第38話 峰から峯へ
この物語はフィクションであり実在の存在とは一切関係ありません。
讃岐の白峰。
海から吹き上げる風は、生暖かく、そして重かった。生きているはずのものが、すべて死んでいるような――そんな空気。
そこに立つ影は、もはや人ではなかった。
かつて崇徳上皇と呼ばれた存在。今は、黒い羽を纏い、角のような怨気を背負った――半ば天狗の、成り損ない。
人の形を保っているのは、ただの執念だ。
「……まだ、終わらぬ……」
声は割れ、言葉は呪いに近い。
誰かを恨みたいわけではない。誰かを殺したいわけでもない。ただ、否定された人生の“理由”が欲しかった。
その怨念は、やがて人の理を踏み越え、山の霊脈を汚し、空を歪めていた。
――だから。
「もう、十分だ」
静かな声が、山を満たす。
崇徳の前に現れたのは、山伏装束に翼を持つ、大天狗。
白峰相模坊。
その瞳には、恐れも嫌悪もなかった。あったのは――痛ましさ。
「……来たか」
崇徳の口元が、歪む。それが笑みなのか、泣き顔なのかは、もう分からない。
「見るに耐えぬ姿になったな、友よ」
相模坊は、そう言って一歩近づく。本来、怨念の塊に近づくことは自殺行為だ。
だが、相模坊は退かなかった。
「我は……友などではない」
崇徳の背後で、怨念の翼がざわめく。
「友であった。今もだ」
即答だった。
「帝としてではない。人としてでもない。ただ……同じ時代を、同じ理不尽を見た者として」
崇徳の怨念が、激しく揺れる。
「ならば、なぜ止めぬ……! なぜ、我を封じぬ……!」
叫びは、山を裂いた。
相模坊は、首を振る。
「封じれば、汝は完全に壊れる。そうなれば、もはや戻れぬ」
「戻る場所など、ない……!」
その言葉に、相模坊は初めて目を伏せた。
「……そうだな」
沈黙。
やがて、相模坊は両腕を広げる。
「ならば、我が抱こう」
「なに……?」
「その怨、その怒り、その嘆き。汝一人で背負うには、重すぎる」
崇徳の怨念が、暴風のように吹き荒れる。
「我は……化け物だぞ……!」
「知っている」
「国を、呪うぞ……!」
「承知の上だ」
相模坊の声は、揺るがなかった。
「汝が壊れぬように。汝が、完全な“孤独”にならぬように。我が器となる」
――その瞬間。
怨念が、崩れた。
崇徳の背を覆っていた黒い羽が、砂のように崩れ落ち、角は溶け、形を失った“恨み”が、白峰相模坊へと流れ込んでいく。崇徳上皇という“個”は、溶け、広がり、天狗の霊格と絡み合っていく。
それは吸収ではない。
抱擁だ。
相模坊の翼が、二人分の影を包み込む。
「……すまぬ……」
崇徳の声は、初めて“人”に戻っていた。
「謝るな」
相模坊の背に、異変が起きる。
翼はさらに巨大化し、山伏の装束は、呪と法の文様に覆われていく。憎しみは羽となり、呪いは爪となり、後悔は――知恵となった。
天狗の力に、帝の怨念が重なる。だが、そこにあるのは狂気ではない。
“目的”だ。
「我らは、滅ぼすために在るのではない」
二つの声が、重なって響く。
「歪みを、正すために在る」
こうして生まれたのが、人の絶望と天狗の力を併せ持つ、
“大魔縁・白峯相模坊”。
白峰の山は、再び静寂を取り戻す。だがその静けさの奥で、恐ろしき“均衡の破壊者”が、確かに息づいていた。
◇ ◇ ◇
そして現代。
北斗七星陣に、ひびが入る。
新宿、水稲荷、筑土八幡――封印点が崩れるたび、大魔縁・白峯相模坊の魔の手が侵食していく。
千年分、溜め込まれた怨念。
もはや暴走する怨霊ではない。目的を持ち、戦略を練り、人の世を“壊す理由”を理解している存在。
――だからこそ。
玉藻前は知っていた。
「欠けた北斗七星陣では……あれは、止まらない」
そして、最後の賭けに出る。
将門公の魔法少女を、完全に解き放つという――禁じ手に。
夜の将門塚。
街の喧騒は、ここだけ嘘のように遠い。街灯の光すら、石碑に近づくほど色を失っていく。
玉藻前の魔法少女は、その前に立っていた。
「……相変わらず、嫌な場所」
口元には、かすかな笑み。だがその瞳は、まったく笑っていない。
将門公。
人であり、神であり、そして“封じられた王”。
かつてこの地を守り、そして討たれた存在。それでもなお、東京という都市の“骨格”に組み込まれている怨霊。
「あなたは……崇徳ほど、単純じゃない」
玉藻前は、石碑に手を触れない。
触れれば、互いに分かってしまうからだ。
――白峯相模坊。
あれは、もう“感情の塊”ではない。
千年分の怨念を、理性で圧縮した存在。怒りに飲まれず、怒りを使う怪物。
それを生み出したのが、人の絶望であり、人の政治であり、
そして――人の愚かさ。
「本当に、救いようがない」
玉藻前の少女は、空を仰ぐ。
北斗七星。
かつて、この国を縛り、守り、そして歪めてきた星の配置。
その一角が、欠けている。
「……間に合わなかったわね」
西部連盟で暗躍し、何とかして、北斗七星陣の結界を守ろうとしたが、人間の愚かさに及ばなかった。
白峯の関与があったかはわからない。
「一番、厄介なやつ」
玉藻前の少女は、ため息をつく。
自分は悪役だ。それは、分かっている。人を惑わし、国を傾けた妖狐。史実も、伝承も、すべてがそう語る。
白面金毛九尾はともかく、玉藻前としてのモデルは崇徳上皇の最大級の仇、美福門院であり、皮肉にも魔性の美は母である待賢門院からとされている。
それゆえ。
「……それでも、東京が壊れるのは困るのよ」
今の自分は玉藻前であるだけの存在ではない。
この街は、あまりにも人が多い。あまりにも、積み上げすぎた。一度壊れれば、再建には百年では足りない。
白峯相模坊は、それを“理解したうえで”壊しに来る。感情だけではなく、理屈で。
「だから、博打に出るしかない」
玉藻前の視線が、再び将門塚に戻る。
将門公。
あなたは、英雄じゃない。
聖人でもない。
裏切られ、討たれ、それでもなお“人の側”に立ち続けた異端者。
「あなたが、本当に人を守るかどうか……正直、分からない」
むしろ、危険だ。力を解放すれば、東京そのものを呑み込む可能性すらある。
それでも。
「白峯に対抗できる“王”は、あなたしかいない」
玉藻前は、静かに膝をついた。祈りではない。懇願でもない。
これは、交渉だ。
「将門公。あなたの力を、借りる。代わりに……あなたの“自由”を認める」
夜風が、吹き抜ける。
一瞬、石碑の奥で何かが笑った気がした。
「……ほんと、嫌な役回り」
立ち上がった少女の背後で、街の灯りが揺れる。
その揺らぎは、やがて大きなうねりとなり、関東全域へと広がっていく。
魔法少女たちは、まだ知らない。この夜。一匹の妖狐が、一人の“王”をチップに、関東の未来をテーブルに乗せたことを。
何卒、応援のほどお願いいたします。




