第40話 呪花・狐夢葬
この物語はフィクションであり実在の存在とは一切関係ありません。
千代田の夜は、寒かった。
街灯の光が地面を照らしているのに、その明かりは何も温めない。ただ冷たく、淡々と、石畳を浮かび上がらせているだけだった。
将門塚へ向かう石畳を踏みしめながら、つかさは自分の胸の奥で鳴り続ける鼓動を意識していた。
早すぎもしない。遅すぎもしない。
ただ確実に、「ここだ」という感覚だけがある。
看板の手前で、足が止まった。
――いる。
「あら。やっぱり、来たのね」
月明かりに、白金色の髪がふわりと揺れる。
白と金を基調にした、どこか現代的で、それでいて妖しさを隠さない和装ミニドレス。胸元には狐面を模した魔法紋章。
「……玉藻前」
名前を呼ぶだけで、空気が一段、重くなった気がした。
「そんな怖い顔しなくてもいいのに。私は敵じゃないわよ?」
「……だったら、どいて」
「ダメ」
即答だった。
「あなたが本当に“将門公の力”を受け継ぐに足るか、確かめさせてもらうわ」
つかさは身構えた。
けれど、玉藻前は妖扇を構えるでもなく、ただ微笑むだけだった。
「安心して。痛くも、怖くもないわ。むしろ——」
金色の瞳が、強く光る。
「とっても、幸せな夢よ」
次の瞬間、視界が白に塗り潰された。
◇ ◇ ◇
「――兄様。朝ですよ。日が、もう高い」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「……ああ」
つかさは、ゆっくりと目を開ける。
障子越しの朝日。梁の木目。畳の匂い。
――懐かしい。
理屈じゃない。
理由も、説明もいらない。ただ、“知っている場所”だった。
「今日も市を見回るのでしょう?」
妹が、穏やかに微笑んでいる。
薄紫の髪。柔らかな眼差し。
「ああ。お前も、来るか?」
「……ええ、もちろん!」
そのやり取りが、あまりにも自然で。
つかさは一瞬、自分が“目覚めたばかり”だったことすら忘れかけた。
「兄様、昨夜は遅くまで文を読んでおられたのでしょう? だから、朝寝坊なんです」
妹が大きく伸びをする。
「お前は相変わらずだな」
「えー、だって平和なんですよ? 慌てる理由、ないじゃない」
そう言って、妹は笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に、ちくりと小さな痛みが走る。
――守れなかったはずの笑顔。
だが、その思考は、妹の声にかき消された。
「兄様。あまり難しい顔をなさらないで。今日は、良い日です」
「……そうだな」
良い日だ。
争いもなく、裏切りもなく、討たれる未来もない。
◇
市井は、穏やかだった。
「将門さま! おはようございます!」
「今日も見回りですか?」
民たちは、当たり前のように声をかけてくる。恐れではなく、信頼の色で。
「ああ。変わりはないか?」
「ええ! おかげさまで!」
子どもたちが駆け寄ってくる。着物の裾を掴まれ、笑いかけられる。
「将門さま、またお話して!」
「昨日の続き、まだ?」
「……ああ。今度な」
その瞬間、胸の奥が、満たされていくのが分かる。
――これが、欲しかった。
戦ではなく。怨嗟でもなく。ただ、頼られる日常。
丘に登り、街を見渡したとき、妹が隣に立った。
「良い国ですよね」
「ああ」
「……兄様が、望んだ国」
その言葉に、つかさは僅かに目を細める。
「本当に、そうか?」
「え?」
「……いや、なんでもない」
妹は少し首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
その沈黙が、優しく、心地よい。
そのときだった。
背後に、気配。
振り向くと、黒髪の少女が立っている。
頭の両側から伸びる、帯のような黒い翼。
「……おまえは」
少女は答えない。ただ、じっと見つめてくる。
妹が、小さく眉を寄せた。
「兄様、どうかされましたか?」
「……いや」
分からない。だが、知っている気がする。
少女が一歩、近づく。その指先が伸び――触れる寸前で、光となって消えた。
「……なんだったんだ」
つかさが呟くと、妹は少しだけ、不安そうな顔をした。
違和感が、胸の奥に小さく引っかかる。
だが、それと逆に、なにか頭の靄が晴れた気もした。
◇
館に戻ると、桔梗が庭で影武者たちと話していた。
「将門様、おかえりなさいませ」
「ただいま」
影武者たちは無言で頭を下げる。
忠誠。信頼。役割。
桔梗が、静かに言った。
「皆、殿を信じています」
「……そうだな」
つかさは、庭を見渡す。
家族。
影武者。
民。
――すべて、揃っている。
はずだった。
「……なあ」
ふと、言葉が零れる。
「俺の……“仲間”は、いないのか?」
空気が、止まった。
「仲間、ですか?」
妹が、不思議そうに首を傾げる。
「兄様には、私たちがいるでしょう?」
桔梗も、静かに微笑む。
「家族であり、従う者であり……それでは、足りませんか?」
その瞬間、胸の奥で、はっきりと音がした。
――違う。
「……違う」
つかさは、ゆっくりと首を振った。
「……隣で笑って、隣で怒って、同じ目線で立つ存在だ」
家族は、大切だ。だが、守るだけの存在ではない。
「……これは」
景色が、歪み始める。
「……優しすぎる檻だ」
妹が、初めて怯えた表情を見せた。
「兄様……?」
「すまない」
甘く、穏やかで、抜け出せない夢を――つかさは、自分の意志で踏み砕いた。
◇ ◇ ◇
将門塚手前の石畳で、つかさは目を開けた。息が荒い。額には汗が浮かんでいる。
玉藻前の姿は、もうそこになかった。
「……はぁ……」
小さく呟き、立ち上がろうとする。
そのとき、足元に何かがあるのに気づいた。
小さなカエルの置物だ。
誰かが、ここに置いていったのだろう。つかさは、それをそっと拾い上げた。
「……無事帰る、か」
呟いて、石碑へ向かう。
石碑の前に立った瞬間、完全に封印が解ける。
体の奥底から、力が湧き上がってきた。
封じられていた力が、堰を切ったように流れ込んでくる。
つかさは、空を見上げた。
北斗七星が、昔のように輝いていた。
「……行ってきます」
そう呟いて、カエルを石碑の前に置く。
誰に向けた言葉かは、分からない。でも、確かに誰かに——伝えたかった。
何卒、応援のほどお願いいたします。




