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第2話「藻風緑《モグリーン》」

「――港の旗が、緑をなくした。戻るための緑を」


 ミカピは、その一行を、店の扉の前で二度読んだ。

 紙片は細くて、食堂の伝票みたいに薄い。潮の匂いに混じって、ほんの少しだけ――乾いた藻の匂いがする。


 緑を、なくした。

 戻るための緑。


 胸の奥で、言葉がほどけないまま引っかかっている。

 旗の色って、そんなに大事なんだろうか。大事じゃないなら、わざわざ「戻る」なんて言い方はしない。


 肩の上でルッコラが「きゅっ」と鳴いた。

 「行こう」の鳴き声だ。


「……うん。行く」


 ミカピは紙片を胸の前で押さえ、戸締まりを確かめた。

 逃げないように――紙じゃなくて、自分の気持ちが。


     ◇


 港へ出ると、朝の音がいっせいに押し寄せた。

 桶の音。網の音。呼び声。波の音。湿った木の匂い。

 潮彩堂しおさいどうの静けさは、背中で小さくなっていく。


 ミカピは塔のほうへ歩いた。

 紙片に書かれた言葉が、胸の前で重みを持つ。歩くたび、少しずつ本物の依頼になっていくみたいに。


 そして、塔の足元。

 板に貼られた告知が、風にぱたぱたと鳴っていた。


 同じ言葉が、そこにもあった。


「――港の旗が、緑をなくした。戻るための緑を」


 戻るための緑。

 旗が緑をなくすって、どういうこと?


 緑なら、そこらへんにいくらでもある。

 桟橋の下にも、石の隙間にも、潮だまりの底にも。目を休ませる色は、港にだってある。

 でも「戻るため」なんて言われると、緑が急に、手すりみたいに思えてくる。落ちないための。迷わないための。怖くないための。


 背後で、どん、と桶が置かれる音がした。


「……顔料屋の子か」


 しわがれた声。

 振り返ると、背の低い老婆が立っていた。背は低いのに、目が海みたいに深い。声が太くて、潮の音に負けない。


「組合長のセドナ婆ちゃんだ」


 誰かが小声で教えた。

 若い漁師だった。肩が四角くて、目が落ち着かない。唇を噛んで、でも前へ出たい顔。


 老婆が小さく頷いた。


「こないだの赤、見たよ。朝にだけ笑うやつ。あれは良かった」


 褒められると、胸の奥がむずむずする。逃げたくなる癖が、喉のあたりでくすぐる。

 でも今日は逃げる日じゃない。今日は緑の日だ。旗の日だ。


「……ありがとう。で、旗が」


 ミカピが言いかけたところで、塔の上から布がばたばたと鳴った。

 緑のはずの旗は、灰色にくすんでいる。塩を食って白くなり、ところどころ黒い筋が走っていた。風に揺れるたび、痛そうに見える。


「緑が死んだって、みんな言ってる」


 若い漁師が、噛みつくみたいに言った。

 でも噛みつく先が分からなくて、空気の方を噛んでいる。


「死んだって言い方が、もう怖いんだよ。……オレ、カイ。組合の雑用」


 雑用、と言いながら、目が雑用じゃない。

 旗を見上げる目が、まるで試験を受ける前の子どもみたいに真剣で、こわがっている。


「戻るための緑って、何?」


 ミカピが聞くと、カイは答えられなくて、口を開けて閉じた。

 代わりにセドナが言った。


「戻るってのはな、港の言葉だよ。海から港へ戻る。朝から昼へ戻る。腹の中の石を、いつもの自分へ戻す」


 セドナは杖の先で板をとん、と叩いた。


「今度の出漁は、若いのが段取りを任される。親方の船をな。……それが、こいつだ」


 杖の先が、カイの足元を指す。

 カイは反射みたいに背筋を伸ばした。伸ばしたまま、肩が少しだけ震える。


「段取りって、なに?」


 ミカピが首を傾げると、カイが少しだけ早口になる。


「網の順番。出す時間。戻る潮。積む箱。魚の入れ方。全部。親方は口が悪いけど、手は確かで……オレはまだ、手が追いつかない」


 追いつかない。

 その言葉だけで、胸がきゅっとなる。追いつかないって苦しい。見えるのに届かない。分かるのにできない。


「一回、オレの合図が遅くて、網を一枚流したことがある」


 カイは海の方を見た。


「あれ以来、旗を見ると、ちょっとだけ胸が痛い」


 セドナが続けた。


「三年前の嵐で、港は命じゃなくて、別のものを落とした。……船の時間を落としたんだ」


「時間?」


 ミカピが聞き返すと、セドナはうなずく。


「嵐で船が壊れりゃ、直す時間がいる。海に出られない時間だ」


 セドナは杖で地面をとんと叩いた。


「海に出られないと、借りた金が返せない。道具も買えない。そうやって、遅れが遅れを呼ぶ。その輪っかに、まだ足を取られてる船が多い」


 不安が不安を呼ぶ輪。遅れが遅れを呼ぶ輪。


 カイが唇を噛んだ。


「親方の船も、その時、竜骨が割れた。直すのに二年かかった。……旗は、その間ずっと塔に掛かってた。戻れって。毎日。毎日」


 毎日、「戻れ」って言われる。

 それは励ましにもなるし、責められてるみたいにもなる。


 ミカピは旗を見上げた。

 くすんだ緑は、励ましにならない。責めるだけになる。

 だから、揉める。声が荒くなる。声が荒いと、手も荒くなる。手が荒いと、また遅れる。


「色はな、気分を支える」


 セドナの声は、潮の音みたいに一定だった。


「気分は手を支える。手が支えられりゃ、舵も網も、ちゃんと動く。……だから戻す。戻るために」


 ミカピは息を吸って、吐いた。

 食堂の赤のときも、こんなふうに息を吸って吐いた気がする。

 違うのは、今日は一人の朝じゃない。港が見ている朝だ。


「旗、下ろして見せて」


 ミカピが言うと、周りの大人たちが顔を見合わせた。

 最後に、セドナが短く言った。


「下ろしな」


 数人がロープを引いて、旗がするすると降りてくる。

 布を近くで見ると、もっとひどい。塩の粒が繊維の奥に住みついて、触るとざらりとする。

 ミカピが指先でそっと触れると、緑が粉みたいに落ちた。


「……真水で洗った?」


 ミカピが尋ねると、カイが悔しそうに頷いた。


「洗った。塩が悪いと思って。……余計ひどくなった」


 ミカピは「うん」とだけ言った。

 責めるのは簡単だ。でも責めると、手が荒くなる。今日は手を戻す日だ。


「海のものは、海のやり方で扱う」


 ミカピは旗の端を持ち上げ、鼻を近づけた。

 匂いが死んでいる。

 海の匂いだけが残って、港の匂いが抜けている。生活の匂い。朝の味噌汁の匂い。濡れた木の匂い。藻の影の匂い。


「……緑を作るのは、簡単」


 ミカピは言った。


「でも戻るための緑は、簡単じゃない。港の足元の匂いを持ってこないと」


 ルッコラが、ミカピの肩の上で「きゅっ」と鳴いた。

 まるで「行く?」と言うみたいに。


 そのとき、ミカピの後ろから淡々とした声がした。


「干潮は二刻で一番引く」


 ブニルデンだった。

 いつ来たのか分からない。配達屋はだいたい、いつもそうだ。気づくとそこにいる。


「……ブニルデン」


「朝から揉め声がうるさい。港は狭い」


 ブニルデンは、カイを一度だけ見てから言う。


「藻場に行くなら、滑る。転ぶなよ」


「転ばないし」


 ミカピが返すと、ブニルデンは「そうか」とだけ言った。

 信じてないときの「そうか」だ。分かってる。


「案内する」


 カイが言った。ぶっきらぼうだけど、目が決まった。

 自分の不安のために、動く目だ。


「藻場はオレの縄張り。……戻る緑なら、そこにある」


 セドナが頷いた。


「行ってこい。戻ってきたら、ここで待つ。揉め声は――止めとく」


 止めとく、なんて簡単に言うのに、セドナの背中はちゃんと大きかった。


     ◇


 干潮の海は、少しだけ秘密っぽい。

 海が「いまだけだよ」と言って、普段は隠している足元を見せてくれる。


 石はつるつる。藻はぬらぬら。潮だまりはきらきら。

 全部がきれいで、全部が危ない。


「そこ踏むな。苔だ」


 カイが言う。

 言い方は乱暴なのに、指はちゃんと方向を示してくれる。


「わかった」


 ミカピが返事をすると、ルッコラが先にぴゅっと走った。

 藻の間をすり抜け、潮だまりの縁を跳ね、くるくる回って――ぴたっ。


「きゅっ!」


 鼻先が震えている。尻尾が立っている。

 いい匂いの合図だ。


 ミカピも一歩、足を出した。

 石の上の薄い苔が、ぬるっと笑うみたいに滑った。


「――わっ」


 言う間もなく、体がぐらりと傾く。

 潮だまりの縁が近い。落ちたら、桶も藻も、ぜんぶ海水味になる。


「踏むなって言ったろ」


 カイの声が飛ぶ。乱暴だけど、本気で焦れている。


 次の瞬間、背中が引かれた。

 腕が伸びて、ミカピの腰のあたりをすっと支える。


「――ほら」


 ブニルデンだ。

 支え方が、いちいち静かで腹が立つ。海の風みたいに当たり前の顔をしている。


「……今のは、たまたま」


「たまたま滑るタイプか」


「違う。たまたま苔が悪い。……苔が、悪いんだよ」


 ルッコラが「きゅっ」と鳴いて、笑ってるみたいに尻尾を揺らした。

 ミカピはムッとして、ルッコラの頭を軽くつつく。


「笑わない」


 ブニルデンは手を離さないまま、淡々と言う。


「手、いらないんだろ」


「いらない。……でも、今だけ」


「今だけ多いな」


「うるさい」


 カイが唖然とした顔で二人を見て、すぐ目を逸らした。

 見ちゃいけないものを見たみたいに。


「……早く行くぞ。引いてるから」


「うん。わかった」


 ミカピは足を置き直した。

 今度は、石の乾いてるところだけを選ぶ。身体が覚える。危ない場所は、色みたいに分かる。


「そこ?」


 ミカピが近づくと、潮だまりの底に、藻が束になって揺れていた。

 ただの緑じゃない。濃いのに透けている。暗いのに、風が通りそうな緑。


 指を入れて、そっと引き上げる。

 藻は冷たくて、柔らかい。

 鼻を近づけると、海の匂いの中に草の匂いが混じっている。


「……港の足元の匂い」


 ミカピが呟くと、カイが首を傾げた。


「匂いで分かるのか」


「うん。色って、匂いと仲良しだから」


 ミカピは藻を桶に入れた。

 入れながら、指先で少しだけ揉む。ぬるっとした感触の奥に、細い筋の強さがある。


 そのとき、ミカピはふと手を止めた。

 藻は生きている。

 生きているものは、扱いを間違えるとすぐに死ぬ。


 真水で洗えば色が抜ける。

 直射日光に当てれば匂いが飛ぶ。

 そのまま持って帰れば、途中で熱がこもって腐る。

 どれも「死ぬ」に繋がる。


「……海のものは、海のままで持って帰る」


 ミカピは決めた。決めたら手が動く。


 近くの潮だまりの水を桶に汲み、藻をそっと浸した。

 洗うのではなく、抱かせる。塩を抱かせたまま、砂だけを浮かせる。

 指先で藻を撫でると、砂がふわっと離れていく。藻は嫌がらない。むしろ気持ちよさそうに揺れる。


「日陰で風、だな」


 ブニルデンが言った。


「うん。日陰で風。……匂いが飛んだら、港の緑じゃなくなる」


 ミカピは藻を布に広げ、水気を切りすぎないように包んだ。

 桶の底に少しだけ海水を残して、藻が乾きすぎないようにする。

 抱えているのは素材じゃない。港の足元の時間だ。


 帰り道、カイがぽつりと言った。


「……旗が戻ったらさ」


「うん」


「揉め声、止まるかな」


 ミカピは少し考えてから答えた。


「止まる、っていうより……角が取れる。声の角」


「角」


「うん。角が取れたら、手も柔らかくなる。手が柔らかくなったら、遅れも少し戻る」


 カイは黙って頷いた。

 その頷きは、今日の波みたいに小さかったけど、ちゃんと前へ進んでいた。


     ◇


 潮彩堂に戻ると、店の静けさが迎えてくれた。

 ただし今日は、静けさの中に藻の匂いが混じっている。


 ミカピは窓辺に布を張り、藻をふんわり広げた。

 日差しが直接当たらない場所。だけど風が通る場所。

 藻が「はあ」と息をするみたいに、ゆっくり揺れる。


 ルッコラが窓の下で落ち着かなく歩き回り、「きゅっ、きゅっ」と短く鳴く。

 いい匂いは、落ち着かない匂いだ。


「落ち着いて。食べないよ」


「きゅ……」


 不満。かわいい。


 藻がほどよく落ち着くまでの間、ミカピは旗の端切れを作業台に置いた。

 布の繊維が、乾いて硬い。塩が残ってざらざらする。


「……まず、布のほうを戻さないと」


 ミカピは桶に海水を汲み、端切れをそっと浸した。

 真水は使わない。海の布には海の水。


 指で軽く押すと、布が少しだけ柔らかくなる。

 塩が抜けるんじゃない。塩が馴染む。

 海のものが海に戻って、息を思い出すみたいに。


「これ、時間かかる?」


 カイが聞く。

 ミカピは首を振った。


「時間はかかる。でも、急ぐとまた壊れる。……一回死んだ緑を、もう一度起こすんだから」


 言ってから、ミカピは自分の言い方が少し強かったことに気づいて、照れそうになる。

 でも今日は照れてる場合じゃない。


 藻が少し乾いた。

 指でつまむと、まだしっとりしている。

 このしっとりが、匂いの居場所だ。


 ミカピは藻を石臼に入れた。杵を回す。


 こりこり、とはいかない。

 くにゅ、という音がする。

 湿り気が残っている藻は、粉になりたがらない。筋が絡む。臼の中で「やだ」と言っているみたいだ。


「……難しいね」


 思わず口に出すと、ブニルデンが淡々と返す。


「難しいものが仕事だろ」


「……そうだけど」


 ミカピは臼から藻をいったん出し、布で包んで、手のひらで押した。

 押す。転がす。押す。転がす。

 藻の筋が少しずつほどける。

 それからもう一度、臼に戻す。


 今度は音が変わった。


 こそこそ。

 乾いた秘密話みたいな音。


「よし」


 ミカピは小さく頷く。

 粉は嘘をつかない。混ぜれば混ぜただけ、色になる。

 嘘をつくのは、人の言葉のほうだ。

 だから今日は、言葉より手を信じる。


 粉になった藻は、深い緑をしていた。

 でも、このままだと旗が沈む気がした。深すぎる緑は、風の中で重い。

 戻るためには、少しだけ風が要る。


「……まずは、そのまま一回」


 ミカピはそのままで試す。

 最初から正解に行くと、今日は学べない気がした。


 藻の粉に、海水を少し。

 つなぎは、まだ使わない。ここで固定すると、失敗が布に貼りつく。

 ペーストにして、端切れに塗ってみる。


 塗った瞬間、緑が布に沈んだ。

 深い。濃い。強い。

 でも――動かない。


 ルッコラが鼻を近づけて、ぴたっと止まった。


「きゅ……」


 それは「うーん」の鳴き声だった。


 ミカピも同じ気持ちだった。

 緑は港の足元の匂いを持っているのに、旗の上で息をしない。

 布に貼りついて、座ってしまっている。


「風が通らない」


 ミカピは端切れを窓辺にかざした。

 光が、通らない。緑が重い。


 失敗。

 でも、嫌いじゃない失敗だ。

 何が足りないかが見えた。――軽さ。透け。動き。


「……少しだけ、抜く」


 ミカピは作業台の瓶を見た。赤、緑、青。

 青は透ける。深くても息がある。

 でも青は冷たい。冷たい青を入れると、港の足元が海の底になる。


 ミカピは、青の瓶に手を伸ばしかけて、止めた。


「青じゃないかも」


「じゃあ何だ」


 カイが焦れたみたいに言う。

 焦れは不安の形だ。

 ミカピは焦れを受け取って、手を落ち着かせる。


「風って言った。風は冷たさじゃなくて、すきま」


「すきま?」


「うん。すきまがあると、色は動ける」


 ミカピは、藻の粉をさらに少しだけ減らした。

 濃さを落とす。重さを落とす。

 その代わりに、匂いを落としたくない。港の足元を薄くしたくない。


 ミカピは窓辺の布を指で撫でた。

 藻を乾かした布の上に、目に見えないほどの細かい粒が残っている。

 匂いの粒。港の気配の粒。


 それを、指先でそっと集めて、藻のペーストに落とした。


「……色じゃなくて、匂いを足す」


 ブニルデンが眉を動かす。

 眉を動かすのは、ブニルデンにとって大事件だ。


「匂いは残るのか」


「残す。残らなかったら、意味がない」


 ミカピは次に、ほんの少しだけ透けを足す。

 ここでようやく青の出番――ではなく、海水のほうの出番だ。


 海水を、ほんの少しだけ増やす。

 水で薄めるんじゃない。海のすきまを作る。

 藻の粒の間に、風が通る道を作る。


 端切れに塗る。

 窓辺にかざす。


 透けた。

 でも冷たくない。

 緑の中に、ちいさな動ける場所ができた。


 ルッコラが鼻を近づけ、今度は首を傾げない。


「きゅっ」


 いい。の鳴き声だ。


 ミカピは息を吐いた。

 でも、まだ終わりじゃない。旗は布だ。風に揺れる。

 揺れた時に、色が剥がれたら意味がない。戻らない。


「……ここで、留める」


 ミカピは棚の奥から、小さな壺を取ってきた。

 木の涙みたいな樹脂。船大工から分けてもらったやつ。

 甘い匂いが少しだけする。


「これ、看板の赤には使わなかった」


 カイが言う。

 ミカピは頷いた。


「赤は、光が留めだった。今日は風が留め。……風は逃げるから、少しだけここで抱く」


 樹脂を、ほんの一滴。

 入れすぎると、べたっとして色が座る。

 座ったら、さっきと同じ、動かない緑に逆戻りだ。

 一滴だけ。ひと呼吸だけ。


 混ぜる。

 混ぜると、緑が少しだけしっとりする。

 匂いがまとまって、逃げなくなる。


 端切れに塗る。

 今度は、指で軽く擦ってみる。


 剥がれない。

 色が布の中に入って、でも表で息をしている。


「……名前」


 ミカピはペンを取り、紙に書いた。


 藻風緑。

 藻の匂いがして、風が通る緑。


藻風緑モグリーン


 口に出すと、緑が少しだけ軽くなった気がした。

 色に名前がつくと、色は居場所を得る。

 居場所ができると、ミカピの心も落ち着く。


「行こう」


 ミカピが言うと、ルッコラが「きゅっ!」と鳴いた。

 行く、の鳴き声。尻尾が立つ。


     ◇


 塔の下は、朝より人が多かった。

 揉め声は完全には消えていない。けれど、声の角は少し丸くなっている。セドナが「止めとく」と言った通り、ちゃんと止めているのが分かる。


 旗は一度下ろされ、布が張られていた。

 セドナが腕を組んで待っている。目が厳しい。

 カイは落ち着かなさそうに足を揺らしている。手を握って開いて、また握る。


「来たかい」


 セドナが言う。

 ミカピは瓶を抱え、頷いた。


「港の足元の緑。……風が通るやつ」


「見せてみな」


 ミカピは刷毛を取り、旗の布に色を置いた。

 藻風緑モグリーンは、さらりと伸びた。

 匂いが、ふわりと立つ。甘くない。海の匂いが勝っている。そこに草の匂いが混じる。

 港の朝の匂い。


 周りの人が、無意識に息を吸うのが分かった。

 匂いは、誰より早く心に触る。


「……いい匂い」


 誰かがぽつりと言って、すぐ口をつぐむ。

 大人が照れると、こうなる。

 ミカピは少しだけ笑いそうになって、唇をきゅっと結んだ。


 塗り終えた直後、カイが言った。


「……暗い?」


 声が小さい。

 不安が混じっている。


 ミカピは答えず、旗を見た。

 生きてる緑だ。

 でも旗は、風に揺れて初めて完成する。


「風、待って」


 ミカピがそう言うと、周りの人も黙った。

 港の音だけが残る。網の音、桶の音、波の音。


 そして――


 風が来た。


 旗がふわりと持ち上がり、藻風緑モグリーンが揺れた。

 深いのに重くない。

 暗いのに沈まない。

 緑の中にすきまがあって、そこへ光が通る。

 まるで干潮の藻場の影が、そのまま空に上がったみたいだった。


 沈黙が落ちた。

 波の音だけが聞こえるような、数秒の静けさ。


 カイが息を吸って、吐いた。


「……これだ」


 声が震えている。

 怒りじゃない。安堵だ。


「……戻れる」


 その言葉が、ミカピの胸にすっと入った。

 色が、誰かの手を戻す瞬間だ。


 セドナが、ゆっくり頷いた。


「生きてる緑だ。……うちの港の緑だ」


 それからセドナはカイを見た。


「揉めるんじゃないよ。旗が戻ったなら、口も戻しな。荒い口は、荒い手になる」


 カイは一瞬だけ悔しそうな顔をして、それから小さく頷いた。


「……悪かった」


 誰に言ったのかは、はっきりしない。

 でも、周りの空気が少し軽くなった。


「戻るって、こういうことか」


 誰かが言う。

 別の誰かが「そうだな」と返す。

 声の角が、ほんとうに少し丸くなっていく。


 ミカピは刷毛を洗いながら、こっそり袖で頬を押さえた。

 褒められると照れる。

 照れると逃げたくなる。

 でも今日は逃げない。今日は旗の日だから。


 ブニルデンが、いつもの薄い顔で言う。


「よかったな」


「……うん。よかった」


 ルッコラが「きゅっ」と鳴いた。

 たぶん「いい匂いだった」って言っている。


     ◇


 夕方。潮彩堂に戻ると、棚の空きが朝より少しだけ優しく見えた。

 新しい瓶が一つ増えたから。


 藻風緑モグリーン

 札が揺れている。風の通り道になったみたいに。


 ミカピは瓶の口を確かめて、栓を押し込んだ。

 ぽん、と小さな音。たったそれだけで、今日一日の波が、瓶の中に落ち着く。


 それから、奥の引き出しから小さな帳面を引っぱり出す。

 角が丸くなった革の表紙。何度も開いて、何度も閉じた証拠だ。


 ミカピは息をひとつ吐いて、ページをめくった。

 「雲母灯ミカライト」の文字の次に、まだ白いところがある。そこへ、今日の緑を置く。


 ――藻風緑モグリーン


 ペン先が紙を走る。書く音が、少しだけ落ち着く音に似ている。


 ――風を通す緑。旗や木部に良い。

 ――濃くすると重い。透けは海の気配で作る。

 ――干潮の藻はよく乾かすこと。日向はだめ。匂いが逃げやすい。

 ――真水で洗うと、色がいなくなる。


 最後に、ミカピは小さく付け足した。


 ――「戻る」は、色の仕事。


 書き終えた瞬間、胸の奥がすっと静かになった。

 名前をつけて、言葉にして、帳面にしまう。そうすると色は逃げない。

 逃げないと、ミカピも逃げなくてすむ。


 ルッコラが帳面の端に鼻先を寄せ、「きゅっ」と鳴いた。

 さっきの港の匂いが、紙の上にも薄く残っているのが分かるみたいに。


「だめ。鼻、くっつけない」


 ルッコラは不満そうに「きゅ……」と鳴いて、でも、尻尾だけはふわりと揺らした。

 妥協の合図。かわいい。


 ミカピは店を閉め、奥の布をめくった。

 そこにあるのは、未完成の一枚。


 港町の夜明け。

 濡れた石畳、船と桟橋、遠くの塔、水平線――。

 ミカピは筆を取り、藻風緑モグリーンをほんの少しだけ含ませた。


 今日は、絵の中のどこに風を通す?


 桟橋の脇。

 木の隙間から覗く、藻の影。

 誰も気づかない場所。だけど、そこがあると、港は生きる。


「……一筆だけ」


 筆先が、木の隙間に小さな緑を置いた。

 深いのに重くない緑。

 風が通る緑。


 絵はまだ完成しない。

 でも、少しずつ港が呼吸を始めている気がした。


     ◇


 数日後。

 夕暮れの潮彩堂は、緑の札がいちばんよく揺れる。


 港では、あの旗の下をくぐってカイの船が何度か出入りしたと聞いた。

 揉め声は、前ほど尖っていないらしい。


 ミカピが瓶棚の埃を指で払っていると、窓の外で海が一瞬だけ白くなった。

 光が走った、というより――切られた、みたいに。


 遅れて、音が来る。

 遠い金属の鳴き。風の中を転がってくる硬い響き。


 ミカピの胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 灯台の光だ。

 まだ夜じゃないのに、試すみたいに一度だけ海をなぞって、すぐ消えた。

 消えたのに、目の裏に残る。冷たい線だけが残る。


 肩の上でルッコラが「きゅっ」と鳴いた。

 でも今日は弾んでいない。小さく、警戒の音だ。


「……怖い」


 自分の声に、ミカピは少し驚いた。

 怖い、なんて色の言葉じゃない。なのに、いまは色みたいに言えてしまう。


 チリン、と戸口の鈴。


「見たか」


 入ってきたブニルデンが、外の暗さを背負ったまま言う。


「灯台、点けたの?」


「点けた。……点けたら、揉めた」


 ブニルデンは短く息を吐いて、ミカピの作業台に肘をついた。


「『灯台の光が怖くない青を』ってさ。頼みだ」


 ミカピは窓を見た。

 もう一度、光が走ったら――たぶん、心が先に逃げる。


 だから、逃げない色を作る。


「……青、か」


 青は冷たい。青は深い。青は、怖いこともある。


 ミカピは瓶棚を見た。

 一本増えた緑が、札を揺らしている。


 次の色が、もう待っている。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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