第1話「黄昏プレリュード -私の日常が罅割れた日-」
「ねえ美咲、週末に出る“パティスリー・クレール”の新作スイーツ、もうチェックした? インスタ、すごいことになってるよ! なんか限定のピスタチオとベリーのムース、一日30個だって!」
「あー、それね。陽菜はほんと、そういうの目敏いよね。でも、また整理券とか朝イチで無くなっちゃうやつじゃない?」
昼休み。教室の窓から差し込む、眠気を誘う穏やかな春の日差し。机に頬杖をつきながら、私は親友の相川美咲と、いつもと変わらないおしゃべりに花を咲かせていた。私は、宮田陽菜。17歳。目の前で少し面倒くさそうにしているこの親友を、どうやって週末の甘い冒険に連れ出すか、それが今の私にとって最大のミッションだった。
美咲は、一見クールに見えるけど、実は流されやすい。そして、美味しいものにはもっと弱い。
「美咲のそういうとこ、ちょっとドライなんだから。いいじゃない、たまには早起きしてさ。あの店のクリーム、空気みたいに軽くて美味しいんだよ? 想像してみてよ、ふわっふわのピスタチオムースが口の中でとろける瞬間を……」
「……うぐっ」
私の食レポまがいの口撃に、美咲が呻く。チョークの匂いが微かに残る教室、教科書の片隅に描かれた猫の落書き、次の古文のテスト範囲はどこまでだったかという現実逃避。そんな、代わり映えのしない、でも愛おしい日常。それが私の世界の全てだったし、それで十分すぎるほど満たされていた。
(美咲の心の声:陽菜はいつもキラキラしてる。新しいもの、楽しいことを見つける天才だ。それに比べて私は……。まあ、でも、陽菜に引っ張られていくこの感じは、嫌いじゃない。むしろ、心地いいのかもな)
微かな違和感に気づいたのは、その日の午後の化学の授業中だった。退屈な化学式の羅列から逃れるように、ふと窓の外に目をやった。吸い込まれそうなほどに抜ける青空。その完璧なキャンバスに、ほんの一瞬、黒い線が走った気がした。まるで、薄く繊細なガラスに、ピシリ、と音もなくヒビが入ったような、不吉な亀裂。
「……え?」
瞬きをすると、それはもう跡形もなく消えていた。春霞のかかった、いつもの空が広がっているだけ。
(美咲の心の声:見間違い……だよね。最近ちょっと寝不足だし。でも、なんだろう、今のは。世界の表面が少しだけ、剥がれたような……変な感じ)
その直後だった。クラスの隅でスマホをいじっていた男子が「あれ? 電波が…」と小さく呟いた。周りの何人かも自分のスマホ画面を見て顔をしかめたが、それもほんの数秒のこと。すぐに回復したのか、授業を遮るほどの騒ぎにはならなかった。胸の中に生まれた小さなさざ波を、私は無理やり教科書の文字の海に沈めた。
そんな小さな胸騒ぎも、放課後の解放感と喧騒の中ではすぐに薄れていった。陽菜と腕を組んで、駅前の賑やかな通りを歩く。夕暮れ時の光が、ショーウィンドウや車のボディに反射してきらきらしている。
「で、結局行くの? 行かないの? 新作スイーツ」
陽菜が私の顔を覗き込む。
「一口くらい味見させてくれるなら、考えてあげなくもない」
「えー、図々しい! 美咲もちゃんと早起きして並びなさいよー」
きゃらきゃらと、私たちの笑い声が弾ける。平和で、幸福な、いつもの放課後。
その、まさに瞬間だった。
ゴォォォオオオ―――ッ!
それは、音というより暴力的な振動だった。鼓膜を内側から圧迫するような、地鳴りとも金属の断末魔ともつかない轟音が世界を揺るがした。同時に、視界がぐにゃりと歪む。水底から水面を見上げた時のように、景色が醜く揺らめいた。足元のアスファルトが、ミシミシ、メキメキと悲鳴を上げる。
「きゃあっ!」「地震!?」
悲鳴と怒号が四方八方から湧き上がる。人々がパニックに陥り、右往左往する。スマホを落とす人、しゃがみ込む人、店の軒下に駆け込む人。
「美咲、危ないっ!」
陽菜が恐怖に引きつった顔で、私の腕を強く掴んだ。
次の瞬間、私たちの目の前で、アスファルトが巨大な獣の顎のように裂けた。比喩ではない。本当に、空間そのものが裂けたのだ。裂け目からは、黒く濁った霧のようなものが噴き出し、嗅いだことのない、熟れすぎた果実のような甘ったるさと、腐臭が混じり合った異様な匂いが鼻をつく。
霧の中から、何かが蠢き始めた。それは、まるで見る者の悪夢をそのまま実体化させたかのような、歪な影だった。艶のある黒曜石のような外殻、あり得ない角度に折れ曲がった複数の肢、そしてその先端には剃刀のように鋭い爪が光っている。
「な、なにあれ……っ!?」
陽菜の声が、恐怖で上擦って震えている。私も言葉を失い、ただ目の前の非現実的な光景に釘付けになる。映画? 大掛かりなドッキリ? そんな現実逃避の言葉が頭をよぎるが、肌を針で刺すような殺気と、脳の奥でけたたましく鳴り響く本能の警鐘が、それを冷酷に否定していた。
(美咲の心の声:逃げなきゃ。逃げなきゃ、逃げなきゃ! 分かってるのに、足が、根を張ったみたいに動かない。これが恐怖? 陽菜を、陽菜を連れて、早く……!)
異形の生物が、ゆっくりとこちらに顔を向けた。そこにあるべき顔はなく、代わりに無数の赤い単眼が、虫の複眼のように蠢きながら、私たち二人を明確に捉えた。
絶望が、冷たい水のように心を満たしていく。
その時だった。
「――そこを動くなッ!!」
凛とした、けれどどこか切羽詰まった声と共に、閃光が走った。誰かが、風のように私たちの前に立ちはだかる。ボロボロに擦り切れ、所々が焼け焦げたローブのようなものを纏い、息も絶え絶えといった様子だ。しかし、その背中は、この絶望的な状況において、不思議と山のように大きく見えた。その人物が手にしていたのは、剣と呼ぶにはあまりに装飾的な、美しい刀身を持つ武器。刀身そのものが、まるで月光を凝縮したかのように淡い光を放っている。
「あなたは……?」
私の問いは、声にならなかった。問う間もなく、その人物は地を蹴り、異形の生物へと突進した。火花が散り、衝撃波がビリビリと空気を震わせる。まるでCG映画の世界。しかし、目の前で繰り広げられているのは紛れもない現実。ローブの人物の動きは速いが、明らかに鈍い。一太刀浴びせるたびに、その傷口から黒い血のようなものが滲んでいるのが見えた。
数瞬の、あまりに短い攻防の後、人物は膝から崩れ落ちた。剣が、カラン、と乾いた音を立てて地面に転がる。異形の生物が、勝利を確信したかのように、ゆっくりと傷ついた戦士に、そしてその向こうにいる私たちに迫る。
「だめ……!」
声にならない叫びが、喉の奥で詰まった。
その人物は、最後の力を振り絞るようにこちらを振り返った。深く被ったフードの奥で、苦しげに歪む口元が見える。そして、震える手を私の胸元に伸ばし、何か硬く冷たいものを押し付けてきた。それは、手のひらサイズの、内部で無数の光点が銀河のように渦巻く、水晶のようなオーブだった。オーブは、まるで心臓のように、とくん、とくん、と微かに脈動している。
《これを……託す……》
途切れ途切れの、しかし強い意志のこもった思念が、直接頭の中に流れ込んでくる。声ではない、魂の叫びそのものだった。
《生き延びて……未来を……繋いでくれ……》
同時に、オーブがカッと眩い光を放ち、私の体に吸い込まれていった。
「熱いッ!」
体の内側から焼き尽くされるような激痛。知らないはずの景色――紅蓮の空の下に広がる崩壊した都市、巨大な樹木が天を突く幻想的な森、機械仕掛けの天使が飛び交う空。感じたことのない感情――深い絶望、燃えるような怒り、そして、守るべきものへの愛おしさ。それら全てが、戦うための知識のようなものと混じり合って、奔流となって私の意識を駆け巡る。
「う……あああああっ!」
意識が白く染まり、途切れそうになるほどの衝撃。気づけば、目の前に立っていた人物は足元から光の粒子となって消えかかっていた。その顔は最後まで見えなかったが、最後に微かな安堵の表情を浮かべたように見えた。
そして、目の前には再び、異形の怪物が迫っていた。陽菜が、恐怖で声も出せずに私の隣でわなわなと震えている。
守らなきゃ。
なぜか、そんな言葉が心の一番深いところから湧き上がってきた。さっきまで、自分のことさえ考えられず、恐怖で動けなかったはずなのに。陽菜の震えが、腕を通して伝わってくる。
私は無我夢中で、震える右手を前に突き出した。
「――来ないでッ!!」
叫びと同時に、手の甲に淡い光で描かれた幾何学模様のような紋章が浮かび上がり、その中心から薄い光の膜――まるでシャボン玉の虹色を帯びたようなシールドが展開された。
ガギンッ!
異形の怪物の爪が、その光の膜に阻まれて甲高い音を立てる。防げた…? でも、どうして? 私が?
しかし、安堵する暇もなく、周囲の空間の裂け目から、さらに多くの異形の影が集まり始めていた。一体、何がどうなっているの? これは現実なの? そして、この私の中にある力は……一体……?
混乱と恐怖が再び嵐のように押し寄せる。それでも、私は唇を強く噛みしめた。隣には、守るべきたった一人の親友がいる。そして、胸の奥には、託されたばかりの、熱く脈打つ何かが確かに息づいていた。
私の日常は、今日、音を立てて罅割れた。
そして、訳も分からないまま、物語の歯車は回り始める――。
(第一話 了)