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第3話「灯台海青《ランタンブルー》」

「――灯台の光が、怖くない青を」


 ブニルデンの言葉は、夜の潮みたいに、店の中へじわりと入り込んだ。


 ミカピは刷毛を持ったまま、動きを止めた。

 窓の外はまだ夕方なのに、海の色がもう暗くなり始めている。暗い色は、いちど胸の奥を見つけると、そこに居座る。


 怖くない青。


 青は冷たい。深い。きれい。

 きれいだからこそ、底が見えないときがある。

 底が見えないと、人は勝手に想像してしまう。もっと黒いものを、もっと大きいものを。


 肩の上でルッコラが、短く「くゅ」と鳴いた。

 いい匂いのときの声じゃない。鼻先が迷子になるときの声。


「……海の匂い、苦手?」


 ルッコラは答えず、ミカピの襟元へもぐりこんで、顔だけ外へ向けた。

 見たいのに、見たくない。そういう目をしている。


 作業台に肘をついたまま、ブニルデンが淡々と言う。


「灯台守からだ。今夜、塔へ来いって」


「今夜……」


「見習いがいる。海が怖いらしい」


 港町で「海が怖い」は、弱い話じゃない。

 海が怖いときは、本当に海が怖い。


 ミカピは棚のいちばん上の瓶を見た。青。

 その隣の赤。緑。

 色は嘘をつかない。混ぜれば混ぜただけ、ちゃんと色になる。

 嘘をつくのは、人のほうだ。怖いのを、怖くないふりをしたがる。


「……行く」


 ミカピが言うと、襟の奥でルッコラがもう一度「くゅ」と鳴いた。

 嫌だと言っているのに、離れない。

 それがルッコラの勇気だ。


 ブニルデンは頷いて、短く言った。


「準備しろ」


     ◇


 夜の港は、昼の港と同じ道なのに、足音が違う。

 桶の音が遠くなり、呼び声も薄くなって、波の音だけが濃くなる。

 波は暗くなるほど大きく聞こえる。近づいてくるみたいに。


 灯台の足元は石でできていて、冷えが息をしている。

 扉が少し開いていた。中から油の匂いが出てくる。油の匂いは人間の匂いだ。

 それに混じって、夜の海の匂いが重い。


 ルッコラはブニルデンの上着の内側へ潜った。

 今日はそこが巣らしい。布の暗さに守られている。


「来たか」


 低い声がして、影から男が出てきた。

 灯台守のオルド。背が高い。帽子のつばが深く、顔の上半分が影に隠れている。

 でも目だけは見える。海みたいな目。静かで、疲れていて、それでも見張っている目。


 階段を上がると、途中で少年が立っていた。

 見習いのリフ。細い肩。長い袖。灯りを持つ手が少し震えている。


「こ、こんばんは……」


「こんばんは」


 ミカピは柔らかく返した。返し方を柔らかくすると、相手の息が少しだけ通る。


 灯りの部屋は思ったより狭く、思ったより白かった。

 大きなレンズ。金属の枠。壁。天井。

 白い壁は塩気でざらついて、ところどころ粉を吹いたみたいに剥げている。


 オルドが壁を指した。


「ここを塗る。色を変える」


「壁を?」


「光が刺さる」


 オルドは短く言い、リフのほうを見た。

 言葉が少ない代わりに、視線で渡す。話していいぞ、という合図。


 リフは喉を鳴らして、ぽつりと言った。


「……灯りが回ると、海が黒くなるんです」


「元から黒いよ、夜は」


 ミカピが言うと、リフは首を振った。必死な首の振り方だ。


「黒い、じゃなくて……穴みたいになる。この前、親父の船が戻ってきたとき、マストの灯りが見えなくて……。叫んでも波の音で届かなくて、座礁しかけたんです。僕が、光で目を潰したせいで」


 ミカピは息を止めた。

 それは、分かる。

 暗いのが怖いんじゃない。暗さの中で、情報が消えるのが怖い。


 オルドが続けた。


「先月、桟橋で船が擦った。板が割れた」


「人は?」


 ミカピが思わず聞くと、オルドは短く首を振った。


「落ちてない。……だが修理が要る」


 命じゃない。

 でも港にとっては生活が割れる話だ。

 板が割れると、明日の網が減る。明後日の飯が薄くなる。


 リフが小さく言う。


「僕が……灯りを調整するのが遅くて」


「遅くない」


 オルドの否定が早かった。

 早い否定は守りだ。


「壁が悪い。光が散らない。刺さって、目に残る」


 ミカピは壁へ近づいた。指先で触れる。塩が粉みたいに指につく。

 塩気の壁は光を返しやすい。返しやすい光は、ときどき痛い。

 痛い光は目に残る。残像になる。残像になると、海面の細かい動きが消える。


「怖いのは海じゃなくて、目が迷うことだね」


 ミカピが言うと、リフが少しだけ目を上げた。

 迷う、という言葉に救われたみたいに。


 ミカピはオルドを見る。


「壁を青にすると、光は落ち着く?」


「落ち着かせたい」


「刺さらないように?」


「そうだ」


 青は夜の色と仲がいい。

 でも青を強くしすぎると、夜はもっと冷たくなる。冷たい夜は、怖さを固める。


 ミカピは深呼吸して言った。


「素材、集めたい。青い貝殻。あと、光を散らす粉。塩でも、細かい結晶でも。風も欲しい」


「風?」


 リフが小さく聞き返した。


「うん。青を、息ができる青にしたい」


 オルドは短く頷いた。


「危ない。波を見る」


「見る」


 言った瞬間、上着の内側でルッコラが「くゅ」と鳴いた。

 見ないで、の音。

 でも、行く。怖さと一緒に歩ける青が必要だ。


     ◇


 桟橋の先は、夜が濃い。

 灯台の光はまだ本点灯じゃないが、試すみたいに、たまに小さく回る。

 そのたび、海面が一瞬だけ白く切られて、次の瞬間、黒が重く戻る。


 リフが灯りを持って歩く。

 足が慎重すぎて、歩幅が小さい。

 慎重な歩幅は悪くない。けれど、怖さが先に立つと、足が固まる。


「止まるなら止まれ。無理に進むな」


 ブニルデンが言う。声がぶっきらぼうなのに、立つ位置がちゃんとリフの横だ。

 横にいるだけで、人は少し楽になる。


 岩場へ着くと、波が岩の縁を白く噛んだ。

 白いところは近づくな、という印だ。


 青い貝殻は、岩の陰に溜まっていた。

 内側が青い。昼の青じゃない。夜の青。冷えた青。

 ミカピが一枚拾うと、指先にひんやりが移った。


「冷たい」


 ミカピが言うと、オルドが短く返す。


「夜だ」


 夜の素材は夜の顔を持っている。

 だから、そのまま使うと夜が強くなる。

 怖い夜を消したいのに、夜を強くしたら逆だ。


 ミカピは貝殻を布に包みながら、岩の表面を見る。

 波が引いた跡に、細い結晶がきらりと光る。塩だ。

 月の光を受けて、光が小さく散っている。

 散る光は痛くない。


「これ……持って帰る」


 リフが驚いた。


「塩も?」


「うん。光を散らす練習になる。あと、風の通り道も借りる」


 ミカピは塩の結晶を少しだけ集めた。

 指先が冷える。でも手は動く。動くうちは大丈夫。


 そのとき、波が少し高くなった。

 岩の陰にいたはずの水が、思ったより早く足元へ来る。


「ミカピ、後ろ」


 ブニルデンの声。


「え」


 振り向いた瞬間、波が足元を舐めた。

 ミカピは反射で一歩下がり――布の包みが、手から抜けそうになった。


「あっ……!」


 貝殻が落ちる。落ちたら割れる。割れたら青が減る。

 青が減ったら、怖さが増える。


 次の瞬間、ブニルデンの手が伸びて、布の結び目をつかんだ。

 引っ張るんじゃない。落ちない位置へ、すっと持っていく。

 自然すぎて腹が立つタイプの助け方。


「ほら。離すな」


「……離すつもりなかった」


「離した顔だった」


「顔は関係ないでしょ」


 襟の奥からルッコラが「くゅ」と鳴いた。

 今日は笑っていない。少し呆れている。


 リフが小さく言った。


「……すごい」


「すごくない。慣れてるだけ」


 ブニルデンが言うと、リフの肩の力が少し抜けた。

 慣れてるだけ、という言い方は、怖さを小さくする。

 怖さは巨大だと思うほど勝つから。


 岩場の向こうから、風がひとすじ来た。

 湿った匂いを運んで、すぐ抜ける。

 夜の海の匂いが、少しだけ薄くなった気がした。


 ミカピはその風を、胸の奥にしまう。

 青に、これを入れる。息ができるように。


     ◇


 潮彩堂の作業場に戻ると、夜の匂いがついてきた気がした。

 貝殻を臼に入れる。杵で回す。こりこり。硬い音。

 硬い音は心も硬くする。だからミカピは息を柔らかくした。


 粉は青い。

 溶くと、もっと青い。

 きれいなのに、目が痛い青。


 ミカピは紙に試し塗りした。

 塗りたては美しい。けれど乾くと、冷えが残る。

 冷えが残る青は、灯台の部屋で光を受けたとき、海面をもっと黒く見せる。

 黒く見えると、波の筋が消える。白波の位置が分からなくなる。

 分からないと、人は足を出す場所を間違える。


「……この青、正直すぎる」


 ミカピは小さく言った。夜の冷えをそのまま出す。

 素材としては立派。でも依頼に合わない。


 ルッコラが鼻先を近づけて、すぐ引っ込めた。


「くゅ」


 嫌、の音。


 ミカピは赤の瓶を見る。

 赤は熱い。頬がかっとなる色。怒った看板の色。

 赤を入れすぎると青が別の色になる。

 でも赤がほんの少しだけ入ると、青は人間に近づく。体温のある夜になる。


「一滴だけ」


 ミカピは赤を落とした。

 混ぜる。青が柔らかくなる。

 もう一度塗る。目の痛みが減る。

 でもまだ足りない。柔らかくなっただけで、海面の情報が戻ってこない。


 ミカピは塩の結晶を思い出した。

 散る光。痛くない光。

 塩は溶けると消えるけど、結晶の形は光を散らす。

 そのまま混ぜると壁がざらつく。ざらつきは良いときと悪いときがある。


「光を、刺さる線にしないで……丸くする」


 ミカピは作業台の端に置いた緑の瓶を見た。

 海の匂いがする緑。乾いた藻の匂い。

 この緑は、ただの色じゃない。風の通り道を覚えている緑だ。

 干潮のときの、ひゅう、と抜ける海風。藻の間をすり抜けて、匂いだけ連れていく風。


 藻風緑モグリーン。風を通す緑。

 あのとき、どうやって風を通した?

 ――すきまだ。粒子と粒子の間に、海水のすきまを作った。


 ミカピは緑の瓶ではなく、その横にあった「乾燥した藻の粉」の残りをひとつまみ取った。

 色をつけるためじゃない。青の中に、ざらついた「すきま」を作るためだ。


 混ぜるとき、いつもより手首を軽くした。

 練る、というより、風を通すみたいに。

 ぐるぐる回して押し込むのではなく、すっと持ち上げて戻す。

 液の表面に、小さな筋が立って、すぐ消える。

 風が通った跡みたいに。


 青は青のまま、息をし始めた。

 冷えは残る。でも刺さる冷えじゃない。見張る冷えだ。

 暗さの中に、何もない穴じゃなく、動く海の気配が戻る。


 ルッコラが、今度は鼻先を近づけたまま止まった。

 引っ込めない。

 小さく「きゅ」と鳴く。肯定の音だ。


「……よし。灯台で試す」


 ミカピは小さな缶に青を移し、刷毛をまとめた。

 ここで、いつもなら転ぶ。

 でも今日は転ばない。代わりに別のやつをやる。


 缶の蓋を閉めようとして、閉めきれず、指に青がついた。

 指に青がつくと、つい拭きたくなる。

 布で拭こうとして――缶を肘で押した。


 缶がぐらり。


「あっ」


 倒れる。倒れたら床が青くなる。床が青くなったら匂いが残る。匂いが残るとルッコラが嫌がる。


 次の瞬間、ブニルデンの手が缶の縁を押さえた。

 倒れる前に止まる。音も立てない。

 助け方が、いちいち静かで腹が立つ。


「……今のは、たまたま」


「たまたま多いな」


「今日は風が悪いんだよ」


「ここ店の中だぞ」


「心の風」


 ミカピが言い返すと、ブニルデンは一瞬だけ目を細めた。

 笑った、というほどじゃない。でも少しだけ柔らかい顔。


 ルッコラが「きゅっ」と鳴いた。

 今日は笑ってる。


     ◇


 灯台の部屋は、夜が深くなっていた。

 窓の外は黒い海。黒いのに動く。動く黒は、見ていると吸われそうになる。


 オルドが灯りの準備をしている。

 リフは壁の端に立って、指先を握っては開いている。

 怖いときの手だ。


「まず、小さく塗る」


 ミカピは言って、壁の端に青を置いた。

 塩気のある壁に、青がすっと入る。

 乾きが早い。


 オルドが灯りを回す。

 光が動く。

 壁の青が、光を受けた。


 最初の変化は小さい。

 でも確かに違う。


 白い壁だと、光は跳ね返る。跳ね返って目に刺さる。刺さると、目に残る。

 目に残ると、海面の細い筋が消える。白波の場所が読めなくなる。

 黒が穴になる。


 青い壁だと、光は跳ね返らない。

 壁の中へ少し沈んで、丸く戻る。

 強い光の芯が抜けて、ぼんやりとした「見守る光」になる。

 すると、窓の外の闇が、ただの黒い壁から、奥行きのある海に戻った。


 リフが窓を見る。

 ミカピはすぐ言った。


「最初は枠だけ見て。枠が大丈夫なら、少しずつ外」


 リフは頷き、枠を見る。

 次に、外を見る。


 海は黒い。

 でも穴じゃない。


 光が通ったあとも、波の筋が残る。

 白い泡がどこにあるか分かる。

 黒い中に、情報がある。


「……見える」


 リフの声が、さっきより少し太い。


「海が……黒いのに、見える」


 オルドが短く息を吐いた。

 安心するとき、港の大人はだいたい黙る。


「全部塗って確かめる」


 ミカピは言った。小さく良くても、大きくなると性格が出る。色は広がると別の顔をする。


 壁を塗る。

 薄く、何度か。

 途中、ミカピはわざと手を止めた。濃く塗ると、青が冷えすぎて海を遠ざけすぎる。

 遠すぎる海は、今度は怖さを見失わせる。怖さは見失うと足が早くなる。早い足は危ない。


 塗り終わり、灯りが回る。


 光は、丸い。

 海は、黒い。

 でも黒は穴じゃない。

 白波が読める。岩の影が読める。桟橋の端が読める。


 リフが一歩、窓に近づいた。

 近づいて、止まった。

 止まれるのがいい。止まれると、見直せる。


「……怖くない」


 リフが言う。

 その声には、怖さが消えた軽さじゃなく、怖さを置けた重さがあった。


 オルドが小さく頷いた。


「これなら……夜でも、目が迷わない」


 ミカピは胸の奥の緊張がほどけるのを感じた。

 色は人の目を助ける。目が助かると、足が助かる。足が助かると、港が助かる。


 オルドがミカピに向かって言った。


「礼は払う」


「……うん」


 ミカピは照れそうになって、言葉を短くした。

 照れは息を整える癖だ。


 リフが、少しだけ笑った。


「僕、明日……桟橋の先まで行ってみます」


「行って、止まって、見て」


 ミカピは言う。


「怖いのは悪くない。怖いって言えるのが、いちばん強いから」


 リフは頷いた。

 頷き方が、さっきより軽い。


     ◇


 潮彩堂へ戻ると、夜の匂いが少しだけ薄くなっていた。

 灯台の部屋の光が、痛くなくなったからだろうか。

 そんなわけないのに、そう感じる。


 ミカピは瓶棚に青い瓶をそっと置いた。

 色に名前をつけないと、色は落ち着かない。

 落ち着かない色は、人の目をまた迷わせる。


 引き出しから帳面を出し、ページを開く。

 ペン先が紙を走る音は、胸の奥を整える音だ。


 ミカピは書く。


 灯台海青ランタンブルー


 ――夜の海を穴にしない青。

 ――青が冷えすぎると刺さる。赤は一滴で人肌。

 ――海の緑を少し。風が通るぶん、息ができる。

 ――光を線にしない。丸くして、目に残さない。

 ――塩気の壁に強い。薄く重ねると落ち着く。


 書き終えると、胸の奥がすっと静かになった。

 色は逃げない。

 逃げないと、自分も逃げなくてすむ。


 ルッコラが帳面の端へ鼻先を寄せた。


「だめ。鼻、くっつけない」


「きゅ……」


 不満の声。でも尻尾が揺れている。妥協の合図。


 ミカピは奥の布をめくり、未完成の絵を見る。

 港町の夜明け。濡れた石畳。船。桟橋。遠くの灯台。水平線。


 ミカピは青をほんの少しだけ筆に含ませ、遠景の海へ薄く一筆置いた。

 夜の青を、朝の絵に。

 不思議だけど、夜があるから朝は立つ。


「……一筆だけ」


 青は冷たい。

 でも刺さらない。

 見張る青だ。


     ◇


 それから、ひと月ほど過ぎた。


 港では、夜の話し声が少しだけ変わった。

 変わったと言っても、大げさな変化じゃない。

 桶の音が一つ増えたとか、戻りが早くなったとか、そういう小さな変化だ。


 桟橋の板の端に、新しい擦り傷が増えなくなった。

 誰かが言った。灯台の光が、前よりやさしくなったって。

 やさしい光は、目を叱らない。叱られない目は、海の筋をちゃんと拾える。


 リフの歩幅も戻った。

 夜番の帰りに、塔の階段を一段飛ばしで降りたのを、誰かが見た。

 見た人は笑って、でも笑い方があたたかかった。


 ミカピはそれを噂で聞いただけなのに、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 色は、ちゃんと働いた。

 港は、ちゃんと動いた。


 潮彩堂の棚では、青い瓶の札が、風のたびに小さく揺れる。

 揺れても倒れない。

 倒れない揺れ方は、良い揺れ方だ。


 その日、店の朝は静かだった。

 静かすぎて、ミカピは逆に落ち着かなくなる。

 静かなときほど、次の色が入り口で息をひそめている気がする。


 昼前。

 戸口の鈴がちりん、と鳴った。


 振り向くと、若い娘が立っていた。

 髪は整っているのに、息が乱れている。

 上等な外套の裾が少し湿っていて、港を走ってきたのが分かる。


 娘の手は胸の前で固く握られていた。

 開くと、掌の上に小さな袋が乗っている。薄い布の巾着。

 口を少しゆるめた瞬間、欠片がきらり、と鳴った。


 宝石の欠片だ。

 指輪の石だったのだろう。割れて、角が鋭くて、それでも光だけは負けていない。


 ミカピは、言葉の前に息を吸った。

 こういう光は、強い。強い光は、人の胸を刺しやすい。


「……ここが潮彩堂?」


 娘が言った。声が震えているのに、背筋は伸びている。

 震えと背筋が同居している人は、強い。


「うん。そう」


 娘は巾着を両手で包みこむみたいにして、少しだけ顔を伏せた。


「これ……捨てたくないの」


 その言い方は、お願いというより、宣言に近かった。

 捨てない、と決めた人の声だ。


「指輪は割れた。石も割れた。……でも、なくしたくない。この光、覚えていたいの」


 ミカピの胸の奥で、小さく何かが鳴った。

 色が鳴るときの、あの音だ。まだ名前のない色の音。


 娘は続ける。


「欠片で、顔料を作ってほしい。思い出の光が残るやつ。絵にして、置いておけるやつ」


 ミカピは巾着を受け取ろうとして、手を止めた。

 受け取る前に、確かめなきゃいけない。

 壊れたものは、急いで掴むと、さらに壊れる。


 肩の上でルッコラが「きゅっ」と鳴いた。

 警戒じゃない。仕事の匂いを嗅いだ音だ。


 娘は唇を噛み、もう一度だけ、はっきり言う。


「お願い。これを、色にして」


 ミカピは巾着の口を指先で少しだけ閉じ直した。逃げないように。

 逃げるのは欠片じゃない。自分の迷いのほうだ。


「……分かった」


 それだけ言って、ミカピは巾着を両手で受け取った。

 重さはほとんどないのに、光があるぶん、手の中が少し熱かった。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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