第30話 横浜編⑦
この物語はフィクションであり実在の存在とは一切関係ありません。
泣いたあと、すぐに何かが変わるほど、俺はできた人間じゃなかった。
胸の奥が空っぽになったまま、港から吹き上げてくる夜風に当たっていると、さっきまで感じていなかった痛みが、順番待ちみたいに自己主張を始める。殴られた頬が熱を持ち、握りしめていた拳の関節がじんじんと脈打って、体が「もう限界だ」と遅れて抗議してきた。
さっきまで頭を埋め尽くしていた、黒点形成の衝動だけが、嘘みたいに引いている。その代わりに残ったのは、どうしようもない疲労と、気まずい沈黙と、自分が何をやらかしかけたのかという実感だった。
「……立てるか」
最初に声を出したのは凛華だった。
怒鳴るでもなく、諭すでもなく、事務的ですらある声音で、ただ現状を確認するだけの問いかけ。
「たぶん……」
そう答えて立ち上がろうとした瞬間、膝が思った以上に笑っていることに気づく。踏ん張ったつもりが前につんのめり、危うくもう一度転倒しそうになったところで、凛華が無言で腕を掴んだ。
「しばらくは、お前、動くな。倒れる」
「……さっきまで殴り合ってた相手の言葉とは思えないな」
「殴り合ったから分かる」
淡々と言われて、妙に納得してしまう自分がいた。力の入れ方も、息の荒さも、もう“戦っていたとき”のそれじゃない。
少しだけ距離を取って、二人並んで座り込む。港の向こうでは、波が規則正しく岸を叩いていて、さっきまでここで魔法少女同士が殺気をぶつけ合っていたとは思えないほど、世界は平然としていた。
「……さ」
沈黙に耐えきれなくなって、俺が口を開く。
「さっきの、黒点……」
「撃たせる気はなかった」
被せるような即答だった。
「街がどうこう以前に、お前が壊れる。あんな顔してる奴に、力を持たせちゃいけねぇ」
凛華はそう言って、地面に転がっている青龍偃月刀に視線を落とす。さっきまで、それを振るっていた人間とは思えないほど、静かな仕草だった。
「……守りたいもんがあるなら、忘れるな。怒りより先にだ」
正論を言われ、胸の奥に羞恥心が沸いて身悶えする。言い返す言葉も見つからず、視線を逸らしたまま、俺は息を吐いた。
「……ごめん」
自然と、そう口にしていた。
凛華は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ眉をひそめてから、首を振った。
「謝られる筋合いじゃねぇ。オレは、止めただけだ」
それきり、会話が途切れる。でもその沈黙は、さっきより少しだけ、息ができた。
立ち上がろうとしながら、凛華がぽつりと言う。
「……さっき言ってたよな。探してるガキがいるって」
「ああ」
短く頷く。
「配信してたんだ。途中で、急に途切れた」
「なるほどな」
それだけで、凛華はそれ以上突っ込んでこなかった。事情を聞き出すより、今やるべきことを優先するタイプだと、ここまでで嫌というほど分かっている。
「もしかして、何か知ってる?」
「存在だけな。具体的な場所までは掴めてない。……正直、面倒なタイミングで来てくれたと思ってた」
その言い方に、少しだけ引っかかって、私は横を見る。
「でも今は?」
「今は――」
凛華は私の方を向いた。
「この街の中で起きてる以上、俺たちの問題でもある。それに、助けに行くって理由がはっきりしてるなら、止める気はねぇ」
一瞬、言葉に詰まった。でも、黙ってるのも違う気がして、手を差し出す。
「……協力、してくれる?」
凛華は少し驚いた顔をしてから、すぐにその手を取った。
「じゃなきゃ、あんな殴り合いで終わらせねぇよ」
短く、強く握られた手の感触で、妙に肩の力が抜けた。少しの休憩で、体の痛みが落ち着いてきた。魔法少女の回復力は、やっぱり人間離れしている。
「……で」
凛華が切り出す。
「お前が探してる奴は、どこか、はっきりしてるのか?」
「大倉庫の裏手辺り、だと思う」
即答して続ける。
「細い路地かなんかで、……行き止まりみたいになってる場所」
「……嫌な予感しかしねぇな」
「私もそう思う」
正直に言った。
つむぎが、なぜそんな場所にいるのか。誰かに追い込まれたのか、騙されたのか、それとも自分から行ったのか。
はっきりしているのは、“偶然にしては出来すぎている”という感覚だけだった。
……何かが、動いてる気はする
霊だとか、そういう話じゃない。もっと現実的で、もっと嫌な“誰かの意図”。
私たちは、魔法少女姿で、急いで目的の場所に向かった。夜の倉庫街は、静かすぎるほど静かで、細い路地の入口が見えた瞬間、胸の奥がざわつく。
――つむぎ。
理由は分からない。でも、ここで立ち止まったら、何かを取り返しのつかない形で失う気がした。
俺は、一歩、暗がりへ足を踏み入れる。
まだ知らない。ここに張り巡らされた“仕掛け”の正体も、つむぎがどんな形で、この場所に辿り着いたのかも。
◇ ◇ ◇
倉庫街の中心部、大倉庫群の裏手。錆びついた鉄骨の影で、男は端末を操作していた。
画面に並ぶ管理ログは、どれも異常なし。巡回記録も、監視網も、綺麗すぎるほど正常だ。だが男は、それが信用できないことを知っている。
「……相変わらずだな。ここだけは」
そう呟くと、隣に立つ女が肩をすくめる。
「壊してないんだから、当然でしょ。“見えないようにした”だけ」
「関凛華の目も、連邦の目も届かない。その状態を作れりゃ十分だ」
男は端末を閉じ、倉庫街の奥――細い路地が連なる暗がりへ視線を向けた。
「――あっちは?」
女は少しだけ間を置いてから答える。
「順調よ。拍子抜けするくらいね」
「命令したわけじゃないのにか?」
「だから、確実なの」
女の声には、嘲りも悪意もなかった。ただ事実を述べているだけだ。
「……不安そうな子供を前にしたら、放っておけない。そういう性分でしょ。あれは」
男は短く鼻で笑った。
「……善意ってのは、便利だな」
「ええ。力も、立場も、命令もいらない。“状況”さえ用意すれば、勝手に動いてくれる」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
「あの配信してたガキは?」
「そこに入ったわ。自分の意思でね」
女はそう言い切る。
「誰かに騙されたと思わない。助けようとしただけだと思う。」
男はその言葉に満足そうに頷いた。
「関凛華と、多摩の魔法少女がぶつかったのは?」
「想定どおり。どっちも、周りを見る余裕なんてないでしょ」
女は意思の宿ってない目のまま、そう答えた。
「……港東会が割れてた頃と変わらんな」
男は低く呟いた。
「暴れてる連中の足元で、街は静かに歪む。気づいた時には――」
女はもう何も答えなかった。ただ、路地の奥へと視線を向ける。そこに残るはずの、困ったままの誰かを思うように。
何卒、応援のほどお願いいたします。




