表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

第1話「雲母灯《ミカライト》」

さびれた顔料店「潮彩堂しおさいどう」の店主ミカピ。

棚の空きと未完成の一枚を抱えながら、今日も『色』で暮らしをつないでいる。

「――『朝の港が、ちょっとだけ優しく見える赤』」


 ミカピは、その一行を読んだまま固まった。


 赤は、熱いものだ。火の色だ。頬がかっとなる色だ。怒った看板の色だ。

 それが「優しい」って、どういうこと?


 ……しかも、これ。

 ちゃんとした依頼書の紙じゃない。食堂の伝票の端っこに、走り書きで、さらっと書いてある。


 潮風が、開けていないはずの隙間から入ってきて、紙片がちょっと揺れる。

 揺れているだけで、急に難しく見える。


 肩の上で黒い毛玉が「きゅっ」と鳴いた。

 てんのルッコラが、琥珀色の目で紙の隅をじっと見ている。まるで「読むの? 読むの?」と言っているみたいに。


     ◇


 さっき。

 まだ開店前の、陽がきちんと起ききっていない時間。


 チリン、と戸口の鈴が鳴った。

 少しだけ無遠慮な音。潮彩堂しおさいどうはだいたい、こんなふうに始まる。


 棚の瓶に布をかけていたミカピは、振り返って言った。


「……おはよう、ブニルデン」


 入ってきた配達屋のブニルデンは、返事も短い。


「おはよう。依頼書、持ってきたぞ」


 肩の荷袋をどさりと作業台に置いた。木の台が小さく鳴って、瓶がこつん、と震える。

 棚はまだ空きが多い。空気も少し、さびしい。


 その震えに反応したみたいに、


「きゅっ!」


 ルッコラがミカピの肩から飛び出した。床を滑るように走って、荷袋の周りをくるくる回る。鼻先がぴくぴく。目がきらり。


「ルッコラ、落ち着いて。ぐるぐるしないで」


「きゅっ、きゅっ」


 落ち着く気はゼロ。いい匂いがする時の、いつものやつだ。


 ブニルデンが荷袋から小さな紙片を取り出して、ひらりとミカピに見せた。


「注文。港の食堂の女将から」


「マルナさん?」


 その名前を聞いただけで、胸の奥が少し柔らかくなる。豪快で声が大きいのに、湯気みたいにあったかい人。


「読んで」


 ミカピが受け取ろうと手を伸ばすより早く、ブニルデンが淡々と読み上げた。


「――『朝の港が、ちょっとだけ優しく見える赤』」


 ミカピは紙片を指でつまんで持ち上げ、もう一度、声に出さずに読んだ。


 ミカピの指が、空中で止まった。

 返事が出ないまま、紙片だけを受け取って机に置く。


 朝の港。ちょっとだけ。優しく。赤。


 ブニルデンは少しだけ声を落とした。


「旦那が好きだった色だってさ。もういないけど」


 ミカピの手が、止まった。


「……そうなんだ」


 マルナさんの旦那さん。三年前に海で亡くなった、優しい人。

 ミカピが港に来たばかりの頃、看板の話をよくしてくれた。


 ブニルデンは続けた。


「"あの人が毎朝、この看板を眺めながらスープ飲んでたんだ。だから、あの朝の色をもう一度"だって」


 ミカピは紙片をもう一度見た。

 文字が、さっきより重く見える。

 でも、重いのは嫌いじゃない。重さは、誰かの想いの形だから。


「……作る」


 ブニルデンが少しだけ眉を上げた。


「作れるのか」


 ミカピは一瞬だけ迷った。

 迷って、悔しいから言い切る。


「作る。作れなかったら、作れるまで作る」


 ルッコラが誇らしげに「きゅっ」と鳴いた。何を誇っているのかは分からないけど、背中を押される音だった。


「よし。まず、普通にやってみる」


「普通に?」


「普通に失敗するところから」


 ブニルデンが「そうか」とだけ言って、椅子に腰を下ろした。腕を組む。見守るというより、そこにいるだけみたいに。


 潮彩堂は港町の外れ、潮風の通り道に建っている。扉を閉めても匂いが入ってくる。潮の匂い、魚の匂い、木の匂い。そこに色の匂いが混ざる。

 ミカピはこの店が好きだった。さびれてるところも、棚が空いてるところも、嫌いじゃない。……いや、好きだ。好きだから続けてる。


 机の上には、いつもの粉が三つ。赤、緑、青。

 瓶の口は開けたまま、匂いがふわりと混ざる。潮の匂いにまぎれて、それぞれの色が小さく主張している。


 ミカピは赤い粉を小皿に出し、結合材を少し落とした。刷毛で混ぜる。ねっとりとした赤ができる。きれいだ。元気だ。


 ――元気すぎる。


 紙片に塗って、朝の光にかざしてみる。

 赤がぐっと前に出る。看板が「見ろ!」って叫んでくる。


「……これだと怒ってる。食堂が」


「食堂が怒るのか」


「看板が。湯気が怖くなる」


 ルッコラが鼻を近づけて、すぐ顔を背けた。


「くゅ……」


「あ、嫌がった。はい、失敗」


 ミカピは刷毛を洗い、今度は青をほんの少し足した。

 赤を冷ます。火を消す。優しくする。……はず。


 混ぜる。混ぜる。

 色は赤紫に寄って、少しだけ濁った。


「……不機嫌になった」


「不機嫌な色って、あるんだな」


「あるの。あるから困る」


 ルッコラがくしゃみをした。


「きゅっ……くしゅっ!」


 ミカピは笑いかけて、すぐ口を押さえた。笑ったら集中が切れる。切れたら、また迷う。


「だめ。いま、だめ」


「笑ってたじゃん」


「笑ってない。ルッコラが……かわいかっただけ」


 ブニルデンが少しだけ口角を上げた。突っ込めばミカピが照れるって知ってる顔。

 その余裕が、たまに悔しい。


 ミカピは試し塗りの紙片を、もう一度光にかざした。

 赤は怒ってる。赤紫は不機嫌。どっちも"朝の湯気"じゃない。


 ――違う。熱を抜けばいいんじゃない。冷たくしたら優しくない。

 じゃあ、何が足りない?


 ミカピは紙片を少し傾けた。

 朝の光が斜めに当たり、色の表面がきらりと光った。……光ったのは紙の繊維だけ。絵の具は光らない。


 その時、ミカピの中で何かがぱちん、と鳴った。


「……光が足りない」


「光?」


 ブニルデンが少しだけ身を乗り出した。


「うるさい光じゃなくて、朝の石畳みたいな……"あるだけの光"。それが混ざれば、赤は怒らなくなる」


 ミカピは作業台の隅に置いた石臼を見た。白く乾いた臼。粉にするための道具。

 そして思い出す。川辺の石が、朝日にきらっと笑うことを。


「ねえ、ブニルデン」


「ん」


「川の合流点。あそこ、薄い石が光ってるでしょ」


「雲母か」


 ミカピは目を瞬いた。


「……知ってるんだ」


「知ってる。拾える。昔、女将の旦那が看板の下地に混ぜたって噂もある」


 ミカピの胸がすっと軽くなる。

 便利な答えをもらった軽さじゃない。

 "自分のひらめき"が、ちゃんと道につながった軽さだ。


 そして――マルナさんの旦那さんが使っていた素材。

 それを、もう一度。


「行くよ。今すぐ」


「早いな」


「早い方がいい。潮が引くからね」


「……じゃあ、荷車出す」


 ルッコラが「きゅっ!」と鳴いて、荷袋に飛びつく勢いで荷車の縁にちょこんと乗った。準備万端の顔。


「ルッコラ、先走らない。落ちるよ」


「きゅっ!」


 分かったのか分かってないのか、尻尾だけが揺れた。


     ◇


 港町の朝は、音が多い。

 網を引きずる音、木槌の音、魚の跳ねる音。

 そして潮が引く音。海が「よいしょ」と肩をすくめるみたいに、浜を見せていく。


 ブニルデンの荷車は石畳をこつこつ鳴らし、ミカピはその横を小走りに歩いた。走るのは得意じゃない。すぐ息が上がる。

 でも今日は、息が上がっても止まりたくない。あの赤を作りたい。


「ねえ、ブニルデン」


「ん」


「マルナさんの旦那さん、どんな人だった?」


 ブニルデンは少しだけ歩調を落とした。


「優しい人だった。朝早く店を開けて、漁師たちにスープ配って。看板を磨くのが日課だったらしい」


「……そっか」


「だから女将、あの看板だけは自分で塗りたくないんだと」


 ミカピの胸が、じんわり温かくなる。温かいけれど、熱くない。朝の潮風みたいな温かさ。


「……いい色、作らなきゃ」


「作れるのか」


「作る。……作りたいから」


 ブニルデンはそれ以上言わなかった。言わないのが、ブニルデンの優しさだ。


 川の合流点に着くと、水は冷たくて透明で、底の石がよく見えた。

 ミカピはしゃがみこんで、石を眺める。石はみんな普通だ。灰色、茶色、黒。普通の石の匂いがする。


 でも――


「きゅっ!」


 ルッコラが荷車から飛び降り、水際を走った。くるくる回って、ぴたっと止まる。

 そしてミカピを見る。鼻先が震えている。


「……あっちだね」


 ミカピが立ち上がると、ブニルデンが手を差し出した。

 ミカピは反射で、ぱしっとその手を叩いた。


「手、いらないよ。転ばないし」


「じゃあ、転ぶなよ」


「転ばないって――」


 言い切る前に、足元の石が滑って、体がぐらりと傾いた。


「――ほら」


 ブニルデンが腕を伸ばして、ミカピの背中を支えた。支え方が、あまりにも自然すぎて腹が立つ。


「……今のは、たまたま」


「たまたま転ぶタイプか」


「違う。たまたま石が悪い」


 ルッコラが「きゅっ」と鳴いて、笑ってるみたいに尻尾を揺らした。

 ミカピはルッコラの頭を軽くつつく。


「笑わない」


 水際の石の中に、薄いきらきらが混じった石片がいくつか転がっていた。

 拾ってみると、光が粉みたいに眠っている。


 ――これだ。


「雲母、いた」


 ミカピはそれを布で包み、袋に入れていく。雲母は薄い。油断すると割れる。でも割れた端がまた光る。どんな形でも、光は残る。


 ふと、川の水面を見た。朝日が少しだけ上がって、流れがきらっと光る。

 あの光。熱くないのに、冷たくもない。ちょっとだけ、優しい。


 ミカピは小さく言った。


「……優しい赤って、こういう光のことなんだ」


 ブニルデンが横で「なるほど」とだけ返す。

 その一言で、ミカピは落ち着いた。ひらめきが"思いつき"じゃなくなる。


 袋がほどよく重くなったころ、ミカピは最後にもう一度だけ川を見た。


「帰ろう。今なら作れる」


「今なら?」


「うん。逃げない」


「逃げる前提で話すな」


「逃げたことないし」


「ある」


「ない」


 ルッコラが「きゅっ」と鳴いた。たぶん「ある」って言ってる。

 ミカピはむっとして、でも笑いそうになった。


     ◇


 潮彩堂に戻ると、店の静けさがミカピを迎えた。

 さっきより光が強くて、棚の瓶が少しだけ明るく見える。


 ミカピは袖をまくった。袖口の糸が少しほつれていて、縁が揺れる。直さなきゃ。でも、いまは色。


 石臼に雲母石を入れる。杵を回すと、こりこり、と乾いた音がする。石が砕けていく音は、ミカピにとって落ち着く音だ。


 粉ができはじめると、光が増えた。雲母の粒が朝の光を拾って、ささやく。


 ルッコラが作業台の端に顎を乗せ、じっと見ている。

 ブニルデンは椅子に戻って腕を組み、いつもの顔で見ている。


「見てるの?」


「見てる」


「……今は、話しかけないで。手が迷うから」


 ミカピが言うと、ブニルデンは珍しく「おう」と短く返した。

 そして黙った。


 ミカピの目が、いつもと違う色になる。

 照れ屋が消えて、職人が出てくる瞬間。


 雲母の粉を小皿に移し、結合材を落とす。

 混ぜる前から、粉はうるさくない光を持っている。これだけだと色にならない。光だけだ。


 そこへ赤を少し入れる。混ぜる。元気な赤が戻ってくる。

 紙片に塗る。……怒ってる。


 青をほんの少し足す。混ぜる。赤が冷える。

 紙片に塗る。……不機嫌。


 ミカピは手を止め、息を吸って、吐いた。

 怒りと不機嫌の間に、雲母の粉をさらりと落とす。


「熱を抜きたいんじゃない。冷たくしたいんでもない」


 ぶつぶつ、と独り言みたいに言いながら混ぜる。

 混ぜると、不機嫌がほどける。赤が叫ぶのをやめる。青が睨むのをやめる。

 雲母の光が間に入って、「まあまあ」と言うみたいに全体をなだめる。


 ミカピは紙片に塗って、朝の光にかざした。


 赤が、柔らかくなった。

 でも――


「……まだ、強い」


 ミカピの手が止まる。

 朝の湯気みたいな赤。それには近づいた。

 でも、光が多すぎる。派手すぎる。


 ルッコラが首を傾げた。


「きゅ……?」


「何かを足して隠す?」


 ミカピは首を振った。

 足せば濁る。隠せば死ぬ。


 優しいというのは、飾り立てることじゃない。


「……光を、減らす」


 ブニルデンが少しだけ眉を上げた。


「減らすのか」


「うん。朝は、うるさくないから」


 ミカピは雲母の量を半分にして、もう一度混ぜた。

 今度は、刷毛が軽い。軽すぎず、重すぎない。ちょうどいい。


 紙片に塗る。

 光にかざす。


 色が、ちょっとだけ笑った。


 赤のまま、熱を抜いて、光だけが残っている。

 朝の湯気みたいな赤。

 冷たい海風の上に、ふわっと乗る赤。


 その瞬間、ルッコラが飛び上がった。


「きゅっ!」


 作業台に前足をかけ、鼻先を紙片に擦り付けようとする。尻尾が立っている。


 ミカピは息を止めて、それを見た。

 見て、見て、それから、ようやく息を吐いた。


「……できた」


 ブニルデンが短く言う。


「いいじゃん」


 その言葉が不意打ちで、ミカピの頬が少しだけ熱くなる。

 でも今日は逃げない。逃げないで、ちゃんと仕上げる。


 ミカピは帳面を引き寄せた。記録は、照れより強い。


「名前、つける」


「もう決まったのか」


「うん。雲母が灯りみたいだから」


 ペン先が紙を走る。


 ――雲母灯。

 ――ミカライト。


 書き終えた瞬間、胸が少し軽くなった。

 名前がつくと、色は居場所を得る。居場所ができると、ミカピの心も落ち着く。


 ルッコラが紙片に鼻先を近づけ、「きゅっ」と鳴いた。良い匂いの合図。成功の合図だ。


「よし。持ってく」


「行くな」


「え?」


 ブニルデンが顎で外を指した。


「瓶詰め。札。あと乾き待ちの布。……落ち着け」


「落ち着いてるし」


 言い返しながら、ミカピは瓶に雲母灯を詰めた。札を結ぶ。

 ルッコラが瓶に鼻をくっつけようとして、ミカピに軽くはたかれる。


「くっつけない。粉が落ちる」


「きゅっ!」


 不満そう。


「あとでね」


「きゅ……!」


 妥協。かわいい。


     ◇


 マルナの食堂は港の真ん中にある。

 朝の湯気がいつも扉から逃げている店。魚の匂いとパンの匂いと塩の匂いが混ざって、町の胃袋みたいなところ。


 マルナはミカピを見るなり、両手を腰に当てて笑った。


「おーい、ミカピ! 来たか! 今日こそ看板、元気にしてくれよ!」


「元気じゃなくて、優しく、だからね」


 ミカピが言うと、マルナは目を丸くして、それから大声で笑った。


「そうそれ! 朝のうちの湯気が、ちょっとだけ可愛くなる赤!」


 ミカピの胸がぽっとする。

 この人の言葉は嘘じゃない。ちゃんと色のことを言ってる。


 看板は古い木で、塗料が剥げ、赤が茶色に変わっていた。

 ミカピは刷毛を持ち、表面を軽く整える。

 ブニルデンは黙って梯子を押さえ、ルッコラは肩の上でじっと見ている。


 雲母灯を刷毛に取ると、絵の具はさらりと伸びた。

 木の目に沿って、赤が落ち着いていく。

 ただの赤じゃない。光を含む赤。湯気の赤。


 塗り終えた直後、マルナが眉をひそめた。


「……あれ? なんか、違う」


 ミカピの指が一瞬止まる。

 違う? 違うの?

 胸の奥で、雲母の粒が少しだけざわつく。


 でもミカピは言わない。説明しない。

 ただ、看板の表面をもう一度、朝の光に向けて少しだけ傾けた。


 その瞬間。


 朝日が看板に当たった。

 雲母の粒が、ほんの少しだけ光った。派手じゃない。ただ、朝にだけ、笑う。


 沈黙が落ちた。

 波の音だけが聞こえるような、数秒の静けさ。


 マルナが息を吸って、吐いた。

 今度は、笑うみたいに。


「あ――……これだ」


 マルナの声が、少しだけ震えている。


「これ、うちの朝だ。……あの人が、毎朝見てた朝だ」


 その言葉に、ミカピの胸がふっと温かくなる。温かいけれど熱くない。雲母灯みたいな温かさ。


 マルナは看板にそっと手を伸ばした。

 指先が、雲母の光をなぞる。


「……あったかい」


 その言葉が誰に向けたものなのか、ミカピには分からなかった。

 でも、分からなくていい気がした。


「ありがとな、ミカピ。……スープ、冷めちまうな」


 マルナは振り返って笑った。


「……よかった」


 言ってしまって、ミカピは視線を逸らした。

 マルナはそれを見て、にやにやする。


「照れるなよ。褒められるのが仕事だろ」


「仕事は、色。人じゃない」


「色もお前が作ったんだろ。ほら、ちゃんと受け取れ」


 ミカピは刷毛を洗うふりをして顔を隠した。


 ブニルデンがすぐ横で低い声を出す。


「今、笑った」


「笑ってない」


「笑ってた」


「……見てるじゃん」


「見てる」


 ミカピは「もう」と言いながら、スープの匂いがする方へ逃げた。

 逃げたけど、嬉しいのも本当だ。


 マルナが熱いスープを二つ、紙コップに入れてくれた。

 湯気が、雲母灯の赤に似た匂いをしている気がした。


「ほら、飲め。風で冷めるぞ」


「ありがと」


 ミカピが受け取ると、マルナは親指で看板を指した。


「次は壁だ。潮彩堂の色で、うちをまるごと朝にしてくれ」


「……考えとく」


「返事が薄い!」


「薄い方が伸びるんだよ、色は」


 ブニルデンが隣で、くっと息を漏らした。笑った。今のは笑った。

 ミカピは見ないふりをしたけれど、耳は熱かった。


     ◇


 夕方。潮彩堂に戻ると、棚の空きが朝より少しだけ優しく見えた。

 ひとつ、新しい瓶が増えたから。


 雲母灯ミカライト

 札が揺れている。風の通り道になったみたいに。


 ミカピは店を閉め、奥の布をめくった。


 そこにあるのは、未完成の一枚。


 港町の夜明けを描いた絵。

 濡れた石畳、船と桟橋、遠くの灯台、水平線――。

 構図は決まっている。色も、だいたい決まっている。


 でも、空が決まらない。

 夜明けの空に、何かが足りない。


 ミカピは小さく息を吐いた。


「……あと一色。それが決まれば」


 絵筆を手に取り、雲母灯をほんの少しだけ含ませた。


「……一筆だけ」


 筆先が石畳の反射の端を撫でる。

 そこに、朝の優しい赤が宿る。


 絵はまだ完成しない。

 でも――


 ミカピは筆を置いて、絵を見つめた。

 空はまだ決まらない。でも、石畳に光が増えた。

 その光が、空の色のヒントになるかもしれない。


「……近づいてる」


 小さくつぶやいた瞬間、胸に小さな灯りが点った。

 足りない色の輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。


 そのとき、扉の鈴が鳴った。

 ――閉店したのに。


 ミカピは驚いて振り返り、布をかけ直そうとして失敗した。布が半分ずれて、絵が見える。


 立っていたのはブニルデンだった。いつの間にか戻ってきていたらしい。


「……おい」


「……なに」


 ミカピは固まった。見られた。未完成を見られた。一番見られたくないやつを。


 ブニルデンは絵をじっと見て、それから言った。


「看板みたいな色、入ったな」


「見ないでって言ったら?」


「見ない」


「嘘でしょ」


「嘘」


 ミカピは「もう!」と言いそうになって、飲み込んだ。

 飲み込んだ代わりに、筆を握り直した。逃げない日だから。


 ブニルデンは少しだけ声を落とした。


「……進んでるじゃん」


「まだ、決まらないんだよ。空が」


「でも、止まってない」


 その言葉が、胸に染みた。


 ミカピは布をかけ直して、ブニルデンの方を見ないまま言った。


「……ありがと」


 ブニルデンは「おう」とだけ言って、扉を閉めた。

 鈴が、もう一度鳴る。チリン。


 ミカピはその音が消えるまで動けなかった。

 頬が熱い。さっきの赤みたいに、優しい熱。


 ルッコラが布の端をくわえて、「きゅっ」と鳴いた。

 たぶん、「隠さなくていい」って言ってる。


 ミカピは小さく息を吐いて、帳面を開いた。

 雲母灯のページの端に、短い言葉を書き足す。


 ――薄塗り三回で朝だけ立つ。

 ――雲母は、うるさくない光。

 ――ルッコラは鼻先をくっつけたがる(だめ)。

 ――光を減らすことで、優しくなる。


 書き終えたら、胸の奥の灯りは落ち着いた。

 代わりに、次の色の場所が少しだけ空いた。


 明日もまた、色を作ろう。

 棚をひとつ埋めよう。

 絵に一筆足そう。


 ――そして、いつか。


     ◇


 翌朝、店の扉に小さな紙片が挟まっていた。

 潮の匂いに混じって、ほんの少しだけ――乾いた藻の匂いがした。


「――港の旗が、緑をなくした。戻るための緑を」


 ミカピは紙を拾い上げ、息を止めた。

 緑が、なくした。戻るための緑。


「……旗の色って、そんなに大事なんだ」


 肩の上でルッコラが「きゅっ」と鳴く。

 "行こう"の鳴き声だ。


 ミカピは紙片を胸の前で押さえた。逃げないように。

 次の色は、海の足元にある。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ