救済のための呪具が村人の記憶を奪い、感情のない殻だけが働く。 敦史は親友・輝朗の暴走を止めようとするが、彼は「忘却こそ救い」と告げる。 友情が裂け、ふたりの運命は静かに分かたれた。
村は、奇妙な静けさに包まれつつあった。
かつては口論の絶えなかった家々から怒号が消え、酒場の笑い声も遠のき、祭りの準備さえ粛々と進められていた。
村人たちは無表情のまま働き、同じ動作を何度も繰り返す。
やがて迎えた「星祭」の夜――祖先から伝わる祈りの詞は、誰の口からも消えていた。
人々は一様に同じ旋律を唱和したが、そこに感情はなかった。
虚ろな声だけが、空へと放たれていく。
まるで胸の奥から「個」という灯が一つずつ削ぎ落とされ、ただ形ばかりの殻が大地を歩いているようだった。
喜びも怒りも悲しみも、色彩を失った絵の具のように抜け落ち、乾いた空虚だけが残る。
争いも涙も消え、ただ与えられた時間を黙々と消化する群れ。
その静けさは、むしろ死者の眠る墓場よりも深く、恐ろしく、美しかった。
夜更けが訪れると、敦史は記録帳の端に震える手で文字を走らせた。
――記憶を抜かれた人間は、殻になる。
――殻は誰かの指示を待つ。空白は容易く埋まる。
――命令は良心を追い払い、残るのは従順だけ。
頁を閉じた瞬間、窓が鳴り、外の風が氷のように吹き込んだ。
遠い闇の底から、誰かが嗤ったように聞こえる。
敦史には、夢に現れる獣が何かはわからない。
ただ確かだったのは、その獣が人の心の闇を糧としているということだ。
救いの仮面を被りながら、記憶を啜り、魂を掻き乱す存在。
しかし同時に、敦史は気づき始めていた。
輝朗が盤を扱うようになってから、眠りが異様に深くなったことに。
夜、輝朗が寝台に横たわると、その間だけ闇の気配が遠のく。
恐らく獣は現実には干渉できず、盤を媒介に夢でしか記憶を喰らえない。
その仮説が頭をよぎった瞬間、敦史の背筋を冷たい電流が走った。
もしそうなら――輝朗自身が「獣の通り道」になっているということだ。
「……俺が、見極めなければならない」
敦史は小さく呟き、机に身を屈めた。
輝朗が眠りに落ちる深夜。そのたび、敦史は机上の箱の錠を指で確かめた。
――もしもの時、この箱の中に眠る盤に“答え”がある気がしてならなかった。
そして、その夜から輝朗の使う盤の文字を密かに書き写し始めた。
それは研究者としての本能であり、同時に親友を守るための最後の賭けでもあった。
観測室の窓の外、冬の星座が冴え冴えと瞬いていた。
敦史は夕暮れの残された赤が闇に静かに溶けていくのを見つめていた。
「なぁ、輝朗。もう、こんな馬鹿げたことは終わりにしてくれ」
敦史の声は怒鳴りではなかった。
祈りに近い、掠れた響きだった。
「人々は確かに楽になった。だが笑顔の奥から、名前も顔も、手触りも。生きてきた証そのものが剝がれ落ちている。お前だって、わかっているはずだ」
敦史はまっすぐに輝朗を見据えたが、輝朗は顔を上げず、指先だけで盤をなぞる。
冷ややかな金属音が、爪の先でかすかに鳴った。
「敦史。お前は優しすぎる。記憶は心を縛る鎖だ。鎖から解き放たれたとき、人は初めて自由になる」
「抜け殻を自由とは呼ばない」
その言葉は、思い出の重みとともに零れた。
「昨日までの喜びも、愛も、痛みも消えた人間が、どうして今日を生きられる?」
視界の端に、学生時代の屋上が蘇る。
凍てつく鉄の手すりに肩を並べ、夜明けを待った夜。
指がかじかみ、笑いながら言い合った――人の心に光を届けよう、と。
その合言葉は、この氷の城のどこかに吸い込まれ、もう戻ってこないように思えた。
「俺たちは同じ夢を見ていたはずだ。星の真理を追い、人を照らすこと。それが研究の意味じゃなかったのか」
「理想論だ」
輝朗の声は乾いていた。
「それは、戦場を知らぬ少年の言葉だ」
胸の奥が冷たく擦れた。
――そうだ、彼は地獄を見た。だからこそ、二度と誰にも地獄を見せまいと、記憶を消す道を選んだのだ。
だが、その代償はあまりにも大きい。
輝朗のもとに集まる人々の心から、希望も過去も、愛の証までもが静かに削がれていく。
「敦史が理想を語るのは勝手だ。だが、お前はもう盤の力を知ってしまった。これ以上共にいれば、この盤からも、俺からも逃れられなくなるぞ」
その声音に、かつての温もりは欠片もなかった。
盤の奥で、何かが低く唸る。灯が揺れ、獣の影が滲む。
「戻ってきてから、この盤について調べたんだ。星暦盤は、本来『星の軌跡を辿り、人の記憶を呼び覚ます』ために作られた呪具だった」
輝朗の言葉は淡々としていたが、指先がわずかに震えている。
「だが人の欲は盤の力をねじ曲げ、異界の獣を宿した。獣は記憶を喰らい、器に憑く存在へ堕した。盤が動くたび、獣の封印は解けていった。そして今、力を増し、この場にいる」
敦史は息を詰めた。
盤に映る影を見つめる。その奥には、支配者の眼――なのに、懐かしい友の輪郭が重なる。
「……そんなものを自由と呼ぶのか」
「人は痛みを忘れるとき、初めて前に進める」
「それで失うのは、人である証そのものだ!」
観測室に沈黙が落ちた。
雪が窓を叩き、遠い海鳴りのように響く。
輝朗は静かに盤から手を離し、布に包み机上の箱に仕舞った。
「輝朗、俺の部屋にある記録を見てくれないか」
長い沈黙ののち、輝朗は顔を上げた。
敦史の眼は氷のように透き通り、迷いがなかった。
「これを見てくれ。ここを訪れた人たちは、過去を乗り越えようとしている。記憶を奪うことが正解じゃない」
「敦史。お前には理解できないだろう。俺は奪うことでしか人を救えない。お前が何を願おうと、あの盤は止まらないんだ」
言葉が終わると同時に、盤の裏を走る赤い亀裂が脈のように明滅した。
敦史の喉奥に、鉄の味がにじむ。
拳が、ゆっくりと固くなる。
それでも怒りより先にこみ上げたのは、冬を耐えた枝のような静かな決意だった。
「そうだな。だったら――俺はもう、お前と一緒に研究を続けていけない」
言葉は震えたが、芯は折れていなかった。
「俺は、記憶を奪う盤を信じられない。苦しみを抱えたままでも、人は人でいられるほうがいい」
背を向ける輝朗の距離が、見知らぬ大陸のように遠く思えた。
背を向け、一歩。床が鳴る。もう一歩。肺に冷気が刺さる。
三歩目で振り返ると――赤い灯に照らされた友の肩が、あの屋上で並んだ影と重なった。
輝朗は、視線を落としていた。吐息が灯の揺れに紛れて零れる。
それは敦史を逃がした安堵のため息だったが、敦史には届かない。
敦史は簡単に荷物をまとめ、外に出た。扉が軋み、冷気が雪の匂いを運ぶ。
足音が雪原にほどけていくたび、胸の内で何かが欠けていった。
「俺は……諦めないぞ。輝朗」
敦史は誰にともなく呟く。白い息がすぐに消えた。
「必ず、以前のお前を取り戻す」
その言葉は鋭い氷柱となって胸に突き刺さり、ようやく足は止まらなくなった。
観測室にひとり戻った輝朗は、しばらく動けなかった。
椅子の背にもたれ、目を閉じる。灯の明滅がまぶたに赤い波紋を描く。
敦史には、東京に残した恋人も家族も待っているはずだ。
その光を獣に嗅ぎつけられぬよう、輝朗は深く息を殺した。
――これ以上、誰も巻き込みたくない。敦史だけは、逃がさねばならない。
灯がまた一つ揺れ、窓硝子に夜空の星座が薄く映った。
雪の中を歩く敦史は、指先の痺れが少しずつ消えていくのを感じていた。
足跡が延びるたび、心の奥に一本の細い線が引かれていく。
その線はやがて彼を導くだろう――星暦盤の刻みを読み解く、危うい道へ。
吹雪が小止みになり、頭上で星がひとつ瞬いた。
その光は、遠く離れた観測室の灯と細い糸で結ばれているように思えた。
糸は頼りなく震えている。だが確かに、切れてはいない。
敦史は、天文台から離れ、輝朗の視界に入らない場所にたどり着いた時、懐から布に包まれた盤を取り出した。
敦史は天文台を後にする際、観測室の輝朗の机上の箱から盤を持ち出していた。
闇に慣れた目には、闇のほうがよく見える。
――獣の気配は、より深く、より静かに、彼に近づいていた。
ふたりの道は、いま確かに分かれた。
だがそれは、回帰のための遠回りである――と、敦史は確信していた。
→ 第六話「記憶を差し出す者」に続く
※次回の更新は毎週水曜日22:00頃を予定しております。




