第21話 秩父編④
この物語はフィクションであり実在の存在とは一切関係ありません。
怨霊龍が咆哮した。
湖面が爆ぜ、波が堤防に叩きつけられる。龍の頭に立つ桔梗姫の瞳は血のように赤く、その声はもはや人のものではなかった。
『——逃ゲラレヌ……逃ガサヌ……九十九ノ怨、今コソ成就ス……』
颯が雷光をまとって前に出た。
「小角、いづな! 俺が先行する!」
「颯さん、無茶しないで!」
「分かってる! でも——このままじゃ秩父が終わる!」
颯は天叢雲刃を構え、一気に加速した。雷光が尾を引き、水面すれすれを駆ける。龍が首を振り、颯に向かって牙を剥く。
「雷速の踏み込み!」
颯の身体が雷光に包まれ、龍の攻撃をかわす。そして——刃が龍の首元を斬り裂いた。黒い霧が噴き出し、龍の身体が大きく揺れる。でも、次の瞬間——傷口が怨念で埋まり、再生していく。
「再生早ぇ……!」
いづなが影の翼を広げて飛び込んだ。
「飯縄火炎!」
黒炎と朱色の紋様が渦を巻く呪火が、龍の胴体に叩き込まれる。精神を焼く炎が、怨念を削り取っていく。龍が苦しそうに身体をよじるが——それでも再生が止まらない。
「くっ……効いてるはずなのに……!」
かすみが俺の腕から離れて、自力で浮遊飛行を始めた。まだ身体は完全じゃないけど、なんとか戦える程度には回復している。
「私も……やります!」
かすみは両手を前に突き出し、銀色の霊気を放った。狼の遠吠えのような音が響き、龍の動きが一瞬鈍る。でも、すぐに怨念の壁が霊気を弾き返した。
「……っ! やっぱり……強すぎる……!」
俺も黒い翼を展開させて、龍に向かって飛んだ。
「絶断翼刃!」
重力を乗せた斬撃が、龍の鱗を切り裂く。黒い霧が噴き出すが——またすぐに再生する。いづなが範囲結界を展開して、龍の動きを封じようとするけど、怨念の壁が結界を押し返す。
「山霊縛鎖!」
山の権能が周囲を覆い、龍の動きが一瞬止まる。でも——龍が暴れると、結界があっさり崩れた。
「全然……効かない……!」
颯が空高く跳躍した。上空で天叢雲刃を掲げ、全身に雷光と風と水の力を集中させる。嵐が颯の周囲に渦巻き、海の波が空中に現れ、雷光が刀身を包み込む。
「——荒神降臨・海嵐雷刃!」
颯が刃を振り下ろした。嵐と雷と海の力が一つになり、巨大な斬撃となって龍に叩き込まれる。爆音が響き、湖面が大きく割れる。龍の身体が真っ二つに裂かれ、黒い霧が爆発的に噴き出した。
「やった……!?」
でも——次の瞬間。
裂かれた龍の身体が、またゆっくりと繋がっていく。怨念が傷口を埋め、龍は何事もなかったかのように咆哮した。
「嘘だろ……あれだけやって……!」
颯が愕然とする。俺も信じられなかった。あの必殺技を受けても、龍は再生する。
——これは、もう無理だ。
そう思いかけたとき、俺は気づいた。龍の背後に浮かぶ、巨大な黒い影。羽根を広げた、天狗のような——いや、それより遥かに巨大で禍々しい影。あれが、怨念を増幅させている。あれが、桔梗姫を狂化させている。
「あの影……黒幕が……!」
俺は黒い翼を広げて、龍に向かって飛んだ。修験道の力を集中させる。見えない糸が龍の身体を縛り、動きを封じていく。
「縛法・鎮魂! 鎮まれ……!」
龍の動きが止まる。怨念が少しずつ静まっていく。でも——次の瞬間、怨念が逆流してきた。黒い波が俺の意識に流れ込んでくる。苦しみ、悲しみ、絶望——九十九人の侍女たちの想いが、一気に俺を飲み込もうとする。
「っ……がぁっ……!」
頭の奥が焼けるように熱い。意識が引きずられる。怨念の渦に巻き込まれ、俺の心が押し潰されそうになる。視界が暗転し、身体が動かなくなる。
「小角!」
いづなの叫びが聞こえる。でも、身体が言うことを聞かない。怨念に飲まれて、翼が消えかける。このままじゃ——落ちる。
そのとき、温かい光が俺を包んだ。
「病気平癒!」
かすみの声が響く。銀色の光が俺の身体を包み込み、怨念を浄化していく。痛みが消え、意識がクリアになる。俺はなんとか体勢を立て直して、かすみを見た。
「かすみさん……ありがとう……!」
「大丈夫ですか……!?」
「ああ……なんとか……」
でも、状況は最悪だった。颯もいづなも、龍の攻撃をかわすだけで精一杯。かすみも回復したばかりで、まだ本調子じゃない。俺の術も通じない。
そして——龍が動いた。
龍の巨体がゆっくりと向きを変える。湖の中心から、岸辺へ——市街地に近い方へ。
「まずい……!」
颯の顔色が変わった。
「龍が……岸に向かってる……!」
怨念龍の頭に立つ桔梗姫の瞳が、一瞬だけ山の向こうを見た。市街地の灯り。人々の気配。生きている者たちの温もり。それが——狂化した桔梗姫の憎悪を刺激した。
『——生キテイル者タチ……羨マシイ……憎イ……!』
龍が咆哮し、巨体を揺らして湖を進む。波が激しく堤防に叩きつけられ、水しぶきが何十メートルも舞い上がる。龍が岸辺に近づくたび、堤防が軋む音が響く。あの巨体が湖を出れば——堤防が決壊し、濁流が市街地を飲み込む。その後に龍が続けば、何千、何万という人々が一瞬で失われる。
「止めないと……!」
いづなが必死に飯縄火炎を放つ。颯も荒波で龍の進路を塞ごうとする。かすみも霊狼を召喚して、龍の動きを遅らせようとする。でも——龍は止まらない。怨念の壁がすべての攻撃を弾き、一歩、また一歩と、湖岸へ近づいていく。
このままじゃ——秩父の街が、龍に飲み込まれる。
俺は歯を食いしばって、決断した。
「……颯さん、いづな! 時間稼いでくれ!」
「小角!? 何するつもりだ!?」
「ここで倒す……! もう他に手はない……!」
俺は黒い翼を大きく広げて、龍と堤防の間へと飛んだ。龍が俺を見て、牙を剥く。でも、颯が雷光で龍の注意を引き、いづなが飯縄火炎で攻撃する。龍がそちらに気を取られる。
——今だ。
俺は空中で両手を合わせた。意識を集中させる。この土地に根付く信仰。今宮神社の八大龍王神。役行者としての縁と力。そして——人々の願い。
祈りが、見える。
秩父の人たちが、何百年も何千年も祈り続けてきた願い。水を守ってほしい。山を守ってほしい。家族を守ってほしい。その祈りが、この土地に蓄積されている。
俺は、その祈りに応える。
「八大龍王……どうか、この地を守りたまえ……!」
空気が震えた。湖面が光り始める。水の底から、巨大な力が湧き上がってくる。
「——難陀!」
俺が名を呼んだ瞬間、湖面が爆発した。
巨大な龍の頭が、水中から現れる。金色の鱗、慈悲深い瞳。でも、その眼差しには——憐みと、少しだけ面白そうな色があった。
難陀の龍が、怨念龍の胴体に噛みついた。怨念龍が悲鳴を上げて暴れるが、難陀は離さない。黒い霧が噴き出すが、金色の光がそれを浄化していく。
「——跋難陀!」
二つ目の龍の頭が現れる。銀色の鱗、鋭い牙。跋難陀の龍が、怨念龍の首に巻きついた。怨念龍が必死に抵抗するが、跋難陀の力の前では無力だった。
「——娑伽羅!」
三つ目の龍の頭。青い鱗、深い瞳。娑伽羅の龍が、怨念龍の背中に爪を立てた。黒い霧が吹き飛ばされ、怨念龍の身体が崩れ始める。
「——和修吉!」
四つ目の龍の頭。緑の鱗、穏やかな表情。和修吉の龍が、怨念龍の尾を掴んだ。怨念龍が悲鳴を上げて暴れるが、もう逃げられない。
「——徳叉迦!」
五つ目の龍の頭。紫の鱗、厳格な瞳。徳叉迦の龍が、怨念龍の頭部に噛みついた。桔梗姫の身体が揺れ、怨念の壁が崩れていく。
「——阿那婆達多!」
六つ目の龍の頭。白い鱗、優しい笑み。阿那婆達多の龍が、怨念龍の翼を掴んだ。怨念龍の身体がさらに崩れ、黒い霧が薄くなっていく。
「——摩那斯!」
七つ目の龍の頭。赤い鱗、力強い咆哮。摩那斯の龍が、怨念龍の胸に体当たりした。怨念龍の身体が大きく揺れ、もはや原形をとどめていない。
「——優鉢羅!」
八つ目の龍の頭。黄金の鱗、神々しい光。優鉢羅の龍が、怨念龍の中心に噛みついた。
次の瞬間——怨念龍が完全に崩壊した。
黒い霧が爆発的に膨れ上がり、そして——金色の光がすべてを飲み込んだ。浄化の光が湖全体を包み込み、怨念が消え去っていく。八大龍王の力の前では、どれだけ強大な怨念も、無に等しい。
颯といづなが、空中で膝を震わせていた。
「なんだよ……これ……」
「霊圧が……桁違い……」
二人とも、八大龍王の力に圧倒されている。
いや、圧倒されているのは颯といづなだけじゃない。俺自身も、正直言って驚いていた。こんなに強大な力を、俺が呼び出せるなんて。
LIVE配信の爆速チャット民たちも、完全沈黙している。さっきまで『えぐい』『ヤバ』『これ秩父終わるだろ』って騒いでたコメント欄が、数秒だけ止まった。そして——
『……は?』
『今、何が起きた?』
『龍が……八匹?』
『いや、八匹じゃない、八つの頭……!』
『これ、神話? 神話なの?』
コメントが再び爆発し始める。でも、俺はもう画面なんて見ていない。派手なことやったせいで、面倒になるかもしれない。多摩連邦の他のメンバーにも説明しなきゃいけないだろうし、他の都市が騒ぎ出すかもしれない。でも、今はもうどうでもいい。
桔梗姫の身体が、空中に浮いている。怨念の壁が完全に消え去り、彼女の身体だけが残されている。八大龍王が、最後の慈悲として——九十九人の侍女たちの想いを汲んで、桔梗姫の身体を守ってくれたんだ。
浄化の光の中で、桔梗姫の"顕在化していた意識"が現れた。
薄紫の着物を纏った、儚い少女。でも、その表情は穏やかで——もう苦しみの色はなかった。
「……ありがとう、ございます……」
桔梗姫が、俺たちに向かって深く頭を下げた。
「皆様のおかげで……私は、ようやく……」
桔梗姫の周囲に、九十九人の侍女たちの影が現れた。みんな、穏やかな笑顔を浮かべている。もう苦しみも、悲しみも、怒りもない。ただ——感謝だけがあった。
「侍女たちも……もう、安らかに眠れます……。本当に……ありがとう……」
桔梗姫の身体が光に包まれていく。侍女たちの影も、少しずつ薄くなっていく。
「さようなら……どうか……お元気で……」
最後に、桔梗姫が微笑んだ。その笑顔は——本当に、美しかった。
光が消えた。
空中に残されたのは——一人の少女。
薄紫の髪、穏やかな表情。でも、先ほどまでの桔梗姫とは、どこか違う。その少女は、ゆっくりと目を開けた。
「……えっ?……えぇぇ――っ……!!」
俺たちは、その少女に駆け寄った。颯が優しく声をかける。
「大丈夫。もう安全だよ。君の名前は?」
「……大滝桔梗……です……」
少女——大滝桔梗——は、混乱した様子で周囲を見回した。でも、その瞳には——確かに"生きている人間"の光があった。
浄化された肉体に、本来の持ち主の意識が戻ってきたんだ。
俺は大きく息を吐いた。終わった。本当に——終わった。
八大龍王が、湖の底へと帰っていく。金色の光が少しずつ消えていき、静寂が戻ってくる。湖面は穏やかで、夕陽が美しく水面を照らしている。
かすみが俺の隣に飛んできて、安堵したように笑った。
「……小角さん、本当にありがとうございました……」
「いや、かすみさんこそ……助けられて、よかった……」
いづなが狐の面を上げて、俺を見た。
「小角……アンタ、マジでヤバいことやったね……」
「……うん。もう当分、無理……」
颯が笑いながら、俺の肩を叩いた。
「小角、お前すごいよ。本当に……ありがとう」
俺は照れくさそうに視線を逸らした。でも、胸の奥には——確かな達成感があった。
秩父を守れた。かすみを助けられた。桔梗姫も、侍女たちも、ようやく安らかに眠れる。
それだけで——十分だった。
何卒、応援のほどお願いいたします。




