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100日の恋  作者: すみっこのラスカル
近づく終焉
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部屋に戻った敬介は汗で湿っぽくなったポロシャツを脱ぎながら涼子に促した。

「はい、お疲れ様でした。先に風呂入ってください」

「シャワーだけなら一緒に入れるわよ」

涼子は昨日より大胆なことを言うようになっている。

「いや、バスルーム狭いから先に入ってください。バスタブにお湯張ってゆっくり入ったほうが疲れも取れるから」

「ざっと汗流すだけだから大丈夫。敬介さんだってそんな恰好で順番待ってるの嫌でしょ?」

涼子は上半身裸になっている高木の腰を後ろから両手で押し込むようにして2人でバスルームへ入っていった。

 涼子は汗を流すだけだと言ってたくせに、狭いバスルームのなかで2人いっしょにシャワーを浴びていると、髪も洗いたいと言い出して、敬介は身体も頭もざっと洗い流しただけで先にバスルームから追い出されて苦笑するしかなかった。

 腰にバスタオルを巻いた姿で缶ビールを持ってベランダに出てみた。缶ビールをぐっと1口飲んだとき、生温い夏の空気がゆっくり冷やされていくように、爽やかな高原の風が身体を撫ぜていった。ベランダに設置されたラタンのガーデンチェアに座って夕闇が迫る山並みを眺めていると、自分の人生が終焉を告げようとしているにもかかわらず、いますごく幸せな気持ちでいるのは何故だろうと思う。ずっと好きだった涼子がそばにいるから?ちょっとわがままなところはあるが、それは初めて会ったときから織り込み済みでまったく気にならない。いろんなことで妻の綾子と比較している。そのすべてで涼子に軍配が上がる。もう少し早く出会えていればよかったなどと考えれば、まるで安っぽいラブファンタジーのドラマではないか。このまま死ぬわけにはいかない。どういうわけか見舞いに現れた綾子には病状を正直に伝えて、結婚したときに加入した死亡保険証券といま住んでいるマンションの権利書とその住宅ローンの団体信用保険証券と併せて、敬介が署名済みの離婚届を手渡すと、それまで別れることに消極的だったことが嘘のように快く承諾してくれた。あとはこの綾子との結婚以来、疎遠になっている母の幸恵だ。結婚当初は父親が残してくれた市内の戸建住宅で幸恵と同居したのだが、幸恵は綾子とまったく反りが合わず、結婚2か月程で別居することになってしまった。母には何も残せないが、最終の金銭整理をした後、残った幾許かの現金を葬式費用として送金しておくことにしよう。他人から見れば身勝手の極みのように思えるが、ひとまずこれでいままでの人生を終えることができる。そのあとまさに終わりの始まりとなる極端に短い新たな人生を過ごすなかで、敬介にとってヴィーナスともいうべき山野涼子をどうすればいいのか、また自身はどうしたいのか、この残り少ない時間のなかで早急に答えを出さなければならない。

 涼子はしっかりシャンプーした髪に念入りにトリートメントしながら、脚をまっすぐ伸ばせるサイズのバスタブの湯のなかに座ってみると、腰のあたりまで湯が溜まっている。その態勢のままストレッチ体操をするように両手を組んで頭の上へグーッと伸びをしてみた。顔が緩んで笑みが浮かんでいる。いま涼子はとても幸せな気持ちでいるのが分かる。今まで付き合った男性と敬介をいろいろ比べてみる。特に裕樹との関係などは比べるに値しないとさえ思ってしまう。敬介には最初に会ったときから好印象を持っていたが、時間が経過するにつれてそれが好意になり、そして恋に変わっていったことが自分でも分かっている。そう、いまバスタブの湯が胸あたりまで満たされてきたように。しかし高木が既婚者であることがそれ以上の感情に進行しないよう自分に歯止めを掛けていた。でももう止めることができなくなってしまった。まもなくバスタブから溢れ出るであろうこの湯のようにその波止を超えてしまう…。

バスルームの外で涼子を呼ぶ声が現実へ引き戻した。

「涼子さ~ん。星空すごいですよ」

しばらくベランダで空を眺めていた敬介は部屋に戻ってきて、まだバスルームにいる涼子に声をかけた。涼子は急いで髪のトリートメントをシャワーで流してから湯船の排水弁を開いた。

「すみません。急がせちゃったみたいですね」

髪を拭きながらバスローブ姿で出てきた涼子に申し訳なさそうな顔をみせた。

「ううん、大丈夫よ。敬介さんこそゆっくりお風呂に入れなくてごめんね」

敬介は新しいビールを涼子に渡して首を横に振った。

「ぜんぜ~ん。いつもこんなものだから。うん、ほら、からすの行水ってやつ」

「さっき、星がどうだとか,言ってたみたいだけど、何だったの?」

涼子は受け取ったビールを一口飲んでから尋ねた。

「いや、別に大したことじゃないんです。ホスピスの病室にいるときは気付かなかったんですけど、この辺りまでくると夏の星空もきれいなんだなって思ったもんですから」

「ふ~ん。敬介さんって意外にロマンチストだったりする?」

「意外とではなく、そうなんですよ。実は子供のときからずーっとロマンチスト!」

「そうなんだぁ、それは知らなかった」

2人は缶ビールをカチンと合わせる。

「ロマンチストに乾杯っ」

笑い合ったそのとき、敬介は急に顔をしかめて横腹を押さえながらその場にうずくまった。

「うっ!んーっ!」

敬介が腹を押さえた逆の手で持っている缶ビールを投げ出しそうになったので、涼子は慌ててそれを受け取りながら、うずくまっている高木の肩に手をかけて顔を覗いた。

「痛むの?医療センターへ連絡しようか?」

「だ、だ、大丈夫です。こ、これ飲んだら治まりますから」

敬介はテーブルの上に置いてあった洗面用具ポーチからタブレットケースを出し、その中の錠剤を口の中へ放り込んでビールで流し込んだ。涼子も突然の出来事で、それ以上言葉をかけることもできずに、ただ敬介を両腕で包み込むように抱きしめていた。


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