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「今日は久しぶりに早く帰ろうかな…」
涼子はデスクの上を片付けながら独り言のように呟くと、チームの皆に言った。
「麻生ちゃんも佳織ちゃんも、上田君もみんな今日は一段落しているでしょ?たまには早く帰ったら?」
「はい、久しぶりにデートでもしようかな」
上田が真っ先に言うと、佳織がすぐに茶々を入れる。
「偉そうにっ!相手いるの?ねえ、相手は?」
「うるさいよ!彼女のひとりやふたり、俺がSNSで声掛けたら5~6人はすぐに集まるよ。何だったら佳織も友達リストに入れてやろうか?」
上田は自分のスマホ画面を指さしている。
「結構です。間に合ってますっ!」
佳織は拗ねたような仕草をしたが、涼子には佳織が満更でもない様子に見えた。実際のところ、普段の佳織の態度などから上田に好意を持っていると感じていたのは涼子だけではないだろう。しかし上田自身は佳織に対してそんな感情を持っていないらしく、佳織の気持ちをある程度理解しながら、やんわり対応しているようであった。確かに上田は女性には不自由していないようで、昼休み時間にオフィスの片隅で楽しそうにスマホで話していたりする。しかし上田のこのような対応がチームの中を和やかにするし、管理者としての涼子は歓迎していた。
涼子がオフィスを出たのは午後6時を少し過ぎていた。デザイン処理がまだ残っているという志水佳織以外は早々に退勤していた。地下鉄の駅に向かって歩いていると、後ろで短いクラクションが2度鳴った。気にもかけずにいると、再び同じタイミングのクラクションの音とともに涼子の名前が呼ばれた。
「山野さーん、山野さん」
その聞き覚えのある声の主は高木敬介であった。涼子が振り返ると、道路わきに停めたパールホワイトのカムリから降りようとしている高木が見えた。
「またお出掛けですか?」
高木は駆け足で涼子の方へ近寄ってきた。
「いえ、帰るところよ」
「えっ、もう帰るんですか?今日は早いですね」
高木はちょっと驚いたようだった。
「ええ、今日はとりあえず一段落したからたまにはね」
涼子はにっこり笑って続けた。
「でも高木さん、だいぶ前に帰ったんじゃなかったの?」
「ええ、そうなんですけど、上田さんの分で一箇所だけ色指定に抜けがあったもんですから戻ってきたんです」
高木は首筋辺りを指でかきながら笑った。
「上田君、さっきもう帰ったわよ」
「えーっ、そうなんですかあ。困ったなあ…。んーっと、じゃあ、山野さん、代わりに見てもらえます?」
高木は持っているデザインバッグの中から何かを取り出そうした。
「いいえ、今日はもうおしまい!そんなの明日でもいいんでしょ?上田君、朝はわりと早く来るから朝イチに確認したらどう?」
涼子はちょっと意地悪そうな目をして高木を見た。
「えー、そんなあ…。はいはい、了解!承知いたしましたっ。とてもチーフディレクターとは思えない優しいお言葉を頂戴し、涙が出そうです」
高木は手の甲を目の下で水平にして左右に動かしながら涼子を見返して笑っている。
「そしたら高木さん、このまま会社へ帰るよね?」
涼子はさっきからの高木との会話が友人口調になっているのに気付いていた。
「ええ、仕方ないですね」
高木は先ほどの笑顔から一転して落胆の顔になった。
「確か高木さんところ、上町外通りのほうだったよね?」
涼子はちょっと微笑みながら尋ねた。
「そうですけど…」
「じゃあ、ちょっと乗せてってくれる?」
「いいですけど…。どこまで?ですか?」
「高木はそう言いかけて、すぐに思い直したように頷いた。
「あ、そっか、山野さんのご自宅、確か夕陽丘のほうだっておっしゃってましたよね?」
「ええ、そうよ。今日はね、久しぶりに早く帰って一杯飲んで、ぐっすり寝て、ここんところの寝不足を一気に解消しようと思ってね」
涼子は右手でグラスを口元に持っていくような仕草でさらににっこり微笑んだ。
「そっか、誰か待ってる人いるんですね?」
「何言ってんのよ。そんなのいるわけないでしょ。ひとりよ、ひとりっ!」
涼子は右手を顔の前で大きく左右に振ってから、人差し指を立てて高木の目の前に突き出した。
「でも山野さんみたいな人がひとりってとても信じられないですよ」
高木は道路わきにエンジンをかけたまま停めてあったカムリのほうへ歩きだして、涼子についてくるよう促した。
高木は助手席のドアロックをスマートキーで解除してドアを開けると、中世の執事が馬車に乗る貴婦人に対するように(どうぞ)という仕草で涼子が乗り込むのを待った。