第1話「雲母灯《ミカライト》」
さびれた顔料店「潮彩堂」の店主ミカピ。
棚の空きと未完成の一枚を抱えながら、今日も『色』で暮らしをつないでいる。
「――『朝の港が、ちょっとだけ優しく見える赤』」
ミカピは、その一行を読んだまま固まった。
赤は、熱いものだ。火の色だ。頬がかっとなる色だ。怒った看板の色だ。
それが「優しい」って、どういうこと?
……しかも、これ。
ちゃんとした依頼書の紙じゃない。食堂の伝票の端っこに、走り書きで、さらっと書いてある。
潮風が、開けていないはずの隙間から入ってきて、紙片がちょっと揺れる。
揺れているだけで、急に難しく見える。
肩の上で黒い毛玉が「きゅっ」と鳴いた。
貂のルッコラが、琥珀色の目で紙の隅をじっと見ている。まるで「読むの? 読むの?」と言っているみたいに。
◇
さっき。
まだ開店前の、陽がきちんと起ききっていない時間。
チリン、と戸口の鈴が鳴った。
少しだけ無遠慮な音。潮彩堂はだいたい、こんなふうに始まる。
棚の瓶に布をかけていたミカピは、振り返って言った。
「……おはよう、ブニルデン」
入ってきた配達屋のブニルデンは、返事も短い。
「おはよう。依頼書、持ってきたぞ」
肩の荷袋をどさりと作業台に置いた。木の台が小さく鳴って、瓶がこつん、と震える。
棚はまだ空きが多い。空気も少し、さびしい。
その震えに反応したみたいに、
「きゅっ!」
ルッコラがミカピの肩から飛び出した。床を滑るように走って、荷袋の周りをくるくる回る。鼻先がぴくぴく。目がきらり。
「ルッコラ、落ち着いて。ぐるぐるしないで」
「きゅっ、きゅっ」
落ち着く気はゼロ。いい匂いがする時の、いつものやつだ。
ブニルデンが荷袋から小さな紙片を取り出して、ひらりとミカピに見せた。
「注文。港の食堂の女将から」
「マルナさん?」
その名前を聞いただけで、胸の奥が少し柔らかくなる。豪快で声が大きいのに、湯気みたいにあったかい人。
「読んで」
ミカピが受け取ろうと手を伸ばすより早く、ブニルデンが淡々と読み上げた。
「――『朝の港が、ちょっとだけ優しく見える赤』」
ミカピは紙片を指でつまんで持ち上げ、もう一度、声に出さずに読んだ。
ミカピの指が、空中で止まった。
返事が出ないまま、紙片だけを受け取って机に置く。
朝の港。ちょっとだけ。優しく。赤。
ブニルデンは少しだけ声を落とした。
「旦那が好きだった色だってさ。もういないけど」
ミカピの手が、止まった。
「……そうなんだ」
マルナさんの旦那さん。三年前に海で亡くなった、優しい人。
ミカピが港に来たばかりの頃、看板の話をよくしてくれた。
ブニルデンは続けた。
「"あの人が毎朝、この看板を眺めながらスープ飲んでたんだ。だから、あの朝の色をもう一度"だって」
ミカピは紙片をもう一度見た。
文字が、さっきより重く見える。
でも、重いのは嫌いじゃない。重さは、誰かの想いの形だから。
「……作る」
ブニルデンが少しだけ眉を上げた。
「作れるのか」
ミカピは一瞬だけ迷った。
迷って、悔しいから言い切る。
「作る。作れなかったら、作れるまで作る」
ルッコラが誇らしげに「きゅっ」と鳴いた。何を誇っているのかは分からないけど、背中を押される音だった。
「よし。まず、普通にやってみる」
「普通に?」
「普通に失敗するところから」
ブニルデンが「そうか」とだけ言って、椅子に腰を下ろした。腕を組む。見守るというより、そこにいるだけみたいに。
潮彩堂は港町の外れ、潮風の通り道に建っている。扉を閉めても匂いが入ってくる。潮の匂い、魚の匂い、木の匂い。そこに色の匂いが混ざる。
ミカピはこの店が好きだった。さびれてるところも、棚が空いてるところも、嫌いじゃない。……いや、好きだ。好きだから続けてる。
机の上には、いつもの粉が三つ。赤、緑、青。
瓶の口は開けたまま、匂いがふわりと混ざる。潮の匂いにまぎれて、それぞれの色が小さく主張している。
ミカピは赤い粉を小皿に出し、結合材を少し落とした。刷毛で混ぜる。ねっとりとした赤ができる。きれいだ。元気だ。
――元気すぎる。
紙片に塗って、朝の光にかざしてみる。
赤がぐっと前に出る。看板が「見ろ!」って叫んでくる。
「……これだと怒ってる。食堂が」
「食堂が怒るのか」
「看板が。湯気が怖くなる」
ルッコラが鼻を近づけて、すぐ顔を背けた。
「くゅ……」
「あ、嫌がった。はい、失敗」
ミカピは刷毛を洗い、今度は青をほんの少し足した。
赤を冷ます。火を消す。優しくする。……はず。
混ぜる。混ぜる。
色は赤紫に寄って、少しだけ濁った。
「……不機嫌になった」
「不機嫌な色って、あるんだな」
「あるの。あるから困る」
ルッコラがくしゃみをした。
「きゅっ……くしゅっ!」
ミカピは笑いかけて、すぐ口を押さえた。笑ったら集中が切れる。切れたら、また迷う。
「だめ。いま、だめ」
「笑ってたじゃん」
「笑ってない。ルッコラが……かわいかっただけ」
ブニルデンが少しだけ口角を上げた。突っ込めばミカピが照れるって知ってる顔。
その余裕が、たまに悔しい。
ミカピは試し塗りの紙片を、もう一度光にかざした。
赤は怒ってる。赤紫は不機嫌。どっちも"朝の湯気"じゃない。
――違う。熱を抜けばいいんじゃない。冷たくしたら優しくない。
じゃあ、何が足りない?
ミカピは紙片を少し傾けた。
朝の光が斜めに当たり、色の表面がきらりと光った。……光ったのは紙の繊維だけ。絵の具は光らない。
その時、ミカピの中で何かがぱちん、と鳴った。
「……光が足りない」
「光?」
ブニルデンが少しだけ身を乗り出した。
「うるさい光じゃなくて、朝の石畳みたいな……"あるだけの光"。それが混ざれば、赤は怒らなくなる」
ミカピは作業台の隅に置いた石臼を見た。白く乾いた臼。粉にするための道具。
そして思い出す。川辺の石が、朝日にきらっと笑うことを。
「ねえ、ブニルデン」
「ん」
「川の合流点。あそこ、薄い石が光ってるでしょ」
「雲母か」
ミカピは目を瞬いた。
「……知ってるんだ」
「知ってる。拾える。昔、女将の旦那が看板の下地に混ぜたって噂もある」
ミカピの胸がすっと軽くなる。
便利な答えをもらった軽さじゃない。
"自分のひらめき"が、ちゃんと道につながった軽さだ。
そして――マルナさんの旦那さんが使っていた素材。
それを、もう一度。
「行くよ。今すぐ」
「早いな」
「早い方がいい。潮が引くからね」
「……じゃあ、荷車出す」
ルッコラが「きゅっ!」と鳴いて、荷袋に飛びつく勢いで荷車の縁にちょこんと乗った。準備万端の顔。
「ルッコラ、先走らない。落ちるよ」
「きゅっ!」
分かったのか分かってないのか、尻尾だけが揺れた。
◇
港町の朝は、音が多い。
網を引きずる音、木槌の音、魚の跳ねる音。
そして潮が引く音。海が「よいしょ」と肩をすくめるみたいに、浜を見せていく。
ブニルデンの荷車は石畳をこつこつ鳴らし、ミカピはその横を小走りに歩いた。走るのは得意じゃない。すぐ息が上がる。
でも今日は、息が上がっても止まりたくない。あの赤を作りたい。
「ねえ、ブニルデン」
「ん」
「マルナさんの旦那さん、どんな人だった?」
ブニルデンは少しだけ歩調を落とした。
「優しい人だった。朝早く店を開けて、漁師たちにスープ配って。看板を磨くのが日課だったらしい」
「……そっか」
「だから女将、あの看板だけは自分で塗りたくないんだと」
ミカピの胸が、じんわり温かくなる。温かいけれど、熱くない。朝の潮風みたいな温かさ。
「……いい色、作らなきゃ」
「作れるのか」
「作る。……作りたいから」
ブニルデンはそれ以上言わなかった。言わないのが、ブニルデンの優しさだ。
川の合流点に着くと、水は冷たくて透明で、底の石がよく見えた。
ミカピはしゃがみこんで、石を眺める。石はみんな普通だ。灰色、茶色、黒。普通の石の匂いがする。
でも――
「きゅっ!」
ルッコラが荷車から飛び降り、水際を走った。くるくる回って、ぴたっと止まる。
そしてミカピを見る。鼻先が震えている。
「……あっちだね」
ミカピが立ち上がると、ブニルデンが手を差し出した。
ミカピは反射で、ぱしっとその手を叩いた。
「手、いらないよ。転ばないし」
「じゃあ、転ぶなよ」
「転ばないって――」
言い切る前に、足元の石が滑って、体がぐらりと傾いた。
「――ほら」
ブニルデンが腕を伸ばして、ミカピの背中を支えた。支え方が、あまりにも自然すぎて腹が立つ。
「……今のは、たまたま」
「たまたま転ぶタイプか」
「違う。たまたま石が悪い」
ルッコラが「きゅっ」と鳴いて、笑ってるみたいに尻尾を揺らした。
ミカピはルッコラの頭を軽くつつく。
「笑わない」
水際の石の中に、薄いきらきらが混じった石片がいくつか転がっていた。
拾ってみると、光が粉みたいに眠っている。
――これだ。
「雲母、いた」
ミカピはそれを布で包み、袋に入れていく。雲母は薄い。油断すると割れる。でも割れた端がまた光る。どんな形でも、光は残る。
ふと、川の水面を見た。朝日が少しだけ上がって、流れがきらっと光る。
あの光。熱くないのに、冷たくもない。ちょっとだけ、優しい。
ミカピは小さく言った。
「……優しい赤って、こういう光のことなんだ」
ブニルデンが横で「なるほど」とだけ返す。
その一言で、ミカピは落ち着いた。ひらめきが"思いつき"じゃなくなる。
袋がほどよく重くなったころ、ミカピは最後にもう一度だけ川を見た。
「帰ろう。今なら作れる」
「今なら?」
「うん。逃げない」
「逃げる前提で話すな」
「逃げたことないし」
「ある」
「ない」
ルッコラが「きゅっ」と鳴いた。たぶん「ある」って言ってる。
ミカピはむっとして、でも笑いそうになった。
◇
潮彩堂に戻ると、店の静けさがミカピを迎えた。
さっきより光が強くて、棚の瓶が少しだけ明るく見える。
ミカピは袖をまくった。袖口の糸が少しほつれていて、縁が揺れる。直さなきゃ。でも、いまは色。
石臼に雲母石を入れる。杵を回すと、こりこり、と乾いた音がする。石が砕けていく音は、ミカピにとって落ち着く音だ。
粉ができはじめると、光が増えた。雲母の粒が朝の光を拾って、ささやく。
ルッコラが作業台の端に顎を乗せ、じっと見ている。
ブニルデンは椅子に戻って腕を組み、いつもの顔で見ている。
「見てるの?」
「見てる」
「……今は、話しかけないで。手が迷うから」
ミカピが言うと、ブニルデンは珍しく「おう」と短く返した。
そして黙った。
ミカピの目が、いつもと違う色になる。
照れ屋が消えて、職人が出てくる瞬間。
雲母の粉を小皿に移し、結合材を落とす。
混ぜる前から、粉はうるさくない光を持っている。これだけだと色にならない。光だけだ。
そこへ赤を少し入れる。混ぜる。元気な赤が戻ってくる。
紙片に塗る。……怒ってる。
青をほんの少し足す。混ぜる。赤が冷える。
紙片に塗る。……不機嫌。
ミカピは手を止め、息を吸って、吐いた。
怒りと不機嫌の間に、雲母の粉をさらりと落とす。
「熱を抜きたいんじゃない。冷たくしたいんでもない」
ぶつぶつ、と独り言みたいに言いながら混ぜる。
混ぜると、不機嫌がほどける。赤が叫ぶのをやめる。青が睨むのをやめる。
雲母の光が間に入って、「まあまあ」と言うみたいに全体をなだめる。
ミカピは紙片に塗って、朝の光にかざした。
赤が、柔らかくなった。
でも――
「……まだ、強い」
ミカピの手が止まる。
朝の湯気みたいな赤。それには近づいた。
でも、光が多すぎる。派手すぎる。
ルッコラが首を傾げた。
「きゅ……?」
「何かを足して隠す?」
ミカピは首を振った。
足せば濁る。隠せば死ぬ。
優しいというのは、飾り立てることじゃない。
「……光を、減らす」
ブニルデンが少しだけ眉を上げた。
「減らすのか」
「うん。朝は、うるさくないから」
ミカピは雲母の量を半分にして、もう一度混ぜた。
今度は、刷毛が軽い。軽すぎず、重すぎない。ちょうどいい。
紙片に塗る。
光にかざす。
色が、ちょっとだけ笑った。
赤のまま、熱を抜いて、光だけが残っている。
朝の湯気みたいな赤。
冷たい海風の上に、ふわっと乗る赤。
その瞬間、ルッコラが飛び上がった。
「きゅっ!」
作業台に前足をかけ、鼻先を紙片に擦り付けようとする。尻尾が立っている。
ミカピは息を止めて、それを見た。
見て、見て、それから、ようやく息を吐いた。
「……できた」
ブニルデンが短く言う。
「いいじゃん」
その言葉が不意打ちで、ミカピの頬が少しだけ熱くなる。
でも今日は逃げない。逃げないで、ちゃんと仕上げる。
ミカピは帳面を引き寄せた。記録は、照れより強い。
「名前、つける」
「もう決まったのか」
「うん。雲母が灯りみたいだから」
ペン先が紙を走る。
――雲母灯。
――ミカライト。
書き終えた瞬間、胸が少し軽くなった。
名前がつくと、色は居場所を得る。居場所ができると、ミカピの心も落ち着く。
ルッコラが紙片に鼻先を近づけ、「きゅっ」と鳴いた。良い匂いの合図。成功の合図だ。
「よし。持ってく」
「行くな」
「え?」
ブニルデンが顎で外を指した。
「瓶詰め。札。あと乾き待ちの布。……落ち着け」
「落ち着いてるし」
言い返しながら、ミカピは瓶に雲母灯を詰めた。札を結ぶ。
ルッコラが瓶に鼻をくっつけようとして、ミカピに軽くはたかれる。
「くっつけない。粉が落ちる」
「きゅっ!」
不満そう。
「あとでね」
「きゅ……!」
妥協。かわいい。
◇
マルナの食堂は港の真ん中にある。
朝の湯気がいつも扉から逃げている店。魚の匂いとパンの匂いと塩の匂いが混ざって、町の胃袋みたいなところ。
マルナはミカピを見るなり、両手を腰に当てて笑った。
「おーい、ミカピ! 来たか! 今日こそ看板、元気にしてくれよ!」
「元気じゃなくて、優しく、だからね」
ミカピが言うと、マルナは目を丸くして、それから大声で笑った。
「そうそれ! 朝のうちの湯気が、ちょっとだけ可愛くなる赤!」
ミカピの胸がぽっとする。
この人の言葉は嘘じゃない。ちゃんと色のことを言ってる。
看板は古い木で、塗料が剥げ、赤が茶色に変わっていた。
ミカピは刷毛を持ち、表面を軽く整える。
ブニルデンは黙って梯子を押さえ、ルッコラは肩の上でじっと見ている。
雲母灯を刷毛に取ると、絵の具はさらりと伸びた。
木の目に沿って、赤が落ち着いていく。
ただの赤じゃない。光を含む赤。湯気の赤。
塗り終えた直後、マルナが眉をひそめた。
「……あれ? なんか、違う」
ミカピの指が一瞬止まる。
違う? 違うの?
胸の奥で、雲母の粒が少しだけざわつく。
でもミカピは言わない。説明しない。
ただ、看板の表面をもう一度、朝の光に向けて少しだけ傾けた。
その瞬間。
朝日が看板に当たった。
雲母の粒が、ほんの少しだけ光った。派手じゃない。ただ、朝にだけ、笑う。
沈黙が落ちた。
波の音だけが聞こえるような、数秒の静けさ。
マルナが息を吸って、吐いた。
今度は、笑うみたいに。
「あ――……これだ」
マルナの声が、少しだけ震えている。
「これ、うちの朝だ。……あの人が、毎朝見てた朝だ」
その言葉に、ミカピの胸がふっと温かくなる。温かいけれど熱くない。雲母灯みたいな温かさ。
マルナは看板にそっと手を伸ばした。
指先が、雲母の光をなぞる。
「……あったかい」
その言葉が誰に向けたものなのか、ミカピには分からなかった。
でも、分からなくていい気がした。
「ありがとな、ミカピ。……スープ、冷めちまうな」
マルナは振り返って笑った。
「……よかった」
言ってしまって、ミカピは視線を逸らした。
マルナはそれを見て、にやにやする。
「照れるなよ。褒められるのが仕事だろ」
「仕事は、色。人じゃない」
「色もお前が作ったんだろ。ほら、ちゃんと受け取れ」
ミカピは刷毛を洗うふりをして顔を隠した。
ブニルデンがすぐ横で低い声を出す。
「今、笑った」
「笑ってない」
「笑ってた」
「……見てるじゃん」
「見てる」
ミカピは「もう」と言いながら、スープの匂いがする方へ逃げた。
逃げたけど、嬉しいのも本当だ。
マルナが熱いスープを二つ、紙コップに入れてくれた。
湯気が、雲母灯の赤に似た匂いをしている気がした。
「ほら、飲め。風で冷めるぞ」
「ありがと」
ミカピが受け取ると、マルナは親指で看板を指した。
「次は壁だ。潮彩堂の色で、うちをまるごと朝にしてくれ」
「……考えとく」
「返事が薄い!」
「薄い方が伸びるんだよ、色は」
ブニルデンが隣で、くっと息を漏らした。笑った。今のは笑った。
ミカピは見ないふりをしたけれど、耳は熱かった。
◇
夕方。潮彩堂に戻ると、棚の空きが朝より少しだけ優しく見えた。
ひとつ、新しい瓶が増えたから。
雲母灯。
札が揺れている。風の通り道になったみたいに。
ミカピは店を閉め、奥の布をめくった。
そこにあるのは、未完成の一枚。
港町の夜明けを描いた絵。
濡れた石畳、船と桟橋、遠くの灯台、水平線――。
構図は決まっている。色も、だいたい決まっている。
でも、空が決まらない。
夜明けの空に、何かが足りない。
ミカピは小さく息を吐いた。
「……あと一色。それが決まれば」
絵筆を手に取り、雲母灯をほんの少しだけ含ませた。
「……一筆だけ」
筆先が石畳の反射の端を撫でる。
そこに、朝の優しい赤が宿る。
絵はまだ完成しない。
でも――
ミカピは筆を置いて、絵を見つめた。
空はまだ決まらない。でも、石畳に光が増えた。
その光が、空の色のヒントになるかもしれない。
「……近づいてる」
小さくつぶやいた瞬間、胸に小さな灯りが点った。
足りない色の輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
――閉店したのに。
ミカピは驚いて振り返り、布をかけ直そうとして失敗した。布が半分ずれて、絵が見える。
立っていたのはブニルデンだった。いつの間にか戻ってきていたらしい。
「……おい」
「……なに」
ミカピは固まった。見られた。未完成を見られた。一番見られたくないやつを。
ブニルデンは絵をじっと見て、それから言った。
「看板みたいな色、入ったな」
「見ないでって言ったら?」
「見ない」
「嘘でしょ」
「嘘」
ミカピは「もう!」と言いそうになって、飲み込んだ。
飲み込んだ代わりに、筆を握り直した。逃げない日だから。
ブニルデンは少しだけ声を落とした。
「……進んでるじゃん」
「まだ、決まらないんだよ。空が」
「でも、止まってない」
その言葉が、胸に染みた。
ミカピは布をかけ直して、ブニルデンの方を見ないまま言った。
「……ありがと」
ブニルデンは「おう」とだけ言って、扉を閉めた。
鈴が、もう一度鳴る。チリン。
ミカピはその音が消えるまで動けなかった。
頬が熱い。さっきの赤みたいに、優しい熱。
ルッコラが布の端をくわえて、「きゅっ」と鳴いた。
たぶん、「隠さなくていい」って言ってる。
ミカピは小さく息を吐いて、帳面を開いた。
雲母灯のページの端に、短い言葉を書き足す。
――薄塗り三回で朝だけ立つ。
――雲母は、うるさくない光。
――ルッコラは鼻先をくっつけたがる(だめ)。
――光を減らすことで、優しくなる。
書き終えたら、胸の奥の灯りは落ち着いた。
代わりに、次の色の場所が少しだけ空いた。
明日もまた、色を作ろう。
棚をひとつ埋めよう。
絵に一筆足そう。
――そして、いつか。
◇
翌朝、店の扉に小さな紙片が挟まっていた。
潮の匂いに混じって、ほんの少しだけ――乾いた藻の匂いがした。
「――港の旗が、緑をなくした。戻るための緑を」
ミカピは紙を拾い上げ、息を止めた。
緑が、なくした。戻るための緑。
「……旗の色って、そんなに大事なんだ」
肩の上でルッコラが「きゅっ」と鳴く。
"行こう"の鳴き声だ。
ミカピは紙片を胸の前で押さえた。逃げないように。
次の色は、海の足元にある。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




