暗闇の解像度
僕が目指していたのは、神の領域だった。 空想の世界で「フルダイブ」と呼ばれた仮想空間への自己投影。その研究の第一人者である僕は、外部から脳波に干渉し、神経伝達の代わりにシグナルを送る技術を進歩させてきた。最初はゲームの世界を脳内で再生するだけだと考えていた。地平線まで続く草原、夕日に輝く湖面、吹き抜ける風の匂い。五感の全てで「世界」を構築する。それが僕の夢だった。
しかし、現実は厳しい。決まった映像を見せ、音声を伝えることはできるようになったが、いかんせん解像度が低い。触覚や嗅覚は、それらを仮想空間で再現させるための計算量が膨大で、映像をリアルタイムでAIに学習させるより何万倍も難しいことがわかってきた。VRに代わる脳波を使った視覚デバイスはなんとか完成し、研究資金はつないだが、自分が目指すフルダイブに至るまでに、次の稼げるプロダクトを作る必要があった。
正直、ここまで難しいとは思っていなかった。世界を作るのが、こんなにも大変だとは。
僕とチームのメンバーは、最短距離で実現可能なプロダクトとして、ある結論に達した。 「二人だけの世界」──。 人間二人だけを仮想空間に再現し、極力計算量を減らす。環境は体以外は暗い空間のまま、何も置かない。
何のことはない。仮想空間でイチャイチャする話なのだ。だが、それは単なるお遊びではなかった。仮想空間に自分の体と相手の体を再現でき、仮想空間なので自分の身体能力とは別ものを用意できる。しかも、感覚は脳にフィードバックされる。このアイデアは、資金力のある層の大きな期待を集め、実現に向けて走り出した。
最初にテストしたのは、僕自身だった。デバイスを装着し、暗闇の中に意識を放り込む。最初は自分が自分を触る感触に、なんだかぞわぞわした。しかし、そこに映像がないことで、かえって触覚が研ぎ澄まされ、指先が肌を滑る微細な感触がこれほど新鮮に感じられるとは。自分の肉体を外部から感じているような、不思議な没入感があった。開発続行が告げられた。
そして、『Dual-Sync』のプロトタイプが完成した。いよいよ相手と自分の二体でテストを行う。音は現実世界の生音をバイノーラルで流し込む。ヘッドセット越しに聞こえる、隣に座る女性テスターの微かな息遣い。そして、暗闇の中で僕の指が、仮想空間で完璧に再現された彼女の指先に触れた瞬間。
脳を突き抜けるような情報の濁流が押し寄せた。指紋の凹凸、体温の微細な揺らぎ、吸い付くような肌の弾力……。一本一本の毛穴、毛細血管の拍動まで感じ取れるかのような、狂おしいほどのリアリティ。一人でのテストと違い、他人に触れられることによる不意打ち感と、脳が現実の音と同期させて作り上げた錯覚が、さらなる没入感を生んでいた。
僕はプロジェクトの成功を確信した。
『Dual-Sync』は大ヒットした。開発資金は潤沢になり、僕の研究は加速していくかに見えた。しかし、その資金はフルダイブで「新しい世界」を作る方向には向かわなかった。投資家たちが求めていたのは、より深く、より生々しい「二人だけの暗闇」。資金はすべて、触覚の解像度を上げるための、神経伝達への愛撫の研究に集中していった。
僕もまた、その「暗闇」の囚人の一人となっていった。
「風の計算なんてどうでもいい。それより、この指先が肌を滑る時の摩擦係数を、あと0.01%煮詰めろ」 僕は、かつて広大な世界を作る夢を見ていた僕が、この命令を下していることに気づかないふりをした。 暗闇は相変わらず何も映さない。しかし、触覚の解像度だけが極限まで高まった結果、僕にとって現実の肉体の方が、偽物のように、低解像度のように感じられ始めた。自分の本当の手で触れる感触が「スカスカ」に感じられ、デバイスを装着した時だけ「生きている」と実感する。
目の前には、相変わらず何も無い。ただの暗闇だ。 結局、空も、大地も、街も、一つも作ることができなかった。だが、暗闇の中で「彼女」の手を握った瞬間、脳を突き抜けるような情報の濁流が押し寄せる。指紋の凹凸、体温の微細な揺らぎ、吸い付くような肌の弾力……。僕の全宇宙は、このわずか数センチの肌の質感に収束していく。
「……ああ、世界なんて、これで十分だったんだ」
僕は、二度と作られることのない「理想郷」の設計図を、暗闇の中で静かに破り捨てた。 指先だけの全知全能。 僕の神への道は、この『暗闇の解像度』の中で、永遠に閉ざされた。




