音も揃う。


「粒が揃うと、光も揃う。揃うと、目に刺さらない」


 宝石屋の父親が、口元だけで微かに笑った。職人の笑い方だ。


「……それだ」


 ミカピは、揃った粉を小皿へ集める。ここで焦ると、全部が駄目になる。だから次の工程へ行く前に、一度止まる。


「……試し塗り、先にするね」


 ミカピは、三潮の瓶を並べた。紅潮、藻緑、海藍。青赤緑の三つの潮。光だけを作ろうとすると、光は勝手に走る。走る光は、宝石屋のショーケースの光になる。残したいのは、そこじゃない。


 ミカピは小さな器に、海藍を落とす。数えるのは指の内側で。


「海藍を……六潮」


 ミカピは青い瓶をゆっくり傾けた。器の底に、青がとん、と落ちる。


 たっぷりと。深みを作る。深みがあると、光が浮かない。


 次に紅潮。


「紅潮を……二潮」


 赤を一滴、二滴。ほんの少し。温度だけ。人肌に寄せるだけ。


 最後に藻緑。


「藻緑を……二潮」


 同じくらい。緑を落とすと、色が息をした。港の呼吸が戻るみたいに。


 杓子でひと混ぜ。二混ぜ。混ぜすぎない。


 色の中に、風が細く通る。藻風緑モグリーンのときの、あの抜け方。風は見えないけれど、色は風を覚えている。


 そこへ、宝石の粉を落とす。


 最初は、四粒。


 粒というより、四つの小さな山。ミカピは、指先の震えを抑えて、丁寧に落とした。


 混ぜて、紙片に試し塗りをする。


 塗りたては淡い。乾きかけると、光が立つ。立つのに、少しだけうるさい。光が跳ねる。石の欠片が、まだ粒の中で喧嘩している。


 ルッコラが「くゅっ!」と鋭く鳴いた。さっきの怯えとは違う。危険の鳴き方だ。鼻先がひゅっと引っ込み、毛が逆立つ。


 ブニルデンが短く言う。


「濁りの匂い、来てる」


 ミカピは、すぐに紙片を鼻に近づけない。匂いはルッコラとブニルデンで十分だ。ミカピは目で見る。


 確かに、光の立ち上がりの端に、脂っこい鈍さがあった。欲張ったときの、あの濁りだ。きらめきが、急に安っぽく見える境目。宝石の光は、にごると途端に飾りになる。


 ミカピは唇を噛み、器を見下ろした。


「……多い」


 四は多い。多いのに気づくのが遅れると、もっと多くなる。だから、ここで止める。


 削る。足すより難しい削り方は、作り直すことだ。器の中身を誤魔化して整えると、にごりが残る。残ったにごりは、後で必ず顔を出す。


「ごめん。やり直す」


 エルナの目が揺れた。失うのが怖い目だ。思い出の素材は少ない。やり直しは、怖い。


 ミカピは、エルナの目を見たまま言った。


「雑にしたら、もっと怖い。残す光は、急がない」


 宝石屋の父親が、短く頷く。言葉はいらないという頷きだ。


 ミカピは器を洗う。水で、きっぱり落とす。迷いも一緒に落とす。


 そのとき、ミカピの肘が篩の縁に当たった。篩が、ぐらりと傾く。揃えた粉が、布の上へこぼれかける。


「あっ」


 ミカピが手を伸ばすより早く、ブニルデンの手が篩を支えた。支え方が静かだ。大きな音を立てない。光の粉を驚かせない支え方。


「手、粉で滑ってる。布、使え」


 ブニルデンが、乾いた布をミカピの手元へ置く。


「……ありがと」


「礼は後でいい。今は、落ち着け」


 言い方はぶっきらぼうなのに、支える場所が正確だ。


 ミカピは布で指先を拭き、深呼吸をひとつ。作り直すなら、次は迷わない。


 器に三潮をもう一度。


「海藍を六潮。紅潮を二潮。藻緑を二潮」


 同じ土台を作る。土台が揃えば、光の差だけを見られる。


 そして今度は、宝石粉を三粒。


 落とす。混ぜる。混ぜすぎない。粒を潰しすぎると、光が粉の中で死ぬ。潰さず残すと、光が跳ねる。だから、揃えた粒だけを、揃えたまま抱かせるように混ぜる。


 紙片に試し塗り。


 乾きかけたとき、光が立つ。立つのに、跳ねない。静かに立つ。見る角度で、ふっと息をする程度のきらめき。


 ルッコラが鼻先を近づけ、ぴたりと止まった。「きゅ……」今度は低くて丸い声。安心の声だ。毛も逆立っていない。


 宝石屋の父親が、目を細めた。


「派手じゃないのに、負けてない」


 エルナが、息を吐いた。吐けた、という吐き方だった。


「……それ。これなら、持てる」


 持てる、という言葉がミカピの胸に残った。重すぎる思い出は持てない。軽すぎる思い出は置いてしまう。持てる光は、ちょうどいいところにいる。


     ◇


 色は瓶に入れただけでは終わらない。使われて初めて、依頼の人の中で色になる。


「エルナ。これ、何に残す?」


 エルナは少し迷って、言った。


「……小さい板。箱にしまうと、見なくなる。見なくなると、忘れたみたいで嫌だから」


 ミカピは、小さな木板を出した。潮彩堂の奥で試し塗りに使う板だ。紙より強く、板は残る。残したいなら、板がいい。


 ミカピは、板に薄く下地を置く。海藍六、紅潮二、藻緑二の土台を薄く伸ばす。伸ばすとき、藻緑の風が抜けるように手首を軽くする。重く押すと、色が詰まって息ができなくなる。


「……自分で塗りたい?」


 ミカピが聞くと、エルナは小さく頷いた。


「怖いけど……やりたい」


「怖いなら、薄く。薄いのは失敗しにくい」


 ミカピは筆を渡す。触れないように、けれど冷たくならない距離で。大事なものの扱い方は、距離で決まる。


 エルナは板に輪を描いた。輪は少し歪んだ。けれど、歪んだ輪は人の輪だ。完璧な輪は飾りの輪。思い出は飾りじゃない。


 輪の縁へ、宝石の色を置く。置くとき、エルナの手が震えた。


 ミカピは小さく言う。


「息して。光は息を吸う」


 エルナがふっと息を吐くと、筆の動きが少し柔らかくなった。縁の光が、きらりと立つ。立つのに、うるさくない。


「……残った」


 エルナの声が、ようやく笑っていた。


 宝石屋の父親は腕を組んだまま、組み方だけが少しほどけた。安心のほどけ方だ。


「これなら、店に置けるな」


「売り物じゃない」


 父親はすぐに言って、少し間を置いた。


「……うちの光だ」


 エルナが板を胸に抱いた。抱き方が、石を抱く抱き方じゃない。心を抱く抱き方だった。


     ◇


 ミカピは照れを隠すように、帳面を引き出しから出した。帳面は逃げ場所で、戻る場所だ。


 新しい頁に、文字を書く。


 涙晶ティアジェム


 続けて、短いメモ。


 ――海藍六潮、紅潮二潮、藻緑二潮。土台を先に作る。

 ――晶度は三粒まで。四粒だと濁りが来る。篩で粒度を揃える。

 ――濁りの匂いが来たら、誤魔化さず作り直す。

 ――残す光は急がない。急ぐと雑になる。


 書くと、色が逃げなくなる気がする。名前をもらった色は、瓶の中で静かに息をする。


 ルッコラが帳面の端へ鼻先を寄せた。


「だめ。鼻はくっつけない」


「きゅ……」


 不満の声なのに、尻尾は揺れている。今日は許す、の揺れだ。


 エルナが帳面の文字を見て、少しだけ目を細めた。


涙晶ティアジェム……」


 声に出すと、震えが混ざる。でも嫌な震えじゃない。


「……ありがとう」


 父親が、初めてしっかり頭を下げた。職人の謝礼と感謝の下げ方だ。


「礼は払う」


「いつもの分でいいよ」


 ミカピが言うと、父親は少しだけ眉を動かした。けれど何も言わず、頷いた。


 エルナは戸口で振り返った。


「祝言の行列の日に、これ……持って行ってもいい?」


 ミカピは迷いかけて、迷うのをやめた。見せびらかすためじゃない。自分のために持つなら、光は生きる。


「持って。自分のために」


 エルナは頷いた。


「うん。自分のために」


 扉が閉まると、潮彩堂に静けさが戻った。静けさの中に、さっきの光がまだ少し残っている気がした。


     ◇


 夜。店奥の布の向こうに、未完成の一枚がある。


 港町の夜明け。濡れた石畳、桟橋、遠くの灯台と水平線。少しずつ色が増えてきたのに、まだ決まらない場所がある。光の居場所が、まだ迷っている。


 ミカピは、涙晶ティアジェムの余りを筆に含ませた。含ませすぎない。今日は派手にしない日だ。


 筆先が、石畳の端の水たまりへ触れる。


 光が、静かに広がった。広がるのに、跳ねない。跳ねない光は、後から思い出のほうを連れてくる。


「……残る光は、うるさくない」


 ミカピが小さく言うと、背後でブニルデンが咳払いをした。褒めたら逃げると分かっている咳払いだ。


「今日のは、良かったな。ちゃんと削った」


「……見てたの?」


「窓の外からでも分かる。粉が舞ってないから」


「舞ったのは……最初だけ」


「最初が危ないんだよ」


 ミカピはむっとして、でも少し笑ってしまった。笑ってしまうのが悔しいから、筆を洗う。


 ルッコラが「きゅっ」と鳴いた。今日は仕事が終わった、という鳴き方。


     ◇


 数日後の昼前。港の通りが、いつもより軽い音で揺れていた。


 潮の匂いに、甘い焼き菓子の匂いが混じる。誰かが祝言の仕込みをしている。


 潮彩堂の戸口に、見覚えのある外套が止まった。


 エルナだ。走ってこない。今日は歩いてきた。歩ける日の足音だった。


「……出来た」


 ミカピが言うより先に、エルナが言った。報告の言い方なのに、少し照れている。


「なにが?」


「私のほう。婚約、やめた」


 言い切って、エルナは笑った。今度の笑い方は、逃げる笑いじゃない。ちゃんと前を向く笑い方だ。


 宝石屋の父親が、店の外で腕を組んだまま、わざと見ていないふりをしている。


 でも耳は、ちゃんとこっちに向いている。


「怒られた?」


「怒られた。……でも、言えた。言えたから、怒られてよかった」


 エルナは巾着を開かない。代わりに、板を胸の前で軽く叩いた。


 涙晶ティアジェムの輪が、昼の光でひと息だけきらめく。派手じゃないのに、負けていない。


「これ、行列の日に持っていく。見せびらかすんじゃなくて、……自分のために」


 ミカピは頷いた。


「うん。光は、持ち主のほうへ戻るから」


 エルナは一度だけ深く息を吸って、吐いた。その吐き方が、もう泣く前の吐き方じゃなかった。


 父親が、店の外からぶっきらぼうに言う。


「……帰るぞ、エルナ」


「はいはい」


 エルナは戸口で振り返り、短く言った。


「ありがとう。残った」


 そして、出ていった。


 残ったのは、板の光だけじゃない。港の通りの呼吸も、少しだけ整った気がした。


     ◇


 エルナが出ていってから、しばらくあと、外で女の子たちの声がした。

 ――祭りの布の話。角度でふっと光る金の話。


「金ってさ、ぴかぴかのじゃなくて……角度で、ふっと光るやつ。祭りの布に合うやつ、ないかな」


「あるなら潮彩堂じゃない? あそこの光、うるさくない」


 その言葉に、ミカピの肩がぴくりと動いた。うるさくない光。今日も、胸の中にある言葉だ。


 ルッコラが鼻をひくひくさせ、くしゃみをひとつしそうな顔をした。金の匂いなんてあるはずがないのに、なぜか先に鼻が反応している。


 ブニルデンが窓の隙間を指で整える。風が通る隙間だけ残す。藻緑を混ぜるときの、あの隙間。


「もう祭りの時期か」


 その瞬間、戸口の鈴がちりん、と鳴った。


 入ってきたのは、布を抱えた少女だった。目がきらきらしているのに、抱えている布は慎重に抱えられている。夢見がちなのに、手つきは真面目だ。


「……あの、潮彩堂さん? お願いがあるの」


 少女は布の端を少しだけ開いて見せた。縁取りのための、細い空白の線。そこに何が乗るかで、祭りの顔が決まる場所。


「安っぽい金粉は嫌なの。海と朝日に合う、品のある光が欲しくて……角度で、ふっと笑うみたいな金」


 ミカピは、空いている棚の場所を無意識に見てしまった。


 まだ名もない瓶が置かれる場所が、今日はほんの少しだけ金色に見えた。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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