第2話「藻風緑《モグリーン》」
「――港の旗が、緑をなくした。戻るための緑を」
ミカピは、その一行を、店の扉の前で二度読んだ。
紙片は細くて、食堂の伝票みたいに薄い。潮の匂いに混じって、ほんの少しだけ――乾いた藻の匂いがする。
緑を、なくした。
戻るための緑。
胸の奥で、言葉がほどけないまま引っかかっている。
旗の色って、そんなに大事なんだろうか。大事じゃないなら、わざわざ「戻る」なんて言い方はしない。
肩の上でルッコラが「きゅっ」と鳴いた。
「行こう」の鳴き声だ。
「……うん。行く」
ミカピは紙片を胸の前で押さえ、戸締まりを確かめた。
逃げないように――紙じゃなくて、自分の気持ちが。
◇
港へ出ると、朝の音がいっせいに押し寄せた。
桶の音。網の音。呼び声。波の音。湿った木の匂い。
潮彩堂の静けさは、背中で小さくなっていく。
ミカピは塔のほうへ歩いた。
紙片に書かれた言葉が、胸の前で重みを持つ。歩くたび、少しずつ本物の依頼になっていくみたいに。
そして、塔の足元。
板に貼られた告知が、風にぱたぱたと鳴っていた。
同じ言葉が、そこにもあった。
「――港の旗が、緑をなくした。戻るための緑を」
戻るための緑。
旗が緑をなくすって、どういうこと?
緑なら、そこらへんにいくらでもある。
桟橋の下にも、石の隙間にも、潮だまりの底にも。目を休ませる色は、港にだってある。
でも「戻るため」なんて言われると、緑が急に、手すりみたいに思えてくる。落ちないための。迷わないための。怖くないための。
背後で、どん、と桶が置かれる音がした。
「……顔料屋の子か」
しわがれた声。
振り返ると、背の低い老婆が立っていた。背は低いのに、目が海みたいに深い。声が太くて、潮の音に負けない。
「組合長のセドナ婆ちゃんだ」
誰かが小声で教えた。
若い漁師だった。肩が四角くて、目が落ち着かない。唇を噛んで、でも前へ出たい顔。
老婆が小さく頷いた。
「こないだの赤、見たよ。朝にだけ笑うやつ。あれは良かった」
褒められると、胸の奥がむずむずする。逃げたくなる癖が、喉のあたりでくすぐる。
でも今日は逃げる日じゃない。今日は緑の日だ。旗の日だ。
「……ありがとう。で、旗が」
ミカピが言いかけたところで、塔の上から布がばたばたと鳴った。
緑のはずの旗は、灰色にくすんでいる。塩を食って白くなり、ところどころ黒い筋が走っていた。風に揺れるたび、痛そうに見える。
「緑が死んだって、みんな言ってる」
若い漁師が、噛みつくみたいに言った。
でも噛みつく先が分からなくて、空気の方を噛んでいる。
「死んだって言い方が、もう怖いんだよ。……オレ、カイ。組合の雑用」
雑用、と言いながら、目が雑用じゃない。
旗を見上げる目が、まるで試験を受ける前の子どもみたいに真剣で、こわがっている。
「戻るための緑って、何?」
ミカピが聞くと、カイは答えられなくて、口を開けて閉じた。
代わりにセドナが言った。
「戻るってのはな、港の言葉だよ。海から港へ戻る。朝から昼へ戻る。腹の中の石を、いつもの自分へ戻す」
セドナは杖の先で板をとん、と叩いた。
「今度の出漁は、若いのが段取りを任される。親方の船をな。……それが、こいつだ」
杖の先が、カイの足元を指す。
カイは反射みたいに背筋を伸ばした。伸ばしたまま、肩が少しだけ震える。
「段取りって、なに?」
ミカピが首を傾げると、カイが少しだけ早口になる。
「網の順番。出す時間。戻る潮。積む箱。魚の入れ方。全部。親方は口が悪いけど、手は確かで……オレはまだ、手が追いつかない」
追いつかない。
その言葉だけで、胸がきゅっとなる。追いつかないって苦しい。見えるのに届かない。分かるのにできない。
「一回、オレの合図が遅くて、網を一枚流したことがある」
カイは海の方を見た。
「あれ以来、旗を見ると、ちょっとだけ胸が痛い」
セドナが続けた。
「三年前の嵐で、港は命じゃなくて、別のものを落とした。……船の時間を落としたんだ」
「時間?」
ミカピが聞き返すと、セドナはうなずく。
「嵐で船が壊れりゃ、直す時間がいる。海に出られない時間だ」
セドナは杖で地面をとんと叩いた。
「海に出られないと、借りた金が返せない。道具も買えない。そうやって、遅れが遅れを呼ぶ。その輪っかに、まだ足を取られてる船が多い」
不安が不安を呼ぶ輪。遅れが遅れを呼ぶ輪。
カイが唇を噛んだ。
「親方の船も、その時、竜骨が割れた。直すのに二年かかった。……旗は、その間ずっと塔に掛かってた。戻れって。毎日。毎日」
毎日、「戻れ」って言われる。
それは励ましにもなるし、責められてるみたいにもなる。
ミカピは旗を見上げた。
くすんだ緑は、励ましにならない。責めるだけになる。
だから、揉める。声が荒くなる。声が荒いと、手も荒くなる。手が荒いと、また遅れる。
「色はな、気分を支える」
セドナの声は、潮の音みたいに一定だった。
「気分は手を支える。手が支えられりゃ、舵も網も、ちゃんと動く。……だから戻す。戻るために」
ミカピは息を吸って、吐いた。
食堂の赤のときも、こんなふうに息を吸って吐いた気がする。
違うのは、今日は一人の朝じゃない。港が見ている朝だ。
「旗、下ろして見せて」
ミカピが言うと、周りの大人たちが顔を見合わせた。
最後に、セドナが短く言った。
「下ろしな」
数人がロープを引いて、旗がするすると降りてくる。
布を近くで見ると、もっとひどい。塩の粒が繊維の奥に住みついて、触るとざらりとする。
ミカピが指先でそっと触れると、緑が粉みたいに落ちた。
「……真水で洗った?」
ミカピが尋ねると、カイが悔しそうに頷いた。
「洗った。塩が悪いと思って。……余計ひどくなった」
ミカピは「うん」とだけ言った。
責めるのは簡単だ。でも責めると、手が荒くなる。今日は手を戻す日だ。
「海のものは、海のやり方で扱う」
ミカピは旗の端を持ち上げ、鼻を近づけた。
匂いが死んでいる。
海の匂いだけが残って、港の匂いが抜けている。生活の匂い。朝の味噌汁の匂い。濡れた木の匂い。藻の影の匂い。
「……緑を作るのは、簡単」
ミカピは言った。
「でも戻るための緑は、簡単じゃない。港の足元の匂いを持ってこないと」
ルッコラが、ミカピの肩の上で「きゅっ」と鳴いた。
まるで「行く?」と言うみたいに。
そのとき、ミカピの後ろから淡々とした声がした。
「干潮は二刻で一番引く」
ブニルデンだった。
いつ来たのか分からない。配達屋はだいたい、いつもそうだ。気づくとそこにいる。
「……ブニルデン」
「朝から揉め声がうるさい。港は狭い」
ブニルデンは、カイを一度だけ見てから言う。
「藻場に行くなら、滑る。転ぶなよ」
「転ばないし」
ミカピが返すと、ブニルデンは「そうか」とだけ言った。
信じてないときの「そうか」だ。分かってる。
「案内する」
カイが言った。ぶっきらぼうだけど、目が決まった。
自分の不安のために、動く目だ。
「藻場はオレの縄張り。……戻る緑なら、そこにある」
セドナが頷いた。
「行ってこい。戻ってきたら、ここで待つ。揉め声は――止めとく」
止めとく、なんて簡単に言うのに、セドナの背中はちゃんと大きかった。
◇
干潮の海は、少しだけ秘密っぽい。
海が「いまだけだよ」と言って、普段は隠している足元を見せてくれる。
石はつるつる。藻はぬらぬら。潮だまりはきらきら。
全部がきれいで、全部が危ない。
「そこ踏むな。苔だ」
カイが言う。
言い方は乱暴なのに、指はちゃんと方向を示してくれる。
「わかった」
ミカピが返事をすると、ルッコラが先にぴゅっと走った。
藻の間をすり抜け、潮だまりの縁を跳ね、くるくる回って――ぴたっ。
「きゅっ!」
鼻先が震えている。尻尾が立っている。
いい匂いの合図だ。
ミカピも一歩、足を出した。
石の上の薄い苔が、ぬるっと笑うみたいに滑った。
「――わっ」
言う間もなく、体がぐらりと傾く。
潮だまりの縁が近い。落ちたら、桶も藻も、ぜんぶ海水味になる。
「踏むなって言ったろ」
カイの声が飛ぶ。乱暴だけど、本気で焦れている。
次の瞬間、背中が引かれた。
腕が伸びて、ミカピの腰のあたりをすっと支える。
「――ほら」
ブニルデンだ。
支え方が、いちいち静かで腹が立つ。海の風みたいに当たり前の顔をしている。
「……今のは、たまたま」
「たまたま滑るタイプか」
「違う。たまたま苔が悪い。……苔が、悪いんだよ」
ルッコラが「きゅっ」と鳴いて、笑ってるみたいに尻尾を揺らした。
ミカピはムッとして、ルッコラの頭を軽くつつく。
「笑わない」
ブニルデンは手を離さないまま、淡々と言う。
「手、いらないんだろ」
「いらない。……でも、今だけ」
「今だけ多いな」
「うるさい」
カイが唖然とした顔で二人を見て、すぐ目を逸らした。
見ちゃいけないものを見たみたいに。
「……早く行くぞ。引いてるから」
「うん。わかった」
ミカピは足を置き直した。
今度は、石の乾いてるところだけを選ぶ。身体が覚える。危ない場所は、色みたいに分かる。
「そこ?」
ミカピが近づくと、潮だまりの底に、藻が束になって揺れていた。
ただの緑じゃない。濃いのに透けている。暗いのに、風が通りそうな緑。
指を入れて、そっと引き上げる。
藻は冷たくて、柔らかい。
鼻を近づけると、海の匂いの中に草の匂いが混じっている。
「……港の足元の匂い」
ミカピが呟くと、カイが首を傾げた。
「匂いで分かるのか」
「うん。色って、匂いと仲良しだから」
ミカピは藻を桶に入れた。
入れながら、指先で少しだけ揉む。ぬるっとした感触の奥に、細い筋の強さがある。
そのとき、ミカピはふと手を止めた。
藻は生きている。
生きているものは、扱いを間違えるとすぐに死ぬ。
真水で洗えば色が抜ける。
直射日光に当てれば匂いが飛ぶ。
そのまま持って帰れば、途中で熱がこもって腐る。
どれも「死ぬ」に繋がる。
「……海のものは、海のままで持って帰る」
ミカピは決めた。決めたら手が動く。
近くの潮だまりの水を桶に汲み、藻をそっと浸した。
洗うのではなく、抱かせる。塩を抱かせたまま、砂だけを浮かせる。
指先で藻を撫でると、砂がふわっと離れていく。藻は嫌がらない。むしろ気持ちよさそうに揺れる。
「日陰で風、だな」
ブニルデンが言った。
「うん。日陰で風。……匂いが飛んだら、港の緑じゃなくなる」
ミカピは藻を布に広げ、水気を切りすぎないように包んだ。
桶の底に少しだけ海水を残して、藻が乾きすぎないようにする。
抱えているのは素材じゃない。港の足元の時間だ。
帰り道、カイがぽつりと言った。
「……旗が戻ったらさ」
「うん」
「揉め声、止まるかな」
ミカピは少し考えてから答えた。
「止まる、っていうより……角が取れる。声の角」
「角」
「うん。角が取れたら、手も柔らかくなる。手が柔らかくなったら、遅れも少し戻る」
カイは黙って頷いた。
その頷きは、今日の波みたいに小さかったけど、ちゃんと前へ進んでいた。
◇
潮彩堂に戻ると、店の静けさが迎えてくれた。
ただし今日は、静けさの中に藻の匂いが混じっている。
ミカピは窓辺に布を張り、藻をふんわり広げた。
日差しが直接当たらない場所。だけど風が通る場所。
藻が「はあ」と息をするみたいに、ゆっくり揺れる。
ルッコラが窓の下で落ち着かなく歩き回り、「きゅっ、きゅっ」と短く鳴く。
いい匂いは、落ち着かない匂いだ。
「落ち着いて。食べないよ」
「きゅ……」
不満。かわいい。
藻がほどよく落ち着くまでの間、ミカピは旗の端切れを作業台に置いた。
布の繊維が、乾いて硬い。塩が残ってざらざらする。
「……まず、布のほうを戻さないと」
ミカピは桶に海水を汲み、端切れをそっと浸した。
真水は使わない。海の布には海の水。
指で軽く押すと、布が少しだけ柔らかくなる。
塩が抜けるんじゃない。塩が馴染む。
海のものが海に戻って、息を思い出すみたいに。
「これ、時間かかる?」
カイが聞く。
ミカピは首を振った。
「時間はかかる。でも、急ぐとまた壊れる。……一回死んだ緑を、もう一度起こすんだから」
言ってから、ミカピは自分の言い方が少し強かったことに気づいて、照れそうになる。
でも今日は照れてる場合じゃない。
藻が少し乾いた。
指でつまむと、まだしっとりしている。
このしっとりが、匂いの居場所だ。
ミカピは藻を石臼に入れた。杵を回す。
こりこり、とはいかない。
くにゅ、という音がする。
湿り気が残っている藻は、粉になりたがらない。筋が絡む。臼の中で「やだ」と言っているみたいだ。
「……難しいね」
思わず口に出すと、ブニルデンが淡々と返す。
「難しいものが仕事だろ」
「……そうだけど」
ミカピは臼から藻をいったん出し、布で包んで、手のひらで押した。
押す。転がす。押す。転がす。
藻の筋が少しずつほどける。
それからもう一度、臼に戻す。
今度は音が変わった。
こそこそ。
乾いた秘密話みたいな音。
「よし」
ミカピは小さく頷く。
粉は嘘をつかない。混ぜれば混ぜただけ、色になる。
嘘をつくのは、人の言葉のほうだ。
だから今日は、言葉より手を信じる。
粉になった藻は、深い緑をしていた。
でも、このままだと旗が沈む気がした。深すぎる緑は、風の中で重い。
戻るためには、少しだけ風が要る。
「……まずは、そのまま一回」
ミカピはそのままで試す。
最初から正解に行くと、今日は学べない気がした。
藻の粉に、海水を少し。
つなぎは、まだ使わない。ここで固定すると、失敗が布に貼りつく。
ペーストにして、端切れに塗ってみる。
塗った瞬間、緑が布に沈んだ。
深い。濃い。強い。
でも――動かない。
ルッコラが鼻を近づけて、ぴたっと止まった。
「きゅ……」
それは「うーん」の鳴き声だった。
ミカピも同じ気持ちだった。
緑は港の足元の匂いを持っているのに、旗の上で息をしない。
布に貼りついて、座ってしまっている。
「風が通らない」
ミカピは端切れを窓辺にかざした。
光が、通らない。緑が重い。
失敗。
でも、嫌いじゃない失敗だ。
何が足りないかが見えた。――軽さ。透け。動き。
「……少しだけ、抜く」
ミカピは作業台の瓶を見た。赤、緑、青。
青は透ける。深くても息がある。
でも青は冷たい。冷たい青を入れると、港の足元が海の底になる。
ミカピは、青の瓶に手を伸ばしかけて、止めた。
「青じゃないかも」
「じゃあ何だ」
カイが焦れたみたいに言う。
焦れは不安の形だ。
ミカピは焦れを受け取って、手を落ち着かせる。
「風って言った。風は冷たさじゃなくて、すきま」
「すきま?」
「うん。すきまがあると、色は動ける」
ミカピは、藻の粉をさらに少しだけ減らした。
濃さを落とす。重さを落とす。
その代わりに、匂いを落としたくない。港の足元を薄くしたくない。
ミカピは窓辺の布を指で撫でた。
藻を乾かした布の上に、目に見えないほどの細かい粒が残っている。
匂いの粒。港の気配の粒。
それを、指先でそっと集めて、藻のペーストに落とした。
「……色じゃなくて、匂いを足す」
ブニルデンが眉を動かす。
眉を動かすのは、ブニルデンにとって大事件だ。
「匂いは残るのか」
「残す。残らなかったら、意味がない」
ミカピは次に、ほんの少しだけ透けを足す。
ここでようやく青の出番――ではなく、海水のほうの出番だ。
海水を、ほんの少しだけ増やす。
水で薄めるんじゃない。海のすきまを作る。
藻の粒の間に、風が通る道を作る。
端切れに塗る。
窓辺にかざす。
透けた。
でも冷たくない。
緑の中に、ちいさな動ける場所ができた。
ルッコラが鼻を近づけ、今度は首を傾げない。
「きゅっ」
いい。の鳴き声だ。
ミカピは息を吐いた。
でも、まだ終わりじゃない。旗は布だ。風に揺れる。
揺れた時に、色が剥がれたら意味がない。戻らない。
「……ここで、留める」
ミカピは棚の奥から、小さな壺を取ってきた。
木の涙みたいな樹脂。船大工から分けてもらったやつ。
甘い匂いが少しだけする。
「これ、看板の赤には使わなかった」
カイが言う。
ミカピは頷いた。
「赤は、光が留めだった。今日は風が留め。……風は逃げるから、少しだけここで抱く」
樹脂を、ほんの一滴。
入れすぎると、べたっとして色が座る。
座ったら、さっきと同じ、動かない緑に逆戻りだ。
一滴だけ。ひと呼吸だけ。
混ぜる。
混ぜると、緑が少しだけしっとりする。
匂いがまとまって、逃げなくなる。
端切れに塗る。
今度は、指で軽く擦ってみる。
剥がれない。
色が布の中に入って、でも表で息をしている。
「……名前」
ミカピはペンを取り、紙に書いた。
藻風緑。
藻の匂いがして、風が通る緑。
「藻風緑」
口に出すと、緑が少しだけ軽くなった気がした。
色に名前がつくと、色は居場所を得る。
居場所ができると、ミカピの心も落ち着く。
「行こう」
ミカピが言うと、ルッコラが「きゅっ!」と鳴いた。
行く、の鳴き声。尻尾が立つ。
◇
塔の下は、朝より人が多かった。
揉め声は完全には消えていない。けれど、声の角は少し丸くなっている。セドナが「止めとく」と言った通り、ちゃんと止めているのが分かる。
旗は一度下ろされ、布が張られていた。
セドナが腕を組んで待っている。目が厳しい。
カイは落ち着かなさそうに足を揺らしている。手を握って開いて、また握る。
「来たかい」
セドナが言う。
ミカピは瓶を抱え、頷いた。
「港の足元の緑。……風が通るやつ」
「見せてみな」
ミカピは刷毛を取り、旗の布に色を置いた。
藻風緑は、さらりと伸びた。
匂いが、ふわりと立つ。甘くない。海の匂いが勝っている。そこに草の匂いが混じる。
港の朝の匂い。
周りの人が、無意識に息を吸うのが分かった。
匂いは、誰より早く心に触る。
「……いい匂い」
誰かがぽつりと言って、すぐ口をつぐむ。
大人が照れると、こうなる。
ミカピは少しだけ笑いそうになって、唇をきゅっと結んだ。
塗り終えた直後、カイが言った。
「……暗い?」
声が小さい。
不安が混じっている。
ミカピは答えず、旗を見た。
生きてる緑だ。
でも旗は、風に揺れて初めて完成する。
「風、待って」
ミカピがそう言うと、周りの人も黙った。
港の音だけが残る。網の音、桶の音、波の音。
そして――
風が来た。
旗がふわりと持ち上がり、藻風緑が揺れた。
深いのに重くない。
暗いのに沈まない。
緑の中にすきまがあって、そこへ光が通る。
まるで干潮の藻場の影が、そのまま空に上がったみたいだった。
沈黙が落ちた。
波の音だけが聞こえるような、数秒の静けさ。
カイが息を吸って、吐いた。
「……これだ」
声が震えている。
怒りじゃない。安堵だ。
「……戻れる」
その言葉が、ミカピの胸にすっと入った。
色が、誰かの手を戻す瞬間だ。
セドナが、ゆっくり頷いた。
「生きてる緑だ。……うちの港の緑だ」
それからセドナはカイを見た。
「揉めるんじゃないよ。旗が戻ったなら、口も戻しな。荒い口は、荒い手になる」
カイは一瞬だけ悔しそうな顔をして、それから小さく頷いた。
「……悪かった」
誰に言ったのかは、はっきりしない。
でも、周りの空気が少し軽くなった。
「戻るって、こういうことか」
誰かが言う。
別の誰かが「そうだな」と返す。
声の角が、ほんとうに少し丸くなっていく。
ミカピは刷毛を洗いながら、こっそり袖で頬を押さえた。
褒められると照れる。
照れると逃げたくなる。
でも今日は逃げない。今日は旗の日だから。
ブニルデンが、いつもの薄い顔で言う。
「よかったな」
「……うん。よかった」
ルッコラが「きゅっ」と鳴いた。
たぶん「いい匂いだった」って言っている。
◇
夕方。潮彩堂に戻ると、棚の空きが朝より少しだけ優しく見えた。
新しい瓶が一つ増えたから。
藻風緑。
札が揺れている。風の通り道になったみたいに。
ミカピは瓶の口を確かめて、栓を押し込んだ。
ぽん、と小さな音。たったそれだけで、今日一日の波が、瓶の中に落ち着く。
それから、奥の引き出しから小さな帳面を引っぱり出す。
角が丸くなった革の表紙。何度も開いて、何度も閉じた証拠だ。
ミカピは息をひとつ吐いて、ページをめくった。
「雲母灯」の文字の次に、まだ白いところがある。そこへ、今日の緑を置く。
――藻風緑。
ペン先が紙を走る。書く音が、少しだけ落ち着く音に似ている。
――風を通す緑。旗や木部に良い。
――濃くすると重い。透けは海の気配で作る。
――干潮の藻はよく乾かすこと。日向はだめ。匂いが逃げやすい。
――真水で洗うと、色がいなくなる。
最後に、ミカピは小さく付け足した。
――「戻る」は、色の仕事。
書き終えた瞬間、胸の奥がすっと静かになった。
名前をつけて、言葉にして、帳面にしまう。そうすると色は逃げない。
逃げないと、ミカピも逃げなくてすむ。
ルッコラが帳面の端に鼻先を寄せ、「きゅっ」と鳴いた。
さっきの港の匂いが、紙の上にも薄く残っているのが分かるみたいに。
「だめ。鼻、くっつけない」
ルッコラは不満そうに「きゅ……」と鳴いて、でも、尻尾だけはふわりと揺らした。
妥協の合図。かわいい。
ミカピは店を閉め、奥の布をめくった。
そこにあるのは、未完成の一枚。
港町の夜明け。
濡れた石畳、船と桟橋、遠くの塔、水平線――。
ミカピは筆を取り、藻風緑をほんの少しだけ含ませた。
今日は、絵の中のどこに風を通す?
桟橋の脇。
木の隙間から覗く、藻の影。
誰も気づかない場所。だけど、そこがあると、港は生きる。
「……一筆だけ」
筆先が、木の隙間に小さな緑を置いた。
深いのに重くない緑。
風が通る緑。
絵はまだ完成しない。
でも、少しずつ港が呼吸を始めている気がした。
◇
数日後。
夕暮れの潮彩堂は、緑の札がいちばんよく揺れる。
港では、あの旗の下をくぐってカイの船が何度か出入りしたと聞いた。
揉め声は、前ほど尖っていないらしい。
ミカピが瓶棚の埃を指で払っていると、窓の外で海が一瞬だけ白くなった。
光が走った、というより――切られた、みたいに。
遅れて、音が来る。
遠い金属の鳴き。風の中を転がってくる硬い響き。
ミカピの胸の奥が、きゅっと縮んだ。
灯台の光だ。
まだ夜じゃないのに、試すみたいに一度だけ海をなぞって、すぐ消えた。
消えたのに、目の裏に残る。冷たい線だけが残る。
肩の上でルッコラが「きゅっ」と鳴いた。
でも今日は弾んでいない。小さく、警戒の音だ。
「……怖い」
自分の声に、ミカピは少し驚いた。
怖い、なんて色の言葉じゃない。なのに、いまは色みたいに言えてしまう。
チリン、と戸口の鈴。
「見たか」
入ってきたブニルデンが、外の暗さを背負ったまま言う。
「灯台、点けたの?」
「点けた。……点けたら、揉めた」
ブニルデンは短く息を吐いて、ミカピの作業台に肘をついた。
「『灯台の光が怖くない青を』ってさ。頼みだ」
ミカピは窓を見た。
もう一度、光が走ったら――たぶん、心が先に逃げる。
だから、逃げない色を作る。
「……青、か」
青は冷たい。青は深い。青は、怖いこともある。
ミカピは瓶棚を見た。
一本増えた緑が、札を揺らしている。
次の色が、もう待っている。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




