第36話 Primal Pestilence
この物語はフィクションであり実在の存在とは一切関係ありません。
八坂邸の庭に、小角は瞬間移動で降り立った。
――その瞬間、視界が揺れた。
「……っ」
思わず膝をつきそうになるほどの眩暈。
空気が重い。息を吸うだけで、内臓が引きずられるような感覚がある。霊力の濃度が高い、という言葉では足りない。これはもっと質の悪い――災厄そのものだ。
庭は、いつもの八坂邸とはまるで別物だった。
木々は枯れていない。石畳も崩れていない。
だが、空間が歪んでいる。ここに立っているだけで、運の悪い出来事が次々と起こりそうな、嫌な予感が肌にまとわりつく。
「……厄の、領域……?」
小角は息を整え、視線を上げる。
庭の中央に、ひとりの魔法少女が立って呪を唱えていた。
軍服。
マントを翻し、短いスカートの下から伸びる脚は無傷だが、立っているだけで周囲を侵す圧がある。
そして――顔。
「……つかさ……?」
思わず、名前が零れた。
黒紫色の長い髪。切れ長の目。輪郭も、佇まいも、秋葉原で出会った、記憶の中の加藤つかさと瓜二つだった。あの静かで、でもどこか孤独を抱えたような少女。
だが、そこにあるのは“彼女”ではない。感情の揺れがない。人の形をした、厄の塊。
視界の端に倒れている小さな姿が映った。
「……かえで!」
かえでが倒れていた。外傷はない。それなのに呼吸は浅く、顔色は紙のように白い。霊力で守られているはずの身体が、この空間そのものに削られている。
「かえで、しっかりしろ!」
肩を揺すっても、反応が薄い。体が震えていて、冷や汗をかいている。これは——厄に、耐えられなかったのだ。
「小角!」
庭の奥から、八坂雅の声が飛ぶ。配信は既に止めている。
振り向くと、雅がいた。だが、その表情は険しい。目の前の敵だけでなく、状況全体を睨みつけている顔だ。
「かえでを連れて、すぐに離れて!」
「でも――」
「いいから!」
強い声だった。
小角が躊躇するのを見て、雅は一瞬だけ視線を和らげる。
「……あなたなら、わたくしが何かわかるでしょう」
その言葉に、小角ははっとする。
八坂雅。
八王子権現の魔法少女。
そして――牛頭天王の行厄神。
「……わかった」
小角は歯を食いしばり、かえでを抱き上げる。軽すぎる身体に、胸が痛んだ。
「必ず、戻るから」
そう言い残し、小角は八坂邸を後にした。
――その直後。
雅は、敷地内に意識を集中させる。
家人の気配は、ない。
雅が襲撃された場合、全員が速やかに屋敷を離れる。それは、あらかじめ決められていた取り決めだった。雅はそれを確認し、静かに息を吐く。
「……気が進まないわね、本当に」
ぽつりと、誰にともなく呟く。
だが、目の前の軍服の魔法少女は、そんな感傷を許してはくれない存在だ。
「……これは……強大な何者かの“厄”を担う個体」
雅は、相手を見据える。
「だけど……分身の身で、誰に厄の力比べを挑んだか……知るといいわ」
雅の背後で、霊的な気配が膨れ上がる。
角。
目には見えないが、確かに“それ”がある。
牛頭天王の神格が、八坂雅の内側から、ゆっくりと顕現していく。
それは――疫病と災厄を司る、恐るべき存在。祟り神の守護者。
牛の頭を持つ、神の姿。角が天を突き、瞳が赤く光る。
全身を覆う白い霊気が、まるで炎のように揺らめいている。
それは、美しくて、でも恐ろしい。神聖で、でも禍々しい。
「――奥義」
雅の声が、低く響く。
「天王・百厄行脚」
次の瞬間、庭を満たしていた厄が、質を変えた。
疫そのものではない。
病でも、呪いでもない。
“疫が歩くという概念”。
それが、解き放たれた。
疫神、八王子、そして牛頭天王に従う無数の霊たち。
彼らが歩くたび、地面に厄除け札が逆向きに刺さっていく。
風が逆流し、空気が、濁る。
触れたものすべてに、「悪くなる可能性」が付与される。
軍服の魔法少女が、一歩、後退した。
「っ……!」
初めて、動揺らしきものが浮かぶ。
少女の周囲だけが、急激に歪み始めた。空気が、まるで腐ったみたいに重くなる。立っているだけで、体が蝕まれていく。魔力の循環が乱れ、身体感覚が鈍り、集中力が失われていく。
それに、病名はない。ただ、“厄が重なった結果”として、存在そのものが崩れていく。
厄は、意思を持たない。だが、確実に彼女を呑み込んでいく。軍刀を振るうが、意味はない。斬った先にあるのは、概念だ。
膝が折れる。紫の髪が、地面に触れる。
軍服の魔法少女は、最後に雅を見上げた。
「……評価……不能……」
その言葉を残し、厄に沈んだ。
庭に、静寂が戻る。
だが――
「……っ」
雅は、その場に片膝をついた。
息が、荒い。
奥義の反動が、確実に身体を蝕んでいる。
「……はぁ……やっぱり、やりすぎたわね」
苦笑いを浮かべるが、顔色は良くない。そして、その奥には確かな悲しみがあった。
「分かってたけど……百厄を歩かせるなんて、体にいいわけないわ」
それでも、雅は立ち上がる。ただ立ってるだけがやっとだ。
電脳で多摩の無事を、確かめる。仲間に無事を、伝える。
守るべきものは、守った。
八坂邸の庭に、再び静寂が訪れた。その静寂は、もう厄に汚染されていなかった。清浄な、優しい静けさだった。月光が庭を照らし、雅の姿を静かに包み込んでいた。
「……さて」
雅は、空を見上げる。歪んだ北斗七星が、まだそこにある。
何卒、応援のほどお願いいたします。




